津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスが慰められるあなた」(ルカ6:17-26)
ルカ福音書第6章17節-26節、2016年1月31日、顕現節第5主日礼拝、(典礼色―緑―)、エレミヤ書第17章5節-8節、コリントの信徒への手紙一12:27-13:13、讃美唱1(詩編第1編1節-6節)

ルカによる福音書第6章17節-26節

  イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。
 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 
 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。
 今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。







 
説教「主イエスが慰められるあなた」(ルカ6:17-26)

 今日は、この礼拝の後、津田沼教会総会が開かれます。この、教会の大事な節目となる主の日に、与えられた、それぞれのみ言葉は、まことにふさわしいものではないかと思うのであります。

 まず、最初に読まれましたエレミヤの言葉は、祝福と呪いの言葉でありました。主に従って歩む者は、どんなときにも、豊かに実を結ぶが、自分の力におごって歩む者は、そうではない。神でないものを神として、この世の力やはかないものを、頼りに、迷いに迷って、それに気づかない。まだ、礼拝で朗読はされませんが、讃美唱の詩編の第1編も、ほぼ同じような内容であります。み言葉につながって生きる者は、川のほとりに植えた木のように、どんなに厳しい環境に襲われても、実を付け続けると言うのであります。

使徒書の日課の第1コリント書も、教会は、私たちの体と同じで、いろいろな者たちがおり、預言者や教師、今で言えば、牧師、役員、また、そのほかの奉仕をするものがおり、各人にいろいろな賜物が与えられている。そのような、教会において、信仰、希望、愛がなくてはならないが、最後まで残る、もっとも大いなる賜物とは愛という賜物であると、分裂気味であった、コリントの教会の人たちに向けて説いているのであります。

 そして、顕現節第5主日の福音として、今日は、ルカ6:17-26が与えられております。これは、教会の一年間を振り返り、また、これからの一年の歩みを話し合う、今日の総会の日に、期せずして摂理のように与えられたとも言える、まことに適切な福音の記事だと思うのであります。

それは、まず、こういうものでありました。主イエスは、山に登り、祈られて、ペトロと呼ばれるシモンなど、12使徒をお選びになります。そして、彼らと共に山を下り、平地へと、お立ちになられます。これは、そこで、あえて足を止めるというようなニュアンスであります。そこに、大勢の弟子たちや、おびただしい民衆が、ユダヤから、エルサレムから、シドンやティロスからもやってまいります。それは、何のためであったかと言いますと、彼に聞くため、あるいは、癒されるためであり、そこで人々は彼に触ろうとしていたのであります。そして、力が彼から出て行き、汚れた霊によって悩まされている者たちを癒していたのであります。

 私たちをみ言葉によって、癒し、また、私たちを悩ます悪霊を追い出して、罪と死の力から解き放つために、主イエスはお出でになられ、12使徒たちと共に、私たちの悩み多き平地に、足をとどめてくださる、そのためにこそお出でになられたお方として、私たちの生活の只中にお立ちになってくださるのであります。

さて、そこで、主は、弟子たちに向かって目を上げて、「幸いなるかな」と語り始められるのであります。マタイでは、山上で、むしろ、選ばれた弟子たちに向かって語られるのでありますが、ルカでは、どうでしょうか。ここで、語りかけられている弟子たちとは、主イエスに耳を傾けむけようと従ってくるすべての者であります。

幸いだよ、貧しい人たち、なぜなら、あなた方にこそ、神の国はかかっている、存在しているからだと言われます。ルカは、既に、マリア賛歌においても、マリアに主は、王座についている者をあざわらい、その座からひきづりおろし、空手でお返しになると語らせ、低い者、貧しい者を、引き上げ、よいもので満たされると歌わせていました。

主イエスは続けて、幸いなのは、今飢えているものたちだよ、なぜなら、あなた方は満腹するだろうから、と言われ、さらに、今、泣いている者たちは幸いだ、あなた方は笑うようになるから、と言われます。

貧しい人たち、飢えている人たち、泣いている人たちとは、バビロン捕囚を経験した、イスラエルの国の人たちにとっては、自分たちのことであるとすぐに分かったと思います。主なる神は、しかし、そのような窮境の中で、やもめとみなしごを助け、憐れまれると約束しておられました。主イエスは、メシアとして、お出でになられ、そのような貧しい者こそが、福音を聞かされるというイザヤの預言の言葉が、ご自分において、あなたがたが耳にした今日実現していると、語られていました。

