津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の道に従い、仕える者に」(まるこ10:32~45)
マルコ10:32-45、2006・03・12、四旬節第2主日
創世記28:10-22、ローマの信徒への手紙4:13-17a

マルコによる福音書10:32-45

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」


説教「主の道に従い、仕える者に」(マルコ10:32~45)

四旬節に入り、先週は「荒れ野のキリスト」の個所(マルコ1:12-13)が読まれました。今年は4月16日に迎える復活祭まで、受難主日、枝の主日を含めて6回の主日があります。それらの日曜日に、なぜ、それぞれその個所が与えられているのかは、一目瞭然ではない場合もあります。たとえば、来週の福音書の個所は、ヨハネ福音書の2章の神殿の清めとそこで主イエスが語った言葉が選ばれています。それがなぜ、受難節にふさわしいのかは、すぐにはわかりません。

 本日のマルコ福音書10:32-45の個所はどうでしょうか。それは、この時期にふさわしいということが、皆さんもすぐにお分かりになるのではないかと思います。なぜならば、今日の福音の個所は、主イエスご自身の受難と死、苦しみと十字架に向かっての主イエスのお言葉と出来事から成っているからであります。
 
本日の部分は、三回目の受難予告の部分と、それに続くゼベダイの子らが要求する出来事、そしてそれに対して主イエスが語られたお言葉の三つの部分に分けられます。
 
まず、最初の部分では、主イエスは、エルサレムへと弟子たちの先を歩んでいきつつありました。そして彼らは驚かされ、従う者たちは、恐れていたと記されています。そして、主は12人を再び自分のところに連れてきて言われるのであります。見よ、私たちは、エルサレムへと上っている。そして人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは彼に死刑を宣告し、異邦人たちに引き渡す。異邦人たちは、彼をあざけり、唾をはきかけ、鞭打ち、殺すであろう。そして三日後に彼は起き上がるであろう、と。

 ここでは非常に起こるべき出来事が細かく、見て取るように、人の子の苦しみと死の情景について述べられています。主は、私たちは、一緒にエルサレムへと上っていくと言われます。それは、主の受難と苦しみと、さらには、死までが、主イエスに従う私たち弟子の歩むことになる道であることを教えています。

私たちは、信仰を得れば、平穏無事な生活を送れるものだと普通考えますが、実際は、私たちもまた、主のように多くの苦しみと困難な生活が待ち受けているのであります。ただし、本日の創世記の中で、ヤコブが悟ったように、私たちの日常生活の中に、主なる神は私たちが気がつかなくても、いつも共にいてくださるのであります。
 
さて、そのような受難予告の直後に、ここに来てもまだ、主の歩んでおられる道が理解できないヤコブとヨハネが、主のところに来て、言うのであります。先生、私たちは願うことがあります。それをあなたが私たちにしてくださいますように。主は言われます。あなたがたは何を私にして欲しいのか。彼らは言います。あなたの栄光において、あなたの右と左とに座らせてくださるように、と。

主は言われます。あなたがたは自分たちが何を要求しているか分かっていない。あなたがたは私が飲まねばならない杯を飲むことができるか、また、私が受けねばならない洗礼を受けることができるか。彼らはできますと答えます。主は、あなたがたはそのようになるであろう、しかし、私の右、左に座ることは、私が与えることではなく、それが準備されているその者たちに、与えられるのだ、と。イエスが飲む杯、受けるべき洗礼とは、十字架に至る苦難と受難のことでありました。メシアの再臨のときに、だれが、その右、左にいて、共に食事をできるかは、主もご存じないのであり、父なる神がそれをお与えになると、言われるのであります。

 そして、更に言われます。異邦人の間では、支配者とみなされている者たちが、支配し、偉い者たちが彼らに圧制をしいている。しかし、あなたがたのあいだではそうではない、あなたがたのなかで偉くなりたい者は、あなたがたへの奉仕者・ディアコノスになるであろうし、あなた方の中でいちばんになりたい者はすべての者の奴隷となるであろう。そして、なぜならば、人の子も仕えられるために来たのではなく、仕えるためであり、多くの人のための身代金として自分の命を与えるために来たのだからであると、主は結ばれたのであります。理想論ではなく、事実、弟子たちの間においてはそうなのだと言われます。

 私たちは、夫婦においても、また、職場においても、どこにおいても相手から仕えられるのを好みます。奉仕すること、ディアコニアは、私たちの本性は嫌うのであります。けれども、主イエスは、私たちすべての者を罪の奴隷であったところから、身代金として、罪から買い取るあがないとして、そのためにおいでになられたのであります。

私たちが何か功績をあげたから、救われたのではありません。エサウのもとから逃れたヤコブが、自分と共にいてくださる主なる神に気づかされたように、私たちもこの方を理解し、信じることによって初めて罪から解き放たれるのであります。そして、救われたからには、人々にもそれを指し示すためにも、主が歩まれたのと同じような苦しみと困難な道を、喜んで歩み、従い、すべての人々に仕える者となるように、招かれているのであります。この四旬節の時期、心を静かに澄ませて、真に平安な、本日主によって示された道に従っていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
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2006/03/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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