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津田沼教会 牧師のメッセージ
「だれを信じるのか」(ヨハネ1:1-14)
ヨハネ福音書第1章1節-14節、2015年12月20日、クリスマス主日聖餐礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第52章7節-10節、ヘブライ人への手紙第1章1節-9節、讃美唱98(詩編第98編1節-9節)

ヨハネによる福音書第1章1節-14節

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。ヨは言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。




説教「だれを信じるのか」(ヨハネ1:1-14)

クリスマス、おめでとうございます。私たちは、この日を、一足先に、キリストのご降誕を祝う主日として、迎えております。今日の与えられました、各朗読個所は、いずれも、み子のご到来を喜ぶ記事で満たされています。イザヤ書では、よき訪れを告げる者の足の美しさを、歌い、メシアが強い御腕をもって来られ、バビロン捕囚からイスラエルの民を導き帰られるヤハウェを賛美しています。
 ヘブライ人への手紙の冒頭の個所では、旧約の時代には、いろいろな形で、仕方で、神は預言者を通して語られたが、終わりの時には、み子を通して、救いを表わされたと書かれています。そして、このみ子、キリストの言葉を通して、すべてのものは、造られ、父なる神は、天使たちを、風や火のように用いて、ご自分に仕えさせたが、主イエスに対しては、「私は今日あなたを産んだ」と言われ、天使たちとは違って、「神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多くあなたに注いだ」と言われ、イエスのことを神と呼んでいます。
 さて、今日、クリスマスに与えられている福音は、ヨハネ福音書1:1-14であります。ヨハネ福音書の教会、初代の教会が歌っていた賛歌にヨハネ福音書記者が編集を加えたものだと言われます。「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった(神に向かってあった)、言葉は神であったと始まるこの記事が、クリスマスに、教会では伝統的に読まれてきました。それは、なぜなのか、その意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 私たちは、今日のこの書き出しの記事を聞きますとき、創世記の、初めに、神は天と地をお造りになったという、全聖書の一番最初の記事を思い起こします。そして、そこでも、神は、言葉を用いて、光あれと言われると光があり、そのようにして被造物のすべて空や、水や植物や生き物をお造りになりました。
 それに、対するように、福音書記者ヨハネは、初めに言葉、ロゴスがあった、そして言葉は神の傍らにあった、そして、言葉は、神であったと、この福音書を語り始めるのです。そして、言葉によって、すべてのものは、成った、言葉によらずして成ったものは一つとしてないというのです。この言葉とは、何のことでしょうか。あるいは、だれのことでしょうか。それは、ご想像されるでしょう通り、主イエス・キリストのことであります。主イエスが、神の現実として、初めからおられ、父なる神と向かい合っておられ、そして、私たち、すべての者が、この言葉によって、造られたのであります。今日の記事には、この「言葉」、私たちの新共同訳聖書では、「言」と一字で特別に書かれています、この言葉、ロゴスという字は、もとの文では1節と14節にしか、実は出て来ないのです。あとは、彼と出てくるのを、意訳しているのであります。
 Ⅰ章の14節は、そして、この言葉は、肉となった、そして、彼は私たちにおいて住んだ、出エジプトの神が、幕屋に臨んだように、私たちの所にテントを張って住んだ、そしって、私たちは、彼の栄光を見た、父からの独り子としての栄光を、それは、恵みと真理に満ちていたというのであります。
 神であられた言葉が、飼い葉桶に置かれた主イエスとして、人となられたことを、指しております。神が人となられた出来事がクリスマスであります。私たちを造られた言葉が、肉となり、造られた者の一部になられたのであります。そして、その神であられた方が、飼い葉桶から、十字架までの歩みをなされたのであります。
 この言葉は、命であり、光であり、この世に来てすべての人を照らすまことの光でありましたが、闇は、光を理解しませんでした。闇は、光であるこの言葉を把握せず、受け入れなかったということであります。
 光について、証しをするために、洗礼者ヨハネが起こされました。しかし、彼は光ではなく、光を証しするひと時のともし火であり、人々に光を証しする証人に過ぎませんでした。しかし、世は、光を受け入れなかったのであります。
 このクリスマスの祝いの時でありますが、私の脳裏に思い起こされますのは、信者であるにしろ、ないにしろ、召されていった人々のことであります。ことに同級生や教会で交わりをもった、若い兄弟姉妹、あるいは年配の方々、親しい恩師などは、地上を去ったということが信じられないのであります。
 しかし、初めからおられ、私たちを造られたお方が、私たちと同じ肉となられ、地上に、同じ造られた者の一部になってくださった。その方は、十字架の死をへて、よみがえって、父のもとに、帰られたが、今も、私どもに命を与え、まことの光として、すべての人を照らしておられます。
 律法はモーセを通して与えられましたが、その言葉である方の栄光を、私たちは見たのであり、今も見ているのであり、それは、真理と真理に満ちているのであります。その言葉を受け入れ、信じる者には、神の子たちとなる力、権利を与えられるのです。その光を拒む者は既に裁かれていますが、彼を受け入れる者には、慈しみとまことを示され、恵みに恵みを、加えて与えられます。
 私たちは、罪にまみれ、弱く迷い易いものですが、そのためにこそ、み言葉が、肉となられ、私たちの間に住み、罪のないお方を、父なる神は十字架にまでおつけになられるのです。私たちはいったいだれを、信じて生きていけばいいのか。今日の福音書は、それは、言葉であるお方であり、肉となられ、飼い葉桶に眠る主イエスであることをはっきりと指し示しております。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2015/12/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)