津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私たちの渇きをいやすキリスト」(マルコ3:1-12)
マルコ3:1-12、2006・07・02
聖霊降臨後第4主日(緑)
イザヤ書58:11-14、コリントの信徒への手紙二5:1-10

マルコによる福音書3:1~12
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
 
 イエスは弟子たちと共に湖の方へと立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただし群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

説教「私たちの渇きをいやすキリスト」(マルコ3:1~12)
 本日の福音マルコ3:1-12の部分は、マルコ2章の1節から、まとめられています5つの論争物語の5番目の3:1-6の手の不自由な人と安息日の出来事と3:7-12の湖畔の群衆のふたつの部分から構成されています。それぞれについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、本日の個所は、主イエスは、「再び」安息日に会堂にお入りになったという文章で始まっています。マルコ1章21節の「一向はカファルナウムに着いた。イエスは安息日に会堂に入って教え始められた」に続いて、「再び」なのか、カファルナウムにはその当時、一つの会堂があって、そこに、いつものように「再び」お入りになったのか。いずれにしても、主イエスは、伝道の当初のころ、努めて、会堂に入って教えられたのであります。しかし、マルコによる福音書では、ここを最後に、あとは、故郷のナザレで、会堂に入って教えられた記事がのちに出てくる以外は、会堂での最後の出来事となっています。この後は、主イエスは、ガリラヤ湖畔や、外で教えられるように、ここを境に変わるのであります。
 さて、会堂には、片手の不自由なと言いましょうか、片腕が動かない人がいました。そして、人々は、彼が安息日にその人を癒されるかどうか、みつめていたのであります。これは、他の共観福音書を見ればわかるように、ファリサイ派や律法学者たちのことを言っているのであります。彼らは、ここでは、何も質問してはいませんが、安息日を主が破るのかどうかを凝視していたのであります。皆さん、ご承知の通りに、十戒で安息日に働いてはならないことになっていました(出エジプト記20:10他)。ただし、生命にかかわるような場合には、治療したり、助けてやることは認められていましたが、この場合はそのような緊急事態とはいえません。主イエスは、動かない片手を持った人に言います。「真ん中へと立ち上がりなさい。」ある正典外の福音書によると、この同じ出来事が書かれており、それによると、この人はもとは石工であって、そのきき手の右手がきかなくなった人であるそうです。マルコはそんな背景については何も記していませんが、右手で職をこなし、家族をそれでもって支えていた人が、その人であったとすれば、さらに気の毒だと主イエスはお思いになったことでしょう。
 主は、怒りをもって周りを見回され、彼らの心のかたくなさ・盲目性を悲しまれながら、彼らに言われます。「安息日に命を救うことと滅ぼすことと、良いことをなすことと、悪いことをなすことと、どちらが認められるのか。」彼らはずっと黙っていました。彼らは、律法をただ形式的に守ることを重んじ、形骸化していました。しかし、主イエスは、安息日という律法が本来あるべき姿を取り戻されようとなさり、そのためには、ご自身の命をもかけて挑戦なさいました。戒律主義に陥っていたユダヤ教と真っ向から戦うことをいとわれなかったのであります。
 そして、主はその人に言われます。「その手を伸ばしなさい。」その手を直してあげようと言われたのではありません。その人は、手を差し出します。そうすると、その手が回復したのであります。信仰が先にあって、いやしが起こるのであります。ファリサイ派の者たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと、どうやって彼に対して殺そうかと相談を与えていたと、この5番目の論争物語は、最も、主イエスへの敵対が明らかになる物語として終わっています。主イエスの最初のころの伝道は、「ガリラヤの春」とも呼ばれますが、マルコによれば、最初の伝道の時点から、主イエスの十字架の暗い影が漂っていたのであります。私たちの病気が癒されることは私たちの願いであります。ましてや、死が避けられない病気が癒されればどんなにか嬉しいことでしょう。しかし、私たちはいつかは病気やあるいは寿命によって死を迎えるのであります。田園調布教会を牧会された藤井浩先生の娘さんの恵美さんは、36歳の若さで乳がんに侵され、天に召されるその父と娘の最後の数週間を記録した「娘からの贈り物」というNHKの「心の時代」に収録されたビデオを見させていただきました。小さいときからの父との和解と永遠の命の希望をもって恵美さんは天国へ先立たれたのであります。病気が癒される以上に、罪の問題や人間的な渇きが癒されることがもっともっと大事な問題であることを知らされるのであります。
 さて、後半の3:7-12は、湖畔の群衆という小見出しがつけられています。これは、むしろ、主イエスがこれからなさる事柄を、あらかじめ要約してここにまとめたようなものであります。主イエスは、ガリラヤの海へと立ち去られます。すると、おびただしい大勢が、ガリラヤから、また、エルサレムから、ユダヤから、イドマヤから、ヨルダン川の向こう側から、ティロスやシドン辺りから、そこに住んでいたユダヤ人たちでありましょう、彼のなさっている癒しの奇跡を聞いて彼に向かってやってきました。ここでの描写も、マルコが一番鮮やかに、目で見ているかのように記しています。主は、彼が押しつぶされないように舟を彼に用意するように弟子たちに言われています。なぜなら、彼は多くのものを癒しておられ、そのおびただしい大勢が病気を持っているものが皆、彼に触れようとやってきていたからであります。ここでも、主イエスは、皆をいやされたとは書いてありません。治療を受ける者たちの態度、姿勢が大切なのであります。
 そして、汚れた霊たちは、彼を見ていたとき、ひれ伏して、こう語りながら叫んでいました。「あなたは、神の息子です」と。主イエスは、何度も、彼らが彼のことを明らかにしないように命じておられた、と本日の記事は終わっています。
 汚れた霊どもとは、神と敵対するサタンの勢力を表わしています。そして、彼らは自分たちと相対する「神の子」イエスを敏感に察知することができました。しかし、主イエスは、彼らによって、神の子であることを知らせることをよしとしませんでした。主イエスは、神の子として、メシアとして、サタンに縛られている私たち人間を真に自由にするために、そして、罪によって縛られていた私たちの渇きをいやし、罪から解き放つために、地上においでになられた方であります。マルコは、そのような超人間的な「神の子」として来られた主イエスを、ここで、私たちに悟るように、これらの記事を前もって要約して記してくれているのであります。主イエスこそ、苦難のしもべ(イザヤ書42章等参照)としてお出でになられている、まことのメシアであることを、当時の気づかなかった大勢の群衆や弟子たちと同じになるのではなく、十字架に独りでお進みになる主イエスを理解し、信じ受け入れる者と今一度なりたいものであります。祈ります。
 天の父なる神さま。 私たちは、聖書によって、唯一の救い主メシアが、主イエスを措いて、おられないことを、絶えず知らされています。にもかかわらず、罪を繰り返し、迷走することの多い、罪深い私たちでございます。どうか、やれるだけのことをやり、度をはずして怠ることなく、精一杯の人生を、あなたのお恵みのうちに歩むものとなさせてください。この感謝と願いを、キリストのみ名を通しておささげいたします。アーメン。
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2006/07/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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