そして、4番目の幸いとして、人々が、人の子のために、すなわち私のために、あなた方を追い出し、ののしり、あなたがたの名を悪いものとして追い払うとき、あなた方は幸いである。その日には、喜び踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからといわれました。神さまが、共におられ、知っていてくださると言うのであります。彼らの父祖たちも、真の預言者たちに対してそのようなやり方で行ってきたのであると言われます。

エレミヤも、エゼキエルも、イザヤも、真の預言をした者たちは皆、迫害されました。主イエスも同じであります。そして、私たちが、主イエスに従うゆえに、迫害を受けるときには喜び踊れと言われるのであります。使徒たち、ペトロも、パウロも、同じように、このあと、キリストの名のゆえに、辱められるのを誇りとし、喜びとしていったのであります。

それに対して、しかし、災いなるかな、富んでいる者たち、あなた方は既に慰めを受けてしまっているからと言われます。この「受けてしまっている」というのは、もうもらうべきものが、何も残っていないという意味の言葉であります。主イエスは、祈るときには、人々に知られないように、納屋に入って祈れ。断食するときには、頭に油を塗ってしなさい。ファリサイ派のように、これみよがしにし、あるいは、見苦しくするな。なぜなら、それでは、天にもう報いが残っていなくなるからと言われました。


さらに、幸いの4つと対応して、今、満腹している者は、災いだ。あなた方は飢えるようになるから。今、笑っている者は、災いだよ、なぜなら、あなた方は泣き悲しむようになるからであると言われます。そして、すべての人たちがあなた方をよく言うとき、あなた方は災いだ、なぜなら、偽預言者たちに対して、彼らの父祖たちも、同じやり方をしたからだと言われるのです。今までどおりの、自分たちの生き方、神から離れているままの歩みを認めてくれる預言者を、昔のイスラエル人たちも、むしろ歓迎したのであります。

この4つの幸いな人たちと、災いなる人たちとは、しかし、弱い私たちの両面ではないでしょうか。私たちも、何とかして、富んだ者になろうとし、笑って過ごし、食に満ち足りて人並みの、いや、そこから抜きん出た生活を求めている者ではないでしょうか。

しかし、神により頼むしかない貧しい者、ほかによるべきもののない者を、神は満ちたらせて、慰めをお与えになられます。主イエスと共に、この神の支配は既にやって来ているのです。

神の恵みのみに信頼し、お金の力や、自分の力に頼ることなく、主イエスに信頼し、そのみ言葉にのみ従う者を、主イエスは、平地の説教での締めくくりとして、岩の上に建てた家に譬えられます。主よ、主よと唱えるだけでなく、主のみ言葉に従っていく者は、川のほとりに植えられた木と同じく、どんな旱魃のときにも、実を生み続けます。主イエスの、み言葉によって、癒され、実を結んでいく。無償で与えられる恵みによってのみ、歩んでいく。そのような神の前に貧しい者、み言葉に飢え渇く者として、この一年を歩んでいきましょう。

お祈りをいたします。

天の父なる神さま。私たちは、弱く、み言葉からすぐに離れ易い者です。しかし、あなたは、あなたに信頼する者、また、み子の福音に従おうとする者を、見放すことはなさいません。水辺に植えられた木のように、どんな試練に悩まされるときにも、命の水につながって、実を結んでいく者とならせてください。今日持たれます津田沼教会の総会の上に、あなたの豊かな祝福をお与えください。キリストのみなによって祈ります。アーメン。







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2016/01/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストに仕えて」(コリントの信徒への手紙二11:23-27)轟勇一先生への告別説教
Ⅱコリント11:23-27、2016・01・25、午後1時、轟勇一先生の告別式

コリントの信徒への手紙二11:23-27

 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に逢ったことも度々でした。ユダヤ人からは四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟からの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。







説教「キリストに仕えて」(コリントの信徒への手紙11:23-27)


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。 


今ほど、お読みしましたのは、地中海の都市に、今のギリシャやヨーロッパに、キリスト教、イエス・キリストの福音をのべつたえた使徒パウロの言葉であります。

コリントと呼ばれる都市の、パウロが土台をすえた教会に当てた手紙のごく一部であります。必ずしも、立派な教会ができていたわけではありません。その教会の人々に涙と激しい思いを持って書いたコリントの信徒への手紙二というものの一節であります。

私は12年、この津田沼教会に赴任してたとうとしています。12年前に赴任しましたときに、轟先生と、石田さんという日本ルーテル教団に属します役員さんが来られて、NRK、すなわち、日本ルーテル教団の船橋教会で持たれる礼拝と集会に招かれまして、幾度となく出席させていただきました。

