津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主はどんな救い主?」(マルコ9:2~9)
マルコ9:2-9、変容主日(顕現節最終)(白)2006年2月26日(日)
列王記下2:1-12a、コリントの信徒への手紙二3:12-18

マルコによる福音書9:2~9

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕にも及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現われて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばいいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現われて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと」弟子たちに命じられた。


説教「主はどんな救い主?」(マルコ9:2~9)
 
キリスト教は、啓示の宗教だといわれます。啓示とは、難しい言葉ですが、この地上の世界、私たちが人間として考える宗教とは断絶した、それを超える宗教ということではないかと思います。私たちの世界、特に日本の社会においては、30年くらいを期間にして、新興宗教というようなものが、繰り返し生まれています。

私たちは、しかし、本日の記事において、新約聖書、そして、旧約聖書が、何を証しし、それが、誰を指差しているかを、確かにここに知ることができるのではないでしょうか。 本日の個所マルコ9:2-9は、「主の山上での変容、変貌」といわれるものであります。本日は顕現節の最終主日にもあたっています。主のご正体が、明らかにされるという出来事でもあります。 

まず、「6日後に」と出てきます。これは、フィリポ・カイザリアでのペトロの信仰告白、すなわち「あなたは、メシアです」、キリスト救い主ですという告白をしてから6日後と考えられます。マルコは、受難の記事以外では、このように明確な時間、期間を記すことは稀であります。これがいかにも、実際に起こった出来事であることを示しているように思われます。

フィリポ・カイザリアの出来事から6日の後に、彼らはさらに北上し、マルコでは、高い山とありますからヘルモン山に登ったのかもしれません。それは2000メートルを越える山であります。そして、12弟子の中核の3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて上り、彼らの前で形が変えられるのであります。

そして、彼の衣服は、輝いて光っており、どんなさらし職人もそうまではできないほどに真っ白になるのであります。そして、エリヤがモーセとともに現れます。
 
本日の出来事を、特にペトロが幻視をみたのだとか、幻聴が聞こえたのだとか、考えた人もいます。またあるいは、復活後の主イエスの顕現を、生前にさかのぼらせて、ここに、記したのだと考える人もいます。しかし、復活物語に、エリヤやモーセはなじまないのです。終末のときの主イエスの再臨を語っているのだと考える人もいます。確かに、エリヤは、終りの時に主に先立って現れると考えられていました。

しかし、エリヤとモーセがここに現れるのは、預言者と律法の付与者を示し、旧約聖書を代表している二人が彼らが現れたのであります。旧約聖書が約束していた来たるべきメシアがイエスであることを、本日の出来事は示しているのであります。

ペトロは、それをみて、「私たちは、仮小屋を作りましょう,主イエスあなたと、モーセとエリヤに一つずつ」と。彼は何をいっているのか分からず、というのも彼らは恐れていたからだといいます。ペトロは自分たちの得ているこの独自な体験、喜ばしい経験を少しでも長く味わいたいと思っていたのであります。

しかし、この出来事は、ルカの並行箇所に書かれているように、主イエスの十字架での死に向かっての相談を彼らはしていたのであります。しかし、ペトロにはそういうことは、とても理解できることではありませんでした。主は、本日の出来事に先立ってペトロを戒めたように、私たちのために苦しみ、死んでくださるメシアであるのです。

さて、そして、雲がおこり、彼らを覆います。それは神の臨在を示すものです。そして雲の中から「これは私の愛する子、これに聞け」との神の声が鳴り響いたのであります。私たち、キリストを信じるものとされた者、そして洗礼を受けたわたしたちは、他の人間のさまざまな考え方やや事柄によって導かれてはならず、生涯をキリストの教えのみに聞いて進まねばなりません。

多くの誘惑や困難に出会って、救い主イエスを見失いそうになることもありますが、この方にのみ絶えず帰らねばならないことを、本日の記事は、上から、神の側からの啓示として示しているのです。そして彼らは急いであたりを見回しましたが、イエス以外に彼らとともに誰ももはや見えませんでした。主は降りる時、人の子が復活するまでこのことをだれにも話してはいけないと命じられます。

私たちの救い主は、十字架につけられ、復活なさることを、はっきりと3人の弟子たちに前もって示しておかれたのであります。そのことが実現するまでは、主イエスがどんな救い主であるかは秘められたままであります。私たちは、この救い主に、生涯を通して、従っていき、本日の祈りにありましたように、神の子としていただいた喜びに、日々を生きるものとならせていただきましょう。

天の父なる神さま。
キリストを私たちの周りの人々に、真の唯一の救い主として宣べ伝えるのは、至難の業です。どうか、聖書を通して、礼拝を通して、世の中にこの救いを証ししていける上よりの知恵と忍耐とをお与えください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

 
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2006/02/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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