津田沼教会 牧師のメッセージ
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「十字架の前ぶれ」(マタイ4:1~11)
マタイ4:1-11、2005・02・13、四旬節第1主日(紫)
創世記2:15-17,3:1-7、ローマ3:21-31、

マタイ福音書4章1~11節
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

「十字架の前ぶれ」(マタイ4:1-11)
 いよいよ、本日は四旬節の第一主日であります。聖卓やストールに用いられます色も、主の十字架において流された血を表す紫に変わりました。これは、先週の水曜日、2月9日から、聖灰水曜日となり、日曜日を含めないで40日間の間、私たちは、主の受難をおぼえ、その十字架の道行きをおぼえて、復活際、今年は3月27日でありますが、そのときまでを、慎ましやかに過ごすのであります。昔から、この受難節は、洗礼の準備のときでもあり、あるいは、わたしたちの受けた洗礼を思い起こすときでもありましょう。
 さて、その最初の主の日に、毎年与えられます箇所は、40日間の荒れ野の誘惑、あるいは、試みと言われる箇所であります。今年は、マタイ福音書4章1節から11節が与えられています。しばらく、その意味について、ご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、主は洗礼をお受けになったとき、天が開け、神の霊が鳩のような形でイエスのほうに下ってきて、「これは私の子、愛する者、私の心に適う者」という声がしたのでありますが、「そのとき」すなわちその直後、主イエスは、その同じ“霊”によって導き上げられ、悪魔によって誘惑を受けるために、荒れ野へと招かれたのであります。それはあくまでも、聖霊によって、また、父なる神の導きのもとに起こった出来事であります。父なる神が本日の出来事をお望みになって、悪魔と戦わすために荒れ野に赴かされ、主はそれに身をゆだねられたのであります。 そして、40日40夜、主は断食された後、空腹を覚えられます。40という数は、聖書では非常に重要な数であります。40日40夜という表現は、モーセがシナイ山で神からの教えを受けたときに、パンも水も取らなかったときの表現でありますし、エリヤが、アハブ王の追っ手から逃げ、疲れ果てて寝ていたとき、み使いによってパンと水を与えられ、力づけられてその後、やはりホレブの山、シナイ山まで歩き通した日数であります。あるいは、ノアの時代の洪水のとき、雨が降り続いた期間であったり、そして何よりも出エジプトの民が荒れ野をさまよった40年間が思い起こされます。それは、困難とか苦しみとか、あるいは神の罰を表す時にしばしば用いられる数であります。出エジプトのイスラエルの民は、この期間神の霊によって、しばしば導かれ、神の子とも呼ばれましたが、彼らは、かたくなに神に逆らい、神の言葉と約束に従おうとはせず、それどころか、しばしば、偶像崇拝に陥り、ついにその世代は、モーセを含めて、約束の地、イスラエルには入ることができなかったのであります。そのイスラエルの民とは、神さまからすぐに離れてしまいがちな私たち人間の古い状態をも暗示しているものといえましょう。さて、主イエスは、飢えられました。そのとき、「誘惑する者」がやってきて、主に言います。「あなたが神の子であるならば、これらの石に、パンになるようにと言いなさい。」これは、イスラエルの民が荒れ野で受けた試みを思い起こさせます。彼らは、パンと水に飢えて、モーセに向かってつぶやいたのであります。彼らが受けた試みは、その苦しみと困難を通して、彼らを導き出した主なる神を信頼するようになるためでありました。主は、悪魔の試みに答えていわれました。こう書かれている。「人間は、パンのみによっては生きないであろう、そうではなく、神の口から出てくるあらゆる言葉によって生きるであろう」と。
この言葉は、先ほどの、出エジプトの民、神の子といわれた民が飢えに苦しんだ時に記されたみことばであります。私たちは、生きていく上で、肉体を維持する食物と共に、霊的な食物であるみ言葉なしには、人間らしい確かな生き方をすることはできないのであります。主は後に、山上の説教で、「あなたがたはまず、神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、必要なものはすべて添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩うな」、と言われるのであります。主イエスは、申命記の先ほどの言葉を引用して、第一の悪魔の誘惑を退けられたのであります。 次に、悪魔は、主を聖なる都へと連れて行き、神殿の屋根の先に立たせます。そして今度は、悪魔の方も、聖書、すなわち、本日の交読文でも読みました詩編91編の言葉を持ち出してこうそそのかすのであります。「下へあなたは身を投じなさい。なぜならこう書かれているからである、すなわち、『神はその天使たちにあなたのことでお命じになるであろう、そして彼らの手で彼らはあなたを持ち上げるであろう、あなたがその足を石に向かって打ち付けることのないように』と。」これは、敬虔な信仰の英雄を主が守り導かれることを歌った詩編のことばであります。悪魔も聖書を持ち出して、しかし誤った理解によって神への従順から何とかして、私たちをも引き離そうとするのであります。正確な聖書の理解と学びを私たちは求めねばなりません。主は彼に語りかけます。「こうも書いてある、すなわち、『あなたの主なる神を試してはならない』と。」これも申命記の中で、イスラエルの民が不平をいい、神がいるのかどうか疑い、マサやメリバで水を与えるようにモーセに迫った出来事に際して、言われている言葉であります。そして、最後に、今度は、悪魔は、主を非常に高い山に連れて行きます、そして、世界の全王国とそれらの繁栄ぶり=栄光を見せます。そして彼にこう語ります。「これらすべてをあなたにあげよう、もしあなたが私にひれ伏し、ひざまずくならば」と。洗礼を受けたヨルダン川から、次第に高いところに導かれ、ここで悪魔の誘惑も最高潮に達します。主はしかし、こう答えていわれます。「サタンよ、退け。なぜならこう書かれている、すなわち、『あなたの主なる神のみを拝み、彼に仕えなさい』と。」これも申命記の言葉からの引用であります。私たちは、この世の、あるいは人間からの栄光を求めるべきではなく、神の栄光のみを求めるべきであります。これによって、ようやく、悪魔は彼を離れます。そして、み使いたちがやって来て、主に仕えていた、と本日の誘惑物語はしめくくられています。アダムは、誘惑において罪に陥り、すべての人間は死すべきものとなりましたが、それに対して、主イエスは、サタンを追い出し、天使たちによって、食事を給仕され、人類の堕罪以前の楽園を回復なさり、人間に命を与える方として、人間を破滅と神からの離反にもたらそうとする悪魔の企てを打ち砕かれたのであります。そして主は、公生涯における宣教の働きに、この後赴かれるのであります。本日の主の荒れ野での誘惑は、すでに、私たちのために、苦難のしもべとして、歩まれる主の十字架の前ぶれでありました。主は悪魔とその手下どもに対して勝利なさる生涯を十字架に至るまでここから全うされるのであります。そして私たちは、イエスに従う新しいイスラエルとして、日ごとに言葉と思いと行いによって罪を犯す弱い存在ではありますが、主の十字架への道に従い、この四旬節をみ言葉に日々新たにされながら歩みたいものであります。



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2005/02/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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