津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主は生きたまう」(ルカ24:13~35)前田貞一牧師
ルカ24:13-35、2006・04・23、復活後第1主日聖餐礼拝(白)
使徒言行録3:11-26、ヨハネの手紙Ⅰ5:1-5、

ルカによる福音書24:13-35
 
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現われ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現われたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

前田貞一先生説教「主は生きたまう」(ルカ24:13~35)

 今日は、復活祭のオクターブ、1週間が過ぎましたこの大きな祝いのときに礼拝に招かれまして心から感謝申し上げます。
 で、大きな復活祭の礼拝の続きの中にありますが、キリスト教にはいちばん最初、生まれて、ギリシャの地方で広がって行って、ギリシャ教会というのが今もあります。ギリシャ地方とロシア地方にあります。東方教会とか、東京の御茶ノ水の横のニコライ堂の教会ですね、東方教会、そしてその教会から今度はローマのほうへ行きまして、いわゆるローマ教会、よくカトリック教会といいますが、ローマ派の教会、そしてそこからプロテスタント、となっている。その東方教会で、礼拝の中で、ギリシャ語でエゲイロー、これは起立をしてくださいという意味、会衆の人にも起立をしてくださいという。エゲイローという。このエゲイローというのは、実は、聖書に出てくる、復活というふうに訳されます。今日の日課のなかでも、イエスさまが分からなかった。先週の日課でお聞きになったと思います。天使があの方はここにはおられない、復活なさった、あの方は、エゲイローだ、復活し、立ち上がったとかいうんです。ひとつは、アニステーミという言葉もよく使われていますが、目覚めるという、あの方は目覚められた。あの方は立ち上がられたという極めて日常的な言葉、私たちの生活の中で、けさ何時に起きましたかというのは、エゲイローだったり、アニステーミだったりする。ですから、聖書の中にエゲイローとかアニステーミとかいうのは日常生活用語ですから、何度も何度も、百数十回は出てくると思います。
 イエスさまが舟の中で眠っていた、弟子たちが、イエスさま、起きてくださいといったのを、起こした、起きてくださいというのは、エゲーロー。ですから、復活というふうな言葉で訳してあるのは、大体福音書では25パーセントくらいです。四分の三は他の意味、イエスさまが手を取って立ち上がらせた、子供をみんなの中に立たせた、全部これは、エゲイローとか、アニステーミという言葉。で、私たち、復活と書きますから、また生きるというふうに、とります。特に日本の文化の中でみますと、復活といったら、死んだ後の来世のことをいってるんじゃないか、ところが、この復活というのは、そういう意味では、弟子たちも分からない。先週、あのマリアたちが、イエスさまはおられないということは分かった、けど、天使が復活した、あの方はおられない、復活なさった。これは、マリアたちが復活したというふうに考えたんじゃない、ということを聖書は言っているわけです。天使の声。だけど、いったい復活って、エゲイローって何だろう。イエスさまがエゲイローって何だろう。この分からない期間が、弟子たち、ずうっと続くわけですね。ペンテコステまで、続きます。ペンテコステのときになって、ほんとにみんなが、あっ、イエスさまは生きておられる、ということを、この、知っていくわけです。
 で、それは、今日の日課でも出てきますよね、二人、行ってた、イエスさま、誰か分からない人と二人の弟子が歩いていて、そして弟子たちが、あの方こそ、イスラエルを解放してくださる、と望みをかけていました。で、ところが、つまり、かけていたわけです。そしてもう、十字架にかかって三日もたちました。もう、弟子たちにとっては過去のこととなったわけです。望みをかけていた。おそらく、復活ということを何だろうと考えているこの50日の間、弟子たちが、ここでは失望した。望みをかけていたけど、もうすべてが終わってしまった。そういう失望を感じたり、時には、あっ、イエスさまはこういう方だった、懐かしむこともあったでしょう。そして、ペトロなども、最後エルサレムに入る前に、それはよしたほうがいいですよ、自分たちはとめたのに、あんなにして無理にして入った。なかば、怒りを感じる思いもあったかもしれない。
