津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神への方向転換」(ルカ13:1-9)
ルカ福音書第13章1節-9節、2016年2月28日、四旬節第3主日礼拝、(典礼色―紫―)、出エジプト記第3章1節-15節、コリントの信徒への手紙一第10章1節-13節、讃美唱126(詩編第126編1節-6節)

ルカによる福音書第13章1節-9節

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えて置き、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」



説教「神への方向転換」(ルカ13:1-9)


今、私どもは、レントの時期を過ごしております。教会暦で用いています色は、紫ですが、これは、キリストの十字架で流される血を表すと共に、私たちに求められている悔い改めを表すものであります。

さて、今日、与えられました第1の日課は、出エジプト記3:1-15であります。イスラエルの民の叫び声を聞いた神が、出エジプトをなさせるために、羊飼いをしていたモーセを召しだす記事であります。民にどういえばいいのか分からないモーセに、神は、「私はある、私はあるという者だと言いいなさい」と答えられるのであります。

この意味は、神は私たちと共にいて、私たちを生かし、力づける方であり、そうなろうとする者になられるお方であり、欲されるとおりになられる自由な神だということであります。出エジプトの出来事は、主なる神の欲された出来事であり、そして、それは、罪から解き放とうとなさる十字架の主イエスを遣わされる父なる神へとつながるのであります。
 
さて、今日の福音は、ルカ13:1-9であります。主イエスは9:51から、エルサレムへと十字架に向かう旅空を歩んでおられます。そして、ルカ福音書12章からは、終わりの日の裁きに関わって、主は語られておられます。

12章の終わりでは、時を見分けることを促しており、あなたを訴える人と行く人は、裁判官に渡される前に一刻も早くその人と仲直りするようにと命じておられます。

で、その時に、起こった出来事として、今日の記事は置かれています。ガラテヤ人が、ピラトによって、生贄の血と混ぜられたことを、ある者たちが来て伝えます。主は、そのガラテヤ人たちが他のガリラヤ人たち以上に罪深い者と成ったと思うのか。よく言っておくが、あなた方も悔い改めねば、皆同じように滅びるとお答えになります。

この悔い改めとはメタノイアといい、これは、心を入れ替えると言う意味ですが、むしろ、生活を改革することであり、神に向かって方向転換することであります。

主は続けて、エルサレムでシロアムにおける塔が倒れて、つぶされて死んだ18人は、すべてのエルサレムに住んでいるもの以上に罪の負い目ある者と成ったとあなた方は思うのか。いいや、あなた方も悔い改めねば、彼らと同じように、皆滅びると言われます。

罪の結果として不幸に遭うのか、ヨブ記などではそのような一般的な考え方が見られます。しかし、主は、他人の不幸や災難、故意によるものであれ、事故死であれ、他人の死を見て、自分の家の改革へと招かれていることを、すなわち、主イエスのご到来・現在において、神の国の説教において、時に適ったわが身の生活の改革をするようにとの招きであると知るように、私たちに訴えておられるのであります。

そして、そのことを、示すために、次の譬えをお語りになります。ある人がぶどう園にいちじくの木を植え、それから3年実がなっているかどうかを見に来続けたが何も見出さなかった。それで、園丁になぜ、そんな木にこの地を無駄使いさせているのか、切り倒せと言います。

すると、園丁は、御主人様、来年までこのままにさせてください。周りを掘って肥やしをやってみます。それで、実がなったら結構です。それでもだめなら、あなたが切り倒してもかまいませんと。無償でただ恵みにより、私たちの引延ばす罪は忍耐強く改革するように、忍耐強く主によって手を施され、赦されて、待たれています。このレントの時、そのような、先延ばしして実を結ばない罪の生活から180度方向転換させて頂きましょう。
アーメン。                       







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2016/02/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「心静め、十字架を仰ぐ」(ルカ18:31-43)(内海望牧師)
ルカ福音書第18章31節-43節、2016年2月21日、四旬節第2主日礼拝(典礼色―紫―)、エレミヤ書第26章7節-19節、フィリピの信徒への手紙第3章17節-第4章1節、讃美唱4(詩編第4編2節-9節)

ルカによる福音書第18章31節-43節

  イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱り付けて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れてくるように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。