初対面のころであったと思いますが、どんなことに関心があるのか、卒論は神学校で何をやったのかと、轟先生から聞かれまして、私は賀川豊彦を、テーマに選び「愛の実現の神学」という賀川の神学をやりましたというと、先生は、ではいつか、―神戸のスラムで神学生であった賀川が、当時の貧民くつ、今ではスラム街と呼ぶようになりましたが、―そういうところで伝道するつもりはあるのかと、訊かれました。日本福音ルーテル教会には、釜が崎に、今も「喜望の家」というのがあるのですが、当面はそういう覚悟はできていませんとお答えしたのを覚えています。

轟先生は、NRKの伝道師として、「ルーテルアワー」や伝道パンフレットの「百の質問」や「百のクイズ」も著作したり、熱心な伝道者でありました。今日のこの手紙を書いたパウロは、この人がなければ、今のキリスト教の教会はなかったとも言いうる伝道者でありますが、夜は天幕作りをし、働きながら、異邦人の世界にキリストを、紹介し、教会を立てていった使徒であります。
轟先生の働きも、このパウロに従ったものであると言うことができましょう。

さて、今日のパウロはこう言っています。だれが、キリストに仕えるものなのか。これは、ディアコニアということばにつながる言葉で、奉仕すると言う意味であります。多くの偽使徒や妨害するユダヤ人に対して、自分こそは、キリストに仕える者、ディアコノスというのであります。

そして、この「キリストに仕える者」と言う以上に、私たち、キリスト者にとりまして、栄誉である称号はないのであります。

パウロは、わたしは、12使徒以上に、それに劣らない使徒であるといいました。最初は、キリスト者たちを迫害していたのでありますが、天から、主イエスの声を聞き、落馬して、何日も、目がみえなくなっていたのですが、コルネリオという信者が聖霊の導きで、パウロを訪ね、目からうろこが落ちまして、異邦人世界への、キリストの福音をのべつたえる伝道者に変えられた、否、生まれる前から、そうなるように決められていたと申します。

その伝道の中で、苦労や徹夜や、同胞からの危険や、川での危険、強盗の危険、飢え渇きの危険、死にそうになった、幾つもの危険、40に1つ足りない鞭打ちや死んだと思われた石打ちの危険にもあいました。

しかし、パウロは、自分に与えられた恵みを決して無駄にすることはなかったのであります。はだかのときも、寒さに震えるときも、恥にも堪えて、戦ったのであります。

パウロは弱いところもありました。手紙は立派だが、会って話してみると、力もなく貧しいしゃべり方だったとも書いてあります。
 
しかし、主イエスは、パウロに、天から、あなたには抜き取れないとげが、心に、あるいは体に与えられているが、弱さの中でこそ、力は発揮されると示され、恵みはそのような中でこそ発揮されると告げられて、どの使徒たちよりも、多くの働きができる結果となったのであります。

轟先生のご生涯も、パウロと同じように、キリストに仕える生涯であられました。働きながら伝道を精一杯なさったのであります。略歴に書きましたように、24歳のときにリチャード・マイヤー先生から洗礼を受けておられます。65年もの信仰生活を送られたわけであります。ご苦労も大きかったと思います。先生のお父様は、医師であったと窺っております。官立の前橋医科大、今の群馬大の医学部に入りましたが、肺結核のため中退されています。

しかし、長い間の伝道師としての働きをなさることとなり、奥様の順さまの内助の功も大きかったと思います。そして、娘さん、息子さん、また、立派なお孫さんが育っておられます。先生の働き、その恵みは決して無駄になることなく、先生の労苦は主イエスがだれよりも、ご存知です。

残されました、順奥様を始め、孝信さん、高木恵子さんのご家族が、これからもますます轟先生の遺志をついで、実り豊かなご家庭を築き、神の栄光がさらに与えられますように。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリストイエスにあって守るように。





2016/01/25(月) 13:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「信仰の冒険」(ルカ5:1-11)
ルカ福音書第5章1節-11節、2016年1月24日、顕現節第4主日礼拝、(典礼色―緑―)、エレミヤ書第1章9節-12節、コリントの信徒への手紙一12:12-26、讃美唱85/2(詩編第85編9節-14節)

ルカによる福音書第5章1節-11節

  イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして船から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


説教「信仰の冒険」(ルカ5:1-11)

