津田沼教会 牧師のメッセージ
「荒れ野のキリスト」(マルコ1:12〜13)
マルコ1:12-13、2006・03・05、四旬節第1主日
創世記9:8-17、ペトロの手紙一3:18-22

マルコ福音書1:12〜13

 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


説教「荒れ野のキリスト」(マルコ1:12〜13)

 私たちは、三月一日の灰の水曜日から、四旬節、受難節、レントとも言いますが、紫の色で現す時期を迎えました。そして、それは春分の日、三月二十一日の春分の日から、満月を迎えての次の日曜日、今年でいえば四月十六日の日曜日の復活祭の前日まで、日曜日を含まない四十日間を荒れ野のキリストを覚え、古来断食や懺悔をして過ごす時として守られてきました。
 
本日与えられています聖書、福音書の個所は、マルコ1章12節と13節であります。それは、簡略で粗野なそっけない文章で書かれています。新共同訳聖書は、日本語として通用するようにできるだけ美しく訳されていますが、原文に沿って忠実に訳しますならば、次のようになります。「そして直ちに、“霊”は、彼を荒れ野へと追い払う。そして、彼は荒れ野において40日をサタンによって試みられておられた。そして、彼は野獣とともにおられた、そして、天使たちが彼に仕えていた。」
 
他の共観福音書、マタイ、ルカには、主の誕生物語が出てきますが、マルコにはそれはありません。人間的な事柄には、マルコは、関心が薄く、「神の子」イエスが、大事なのであります。ですから、マルコ福音書の最初は、「神の子イエス・キリストの福音の始まり」となっています。

そして、荒れ野での洗礼者ヨハネの悔い改めの説教があり、本日のすぐ前の出来事は、主イエスの洗礼の時の出来事であります。水から主が上がられたとき、天が裂け、鳩のような形をした”霊“がくだり、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が主イエスには聞かれたのであります。神によって、「あなたをわたしは気に入っている」と宣言されたその直後に、本日の40日の誘惑の出来事が続くのであります。わたしたちも、絶頂のときと思えるときが、実はもっとも危うい時であります。逆に、もう駄目だと思われるようなときが、かえって、そんな時こそがチャンスの時でもあることを覚えたいと思います。
 
さて、主イエスは、その同じ神の霊によって、荒れ野へと追い出されます。これは、主イエスが悪霊を追い出しになるときに使われている言葉であります。それは、エリコの辺りであったという言い伝えもありますが、荒れ野とは、出エジプトの民が40年間旅をしたときの大部分の場所でもありました。出エジプトの民は、神から離れ、罪を犯し、モーセも含めて、約束の地イスラエルに帰ることはできなかったのであります。荒れ野は、悪霊の出没するところ、死の場所と考えられていました。そして、野獣が住む場所であり、遊牧民族として過ごしていたイスラエルの民にとって、過酷な、恐ろしい場所でありました。

 主イエスは、そのような荒れ野に、神の霊によって追いやられ、サタンによって誘惑を40日間にわたって受けておられたのであります。マルコは、マタイやルカのようにその誘惑の中身についてはいちいち具体的な例を挙げていません。それは、わたしたちが受ける誘惑のあらゆるものを含んでいるからではないでしょうか。出エジプトの民は、モーセに逆らい、神から離れ、ヨシュアなどの例外を除いて、その世代は荒れ野に屍をさらさねばなりませんでした。

 しかし、主イエスは、神の子として、あらゆる誘惑に打ち勝ち、その試練に打ち勝つことができたのであります。誘惑というと、それに負けてしまうというニュアンスがあり、試練と訳すと、それはどんな困難にも耐えて、神につながり続けたという意味合いになります。

そして彼は、野獣とともにおられました。これは、マルコ福音書にしか出てこないものであります。野獣が、主イエスに危害を加えず、神がもたらされる平和が支配していたのであります。そして、それは、アダムが楽園から追放される前に、野のあらゆる獣たちをまかされていた、そういうアダムの堕罪前の平和な状態が回復されたことを意味しているかもしれません。 終末のときに、羊と獅子が草を食むと預言されているイザヤ書や、また、天使たちが神により頼む人を支え、守ってくれるとの旧約の約束が(詩編91:11,12)、主イエスにおいて実現したことを、野獣が共にいたことや、天使たちが主イエスに、40日の間、仕えていたという、そっけない記事は私たちに教えてくれるのであります。
 
主イエスが、サタンと戦って勝利した荒れ野とは、私たちにとって何でありましょうか。それは、私たちの現代の生活そのものではないでしょうか。私たちの生活は、苦悶・苦悩と疑いに満ちています。孤独が頭をもたげ、物質こそ豊かにあふれていますが、私たちは何を信じ信頼していけばよいのか、だれもが迷っています。
 
しかし、そのような現代の荒れ野の中に、主キリストは、既に勝利して、私たちを導いていてくださるのであります。私たち、教会につながる者もそれぞれが言い尽くせない重荷と、それぞれの十字架を負っていることでしょう。しかし、私たちの抱えている荒れ野においても、主は私たちのために、サタンの誘惑を打ち破り、困難な試練を乗り越える力を、本日の出来事を通して、与えてくださるのであります。
 それぞれに与えられた生活の中の持ち場、持ち場で、私たちは、この四旬節を克己と懺悔の心を持ちながら、また、復活の主を待ち望みつつ、40日間を過ごしたいと思います。

祈ります。
 天の父なる神さま。私たちは、罪深く、一人では到底、誘惑や試練に打ち勝つことはできません。しかし、私たちの「荒れ野」の中に、あなたが、み子において既においでくださり、あらゆる罪に勝利してくださいました。神さま、そして、イエスさま、あなたがたが聖霊を通して、私たちの生活を支え、導いてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
 人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。                               
 





2006/03/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)