 で、最後の最後は、ヨハネにありますように、ガリラヤに帰って、もとのように、魚を取る。弟子たちは何のため三年費やしたんだろう。舟もすべてを捨てて従ったのに、結局もとに戻るしかない。そういう迷いの50日を過ごすわけです。そして、そういう迷いの中のひとこまが今日の日課です。二人の弟子がエルサレムと地中海のちょうど中間ぐらいにありますエマオというところに行って。ですから、読んでいくと、私たちは、ある意味で、納得がいかないわけです。イエスさまが、三年間つい三日前まで、一緒にいてですね、姿なり、声なり、話し方なり、通常考えれば、一日歩いて気がつかないなんてことは、ありえないようなことなんです。
 そして、最後の三分の一のところで、一緒に泊まろうとして、そして、夕食のときに、パンを裂いたときに、あっ、イエスさまだとわかった。そう、この食事の席に一緒についたとき、この食事もまだ、普通の日常の言葉ですが、この言葉が、だんだん、今の聖餐という言葉になってきます。まだ、最初のころは、食事に集まるときとかですね、一緒に食事をするとき、という言葉でしか、まだ聖書の中では書かれておりません。そして、あの食事、これが、私たちが言う聖餐になってくる。
 で、私たちのルーテル教会、日本のルーテル教会はやはり、教団の影響を受けていますから、月に一回とか、年に数回しかしませんが、この聖書の時代から、礼拝というのは聖餐のこと、そして、説教というのは、この聖餐のキリストのからだ、このキリストのからだは、聖書のこの方ですよ、という説き明かしをするのが、説教でしたが、私たちは、聖餐と切り離した礼拝を大方しています。
 で、ここに出てくるのも、そうです、食事をしているときに、イエスさまだと分かった。食事をする中で、イエスさまが生きているということが分かった。私たちは、聖餐式で、パンとぶどう酒を罪の赦しのお薬のようなつもりでいただいちゃあならないわけです。そんな効果はひとつもないです。私たちは、ここで、弟子たちがそうであったように、そしてまた、使徒行伝あるいはパウロの手紙などに出てきますように、このキリストにつながって、イエス、これはキリストのからだである、いただいたときに、あの、イエスさまが言われた、ぶどうの幹とぶどうの枝のように、あっ、イエスさまにつながっている。あのイエスさま、あのキリストとは、まさに聖書の中に出てくる、あるときには、本当に優しく、あるときには、厳しく、そして、あるときには、励ましてくださる。もういろんなイエスさまが出てきます。聖書の中で、私たちが聖書を読むときに、イエスさまの前にいろんな人が出てきます。病気でくずおれてる人もいる。ときには、パリサイ人のように、あるいはサドカイ人、非常にかたくなになって、イエスさまの言葉を拒もうとする。
 私たち自身がやはりあのサドカイ派の中に入ってイエスさまと相たいしていく、これが聖書の読み方です。イエスさまが助けてくださった。あの助けられてくずおれている人の中に自分をおいて、イエスさまと向かい合っていく。これが、信仰における、聖書の読み方です。
 そうしたイエスさまを、あのパンとぶどう酒のなかで、その、イエスさまをいただいていく、このイエスさまを、信仰の糧、霊の糧、心の糧にしていく。それを週ごとに、私たちは、新たにしていく。これが、本来、礼拝。で、今日もう一つ。あとひとつ、加えましょう。
 そう、ここは、ニケヤ信条使いますね。たいていの教会、聖餐式のときには、ニケヤ信条とっていますが、ちょっと式文でニケヤ信条のところをお開けくださいますか。
 聖餐式のときにどうして、ニケア信条を使うのか。昔から使っていた。ニケヤ信条というのは、325年ぐらいですから。まあ、できましたあとに、あの、私は信じますというふうにこの、私個人になっていますが、元来は、私たちは信じますというふうに。当時のニケヤ会議に集まった司教たちがお互いの信仰を確認するために、この、作った信条なんです。そこで、こうですね、私たちはこのイエスさまを、キリストを信じます、というふうに作ったんです。ですから、ローマ教会も聖公会も、もういちどこれは、私たちはという本来の言葉に戻そうかと言って今検討がなされています。ルターも、ルターが作りました、ニケア信条の中では、我々は信ずと言って、このニケヤ信条を歌うようにしてますが、礼拝の中では、この、変更された、私はになっています。このニケヤ信条もですね、信条本文の下から、8行目です。三日目に復活し、天にのぼられました、そして、父の右に座し、栄光のうちに再び来て、とあります。で、再び来るというのは、再臨のイエス・キリストは、その下に出てきます、栄光のうちに再び来て、生きている人と死んだ人とはさばかれます。
