津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ガリラヤの春」(マルコ1:29~39)
マルコ1:29-39、2006・02・05、顕現節第5主日
ヨブ記7:1-7、コリントの信徒への手紙一9:16-23

マルコによる福音書1章29~39節

 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


説教「ガリラヤの春」(マルコ1:29~39)
 顕現節第5主日の本日の記事は、いわゆる「ガリラヤの春」とも呼ばれているイエスの宣教、神の国の福音の宣言の始まりにあたる部分であります。「ガリラヤ中に使信を伝える」と最初は題をつけていたのでありますが、「使信」ケリュソーという言葉はわかりにくいということで、「ガリラヤの春」としたのであります。
 
ここには、非常に印象に残る、ガリラヤ宣教の始まりが、記されています。私も一度だけ、海外旅行で、神学生のときに、「出エジプトの旅」ということで、エジプトからシナイ山、そしてガリラヤをへて、エルサレムに到達するという2週間の旅行を楽しんだことがあります。一緒に行かれたある牧師先生は、主イエスが吸われたのと同じ空気を吸えることが、聖地旅行のすばらしさだといわれていましたが、確かに「ガリラヤの春」は、3月末のことでありましたが、すばらしい景色と湖の美しさを見ることができ、イエスの吸われた空気を吸えて、一生忘れられない思い出となっています。
 
さて、本日の福音の記事は、非常に鮮やかで、印象に残るものであり、美しい記事であります。先週の個所である1:21~28を受けて、三段落くらいに分けられる記事であります。先週の個所で、主は最初に会堂で説教なさり、汚れた霊を追い出すという奇跡のわざをなされ、彼ら一行は、シモンとアンデレの家にすぐに向かうのであります。この記事はシモン、すなわち、ペトロの追憶が、その母体となっていると考えても、あながち、間違いではなかろうと思われます。あの最初の人々の前での、シナゴーグでの説教と汚れた霊、すなわち、悪霊を追い出すという力ある働き、奇跡をなさったあと、主は私たちと共に、なんと私の家に直行してくださったのです、というふうに、一人称で本日の最初の記事を読み替えて読むと、より生き生きと本日の個所の出来事をイメージできると思います。
 
さて、家に入ると、彼らはすぐに、シモンの姑のことについて、報告します。彼女は、熱を出して床に伏していたのであります。そして、主は、近づかれて、彼女の一方の手を取られて、彼女を起こすと、熱は出て行き、彼女は、彼らの世話をしたというのであります。それは、ディアコニゾーという言葉で、ディアコニアすなわち、もともとは食事の世話をする意味であります。しばしば、女の弟子たちは、主イエスへのそのような奉仕をすることを通して、弟子であることを示したのであります。
 
次にその日の夕方となり、日が沈むと、人々はすべての、あらゆる種類の病気であった人々や悪霊にとりつかれた者たちを運んできつつありました。安息日、土曜日のこと、安息日が終わったので、そうすることができたのであります。そして、その町全体がシモンの家の戸口に向かって群衆となって集まりつつありました。そして主は、様々な病気の者たちを大勢、また、悪霊に所有されたものたちの多くを、癒しておられたのであります。
 
しかし、2000年を隔てました私たちも、主イエスによって深い意味で、この人々と同じように、癒されなければならない一人一人であります。そしてそのことは、主のみ言葉を聞くことによって、確かなものとなるのであります。

とこえろで、ここでは、「主は悪霊たちにものをいうことを許されなかった、なぜならば、彼らは彼のことを知っていたからである」と書かれています。なぜ、主は、ご自分について何者であるか言わないように、沈黙命令をなさっているのでしょうか。それは、主イエスの力が神からの権威にもとづくものであり、主イエスの本当のメシアである意味は、主の十字架と死、わたしたちの罪のために、とことん低くなってくださることにおいて示されることを、知らしめるためではないでしょうか。主は、見栄えのする形で、あるいは見世物のように、病人たちを癒したり、悪霊を追い出したり、その他の奇跡を、なされるわけではないのであります。
 
さて、その翌朝、まだ、夜ともいえるころに、主イエスは起きだし、さびしいところへと出て行かれ、祈っておられました。すると、シモンやその仲間、おそらく四人が、気づいて、彼の後を追います。これは、敵意をもった言い方であり、獲物を追うといったときに用いる言葉です。そして、彼らは彼を見つけていいます。「みんながあなたを求めています」と。マルコに出てくる弟子たちの像は、主のなされていることが、なぜなのか理解できないでいる弟子像であります。これほど、成功を収めているのに、なぜ、人々のところを離れるのですか、といぶかるのです。

しかし、主は「他の方向にむかって、近くの市場町を回ろう、そこでもわたしは、宣教する、すなわち、説教する。そのために、私は出てきたのだから」と言われます。そして、ガリラヤ中を、彼らの会堂へと説教をしながら、また、悪霊を追い払いながら、彼はやっていかれた」と本日の記事は結ばれています。
 主の神から託された第1の使命は、よき知らせを伝える、すなわち、説教することであります。神の国がご自分において近づいたことを知らせることであります。もちろん、悪霊を追い出すことも必要な働きでありますが、第一の主の務めは、みことばを語ることであります。私たちも、長い人生の間にはいろいろな病気にあい、あるいは、悪霊によって、所有され、神から引き離される。何か悪い力によって悩まされるということが起こります。しかし、私たちは、主のよき知らせ、そして、み言葉によってこそ、真の意味ででいやされ、そして、周囲の人々にも、この喜びを伝えることが可能になるのであります。

祈ります。
私たちは、主のこの世界への顕現を、この時期、おぼえています。私たちは、多くの試みを受け、無残にも罪に陥ることがしばしばあります。しかし、私たちは、救い主がイエスであり、この方こそ、神の独り子であり、私たちを罪と死と闇とから解放してくださるお方であることを知って今す。この礼拝の場から、再び、この主に感謝し、応答して歩んでいく1週間を、私たちにお与えください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。










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2006/02/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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