   説教「心静め、十字架を仰ぐ」(ルカ18:31-43)内海望牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 「今、私たちはエルサレムへと上って行く」。この一句によって、私たちの視野に十字架が大きく映し出されてきます。
 「今」という一言には、イエスさまの、静かな、しかし、断固とした決意がこめられています。イエスさまは決して物見遊山的な気分で「エルサレムに行く」とおっしゃられているのではありません。また、突然思い立ったというわけでもありません。この「今」は、ずっと覚悟を決めていた「その時が来た」と言う意味です。イエスさまは、このエルサレムで十字架につかれたのです。ヨハネ福音書13章1節(194頁)には、この時の、イエスさまの心の内を、「イエスは、この世から父のもとに移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく(極みまで=最後まで)愛し抜かれた。」と表現しています。
 イエスさまは、エルサレムには苦難と十字架の死が待ち受けていることをご存知です。しかも、それが、偶然、自分に降りかかった災難でなく、これが、愛する人間を一人も滅ぼさないで、罪と死の縄目から救い出す唯一の道であることをご存じだったのです。それが、「この上なく愛し抜かれた。」と言う言葉の意味なのです。
 更に、イエスさまはこの時こそ、「預言者によって語られたことの実現である。」とも弟子たちに告げられるのです。イザヤ書53章にはこう記されています(1149頁)。5.12節。
 まさに十字架を負うイエスさまの姿です。「時が来た」とは、イエスさまにとっては十字架の苦しみと死の時であり、私たち人間にとっては、まさに決定的な救いの時なのです。
 ここで、イエスさまは「私たちは・・・・」とおっしゃっています。これは、イエスさまが、なおも弟子たちと共に歩んで下さるということを意味します。イエスさまは、最後まで、「共に歩んで下さる方」なのです。聖書全体には、この「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という喜びの調べが響き続けています。
 このインマヌエルの事実をルターは次のように語っています。「主は、来られます。あなたが主を求めるのではありません。主があなたを求められるのです。あなたが主を見出すのではなく、主があなたを見出して下さるのです。主はまったくあなたのために身を捧げて下さいました」と。
 その通りです。今、私たちと共に、私たちを救うために、すべてを捨てて、イエスさまは、エルサレムへと、十字架の道を一方踏み出されたのです。
 ところが、驚くべきことに、34節には「十二人はこれらのことが何もわからなかった。」「理解できなかった。」と書かれています。「何もわからなかった。理解できなかった」のです。イエスさまは、十二人を見出し、身を捧げようとしていらっしゃるのに、弟子たちは、その愛に気付きもせず、理解もできなかったのです。イエスさまの決心と愛の深さに対して全くかけ離れた弟子たちの姿に、私たちは言葉を失います。彼らは、「共に歩いてくださる方」が見えなかったし、必要とも思わなかったのです。
 四旬節(受難節)とは、私たちが心を静め、イエスさまの十字架をしっかりと見つめる時です。その時、私たちには何が見えて来るでしょうか。何よりもそれは、イエスさまの、私たちを救うために十字架の死を受け入れるという真剣な、真実の愛です。
真実には、真実をもって応えるべきです。
ところが、私たちは、この弟子たちと同じように、イエスさまの十字架を自分に関係ない他人事のように考えてはいなかったでしょうか。私たちは、あまりにも傲慢ではなかったでしょうか。日々の生活の忙しさにかこつけ、自分の知恵に頼り切って、日々の祈りさえ忘れ、イエスさまの十字架を必要としないかのように日々を生きて来たのではないでしょうか。わたしたちも12弟子と同じではないでしょうか。

四旬節という時が与えられたことは感謝です。この時、もう一度、しっかりと背筋を伸ばして、真実の心を持って、イエスさまの真実の愛に応えるべきではないでしょうか。
 イエスさまは真実の愛をもって、今エルサレムへ向かっていらっしゃいます。「この私が滅びないように」と、十字架で祈りつつ死んで下さったイエスさまです。このイエスさまの十字架にしっかりと目を注ぎたいと思います。その時、私たちの心には必ず『救いと赦しを求める心』が起こってきます。隠されていた私たちの罪の姿が見えて来るのです。
 思わず、「主よ、憐れんで下さい。」と祈り始める時です。その時こそ、イエス様の十字架の愛と、自分の罪を経験する時なのです。イエスさまの十字架の痛みと、死が、「他ならぬこの私のため」であったことを経験し、感謝し、み前に跪く時です。「彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/ 私たちに平和が与えられ/ 彼の受けた傷によって、私たちは癒された。」という先ほどのイザヤ書53章の言葉が心を打ちます。そうです、イエスさまは、「この私の罪を赦すために」十字架にかかって下さったのです。この事実をしっかりと心に刻み、感謝しましょう。
 幸いにも、私たちはイエスさまの復活を信じることが出来ます。死よりの復活により、イエスさまが罪と死に勝利され今も、私たちと共に歩み続けて下さっていることを信じることが出来ます。イエスさまの十字架の死と復活により、私たちの罪がすべて赦されたことを確信することが出来ます。罪の重荷から解放されます。私たちは、日々の生活では、なお罪人のままですが、イエスさまの十字架によって、「罪赦された罪人」として、新しい復活の命に生きることがゆるされているのです。イエスさまの十字架によって、「事実としては罪人ですが、希望においては義人」という生き方が与えられたのです。ここに何ものにも優る慰めと平安があります。新しく生きる勇気が与えられます。イエスさまの十字架の愛に心から感謝しつつ、心静め、祈る時として四旬節の時を歩みたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
 