人々は、ゲネサレト湖畔におられた主イエスの下に押し寄せてきます。エルサレムの神殿や会堂、シナゴーグではなく、カファルナウム周辺の野外礼拝であるかのように、群衆は、主イエスの下に迫って来ます。

そこで、主は、神の言葉を語るのです。いわば、小舟が説教卓であり、岸辺が会衆席であるかのようです。そこには、夜通し漁をして疲れ果てながら、網を洗っているシモンたちがいました。シモンも間近で、イエス先生の説教を耳にしながら、作業をしていたことでしょう。

そして、主がしゃべられるのを終えたとき、シモンに言われるのです。深みへと漕ぎ出して、網を降ろしなさいと。「先生、私は、漁にかけてはプロです。夜通し骨を折って、一匹もとれなかったのです。」

今日の物語を聞いて、ヨハネ福音書21章の復活顕現の主イエスの出来事を思い起こす人もおられましょう。今日の記事とヨハネ福音書の記事とは、同じ出来事を焼き直ししているに過ぎないのではないかと考える人も多いのです。

しかし、二重に重なり合う部分を持ちながらも、これは別の出来事だと私は信じます。さて、主イエスの招きの言葉に対して、シモンは、「あなたのお言葉ですから、従いましょう」、と応じるのです。これは、あなたのみ言葉、レーマという字で、出来事をも意味するものですが、あなたのみ言葉に頼んで、やってみましょうと言ったのです。

そのことを、彼らがすると、おびただしい魚を網は取り囲み、彼らは腕でそれを感じ取り、もう一そうの小舟の仲間に合図して、ヤコブとヨハネもやってきて、その豊かさのゆえに、二そうの小舟は沈められそうでありました。

その時、シモン・ペトロは、おそれを抱き、「私から離れてください、私は罪深いものですから、主よ」と願うのです。ある人は、ここで、シモンは、そう言うべきではなく、私と共にいてくださいと願うべきだったと注文をつけています。

しかし、ここで、初めて、シモンは、主イエスがどういうお方であるか、知ったのです。それまでは、先生でしかなかった主イエスを、主よと、終わりに告白しています。主は言われます。「恐れることはない、今から、あなたは、人間をすなどる者になろう」と。主は、このあとも、繰り返し、大事な場面で恐れることはない、私が共にいると、シモンを導きます。ここで、シモンは、シモン・ペトロと言う主イエスがつけたあだ名で記されています。ここで、シモンに、あなたは教会の礎(ペトロ、岩の意味)になると示されているかのようです。

その才能や性格や可能性の故にではありません。シモンは、率直な、憎めない人であったようです。しかし、生まれながらの資質などによって、使徒になり、主イエスの弟子となるわけではないのです。今日の第1朗読のエレミヤも、また、エリヤやエリシャも、また、モーセすらも、自分の力によって預言者や民の指導者になったわけではありませんでした。パウロにしても、主によって選ばれた器に過ぎなかったのです。

あなたは、人間をすなどる者になろうと、主は約束されます。命令ではなく、主から委託、むしろ約束を与えられているのです。

人をすなどるとは、旧約聖書では文字通り、生け捕りにするという裁きを思わせる言葉ですが、ここでは、み国へと、福音へと人々をとって、生かす者となると約束されているのです。

そして、それは、教会の使命であり、使徒に限らず、信者である私たち一人ひとりが今日のシモンの働きに、同じように招かれ、託されて生かされていくのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。





2016/01/24(日) 10:30:14| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
2016/01/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「故郷で語り始める主イエス」ルカ4:16-32
ルカ福音書第4章16節-32節、2016年1月17日、顕現節第3主日聖餐礼拝、(典礼色―緑―)、エレミヤ書第1章4節-8節、コリントの信徒への手紙一12:1-11、讃美唱119/2(詩編第119編9節-16節)

ルカによる福音書第4章16節-32節

  イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。


説教「故郷で語り始める主イエス」(ルカ4:16-32)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。

