津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「人間のための安息日」(マルコ2:23~28)
マルコ2:23-28、2006・06・25、
聖霊降臨後第3主日(緑)
サムエル記上6:1-6、二コリント4:7-18

マルコによる福音書2:23~28
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」


説教「人間のための安息日」(マルコ2:23~28)
 
本日のマルコ2:23-28の個所は、大きく2:23-26の前半部分と、2:27-28のおそらく、マルコか、あるいはもっと古い伝承かによって付け加えられた2:27-28の後半部分に分けることができます。
 本日のこの安息日についての論争は、先週の断食についての論争部分の後、それに続いて、だしぬけな始まり方をしています。「そして、こんなことが起こった、すなわち、安息日に主イエスが麦畑の中を通っていくことが。そして、彼の弟子たちは、道を行きながら、麦の穂を引き抜いていた」と。それがどこで、いつ起こった出来事であるかは記されていません。
マルコは、ここでも共観福音書の中では一番素朴に、しかし、大事なことはもらさず、ことのなりゆきを淡々と書き残してくれています。弟子たちは、よほど、空腹だったのでありましょう。そして他人の畑の麦の穂を食べること自体は、旧約聖書の律法によっても許されていることでした。
さて、しかし、それを窺っている者たちがいました。そしてその弟子たちの師である主イエスに、あのファリサイ派の者たちは質問してくるのであります。「あなたの弟子たちは、なぜ、安息日に認められていないことをするのか」と。これは、すなわち、麦の穂を引く抜く、穂の部分をつまみとる行為が、安息日にしてはならない刈り入れや、脱穀としてみなされたのであります。主イエスの時代には、安息日に、禁じられた労働がここまで厳格に細かく決められていたのであります。
しかし、本来は、安息日は、天地創造の神が7日目に、すべての創造の働きを終えて、休まれたことから始まったものであり、喜ばしい時であるはずでありました。当時のユダヤ人たちにとっても、基本的には喜ばしい日として安息日を位置づけていたことでありましょう。
しかし、やがてマルコ福音書が書かれたころには、ユダヤ人たちが厳しく守っていた安息日と主の日、教会で守る今の日曜日との関係が大きな問題になっていたでありましょう。
 また、本日の記事のすぐあとに、出てきますように、主イエスが安息日を当時のファリサイ派のように厳格に守らなかったことが、神の子として、自分を神と同一視しした神の名を冒涜したとみなされたことと共に、主イエスが十字架において殺されることになる大きな引き金・原因となったのであります。
 さて、主イエスは、ファリサイ派に対して、次のように反問なさいます。「あなたがたは、まだ、ダビデが必要を持ち、空腹であったときにしたこと、そして彼の供の者たちもしたことを一度も読んだことがないのか。すなわち、どのようにして、彼がアビアタルが大祭司であったときに、神の家に入り、祭司たち以外には食べてはならないとされていた供えのパンを食べ、彼の供の者たちにも与えたかを」と言われるのであります。
この史実は、実際には、アビアタルの時ではなく、その父アヒメレクの時の出来事でありました。律法で禁止されていることも、このときのように、非常事態のような時には許されたと主イエスは、大胆に答えられたのであります。
そして、さらに、彼らに言われるのであります。「人間のために、安息日が成ったのであり、安息日のために人間があるのではない。それゆえ、人の子は安息日の主でもある」と。
 安息日は、ユダヤ人たちにとって、天地創造の神をおぼえ、神が与えられる安息に与る喜びの時でありました。しかし、主イエスの時代、そのことが見失われて、特にファリサイ派のような宗教的リーダーにとって、逆に人間を拘束し、本来の起こされた安息日の目的が分からなくなり、身動きが取れないものとなっていたのであります。それに対して、主イエスは、ご自分の命をも投げ出されて、安息日を本来のものに回復しようとなされたのであります。
現在の私たちに取りましては、どういうことが、この安息日問題から、学ばれるでありましょうか。週の初めの日を、主日・日曜日として、私たちは、今では主をおぼえ、天地創造の神を覚える時として、守っています。
これは特に、もろくて、すぐに、試みや困難によって倒れてしまいやすい私たち人間のために、日曜日が、安息の日、救いと約束の地を所有するために、今や世界中に与えられています。日曜日が、わたしたちのために与えられ、日曜日のために私たちがあるのではありません。日曜日を、創造の神をおぼえ、私たちの救い主、主イエス・キリストをおぼえるために、歩み、残りの週の六日間の間に、なすべく与えられたすべての働きをこなし、日曜日には礼拝に集う、そのような一週間、一週間でありたいものです。ある人にとっては、毎週の礼拝には行きたくてもかなわない場合もあります。1年に二回か三回礼拝に来るのが精一杯だというご老人もおられます。しかし、それぞれに置かれた、生活の中で、せめて礼拝にはこれなくても、安息の日曜日をおぼえ、喜びの日として心の中で聖別して過ごす、そのような日曜日を送りたいものであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
スポンサーサイト
2006/06/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。