津田沼教会 牧師のメッセージ
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「信仰の決断」(マルコ2:13~17)
マルコ2:13-17、2006・02・19、顕現節第7主日
イザヤ書44:21-22、コリントの信徒への手紙二1:18-22

マルコによる福音書2:13~17

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


説教「信仰の決断」(マルコ2:13~17)
 
マルコの福音書の出だしのところの記事を、顕現節のこの時期、読み進んでいます。本日の記事は、マルコ2:13-17ですが、これは、2章13、14節の徴税人レビの召し出し、すなわち召命と2章15節から17節までの、徴税人や罪人たちとの食事を通しての交わりに関する出来事とそこでの論争物語といいますか、主のお言葉からなっています。
 
まず、本日の最初の記事は、アルファイの子レビが弟子として主によって招かれるという出来事であります。先週の、中風の人が罪を赦されて、体も癒されて新しい人生へと喜びつつ寝台を担いで帰っていったという記事につづいての出来事となっています。

あるいは、この前半の召命物語と、後半の徴税人たちや罪人たちや弟子たちとの主イエスの会食の出来事は、別々の伝承であったのを、ここにマルコが一つにまとめたのかもしれません。

 本日の部分の書き出しは、こうです。「イエスは出て行かれて、湖のほとりに行かれた。そして、大勢の者たちがやって来ていた、そして、彼は教えておられた」というのであります。そして、彼はそこから戻って通りがかりに、収税所で座っているアルファイの子、レビに目を留めます。そして、「私に従ってきなさい」と主がいわれると、彼は、立ち上がって、主に従ったのであります。

これは、先に読みました1:16~20のシモン・ペトロたち4人を弟子として召された記事を思い起こさせます。いずれもマルコ福音書によれば、非常に唐突な招きであります。実際には、レビは、ガリラヤの海辺で語る主イエスの教えを聞きにいったこともあったか、あるいは、人を介して主の教えや働きを伝え聞いていたかもしれません。

けれども、ここでも、主イエスの弟子となるということは、その人の過去や能力などの条件を問わないことが示されています。ここに集っている私たちの多くも、洗礼を受けたのは、自分の決断によってであると考えることもありましょうけれども、実はその前に、主が招いていてくださったのであります。

問題は、「私に従いなさい」と主イエスによって呼ばれたときに、従順に従うかどうかであります。そしてそれは、生涯続く主の招きであり、悔い改めの毎日を要求されているのであります。

アルファイの子レビは、並行個所のマタイ福音書では、マタイという人となっていて、この二つの名前が同じ人をさしていたのかどうかはわかりません。12使徒を見ても、そこにアルファイの子レビはなく、「アルファイの子ヤコブ」しか出てきません。しかしマルコ福音書の読まれた教会では、ここの書き方だけで十分分かる人物だったのでありましょう。
 
さて、後段の記事に入ります。それはこう始まっています。「彼の家で、食事のために横になるということが起こった。そして、徴税人たちや罪人たちがイエスや彼の弟子たちとともに横になっていた。なぜなら、大勢の人たちがおり、彼らは彼に従っていたからである。そして、彼が、彼らと食事をしているのを見て、ファリサイ派の律法学者たちは、彼の弟子たちにいいます。「彼はなぜ、罪人たちや、徴税人たちと食事をともにしているのか」と。

これは、レビの家でのことであると、わたしたちの新共同訳聖書ではなっていますが、イエスの家とも取れなくはありません。そうだとすると、それは、終末のときのメシアの祝宴をあらわし、主イエスご自身がわたしたちにもてなしの食事をしてくださっていることになります。
 
徴税人レビは、ヘロデ・アンティパスの領域のカファルナウムで関税、通行税のような税を取り立て、時には余分な不正な利得を得ていたことでしょう。そして、徴税人は異邦人と交わることも多かったので、特に、ファリサイ派からは軽蔑されていました。ファリサイ派の律法学者たちは、律法の細かなところまでも守り、それができない徴税人や罪人たち、あるいは、異邦人を忌み嫌っていました。
 
この食事の出来事を伝え聞いたのでしょうか、彼らは、「弟子たち」に言います。この出来事は、初代の異邦人キリスト者たちを大いに励ましたことでしょう。異邦人も罪人として、救われない者と当時のユダヤ人たちは考えていました。彼らは見捨てられたもの、部外者と考えられていたのであります。道徳的に正しくないものも、罪人と考えられましたが、同じように異邦人も同様だと考えられていたのであります。

 唐突にここで、弟子たちが現れますが、彼らは、主イエスのいわれたこと、なされたことを主なき後も、そのまま引き継いだのであります。マルコの弟子像は、理解の遅い、鈍い弟子たちですが、彼らは少しずつ主の教えを理解し、自分たちが何かを新しく発明したりしたのではなく、主の教えられたとおりに、引継ぎ、宣教していったことをここの文は示しているのであります。
 
 主はそれを聞いていわれます。「丈夫な人に医者は要らない、病人にいうのである。私が来たのは、正しい者たちをよびにではなく、罪人たちを呼びに来たのである」と。
 主は、罪人たちや、異邦人たち、あるいは徴税人たち、部外者をお避けになるような方ではなく、彼らを招いて悔改めさせるために、来られた方であります。

私たちも、主によって、新しい生涯へと招かれているのであり、主と同じように、周囲の落ちぶれている人、部外者のように思われる人を避けるのでなく、主へと招くものにされたいものであります。私たちは、無償で罪赦されたのでありますから、何も報いを求めずに、ルターの表現を用いるなら、ひたすら、隣人に奉仕する「小さなキリスト」にさせていただきたいものであります。祈ります。

天の父なる神さま。
 なかなか、周りの人々に証しすることのできない弱い私たちであります。しかし、私たちも、本日のレビと同じように、み子の側から招かれた者であります。周りの方々のひとりでも多くの人を、あなたにある教会へと招く者とならせてください。多くの罪を赦された私たちでありますから、それに答えて多く愛する者にならせてください。キリストによって、祈ります。アーメン。                 





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2006/02/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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