津田沼教会 牧師のメッセージ
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「愛の共同体としての教会」(マルコ2:1~12)
マルコ2:1-12、2006・02・12、顕現節第6主日
ミカ書7:14~20、コリントの信徒への手紙一9:24-27

マルコによる福音書2:1~12

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


説教「愛の共同体としての教会」(マルコ2:1~12)内海望牧師

美しい物語です。寝たきりの生活を送っていた病人が、イエスさまの力によって癒され、「床を担いで家に帰って行った」のです。ベッドに縛りつけられた人生から自由になり、再び起き上がり、新しい人生を始めたという再生・復活の物語です。中風の人が、友人に担がれてイエスさまの所に連れて来られた時と、癒され、今まで自分を縛りつけていた床を担いで家路に向かう時の足取りの軽さ、彼の喜びが私たちにも伝わってきます。

ところで、この物語の中で重要な役割を担うのは四人の友人です。イエスさまは、「この四人の友人たちの信仰を見て」、病人に罪の赦しと癒しを与えて下さったのです。「彼の信仰を見て」とは書かれていません。ここで何が示されているのでしょうか?

イエスさまは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18:20)とおっしゃいました。イエスさまは交わりの中にいらっしゃるのです。そもそも人間は、孤独の中にではなく、「交わり」の中に生きる時、初めて人間になるのです。天地創造の時、神さまは「人が独りでいるのは良くない」(創世記2章18節)とおっしゃってアダムとエバをお造りになったと書かれています。「便利だから」でなく「良くない」とおっしゃったことに注意してください。

私たちは、今朝も教会に集い、共に信仰の告白をします。「私は信じます」と告白しますが、共に告白することによって、それは「私たちは信じます」という告白になるのです。その時、イエスさまも「今、ここに共に」いて下さるのです。聖書には、「教会とはイエス・キリストが頭であり、私たちはキリストに結び付けられている体(肢体)である」と定義されています。これはルターが「足に怪我をした時、足だけが痛いのではなくからだ全体が痛いと感じるのだ」と適確に言い表したような交わりです。そして、まさにそこにイエスさまも共にいてくださるのです。

この中風という病に苦しんでいる人は、この教会の信仰と愛のうちにイエスさまの御許に召され、罪の赦しと、癒しを与えられたのです。同じように、この交わりに包まれて、幼児も、重い障害を負った方々も共にイエスさまの愛に生きるのです。

四人の友人たちは、この交わりのなかの一人が病に苦しんでいた時、それを「他人事」でなく、自分の痛みと感じました。だからこそ「屋根をはがす」という乱暴なことまでして、友人をイエスさまの御許に運んだのです。ここには愛と共に、イエスさまに対するゆるぎない信頼があるのです。この信仰の友の信仰と愛とを見て、イエスさまは罪の赦しと癒しを与えてくださったのです。最後の審判のおり、神さまは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)とおっしゃいました。このような愛の共同体こそ教会なのです。「我らの信仰」=「教会の信仰」という言葉をしっかりと心に留めたいと思います。

もう一つ大切な点があります。それは、この中風で苦しんでいる人は「病気を癒される」よりも前に「罪の赦し」を宣言されたということです。何故でしょうか。奇跡を行うということは人々の喝采を浴びることでしょう。しかし、イエスさまは魔術師でなく「救い主」なのです。イエスさまは単に一つの病を治すということでなく、「苦しむ人」を根っこから癒してくださったのです。それが「罪の赦し」なのです。

「罪の赦し」は人間を「神さまとの交わり」に入れるということです。永遠の生命である神さまと私たちの間に橋を架けてくださったということです。
中風だけ癒されても、他の諸々の病気への心配は残ります。死への恐れは消えません。「死への恐れ」は神さまとの交わりを断絶することです。

あるいは思わぬ人生の落とし穴に落ち込み、欲望に引きずられ、神さまから離れてしまう時があるかも知れません。反対にすべてに絶望して神さまを見失うこともあります。
しかし、その時も、彼に「私が共にいて神さまとしっかり結びつける」とイエスさまはおっしゃるのです。そのためには、私たちのすべての重荷、恐れ、罪を背負って十字架にまで歩まれる方なのです。それが「罪の赦し」の意味です。

この「赦される」というみ言葉は「赦されている」という意味です。未来のことを予想しているのではありません。「今、ここで」罪は赦されるのです。

この病人は中風を癒されて本当に嬉しかったでしょう。しかし、彼にとって「イエスさまが今も、後も共にいてくださる」というみ言葉こそ何にも優る救いであり喜びであったのです。それが彼の足取りを本当に生き生きとさせているのです。これは一過性の癒しではなく、生涯続く喜びとなるのです。

この津田沼教会も、そのようにして造られた新しい共同体の一つです。イエスさまは、私たちに、「私は決してあなたがたを見捨てない」と約束してくださっているのです。この約束を信じ、互いに愛し合う群れが存在することこそ、イエスさまが今も働いているということの証しであり、これこそ世界の望みなのです。


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2006/02/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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