 
2016/02/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「試練から逃れる道」(ルカ4:1-13)
ルカ福音書第4章1節-13節、2016年2月14日、四旬節第1主日礼拝(典礼色―紫―)、申命記第26章5節-11節、ローマの信徒への手紙第10章8節b-13節、讃美唱6(詩編第6編5節-11節)

ルカによる福音書第4章1節-13節

  さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊“によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
 また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

説教「試練から逃れる道」(ルカ4:1-13)

私たちは、先週2月10日の水曜日の灰の礼拝から、日曜日をのぞく40日間を、レントとして、過ごします。その最初の主の日である今日は、四旬節の第1主日毎年同じ悪魔による主イエスへの誘惑の記事が読まれますが、今年はルカ福音書第4章の1節から3節までが、与えられています。

これは、出エジプトの、モーセに率いられたイスラエルの民の荒れ野の40年間をも想起させられますし、40日間、シナイ山で飲み食いしなかった、十戒を与えられますときのモーセや、40日間、立ち上がって、ホレブの山まで歩きとおしたエリヤを彷彿させられます。

それは、しかし、すぐ前の記事の主イエスが、民衆にまじって洗礼を受けた出来事とも、密接につながっています。主の洗礼のあと、聖霊が鳩のような形をして、主イエスの上に下り、天が開けて「あなたは、私の愛する子、私の心に適うもの」とのみ声が成ったのであります。

ルカ福音書では、それに続き、主イエスが宣教をお始めになったのは、およそ30歳のころであったことが記され、その父と思われていたヨセフから遡って、アダムに及び、アダムは、神に至るとまで記された系図が載っています。そして、皆さんの中にはあるいは、最初の人アダムは罪に陥ったことを、想い起された方もおられるかもしれません。

さて、その主イエスは、聖霊に満ちて、ヨルダン川から、引き返され、霊に導かれて、荒れ野を40日間、悪魔から誘惑をお受けになられます。新共同訳聖書は、「霊によって引き回され」と、激しい言葉で訳しています。その訳は父なる神が、聖霊を用いて、あるいは、聖霊の中を、み子を引きずり回しになると言いたいのだと思います。そして、主がその期間が終わったとき、飢えた状態になられます。そして、悪魔が、あなたは、神の子だから、この石に、パンとなるように言いなさいというのです。主は、「こう書かれている」と申命記の言葉を引用して、彼に向かって答えられます。「人はパンだけで生きるものではない」と。

今日の記事では、3つの誘惑が記されていますが、これは、私たち、すべての人間が、経験する誘惑をいわば例示しているのであります。私たちは、身体を守るために、食事をし、衣食住を整え、また、将来に備えるために働き、備えをしていきます。しかし、イスラエルの民が、荒れ野の40年で味わったように、彼らが飢えたときには、マナが与えられましたが、神への従順、そこから来る神の言葉による命を与えられなければ、すこやかな生活はできないのであります。先日は、バンコクへ説教研で二度目の旅行をしましたが、テレビをつけますと、仏教のチャンネルが一つあって、それが、タイという国には欠かせない霊的な支えとなっているのだと思いました。どの国の人も、神の言葉あるいは、仏陀の教えなど、人間を超えたものなしには、まともな生き方はできないことを示しています。

次に、悪魔は、高いところへ主を導いて、全領土の国々と、それらのその権力と栄光を見せ、あなたが私を伏し拝むなら、それは、私に任されているのだからで、私の欲する者に与えることができるが、どうか、と言いますと、主は、やはり、申命記のみ言葉にこう書かれている。すなわち、主にひれ伏し、神のみに仕えよ、礼拝せよとあるといわれます。