 今日は、主イエスが、故郷のナザレで、具体的に、シナゴーグにお入りになって、安息日に、説教を語り始められる記事、ルカ4:16-32が与えられています。皆さんも、過ぎました年末年始、古里へと帰られ、そこで、親しい者たちとも久しぶりに、再会して無事を喜び合ったり、喜びのひと時を共にする機会を得られたことでしょう。
 しかし、今日の主イエスが、故郷で、その村、あるいは町であったナザレの人々から、拒まれる体験が記されていますが、私たちの持っている主イエス・キリストへの信仰のゆえに、厳しい現実の前にたじろぐような体験をされた方も、少なくないのではないでしょうか。
 私も一年い二度ほど、帰省して、洗礼は形ばかり受けている、認知症気味の年老いていく母や、介護も中心になってしてくれている末の妹や、福知山から松山まで応援に来てくれている兄などとも、親しく交わるひと時を過ごして戻ってきました。同居していれば、可能な伝道も、離れ離れになっている現状では、思い通りに信仰を伝えることはできないよ痛感させられもして、複雑な心境で、津田沼にとんぼ返りのようにして、帰って来ました。
主イエスの場合はどうだったのでしょうか。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、洗礼を受け、そのときに、天から聖霊を受ける出来事が先週読まれましたが、彼は、カファルナウムで第一声を上げ、育った故郷ナザレへと戻って来られます。そして、シナゴーグと呼ばれるユダヤ人たちの会堂に、主イエスの習慣であったとおりに、安息日にお入りになる。そして、聖書の巻物を、係りの者から渡され、お座りになって、イザヤ書の個所を見出します。
 あるいは、その安息日に読まれる聖書が、モーセ五書の中からと共に、この日の日課がイザヤ書の61編の日課の部分だったのかもしれません。もうこの時期には、モーセ五書からに日課と預言者の日課が、私たちが今用いている3年サイクルと同じように、読まれ、詩編も同じように読む個所が決まっていて、最後は祝福で終わっている礼拝だったようです。
 ここで、イエスによって読まれ、説教個所として与えられていたのは、イザヤ書61:1以下であります。主はここを紐解いて、読み上げます。主の霊が私に向かってある、主は油を、私に注がれたから。それは、私を遣わして、貧しい人に福音を宣べ伝えさせ、踏みにじられている人を自由ににし、盲人に視力を回復させ、囚われている人を解放させるためであり、それはまた、主の恵みの年を告げ知らせるためである、との預言の言葉をでありました。
 そこで、主は巻物を巻かれ、係りの者に返し、これらの言葉は、今日、あなた方の耳において実現したと語られたのです。
 主イエスは、私たちの罪と死に囚われている現実を解放するために、来られました。主イエスのこの説教において、ナザレの人々は、良く証言し、その口から出る恵み深い言葉に驚いていました。
 しかし、彼らは、この男は、ヨセフの息子ではないか、と言って今度は主を拒みだすのです。主はここで、預言者は故郷では敬われないものだという格言を引用され、あなた方は、カファルナウムで主が行ったというしるしを、ここでもしてくれと言うだろう。しかし、エリヤの時代に、やもめはイスラエルに大勢いたが、サレプタのやもめのみに遣わされたと言われ、また、エリシャの時代にも、イスラエルに大勢、重い皮膚病の者たちがいたが、シリアのナアマンだけを、エリヤは、癒されたと語られます。
 すると、会堂にいたすべての者たちは、怒りに満たされ、主を追い出して、その町の立っている丘の崖っぷちまで迫って、主をそこから突き落とそうとします。
 しかし、主はその人々の真ん中を通り過ぎて、立ち去られます。
 そして、カファルナウムへと下られ、再び、会堂で、安息日に教え始められます。人々は、その教えに圧倒されていました。その言葉には、権威があったからと、今日の日課の個所は終えられています。
 主は、イザヤの預言は、今日この日、ご自身によって、成就したと宣言なさいます。主イエスによって、今日、旧約聖書は実現しているというのです。しかし、故郷の人々は、その言葉を受け入れず、それどころか、主を殺そうとさえしているのであります。そして、町から追い出して、崖のふちから突き落とそうとまでしている。すでに、この最初の説教の時点で、主が拒まれ、十字架の死に至ることを暗示すらしているのであります。
 しかし、主イエスは、私たちの罪からの解放と死からの解放を、宣言し、罪なきご自身を死につけることによって、自由なものとされることを約束しているのであります。
 今年一年の津田沼教会の歩みも、この主が、どんなに困難なことがあっても、闇から解き放ち、恵みをもって導いてくださいます。そして、それを信じて、一人ひとりが証していく一年となりますように、願い、これから聖餐に与りましょう。アーメン。
2016/01/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストの受けた洗礼」(ルカ3:15-22)
ルカ福音書第3章15節-22節、2016年1月10日、主の洗礼日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第42章1節-7節、使徒言行録第10章34節-38節、讃美唱29(詩編第29編1節-10節)

ルカによる福音書第3章15節-22節

  民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物を解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つ悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。








説教「キリストが受けた洗礼」(ルカ3:15-22)