その支配は終わることがありません。この再び来てというのは、そう、14章ですね、ヨハネ福音書の14章の中に、イエスさまが最後の晩餐のときに、なさったという説教です。心を騒がせるな、神を信じなさい、で、この、今十字架にかかっていくということを語って、私の父の家には住むところが沢山ある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために、場所を用意したら、というのは、これは十字架の死を表わす。戻って来て、また、戻ってきますよ、といっている。これは、パリン・エルコマイという言葉なんですが、聖書でここ一箇所でしか使われない、言葉なんです。
 このニケヤ信条に出てくる、さっき、言いました、栄光のうちに再び来てという、その言葉を使っている。つまり、十字架に殺され、三日目に復活して再び来る、というのは、ニケヤ信条で、これは特に聖餐のためにずっと表明されてくるわけですが、まさに、聖餐のキリストのからだと血、これは再び来られたイエス・キリストだというのが、まさに、使徒たちからの考えであり、教会観。だから、聖餐を大事にしたし、礼拝を大事にした。
 聖餐に与るというのは、再び来てくださったイエス・キリストが、このキリストによって、聖書に書かれているさまざまなイエスさまの行い、教え、そうしたものを私たちはもう一度新たにするし、そして、私たち自身を復活したものとして、生かしていく。パウロが言ってますね、ローマ書の6章で、洗礼というものは、キリストの十字架と一緒に死ぬことだ。そして、もう一度、水から出ることによって、もう一度復活することだ。そう、洗礼というのは、パウロも、ローマ書の6章で言っていますように、私たちの死であり、私たち自身が洗礼によって復活させられたものとなる、イエスさまにつながり。だから、パウロは、あのように強いんです。もうどんなことがあったって、泰然としてやっている。いや、私は復活した人間だ。そう、私たちはそういう意味で、やはり復活の信仰を与えられている。それは、イエスさまが復活したというより、イエスさまと一緒に私自身がもう洗礼において復活した人間に組み込まれているんだという。そして、その復活した人間として、今日来てくだすったイエス・キリストにまた、私たちは、つながっていく。こうして、1週間を本当に、問題がある人はくずおれないで、力を与えられたり、慰められたり、また、ときにはしかられることもあるかもしれない。こうして、この週を、私たちは豊かに過ごしたい。
 で、あのエマオへ向かった弟子たちが、食事のときに、あっ、そうだ、あの最後の晩餐でなすったように、これは、私のからだ、あのイエスさまを本当にこの二人を身近に、そういう繰り返しをしながら、ペンテ・コステの日までを本当に弟子たちは迷いながら過ごしていくわけですけど、少なくとも聖餐の中で、復活したイエスさまに出会っていくという、このわざを、また、今日も皆さんと共に、この、礼拝の中で行っていきたいと思います。では、お祈りをさせていただきます。
 父たる神さま。
今日の礼拝を感謝いたします。どうか、イエスさまが本当に、この教会の中に、そして、その交わりの中に、そしてそのひとりひとりのあなたを信じる民の中に、いてくださいまして、あなたが多くの人に力を与え、勇気づけ、慰めを与えられたように、また、生きた、そのような力を今週も私たちに与えてください。こうして、イエスさまのもとで、私たちが日々、豊かな人生として、感謝しながら、それを過ごしていくことができますように、また、あなたの導きをお与えくださいますよう、願います。主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン。
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2006/04/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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