津田沼教会 牧師のメッセージ
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「霊による上からの新生」(ヨハネ3:1~12)
ヨハネ3:1-12、2006・06・11、三位一体主日(白)
イザヤ6:1-8、ローマ8:14-17

ヨハネによる福音書3:1~12
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」

説教「霊による上からの新生」(ヨハネ3:1~12)

 本日は三位一体主日であります。これから、私たちは、復活節、そして聖霊降臨祭を終えて、また、再び聖霊降臨後の主日を、マルコによる福音書によって、主イエスの語られたお言葉と、なされた働きについて、学ぶのですが、それに先立って、今朝のこの三位一体主日が与えられており、典礼色は、復活節と同じく、神を表す白であります。どうして、三位一体主日に本日の個所ヨハネ福音書3:1~12節が与えられているのでしょうか。そのことをしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスがガリラヤのカナの結婚式で、最初のしるし、奇跡をなされました。それを見て、弟子たちは信じたとかかれています。そのように、主イエスの働きや教えを伝え聞いて信じようとした人も多かったでありましょう。
 本日は、それに近い状態のニコデモという人が出てきます。既にかなりの年を取っていた人であるようです。ユダヤ人の指導者で、サンヘドリンの議員を務めていた人であります。その人が夜やってきて主イエスと対話をするのであります。「ラビ、あなたが神から来られた方であることを私どもは知っています。神が共にいなければ、あなたがなさっているようなしるしは、誰もできないからです。」と、彼は話し始めます。夜来たのは、主イエスが、光を現すのに対して夜は闇と死を表すものであったからか、あるいは、主イエスを信じようとしながらも、臆病で公にすることができなかったため夜になってきたのか、あるいは、夜にラビと親しく対話することが当時の習慣であったからなのか、よくわかりません。
 さて、主はそのニコデモに対して、なんと答えたでしょうか。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われるのであります。人が母親の胎内に入って、もう一度生まれることができましょうか。そんなことはありえません」とニコデモは、主イエスの言葉を理解することができないのであります。
 「霊から生まれるものは、霊であり、肉から生まれるものは肉である。」主はいわれます。「風は思いのままに吹く。人はその音を聞くことはできるが、それがどこから、来て、どこへ行くのか、分からない」と。そして、「よくよく言っておくが、上から生まれなければ神の国に入ることはできない」と、主は繰り返されます。そして、「地上のことを私たちは語っているのに、あなたは、ユダヤ人の教師でありながらそんなこともわからないのか、それなら、天のことについて、語っても、どうして、分かるだろうか」といわれます。
 ニコデモは、年をかなりとって、神の国にはいりたい、永遠の命を得たいとは思いながらもそれは無理だと痛感していたのでありましょう。私たちも、自分のこんな癖や罪はなかなか直らないと、絶望的になることがあります。しかし、主は、「水と霊とによって、上から、神の霊から生まれるならば、新しい人間に生まれ変わることができる」といわれます。それはどういうことかというと、洗礼と説教と聖餐によって、また主の十字架において私たちは新しく生まれることができると主はここではっきりと約束なさっておられるのであります。ここに、信頼を持って、新たな気持ちで、これからの新しい1週間を送り直しましょう。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。アーメン。
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2006/06/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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