私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。

 皆さま、年末年始、いかがお過ごしだったでしょうか。私も、ほとんど毎年のことでありますけれども、今年は、顕現主日であった1月3日のあとに、慌しくとんぼ返りで松山の母の住んでいるアパートまで帰省してきました。
 だんだん、物忘れが進んでいく母も、私が帰省するのを指を数えるようにして、待っていてくれました。同じアパートに住んでくれている妹夫婦や、福知山から、時々、母の介護にかけつけてくれている兄とも、会えて楽しいひと時でした。
 けれども、新しい一年の初めの互い無事を喜び合い、この一年の祝福されたスタートを共に願うべきときではありますが、また一方では、信仰を伝える難しさを、改めて痛感させられる時でもありました。
 さて、今日は、主の洗礼日という特別の主日でもあります。クリスマスイブの時から、待降節に用いられました紫の色から、聖卓やストールで使われます色は、ずっと白のままであります。紫はやがて来られる王を意味していましたが、白は、神さまそのものを表しており、あるいは、復活のキリストをも示す色であります。
 1月3日だった顕現主日も、当方から、ベツレヘムまで、主の星に導かれて、拝みに来た、ユダヤ人たちから見れば、異邦人であったマギと呼ばれる人たちが、幼子イエスを見出して、礼拝し、来た道とは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていったというマタイによる福音書記事が読まれました。
 この一年の始まったばかりのこの日曜日に、主イエスが洗礼を受けられた記事を、今年は、ルカの記事を通して与えられています。
 今日それぞれ与えられている第一朗読のイザヤ書42章の個所も、使徒言行録のペトロが、主イエスによる救いは、イスラエルの民だけに与えられているのではなく、主イエスが、油注がれ、洗礼をお受けになって、よき知らせをユダヤ全土で告げ知らせる方となり、、キリストによって始まった出来事を、大胆に説教する者に変えられている記事も、今日の福音につながる記事であります。
 今はまだ読んでいませんけれども、2017年に発表されようとしている新式文のときからは読まれることになります讃美唱の詩編は、今日は、詩編第29編であります。これもまた、大自然の激しい営みや、洪水をも統べ治めておられる主なる神をほめたたえる歌であり、この日に相応しいと言えましょう。
 今日の福音、ルカによる福音書第3章15節から、22節までを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、最初に、洗礼者ヨハネのことを、民衆は、もしかしたら、この人こそ、メシアではないかと、あれこれ考えていたと、出てきます。私が今でも覚えていますのは、今から30年近く前、京都から、三鷹の神学校に入る準備をしていたころに放送されていた「新約聖書のイエス像」といった題で、東京神学大学の松永喜久夫先生などによるNHK教育番組でなされていたシリーズでのひとこまです。『宗教の時間』という番組の中で取り上げられていたように記憶しています。
 それによると、生前に与えたその当時の世界への影響力は、主イエスよりも、洗礼者ヨハネのほうが、大きかったのではないかと言うのであります。
 そう言われてみますと、使徒言行録にも、使徒パウロが、伝道していく中で、洗礼者ヨハネの弟子たちと出会う場面があります。そして、彼らは、聖霊による洗礼を知らず、自分たちは、師であるヨハネによる洗礼を受けていると言います。しかしパウロたちに説得されて、改めて、主イエスのみ名による洗礼を受けると聖霊が、彼らの上にくだったという記録も記されており、洗礼者ヨハネの生きていたときの影響力は、もしかすると、主イエスの生前のそれよりも上回っていたのではないかと、今でも思うことがあります。
ずいぶん昔になりますが、そのときはまだ、神学書も、ギリシャ語の聖書もほとんど手にしたこともなく、ただ牧師になることを願って準備をしているときに見た番組で、今でも新鮮に、なつかしく思い出すのであります。
 それでは、キリストの受けた洗礼と、私たちの受けた洗礼、あるいは、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けていた人々の洗礼は、どのように違っているのでしょうか。
 洗礼者ヨハネは、あなたが、もしかしたらメシアではないかと問われたときに、私より強い方がお出でになられる。私はその方の履物の紐を解くにも相応しくないと、はっきり答えます。主人の履物の紐を解くことは、当時のユダヤ人の奴隷すらもしなかったことだとも言われています。
 ヨハネは、そのように、自分は、来るべきメシアとは比べる価値もないと言い、私は水で洗礼を授けているが、その方は、聖霊と火において洗礼を授けると約束しているのであります。聖霊と火による洗礼とは、どんな洗礼であるのでしょうか。私たちは、父と子と聖霊のみ名によって、洗礼を受けていますが、見たところでは、洗礼者ヨハネがしていた、水を使っての洗礼である点では変わりはないと思います。
