津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスのご正体」(マタイ17:1~9)
マタイ17:1-9、2005・02・06、変容主日(白)
出エジプト記34:29-35、ペトロの手紙Ⅱ1:16-19

マタイ福音書17章1-9節
 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。畏れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

説教「イエスのご正体」(マタイ17:1-9)
 新年の最初の主日以来、守ってきました顕現節も、本日の変容主日によってその最後の主日を迎えました。顕現節とは、前にも言いましたように、神の真実の姿が明らかになることであり、また、その遣わされた独り子主イエスが一体どういうお方であるか、その意味では、主イエスのご正体が顕される時でもあり、本日の主の変容の出来事を伝える記事は、顕現節の最後にふさわしいものでありましょう。
 しばらく、ご一緒に、本日の記事、マタイ福音書17章1節から9節に従って、主イエスがどういうお方であるのか、どういう出来事がおこったのかを考えてみたいと思います。
 それは、「6日後に」起こった出来事であります。フィリポ・カイザリアに行ってから、6日後のことであったのか、ペトロが、主イエスを「生ける神の子、メシアです」と告白してから6日後のことなのか、いつからなのか定かではありません。出エジプト記を読みますと、モーセが6日間、シナイ山にいて、7日目に神と語り合ったことがでてきます(出エジプト24章)。そのことが暗示されているのでしょうか。マルコにも「6日の後」とありますが(マルコ9章)、ルカは、「この話をしてから8日ほどたったとき」となっています(ルカ9章)。あるいは、終末的な意味を持つ仮庵祭、スコトの祭り(仮小屋の祭り)が6日にわたって祝われたことが背後にあるかもしれないと考える人もいます。マタイでは、主イエスは、新しいモーセであり、しかも、モーセをはるかにしのぐ、もっと偉大なモーセであるという考え方が一貫しており、本日の記事においても、出エジプト記の24章、34章が背景にあるということは考えられることであります。
さて、主イエスは、六日ののち、ペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを伴われます、、そして、ある高い山へと導きます。それが、ペトロが信仰告白を行ったフィリポ・カイザリアから比較的近い、北方のヘルモン山であったのか、あるいは故郷ナザレに近いタボル山であったのか、それとも、別の山であったのかは、福音書記者たちにとっては関心のないことでありました。マタイにとっては、モーセが十戒などを神より賦与された、神々しい山、今もあのシナイ半島にそびえるシナイ山のことが思い出されていたことでありましょう。
 すると、見よ、彼らの前で、イエスは、神々しい形に変えられ、その顔は太陽のように輝き、その衣は、まばゆく輝いたのであります。そして見ると、彼らに、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていたのであります。モーセとエリヤは、旧約聖書の律法と預言者を代表する者であります。そして二人とも、天に上げられたと書かれ、あるいは信じられていた人物であります。マルコは、「エリヤがモーセと共に」見えたと書いていますが、マタイはモーセを最初に書き改めています。モーセのほうが与えた影響力がはるかに大きく、より重要な存在なのです。
 さて、ペトロはそれをみて、イエスに申し出ます。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もしあなたがお望みなら、仮小屋を三つ建てましょう。あなたに一つ、モーセに一つ、そしてエリヤのために一つ」と。どうやって、ペトロは、初めて出会ったであろう二人がモーセとエリヤであることが分かったのでしょうか。しかし、いずれにしろ、ペトロは、主イエスと旧約を代表する預言者たちを同列に位置する存在だとみなしたのです。ペトロは、彼らの見ている出来事を、できれば、できるだけ長くそのまま引きとどめて、楽しみたいと思って、仮小屋を三つ建てることを主に提案したのでしょうか。しかし、ペトロの人間的な思いでなした申し出が聞かれ、受け入れられることはありませんでした。そして、見よ、輝く雲が現れ、彼らを覆ったのであります。この彼らとは、主イエスたち三人と考えられましょう。そしてまた、見よ、雲の中からこういう声がしたのであります。もとの文では、「これは、私の子、愛する者、わたしはこれを大いに喜んでいる。これに聞きなさい。」 この出来事も、出エジプト記の臨在の幕屋に神が白雲と共にあらわれるという出エジプトの出来事が思い起こされます。主イエスは、本日礼拝の始めに交読しました詩編の2章7節や、またイザヤ書42章1節に出てくるように、神の子であり、また同時に、苦難の僕として、神に喜ばれ、気に入られている独特唯一のお方であります。  
私たちは、聖書を手にしていますが、この聖書全体が、すべて、主イエスを、メシア、受難のしもべとして、証しし、指差しているものなのであります。偉大なモーセも、天にあげられ、終わりの日にまた帰ってくると記されていたエリヤも、あるいは、預言者イザヤも、洗礼者ヨハネも、また、パウロや使徒たちもすべて、主イエスを、神の子として、また、受難と復活のキリスト、メシアとして証言するために、わたしたちのために、与えられている器にすぎません。雲の中から聞こえた声は、そのことをペトロたちにはっきりと示したのであります。彼らは、非常に恐ろしくなり、顔をひれ伏しました。すると、主イエスが近づき、彼らに触れて、言われました。「起き上がりなさい。恐れることはない。」それで、彼らが目を上げてみると、主イエスのほかにはだれも彼らは見なかったのであります。そして、彼らが山を下っていく時、主は、「今見たことを、人の子が起き上がらされる、すなわち、復活するまで、誰にも言わないように」と命じられたのであります。マルコによる福音書では、それに対して、弟子たちがその後に、「復活することとはどういうことだろうか」とか、理解できないでいる姿が記されていますが、マタイの弟子たちは、主イエスのお言葉を理解できる者として表現されています。主イエスは、この後、受難、十字架が待っていました。そしてその後、神によって、栄光の復活をなさしめられるのであります。そのときまでは、栄光に満ちた本日の主イエスの出来事・福音は、知らせることができないのであります。
この出来事は、復活後に弟子たちに主が現れた出来事を、主の生前のこの時点にまで遡らせて書かれているのに過ぎないのではないかと考えた人もいます。しかし、わたしたちは、3人の共観福音書記者たち、マルコ、マタイ、ルカによって、このように、それぞれの視点から生き生きと記録されている決定的な出来事を疑わしいことだと心配する必要はないのであります。主イエスのご正体、本当の姿が、本日の啓示を通して、明らかにされているのであります。私たちの日常生活を振り返りますならば、私たちは、あまりにも、たやすく、他人の言動や社会の中にひしめいている「我こそは真理を説く者である」といった主張によって、揺り動かされているのが、偽らざるところではないかと思います。いろいろな思想や価値観によって、生き方をぐらつかされているのが、私たちの現状ではないでしょうか。ある年老いた信徒の方は、病床のもとで国会中継が聞こえてきているので、私が、国会中継にご関心がおありですかとたずねますと、「いや、私はもうそんな理屈をこねまわしたりする生き方には関心がない。自然が一番いいよ」というふうに答えておられました。国会議員を始め、社会にはいろいろな立派な方々が大勢活躍しています。
しかし、聖書は、私たちに向かって、「これはわたしの愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と命じてやみません。「これに聞く」とは、もちろん耳を傾けることだけではなく、このお方にこそ従っていくということであります。今この礼拝に集められている方の多くは、このお方主イエスによって、見いだされ、新しい人生の道を与えられた者であります。本日はこのあと、聖餐、キリストの体とその尊い血に与かりますが、そのことを今一度確認し、主にある幸いを、周りの人々にも伝えていく器となるようにさらに豊かに用いられていきたいものであります。 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあってあなたがたの心と思いとを守るように。アーメン。
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2005/02/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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