主イエスは、政治的なメシアとして来られたのではなく、悪霊、汚れた霊を追い払う権威を持ち、それに取り付かれた者を解放するお方としてお出でになられたのであり、神のみ言葉によって、この世の霊、あるいは、時代精神とも言えます、サタンの申し出を退けられるのであります。

で、最後に、エルサレムに、主を導いて、その神殿の頂き、それは、どこかよく分からないのですが、いずれにしても、「あなたは、神の子なのだから、ここから下へとその身を投じてみなさい」と、誘い、今度は、こう書かれていると、主と同じように、詩編の言葉を引用して誘います。神はあなたを守るように天使たちに命じ、その手であなたの足が石に打ち付けることがないように持ち上げさせると。

主は、またも、み言葉から、こうお答えになります。あなたの神を試してはならないと、言われてきたと。神を試すとは、神を疑うこと、不信のイスラエルの民のやったことであります。

主イエスは、しかし、いずれの誘惑をも、神のみ言葉を盾として打ち退けられるのであります。仕方なく、悪魔はあらゆる誘惑をおえたのち、時が来るまで、これは、カイロスという、その時期に見合った時まで、主イエスから離れたのであります。そして、その時、決定的な時とは、主がこの世の君に渡される受難のときであります。

十字架と復活というまことの栄光のときまで、主からは、その悪魔の猛烈な働きは制止されるのであります。そして、主が神殿の頂から飛び降りよというこの最後の悪魔の申し出をも、旧約聖書のみ言葉に頼って、打ち退けられたのであります。それは、十字架という逆説的な救いを、私たちに与える父なる神のみ心に従うためでありました。

罪を犯すことはなかったが、あらゆる人間の出会う誘惑を、主は経験なさり、すべての人を救う道を開かれたのであります。

私たち、信者も求道者の方々も同じく、多くの誘惑や試練に遭いますが、パウロが言う通り、み言葉に従い、信じていく者には、同時に必ず逃れる道をも備えてくださっているのであります。そのみ言葉に信頼しつつ、このレントの時期、主の十字架への道行きを思い起こしながら、又その死に打ち勝ち、死から三日目に復活なさいます主イエスを待ち願いながら、私どももこの時期、日々罪に打ち克ち、霊肉共にすこやかな生活を送っていきたいものであります。 アーメン。
2016/02/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスのみが見出される」(ルカ9:28-36)
ルカ福音書第9章28節-36節、2016年2月7日、変容主日聖餐礼拝(典礼色―白―)、申命記第34章1節-12節、コリントの信徒への手紙二第4章1節-6節、讃美唱99(詩編第99編1節-7節)

ルカによる福音書第9章28節-36節

 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
 

説教「主イエスのみが見出される」(ルカ9:28-36)

 今日は、変容主日であり、白い色を聖卓にも、用いていますが、顕現節、エピファニーの最終主日でもあります。主イエスのまことの姿が現される、特別の日曜日であります。

 今日の福音、ルカ9:28-36から、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。それは、「これらの言葉の後、約8日目に成ったことであるが」と今日の記事は始まっています。

 いつから、8日目だったのでしょうか。すぐ前の主イエスのなさった、第一回目の受難予告からとも取れましょうし、ペトロが「あなたこそ、神からのメシアです」と信仰告白をしたときから、約一週間たったときのことであるというのかもしれません。

 主イエスは、祈るために、ペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて、山に登られます。特にルカ福音書では、大切なときに、主イエスは祈ることをなさいます。ここも、そうであります。私たちも、本当に大切なとき、試練のときには、真剣に祈らざるを得ない。主イエスは、この時に、どうしても祈らざるを得なくなり、モーセがシナイ山でアロンなど3人を連れて、主なる神と、言葉を交わすために、登って行ったように、3人の内弟子を伴っていかれます。

どこの山であったのかは、記されておらず、フィリポ・カイザリアでペトロが、「あなたは、神からのメシアです」と言ったようにも書かれていません。ともかく、人気のない、神と向かい合う祈りの山に向かわれるということが、起こったとしか、ルカは書きません。

そして、祈っているときに、主イエスの顔の様子、外観が、違ったものとなり、その衣服は、白く、稲妻のごとくきらめいたというのであります。方々を歩き回られて黄ばんだ衣服や、埃にもまみれていたであろう主イエスの顔が、別の形を取り、着ていた服も真っ白に輝きます。