 では、聖霊と火における洗礼とは一体どのような洗礼なのでしょう。ヨハネは、この後、その方は、手に箕を持って、脱穀場をきよめ、穀物は倉へ収め、籾殻は燃え尽きない火で焼き払われると言っています。恐ろしい終わりの日の裁きをも予想させますが、聖霊も火も人を浄化し鍛え、選別し、あるいは、人々の中に分裂をももたらす力あるものであることを示しているでありましょう。主は、私は火を投じるために来たのだと言われます。
 ヨハネによる洗礼は、人を人として当然なすべきことをなすようにと悔い改めを促すものでありました。しかし、それは人を根本から変えるものではなく、ヨハネは人の罪を取り除く神の小羊ではなかったのであります。ヨハネはあくまで、そのお方のための道備えをする者であり、悪は悪として断罪する荒れ野に呼ばわる声でありました。
 そこで、それに続く記事は、順序正しくこの福音書を書くと宣言したルカらしくもなく、まだ先の出来事であるヘロデ・アンティパスの悪行が記されています。妻にしたヘロディアのことで、ヨハネに非難されたヘロデは、ヨハネを捕らえ、獄に送ることによって、さらに悪事を一つ増し加えたと書いています。それによって、ヨハネをいったん退場させて、主イエスの登場を浮き立たせているのであります。
 それでは、ここで何が起こったのでありましょうか。ルカは、ここで、民衆が皆洗礼を受けたとき、そして、主イエスも洗礼を受けた後に、祈っておられるときと、記しています。ルカは、主イエスの洗礼よりも、その後、起こったことを重視しているのであります。
 その時に成ったことには、天が開かれ、聖霊が、鳩のような肉体を持った形で、降ったとまず言います。黙示文学で、終わりのときに天が開かれることが出てきますが、この時にそれが起こり、聖霊が、しかも目に見える形を取って、主イエスに注がれ、力を付与されるのです。鳩は、ノアの箱舟のときの鳩のように喜びの到来をも、示していましょう。
 そして、天から声が成ります。これも黙示文学でしばしば見られます。天が裂けて、神ご自身がイエスに向かって語りかけるのです。
「あなたは、私の愛する子、私はあなたを大いに喜んでいる」と。詩編第2編7節では、「あなたは、私の子、今日、私はあなたをもうけた」という宣言が出てきます。主イエスが神の子であることを、神ご自身が認証なさっています。旧約聖書では、イスラエルの民が私の子とも呼ばれます。また、アブラハムは、その独り子イサクをまで神にささげようとしましたが、アブラハムの末に約束されていた救い、贖いとしての神の代理としての主イエスが「私の子」と呼ばれることによって、また、ダビデ王の家系につながるイエスをとしてここに実現しています。
 また、さらに、「私はあなたを大いに喜んでいる」との天からの声は、今日の第1朗読のイザヤ書第42章1節などの主の僕であり、苦難のメシアであることを示しています。そこで、主は私の僕を喜び迎え、その上に私の霊はおかれると記されています。このお方イエスは、メシアとして、決して弱っている葦を折ったり、灯心を消すことないと、天の父は、この時、宣言なさるのであります。
 主イエスは、天が開かれ、天からの声が起こる前に、民衆皆の一人として人知れず洗礼を一緒に受けてくださっていました。私たちの一員としてどこまでも低く身を低く、ヨルダン川の底においてくださいました。
 そのキリストの洗礼のあとに、天が開かれ、聖霊が降り、あなたこそ、神の愛する子、あなたを、私は大いに喜んでいるとの声が起こりました。祈っておられた主イエスをに聖霊がおおい、いと高き神の子、そして、待たれたメシアであることが、神のよって固められ、力に満たされるとのみ使いたちの預言が、この日、実現されたのであります。
 私たちは、このキリストを通して、そのみ名による洗礼を受け、同じ聖霊を受けているものであります。
 主の洗礼日の今日、キリストご自身が洗礼を受けた後に、天の父が、ご自分の一人子であり、私たちの罪を贖う代表であり、メシアであることを聖書の預言の言葉を通してお認めになり、喜ばれたという出来事を、私たちの受けた洗礼をも想起しながら、もう一度、この年の始めに感謝して、この一年を歩みだしたいと思います。お祈りをいたします。
 天の父なる神さま。
 新しく始まったこの一年の津田沼教会の歩みを、あなたが聖霊の力によって導いてください。何よりも礼拝に出席することを通して、周りの者たちへの証しをし、伝道する一人一人とならせてください。キリストによって、日々罪から解き放たれ、み言葉によるすこやかな生活をすることができますように。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2016/01/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「まことの王を王としつつ」(マタイ2:1-12)
マタイ福音書第2章1節-12節、2016年1月3日、顕現主日聖餐礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第60章1節-6節、エフェソの信徒への手紙第3章1節-12節、讃美唱72(詩編第72編1節-15節)

