津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主ご復活の驚き」(マルコ16:1~8)
マルコ16:1-8、2006・04・16、復活祭(白)
イザヤ書25:6-9、コリントの信徒への手紙Ⅰ15:21-28

マルコによる福音書16:1~8

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中へ入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


説教「主ご復活の驚き」(マルコ16:1~8)
皆さん、復活祭、おめでとうございます。私たちは、三月一日の灰の水曜日から、昨日の四月十五日(土)まで、日曜日をのぞく四十日間を、四旬節、受難節として、紫の色とともに、過ごしてきました。この間にも、皆さん、それぞれ、多くのことがあったと思います。主イエスのご受難を思い起こしながら、静かに慎ましやかに過ごすべきときでありましたが、式文にもありますように、日毎に、思いと言葉と行いによって、罪を犯さざるを得ない弱い、罪びとの私たちであります。
 
さて、先週は、四旬節の最後の一週間で、受難週でありました。教会でも、聖木曜日には、洗足の礼拝を設け、聖金曜日には、主イエスが十字架におかかりになったことを思い起こしながら、詩編22編を読み、また、主イエスの十字架におつきになって、息を引き取る、神さまにその霊をお預けになったという記事を読んで、主のみ苦しみに思いを寄せたのであります。
 
さて、主のご復活について、祝うために、本日与えられている福音は、マルコ16:1-8であります。今年は三年サイクルのB年として、マルコを主として読んでいるのでありますが、本日の部分は、おそらく、マルコ福音書の結末であろうと、大多数の学者によって考えられている部分であります。そのあとの16:9-20や結び二は、括弧書きになっていて、後の編集者によって付け加えられたものと考えられています。
 
本日の個所の内容について、もう一度、思い起こしてみましょう。安息日が終わったとき、すなわち、土曜日の日没、6時ころ、三人の女たちは、香料を仕入れに出ます。それは、彼、主イエスのところに行って、その遺体に油をぬるためでありました。そして週の初めの日、すなわちもとの文では安息日からの一日目と書かれているのですが、それは、週の初めの日、今でいう日曜日のことであります。その日の朝ごく早く、それは4時ころを指したでありましょうが、マルコは太陽が昇った後にと加えています。それは、新しい日が始まったときにということを言いたかったのでありましょう。

マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、墓に向って行きながら、「誰があの石を転がしてくれるのだろう」と話し合っていました。ところが、目を上げてみると、その石は転がされていたのであります。「なぜならば、その石は非常に大きかったからである」と少しぎこちなく、文は続きます。
 そして、彼女たちが墓の中へ入ってみると、若者が、白い服、式服のようなものをまとって、右手に座っているのを見出したのであります。彼女たちは非常におびえさせられました。すると、その若者はいうのであります。「恐れるな。あなたがたは、あのナザレのイエス、十字架にかけられた方を捜している。もうここにはいない。復活させられたのだ。彼らが置いた場所を見なさい。」

「それよりも、行きなさい、そして、言いなさい、彼の弟子たちと、あのペトロとに、『彼はあなた方よりも先に、ガリラヤに行っている、そこで、あなたがたは彼を見るであろう、彼があなた方に語っていた通りに。』と」彼女たちは、墓から逃げ出し、身震いし、われを忘れていた、そして、誰にも何も言わなかった。なぜならば、彼らはずっと恐れさせられていたからである。
 
このような、唐突な終わり方で、マルコ福音書は、本来のものは終わっているのであります。すなわち、マルコ福音書のオリジナルでは、主イエスとのペトロや弟子たちの再会、主イエスが、彼らやマグダラのマリアたちにも、復活の姿を現すということは書かれてなく、若者すなわち天使の宣言と命令と約束の言葉以外にはなく、主が納められていた墓は既に遺体がなく、空虚なものになっていたということのみが記されているのであります。
 
マルコにとって、そのような唐突な終わり方が、ふさわしかったのであります。そしてそのような仕方で、控えめに主のご復活を伝えることが、マルコらしいのであります。若者は白い式服を着ており、天使であり、神の代理であることを示しています。
 マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音=良いニュースの始まり」と書き出されました。そしてその結びは、やはり、独り子イエスを先にガリラヤに向わせている。主は、もはや、死の領域にはおらず、動きの中に、命の中に移されておられるのであります。そして、その出来事は、女たちを振るいあがらせ、その当時何も誰にも言わせず、なぜならば、彼らは恐れさせられていたままだったからであるというのであります。
 
他の福音書とは違って、マルコはなぜここで、筆をとめたのでありましょうか。神のなさることのへの恐れ、畏敬の念を、マルコの記事は、私たちに伝えています。
 マルコにとっては、神の代理である天使の若者が、「あの方はもうここにはおられない。十字架にかけられたあのナザレのイエスは、復活させられた。行って、弟子たちと、主イエスを否認し・否定したあのペトロに言いなさい。『彼はあなた方より先にガリラヤに行きつつある。そこであなたがたは彼を見るであろう、彼があなた方に言われていた通りに』」と。神のこの約束の言葉で十分であります。

弟子たちは、神の国を主イエスが説いて回ったガリラヤで、復活の主に再会し、再び仲間となり、主との交わりを回復するのであります。そして、主イエスこそ神の子であり、再び生きて、既に死の領域を克服された方として、私たちと交わってくださるのであります。この真理は、たとえ、主イエスの遺体の跡形がかりに今、エルサレムの周辺から発見されたからといって、無に帰するものではないのであります。
 
 私たちは、あの弟子たちのように、復活した主イエスとじかにまみえることはないでありましょう。しかし、私たちは聖書の言葉を通して、そして、信仰の目をもって、主イエスと交わることができるのであります。私たちの地上の命は、どんなに健康な人でもやがて衰え、死をもって終えねばならない日が必ず来ます。しかし、それですべてが終わるのではありません。主イエスのご復活を通して、私たちもまた、復活の命を約束され、またそれを生きることができるのであります。復活祭の喜びを共々に祝い、新しい命に、死と闇と地獄に満ちた旧い、肉の命から、真に自分らしい命に新たに生かされていきたいと思います。

一言祈ります。
天の父なる神さま。本日は、四旬節を終え、待ちに待った復活祭を迎えることができました。多くの悩みや苦しみが、地上の生活にはついてまわります。けれどもあなたは、み子の十字架での死と、復活を通して、私たちに罪から解き放たれて新しく生きる道を備えてくださいました。み言葉によって強められ、生きていく勇気を与えてくださってありがとうございます。どうぞ、私たちがあなたから与えられた生をみ心に従って、あなたによって示された永遠の道をこれからも歩ませてください。そして、その道をひとりでも多くの人々に伝える器とならしめてください。キリストのみ名によって、祈ります。アーメン。
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2006/04/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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