そして、栄光のうちに、二人の人物が現れます。おそらく夜のことであったでしょう。彼ら三人は、話し合っていたのであります。やがて、主イエスが成就しようとしていた、エルサレムでの最期のことについてであります。この「最期」と訳されています言葉は、もとの文では「エクソドス」という言葉で、これは、出エジプト記のことでもあります。「道の外へ」あるいは、出口といった意味ですが、ここでは、主イエスの死のみならず、復活から、昇天、天への出発・旅立ちを含んだ意味合いで使われています。

ルカによる福音書は、9:51から、主イエスはエルサレムに向かい始める転換点となっていますが、天から来られた主イエスが、9:51からいよいよエルサレムへの旅空を歩む構成となっており、そのエルサレムで、十字架の死と復活があり、エルサレムから天へと、エクソドス、旅立たれる、筋書きとなっています。

今日の記事は、その主イエスの「エクソドス」について、モーセとエリヤが現れて、栄光のうちに、主イエスと、論じ合っている光景が記されているのであります。

非日常的な光景であり、私たちの現実世界とは一見無縁の出来事のようにも思われます。しかし、ペトロが、8日ほど前に、告白した「あなたは、神からのメシアです」と告白したことが、ここ、山の上で、主イエスの変貌となって、現されており、そこに、律法と預言者を表すモーセとエリヤが、天からの訪問者として、主イエスと彼の「エクソドス」「出発」について話し合っているのであります。

この出来事は、昔から、主イエスの復活の出来事を、この時点にまで、遡らせて記述したものではないかとも論じられてきました。しかし、マルコも、マタイも、この同じ出来事を記しており、しかし、ルカは、このときの出来事を、ペトロたち、3人は、十分には理解できず、秘密に保ったまま、十字架と復活の出来事の後になるまで、その意味が隠されていたというふうに記しています。

さて、栄光に包まれた主イエスと二人が立っているのを、眠気でまぶたが重くなっていたペトロたちが、何とか、寝ないで見ていたとき、モーセとエリヤが、彼らから離れて行きつつありました。ペトロは、そのとき、私たちがここにいることは、すばらしいことです、ですから、仮小屋を、イエス様あなたと、モーセと、エリヤに一つずつ建てましょうと言いますが、彼は何を言っているのか分からないままにそう言ったとあります。

仮小屋の祭り、スコトの祭り、仮庵祭は三大祭の一つですが、秋の収穫感謝の祭りでしたが、やがて出エジプトの出来事を記念する祭りにもなりました。そこにブースをこしらえて、しのぎ場として、3人に少しでも長くそのままいてほしいと、ペトロは考えたのでしょうか。

しかし、雲が起こり、彼らを覆い始めます。そして、彼らは恐れますが、雲の中から、声が成ります。「これは、私の子、選ばれた者、彼に聞け」と。そして、その声が成った後には、主イエスだけが見出されるのであります。

主イエスとは、神の子であり、また、主の僕であり、「人の子」として、終わりの日には、雲に乗って、栄光のうちにお出でになられる方でもあります。そして、その彼に聞けとは、すぐ前にありますように、十字架におかかりになり、復活されることになっているとの主イエスの言葉を受け入れ、また、主イエスに従う者として、私どもも自分の十字架をになって、歩むようにとの主イエスのみ言葉に聞き従っていくことであります。

そして、それは、私たちのこの地上での日々の戦いであり、なすべき働きにおいて、主イエスの十字架の死と復活、昇天によって実現する救いの道に生きるようにとの、主イエスの言葉に従うようにとの天の父なる神のご意志が示されたのであります。

地上での主イエスとエルサレムへと歩んでいくペトロたちにとって、この日の出来事の意味は隠されたままでしたが、その旅路の目指すところを知っている私たちは、日々の仕事と戦いの中に、今あって、主イエスの十字架の死と復活、昇天、さらには、再臨の約束を知らされております。

ですから、今からは、もう一度目覚めて、罪と死から解き放たれて、闇から光へと主イエスの切り開かれた道、十字架と復活による新しい命の道を歩んでいきましょう。

一言祈ります。

父なる神さま。
新しい、この一年をみ子イエスによって示された、おのおのの十字架を、日々、担って歩む者とならせてください。キリストのみ名によって。アーメン。


2月生まれの方々のために。
父なる神さま。
この月に生まれた兄弟姉妹を感謝します。主の十字架と復活によって、与えられている、まことの歩みをまっとうすることができますように。家族や友人たちを慰め、キリストの光をそれぞれに与えられた生活を通して、指し示す、あなたの子らとして、強め、励ましてください。どうぞ、この方々の健康を守り、また、何よりも、み言葉から離れずに、健やかな霊を育んでくださいますように。キリストによって祈ります。アーメン。
2016/02/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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