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津田沼教会 牧師のメッセージ
「私の内にとどまりなさい」(ヨハネ15:1~10)
ヨハネ15:1-10、2006・05・14、復活後第4主日
使徒言行録8:26-40、ヨハネの手紙一3:18-24

ヨハネの福音書15:1~10
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ばないものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。


説教「私の内にとどまりまさい」(ヨハネ15:1~10)
 
復活後第4主日を迎えました。本日、そして来週の日曜日とこの復活節において、特に復活の出来事そのものの記事を扱うのではなく、ヨハネ福音書のいわゆる告別説教といわれるものの中から福音の記事が選ばれています。すなわち、先ほどお読みしましたヨハネ15:1-10、そして来週がその続きの15:11-17であります。
 
ヨハネ福音書の14章から16章、17章にかけては、洗足の記事や最後の晩餐の出来事の後の告別説教となっているのであります。最後の晩餐の後に、彼らがギデロンの谷の向こう、ゲッセマネに向かって進んでいくときに、これらの膨大な講話の内容を、主イエスが歩きながら述べられたとは到底考えられません。

これは、この福音書の場所に、ヨハネ福音書記者が、あるいはその弟子が、まとめて、ここにこれらの文章を編集して残していると考えられます。復活節を祝っている今、この時期に、本日はヨハネ福音書の15:1-10が与えられている意味について、ご一緒に考えてみましょう。
 
主イエスはいわれます。わたしは真実なぶどうの木であり、父はその農夫である。そして、あなたがた弟子たち、すなわち、私たちは、その枝、あるいは、そのつるである。父なる神は、良い実をもたらす枝はさらに刈り込まれ、手入れをなさるが、豊かな実をもたらさない枝は切り取られるといわれるのであります。
 
ぶどうの木は、イスラエルの民を表すために、旧約聖書でしばしばたとえられています。しかし、旧約のイスラエルの民は、その長い歴史を通じて、しばしば不信仰に陥り、良い実をもたらすことはできなかったのであります。それに対して、主イエスは、ご自身を、真実な、まことの、良いぶどうの木といわれます。それは、父なる神に対して常に従順にそのみむねに従われたからであります。そして、父の命令、すなわち、ご自分の弟子たちを最期まで愛するという命令に、あくまでも従ったのであります。

そして、枝である私たち弟子たち、使者たちに対しても、主イエスが守られた愛のうちに、中にとどまるようにと、忠告なさいます。ぶどうの枝は、それ自身では、実を結ぶこと、豊かに実を結ぶことはできないのであります。そして主は、私の内に、中に、その愛の命令にとどまりまさいといわれます。私たち自身の考えや、功績に頼っては、豊かな実を結ぶことはできないのであります。

この豊かな実とは、主イエスこそ父から遣わされた救い主であり、その子である主イエスによってこそ命と真理が与えられると、堅く信じるようになる教会の一員となる一人一人を指しているということもできるでしょう。私たち、すなわちイエスの弟子たちは、その父なる神の使者でもあります。そして、豊かなぶどうの実をもたらすことができるためには、その木であり、幹である主イエスから絶えず養分を、その力の源から与えられることが必要なのであります。
 
私たちは主イエスを通さずして、命と真理と救いにいたることはできないのであります。また、教会においでになられる新来者の方々は、私たち信者が、しっかりと、主イエスというぶどうの木につながっている、とどまっていることがなければ、豊かなぶどうの実となることができないのであります。

そして、主は父なる神が主イエスにお与えになる命令、すなわち、自分のものたち、弟子たちをとことん愛しぬかれることを守り通されました。私たちも、主イエスが示された愛しあうという命令を守り、主イエスの弟子であることにとどまるとき、それは、父なる神の栄光を現すことになるのであります。
 
そして、イエスが父なる神のうちにとどまられたように、私たちも、イエスの内にあり、 
その命令を守るなら、私たちが願うどのような祈りも聞かれるのであります。
 私たちは、主イエスの命令、互いに愛し合い、主イエスの言葉にとどまり続けることは至難の業であります。けれども、私たちは、これらの主イエスの言葉によって、既に清くされている者であります。

 主イエスに対して、父のもとから遣わされたみ子に対して、世は敵対しています。しかし、私たちは、主イエスによって、命と真理の道を歩むように選ばれている者であります。主の愛のうちに、その中にとどまるように、召された者たちであります。ぶどうの実である一人でも多くの方々を、新来者を得ることができるように、そのために、お互いに愛し合おうではありませんか。主イエスが父から受けた命令、そして、私たちが主イエスから受けている命令とは、お互いに私たちが愛し合い、そこから豊かな実を結び、父なる神の栄光を現すようになることであります。

一言祈ります。
父なる神さま。主イエスは復活され、私たちが愛し合って、それによって豊かな実、新しく主を命、真理として受け入れる人たちを一人でも多く教会へと導くことを願っておられます。そのために、自分たちの力に頼むのではなく、常に主イエスという真実なるぶどうの木にとどまり、つながっていくように導いてください。自分だけの救いにとどまるのではなく、豊かな実を結ぶように、他の人々の救いのためにも働くものとならせてください。それによって、父よ、あなたに栄光を帰することができますように。キリストによって祈ります。アーメン。

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2006/05/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)