津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私たちの破れをになう方」(マルコ2:18~22)
マルコ2:18-22、2006・06・18、聖霊降臨後第2主日(緑)
ホセア書2:16-22、二コリント3:1-6

マルコによる福音書2:18~22
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

説教「私たちの破れをになう方」(マルコ2:18~22)
 
本日から聖霊降臨後第2主日に入り、教会暦として用いる色も、再び、緑となりました。緑は、神にある希望を表す色であります。そして、福音のテキストも再び、マルコ福音書に戻り、本日与えられています個所は、マルコ2:18~22であります。本日から再び、教会暦の後半を、マルコによりながら、語られた主イエスのお言葉と、そのなされた働きを学ぶのであります。
 さて、本日の個所は、断食の問答である2:18~20とそれに付け加えられたと考えられます、新しい当て布に関する譬えと、新しいぶどう酒に関わる譬えである2:21節と2:22節の二つの部分から成っていると考えられます。それぞれについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、断食に関する問答であります。本日の文は、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の者たちは、断食していた」という文から始まっています。ヨハネの弟子たちは、洗礼者ヨハネの死後、その死を悼んで断食をしていたのであります。また、洗礼者ヨハネは禁欲的な人でありました。それに対して、主イエスは、断食を禁じてはいませんが、別のある場面では、「大食漢」と悪口を言われたことからもう窺えるように、当時の断食に対しては批判的でありました。
ファリサイ派の弟子たちも、その時代には、断食することによって神により近づくことができると考え、週に二度の断食をしたことが、イエスのなさったふたりの人の祈りの譬えの中からも窺えます。それが、その当時には形式的な、むしろ外観を重んじるものになっていたのであります。
主イエスが亡くなられた後、教会でも断食はなされるようになります。しかし、それは、主イエスの十字架の死を覚え、悔い改めを求めるためのものでありました。
 主イエスは、人々がやって来て、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのかと質問したのに対して、言われます。「婚礼の客は、花婿と共にいるときに、断食できようか。花婿が共にいる限り、断食はできない」と。「婚礼の客」とは、「花嫁の部屋にいる息子たち」と言うふうにも解され、あるいは花婿の付添い人、友達と言うふうにも取れる言葉であります。旧約聖書では、長い時がたつうちにやがてイザヤ書などで、この「花婿」は、メシアを表す者であり、神がイスラエルの民の花婿になり、イスラエルの民は神の花嫁になるというふうに考えられるようになっていきます。
主イエスはそれをご承知で、御自分を花婿として、「人の子」と同じように、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の者たちに、直接自分をメシアだとは言わないで、そのことを暗示なされたとも考えられるのであります。
そして、「花婿が」イエスの弟子たちから、やがて暴力的に、十字架の死によって命を絶たれる日々が来る。その時、その日には彼らは断食するであろうと答えられました。主イエスの到来と共に、古い律法の行為によってではなく、主イエスへの信仰によって、救われる神の国、福音の時が主イエスがまさに語られている、「今、ここで」始まっていると宣言されたのであります。
 さて、後半の2:21~22節は、たぶん別の機会に主イエスが言われたふたつの言葉、あるいは、譬えをここに付け加えたと考えられます。まず、だれも、新しい布切れでもって古い上着につぎあてをする人はいない。そうでないと、新しい布切れは、古い衣服をはりさき、その裂け目はさらにひどくなる、と言われます。まだ布さらしをしたことのない新しい布切れは、まったく別の品種のもので古い生地とは相容れない。これも、主イエスのまったく新しい福音、教え、あるいは主イエスご自身を表しているでしょう。
 さらに、そしてだれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に注いだりはしない。そうでないと、そのぶどう酒は、皮袋をはり裂き、どちらも失われてしまおう。しかし、そうではなく、新しいぶどう酒は新しい皮袋に注ぐものだと、主イエスは、ご自分のもたらす福音がそれまでの教えとまったく異なる質の新たなものであることを同様に語られるのであります。   
古い洗礼者ヨハネの施した洗礼も、ファリサイ派の人々の律法の行いも、まったく、主イエスの恵みの福音とは異なり、両者が両立することはできないことを、主イエスはこれらの譬えによって示されたのであります。
 しかしながら、私たちは、言葉と思いと行いとによって、日々、多くの罪を犯すものであります。けれども、にもかかわらず、私たちは、主イエスによってもたらされた福音に従って、まったく新しい人へと、既に信仰によって創りかえられている者であります。
聖霊降臨祭を2週間前に私たちは祝いましたが、聖霊が一人一人の上にとどまり、降り注がれることによって、新しい人へと既に変えられているのであります。神にある希望を持って、再び新しい人生へ、新しい1週間へと送り出されていきたいものであります。
天の父なる神さま。
 しもべの1週間を振り返りますとき、あなたから離れ、罪におぼれることの多い1週間でした。しかし、既にお出でになった花婿の友人たちとして、私たちは皆、新しい人生へと既に招かれている者でございます。ここから、新たに、新しい人として、やり直しをなさせてください。そして、今も世の中に沢山いる外の迷える羊をもあなたのもとに導くことのできる者とならせてください。キリストによって、お願いいたします。アーメン。




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2006/06/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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