津田沼教会 牧師のメッセージ
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「友のために命を捨てる方」(ヨハネ15:11~17)
ヨハネ15:11-17、2006・05・21、復活後第5主日
使徒言行録11:19-30、ヨハネの手紙4:1-12

ヨハネによる福音書15:11~17

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。


説教「友のために命を捨てるお方」(ヨハネ福音書15:11~17)
 
いよいよ、復活を祝う時期も、本日が聖霊降臨後第5主日であり、残り少なくなってきました。本日は、先週のヨハネ福音書15:1-10に続く15:11-17の個所が、福音の日課として与えられています。どうして、復活節にここが与えられているのだろうか、皆さんとご一緒に、しばらく、考えてみたいと、思います。
 さて、先週の福音の記事は、主イエスが「私は、まことのぶどうの木、父はその農夫である」(15:1)という言葉で始まっていました。本日の15:11-17まで、それは続いていると取ることができます。私たちは、真実の、ほんもののぶどうの木である主イエスにつながり、とどまりつづけることが、必要であります。主は御自身をぶどうの木と言われていますから、ここから、聖餐式を思い起こすことも、あながち間違いではないでしょう。私たちは、礼拝には聖餐に与るために来ているともいえるのであります。たとえ、本日のように聖餐式がない日であっても、教会に行くのは、主イエスのからだとその尊い血に与るために行くのであるといっても言いすぎではないでしょう。聖餐式につながり続けることで、一生の教会生活を続けることが必要なのであると、ここの個所でも主は暗示して言っておられるとも言えるでありましょう。
 さて、本日のヨハネ福音書の記事は、「私が、これらのことを話したのは、あなた方の喜びがとどまり、喜びが満ち溢れるようになるため、喜びが完成されるためである」という言葉で始まっています。主イエスは、最後の晩餐において、あるいはその前後で、14章から始まります17章まで続く告別説教、告別講話を語られています。そんなに豊かな、沢山な言葉が、主イエスの生涯の最後の最後で語りつくされたということは驚きでありますが、ヨハネ福音書記者、あるいはその弟子の編集者(たち)は、主イエスの言葉として伝えられていたものを、ここにまとめたものかもしれません。
 その当時、紀元後1世紀末の状況は、主イエスの十字架とご復活をその目で見た弟子たちは殆ど生き残ってはおらず、第2世代になっていたことでありましょう。そして、激しいユダヤ教からの迫害やグノーシス主義(知識主義)やマンダ教とよばれるユーフラテス川下流の地域で盛んになっていた教えが、キリスト教会をもおびやかし、信者たちは正しく伝えられてきたキリスト教が危険にさらされていることを、身をもって感じていた時代であったでしょう。そのような中で、14章から17章にかけての告別説教が大きな励ましとなり、彼らに信仰によって生きていく力を与えたことでしょう。
 主イエスが弟子たちの下を去り、十字架の死をとげ、復活ののちに、天に上げられ、肉の目ではみえなくされたあとも、「あなたがたの喜びが満たされるために」これらの言葉を語っていると主は前もってここで言われるのであります。
 そして、主は言われます。「あなたがたに命令を与える。すなわち、互いに愛し合うように」と。キリスト教は愛の宗教だといわれます。しかし、それは何と困難な、実行の難しいことでありましょうか。私たちの肉の思いからは、それは、実現不可能であります。しかし、主イエスという「真実なぶどうの木」につながっているときに、初めて可能になっていく事柄であります。主は言われました。「その友どものために、その命を置く、すなわち差し出す・捨てる。それ以上に大きな愛をだれも人は持っていない。」さらに、言われます。「私は、あなたがたをもはや奴隷、しもべとは呼ばない。なぜなら、私は、父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と。
 友や友情という思想は、ギリシャ思想などで頻繁に出てくるもので、聖書の中ではあまりなじみのない思想であります。わずかに、アブラハムやモーセが「神の友」であるように言われています。この記事を書いた記者は、どこから、この主イエスの言葉とされるものを引き継いだのでありましょうか。それとも、主イエス御自身の言葉として素直に受け取ってよいのでしょうか。ヘレニズム文化などの影響が背後にあるのかもしれません。しかし、主御自身が、この文に近い言葉を弟子たちに語ったということも考えられうることであります。私たちは、確かに、一方で主イエスのしもべであり、それ以上のものではありません。しかし、同時に、主イエスは、旧約では、一、二の例外的人物に対してのみ言われた「神の友」という呼ばれ方が、私たちすべての信者に対して主イエスによって与えられているのであります。
 旧約聖書の時代においては、考えられもしなかった「主イエスの友」という呼ばれ方が、主ご自身によって、主につながっているすべての信者に与えられたのであります。
 主は、「あなたがたを置く、すなわち、あなたがたが行って、実を結び、もたらし、その実が残るために」と言われます。当時の迫害下にあったヨハネ記者の教会の信者たちだけではなく、主を肉眼では見ることが不可能である、現代の教会の私たちに対しても、主はそのように言われているのであります。そして、私たちが行って、実を結び、その実がとどまるように、私たちを、あなたがたを置く、すなわち、任命する、と。
 「私たちが、実を結ぶ、実をとどめる」とはどういうことでありましょうか。それは、確かに世界中に弟子たちが派遣されていって、主の救いをのべ伝えること、そして、世界中に教会を打ち立てることをも、含んだものでありましょう。
 けれども、もっとも、大切なことは、当時のヨハネの教会の人たちが直面したと同じように、この混迷する時代にあって、私たちが、神、キリストにつながり、それにふさわしい生活をし、そして、この津田沼教会において、お互いに愛し合い、認め合い、励まし合う生活をすることが、世の人々を教会へと獲得する以上に、まずは、第一に必要なことであります。主は、本日の結びも、先週の15章の前半に出てきたと同じ言葉で締めくくられます。「これらのことを、あなたがたに命じる。すなわち、お互いにあなたがたは愛し合うように」と。
一言祈ります。
 天の父なる神さま。あなたは、私たちが、自分の内側からは、何も正しいことをすることができないことをご存知です。私たちは、自己中心的で、家庭においても、職場においても、どこにおいても、自分が一番かわいい者です。しかし、あなたは、み子を送り、私たちにあなたの言葉とみ旨をすべて知らしめ、私たちをご自分の友と呼んでくださいます。有難うございます。どうか、身近なところから、愛し合い、尊敬しあい、相手を尊び、信頼し、高め合う、愛の集団にしてください。それによって、あなたに対立し迫害する世がみ名をあがめることになりますように。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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2006/05/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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