マタイによる福音書第2章1節-12節

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



説教「まことの王を王としつつ」(マタイ2:1-12)

今日は、エピファニーと呼ばれる主日です。特に西方教会では、紀元5、6世紀に入って、クリスマスが定着するようになる前から、このエピファニー、顕現日の祝日が、1月6日と定められ、異邦人にメシアが最初に知らされた、今日のマタイ福音書2:1-12の記事が読まれてきました。
今日のイザヤ書も、詩編唱も、異邦人の王たちが、イスラエルの王、そしてメシアの下に黄金などの贈物を携えて、跪拝しにやって来ることを預言しています。また、使徒書の日課のエフェソの信徒への手紙では、パウロが異邦人への使徒として約束されていて、キリストによる救いを宣べ伝える器として、選ばれていたその摂理を、パウロは証しています。
今日の福音は、そのイエスは、ヘロデ大王の御世に、ユダヤのベツレヘムにおいてお生まれになったと書き出しています。そして、東方から、マギと呼ばれる者たちが、来て、言うのです。
お生まれになったユダヤ人の王はどこにいますか。我々は、その星の昇るのを見て拝みに来たのですと。
このマギたちとは、何者であったのか、そして、どこから来たのか。マギたちは、魔法使いといった悪い意味でも使われます。バラクとバラムの物語として出てくる民数記では、このマギ、マゴスという言葉が70人訳のギリシャ語聖書では用いられています。
あるいは、新共同訳のように、占星術の学者たちとして、あるいは、賢人たち、博士たちとして、今のイラクあたりの、バビロニアの祭司たちであったかもしれません。
民数記によると、バラムは幻を見、託宣して言います。東の空にヤコブの星が昇り、王勺が現れると。それが、この主イエスの誕生を知らせる星の輝きであったとも、考えられます。
ところが、この朗報であるはずの知らせを聞いたヘロデ王と全エルサレムは、うろたえたと書かれているのです。この世の王であったヘロデは喜ばず、神の都のエルサレムの住民たちも喜ばなかったといいます。それは、2000年を経た現代でも、不思議なことに同じではないでしょうか。
この世の王と、この世の民、自然に生きている理性とこの世の知恵に生きている、ありのままの人間は、まことの王であるキリストを、受け入れず、拒むのであります。
ヘロデは、マギたちを、ひそかに呼び出し、その星の輝きだしたときを問いただし、また、聖書の専門家である民の律法学者や祭司たちを呼び、どこで、メシアが生まれることになっているのかを聞き出します。
彼らは、それは、ミカ書にあるとおり、ユダのベツレヘムです。なんじ、ベツレヘムよ、お前は、ユダの君たちの中でいと小さき者ではないと書かれています。なぜなら、そこから、指導者が出て、イスラエルの民を牧するからであると書いてありますと彼らは、すぐに答えるのです。
ヘロデはそれを、知って、マギたちを呼び出し、教えて、ベツレヘムへと送り出し、メシアを見つけたら、私にも教えてくれ、私も拝みに行くからと頼みます。
彼らはそれを聞き流して出て行くと、その星が再び現れて、彼らを先導し、その子のいる家の上まで導いたのです。彼らをそれを見て、すこぶる大きな喜びを喜んだと書いてあります。救い主に会う喜びにまさる喜びはないのです。
彼らは、用意していた宝の箱から、黄金、乳香、没薬をとりだして献げ、跪いて、礼拝します。そして、夢で、ヘロデの下に帰るなとのお告げがあったので、別の道を通って、自分の国へと引き返したのです。
この物語は、私たちが、救い主に出会った物語でもあります。旧約聖書に約束されていたメシアが、ユダ族から、生まれるとの預言が成就し、しかもそれが、異邦人である私たちに、今も示されているのです。
この年の初めに、今日、マギたちを導いたメシアの星が、私たちの歩み一年をも導いてくださると信じて、すべてをこの聖書一冊にかけながらスタートしていきましょう。
アーメン。

2016/01/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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