津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「わたしを遣わされた方を信ぜよ」(ヨハネ12:36b~50)
ヨハネ12:36b―50、四旬節第5主日(紫)
エレミヤ書31:31-34、エフェソの信徒への手紙3:14~21

ヨハネによる福音書12:36b~50

 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。
主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
 「神は彼らの目を見えなくし、
  その心をかたくなにされた。
  こうして、彼らは目で見ることなく、
  心で悟らず、立ち帰らない。
  わたしは彼らをいやさない。」
 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて
わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」


説教「わたしをつかわされた方を信ぜよ」(ヨハネ12:36b~50)

本日の福音は、前半12:36bから43までと後半12:44から50節までに分けられます。ここの個所が、なぜ受難節に読まれるのか、どうして主の十字架への道行きをおぼえるこの時期に、ふさわしいのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 どうも、本日の個所が一読して分かりにくいのは、前半と後半では、後半においては、ヨハネ福音書記者の著作のうえに、さらに後の編集者たちの手が加わっているからかもしれません。
 
さて、前半では、主は光の中を歩き、闇に追いつかれないようにと言うような言葉を残した後、彼らすなわちユダヤ人の前からお隠れになったというところから入っています。
 そして、主は多くのしるしをなさったが彼らは信じないでいたのであります。それは、預言者イザヤのことばが実現するためであります。主よだれがわたしたちの知らせ、説教を信じましたか。また、主のみ腕は誰に明らかにされましたかというイザヤ書の言葉が引用されています。
 
そしてそれは、彼らの目が見えなくされるためであり、彼らの心で理解することがなく、彼らが立ち返らず、私、すなわち主イエスは彼らを癒さないであろうとふうに、引用されています。これらのイザヤの預言は、イエスについて、その栄光について語っていたものであるといいます。しかし、とはいえ、議員たちの中にも、ニコデモやアリマタヤのヨセフにように、主を信じる者は多かったが、彼らは神の栄光よりも人からの栄光を愛したので信仰告白するには至らなかったのであるといいます。

それは、ヨハネ福音書の書かれた時代を背景にいわれており、イエスの時代のみならず、ヨハネ記者の時代にも、ユダヤ人たちからの会堂での宗教的な交わりを拒まれることを恐れるキリスト教の信者が多かったのであります。わたしたちの現代の状況はいかかでしょうか。今も、形こそ違うにしろ、主イエスを主、唯一のメシアと告白するのは勇気がいることであります。

 さて、そういうなかで、後半では、主イエスの語ったとされる言葉が要約されています。主は、ご自分は、ご自分を遣わされた方から聞くままに語っているといわれ、自分を遣わされた方、父に従って、語るのであり、わたしを信じる者は、わたしを遣わされた方を信じ、またわたしを見る者、すなわち、信仰の目で見る者は、わたしを遣わされた方を見ているのであるといわれます。亀井勝一郎氏は、そのような言葉で表現なさる主イエス、耶蘇をなんと謙虚な言い方をするものであろうか、こういう繊細な精神の持ち主がどうして生まれたのであろうかと評しています。

 さて、主はそのご自分をお遣わしになった父の命令は永遠の命であると、結んでいます。それは、未来にわたっての死後の神的命であるにとどまらず、今ここで私たちが楽しむことができる命、真の本来の自己自身であります。わたしのことばは、父の命じたままに主張しているものであり、それを受け入れない者、拒む者、是認しない者をわたしは裁かない。わたしは、光として父のもとからきて、あなたたちが闇、心の闇や、精神的な死にとどまることがないように、来たものだといわれます。そして、さばくものは別にあり、わたしの語った言葉が終りの日に、すなわち、再臨の時にその者を裁くであろうといわれます。 わたしたちは、命の言葉を、主イエスの言葉を通して与えられています。世には多くの人間の知恵があり、すぐれた人物も沢山おり、活躍していますが、わたしたちを死と闇から解き放つのは、主イエスの言葉であり、主イエスご自身だけでであることを、主イエスは権威をもって、本日の福音は語っています。
祈りましょう。
父なる神さま。わたしたちをあなたの子として受け入れ、わたしたちが罪の闇と死の中から、新しい命、朽ちることのないみ言葉を与えて、これからも守ってください。キリストによって祈ります。アーメン。




スポンサーサイト
2006/04/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。