津田沼教会 牧師のメッセージ
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「二人の老人に示されたメシア」(ルカ2:25-40)
ルカ福音書第2章25節-40節、2015年12月27日、降誕後主日礼拝、(典礼色―白―)、エレミヤ書第31章10節-14節、ヘブライ人への手紙第2章10節-18節、讃美唱84(詩編第84編2節-13節)

ルカによる福音書第2章25節-40節

  そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、というお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」
 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌアルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年を取っていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。



説教「二人の老人に示されたメシア」

 降誕後主日となり、今は、正式には24日のイブ礼拝のときから、クリスマスに入っています。来年の顕現主日となりますその日まで、クリスマスが続きます。
 さて、今日の二人の人物、シメオンという言わば祭司のような、おそらく年老いた男の人物と、84歳にもなる女預言者が、主イエスの誕生後40日目くらいに、エルサレム神殿へ、両親が上って連れて行ったときの不思議な出会いと出来事が記されています。
 二人とも、イスラエル、あるいは、エルサレムが慰められる日が来る日を待ち望んでいる敬虔なユダヤ人たちであります。
 まず、シメオンは、敬虔で正しい人でありましたが、この主イエスが長男として奉献される日に、霊に導かれて神殿の境内に入ってきて、主イエスと出会うのであります。
 シメオンは、幼子イエスを腕に抱き、主よ、私は今こそ、御前を安らかに去ることだできます。なぜなら、私の眼は、あなたの救いを見たからですと、ルーテル教会の毎週の礼拝で歌う、ヌンク・デュミティスを歌い始めるのです。
 この救いは、もろもろの民のためにお備えになられたもので、異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光ですと。
 この喜びの歌は、しかし、この後、意外な預言へと移ります。驚いている両親に対して、さらに今度は、母マリアに向けて、この子は、イスラエルの多くの人を立たせたり、倒したりし、多くの者の反対を受けるしるしとなるであろうと、ある意味では不吉な、主イエスの十字架の死を予告する言葉を語るのです。
 しかし、それは、救われる者にとっては、救いの岩であり、滅びるべき者にとっては、躓きの石であります。さらに、マリアに向けて、あなたの心も、剣で刺し貫かれるでしょうと予告し、十字架上で主イエスが槍でわき腹を刺し貫かれることをも暗示したのであります。
 このときを同じくして、女預言者アンナが、現れます。彼女もまた、若くして、おとめ時代から7年だけ、夫と暮らし、しかし、その最愛の夫と死別し、84歳になっていた老女でありました。彼女もまた、熱心にエルサレムの慰めを待ち望み、神殿に通い続けて、嘆願と断食をしながら、礼拝に望みをかけてきた人で、この後、この子のことを人々に証し続ける者となりました。
 主イエスは、あなた方は幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできないと言われましたが、他方で、老人たちこそ、本当の信仰を育み、信仰の目で真偽を見分ける力に秀でているものであります。このクリスマスのよき訪れを、エルサレムの神殿で知りえたのは、この二人の老人たちであったのです。 両親は、ユダヤ教の敬虔な一員として、なすべきことをすまし、再びガリラヤのナザレへと引き返します。そして、イエスは成長し、恵みに満たされながら強くされつつあり、霊が彼に向かって、共にあったと記されています。この喜ばしいクリスマスのとき、この幼子において、救いを待ち望んでいたイスラエルの旧約の約束がここに成就していることを、私たちははっきりと見出すことができます。これからの一年を、この幼子と共に、恵みを見出す一年となりますように祈ります。アーメン。

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2015/12/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「世界の片隅に訪れた救い」(ルカ2:1-20)
ルカ福音書第2章1節-20節、2015年12月24日、降誕祭前夜礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第9章1節-6節、テトスへの手紙第2章11節-14節、讃美唱98(詩編第98編1節-9節)

ルカによる福音書第2章1節-20節

  そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。







説教「世界の片隅に訪れた救い」(ルカ2:1-20)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。

 皆さん、クリスマスイブ、おめでとうございます。皆さんにとって、この一年はどのような一年間であったことでしょうか。この2015年もまもなく終わろうとしていますが、今年も、さまざまな出来事があり、心を騒がせられる悲しい事件や紛争があり、世界は、また、日本は平和に向かっているというよりは、ますます不透明で、先の見えない歩みをしているように、思います。
 さて、今宵はクリスマスイブの礼拝をしており、これは、今から、少なくとも2015年以上も前に起こった、み子イエス・キリストのお誕生を祝う時を迎えているのであります。
 そして、実は、教会の暦では、むしろ、一年の新しい年を過ごしているのであります。
と言いますのも、今日は、白い聖卓の色、白いストールを、私も付けていますが、これは、クリスマスの色、神を表す色ですが、実は正確には、教会では、今年は11月の29日から、紫の色を使い、王を表す色であり、一年の教会の暦の上では、そこから、新年が始まり、アドベント、待降節として新しい年を、すでに出発しているのであります。
 先ほど、菊田女声の有志の方々に、歌っていただきました「久しく待ちにし」は、主イエスのご降誕を待ち望む賛美歌であります。
 そういうわけで、今日は、主イエス・キリストのお誕生を祝う礼拝であり、過去の一年を振り返ると言うよりは、新しい一年を、これからどう過ごせばいいのかを、考え、思い巡らす礼拝の時なのであります。
 与えられました福音、ルカによる福音書第2章1節から20節を、頼りに、主イエス、ご降誕の意味を、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、ルカは、その頃、これはもとの文では、「それらの日々に」となっているのですが、皇帝アウグスツウスのときに、シリアの総督がキリニウスのときの初めての人口調査が起こったと出てきます。
 ルカは、4人の福音書記者の中でも歴史に、相当忠実な記者なのですが、キリニウスがシリアの総督であったのは、紀元後、6~7年の頃とされています。皇帝アウグスツウスは、紀元前30年頃から、紀元後10数年まで、あのジュリアス・シーザー(カエサル)の後を継いで、皇帝となり、アウグスツウスの平和と呼ばれる、力によるローマ帝国を築き上げたような人物であります。ですから、この住民登録が、果たして、ここに書かれている通りだったのかは、疑いないわけではありません。
 しかし、このローマ世界での権力者の出した命令によって、ナザレに住んでいた、ダビデの家の出のヨセフと、婚約していた、しかも身ごもっていたマリアが、ガリラヤのナザレから、メシアが出ると預言されていたユダヤのベツレヘムへと導かれることになったと、ルカは記しているのであります。それは、ヘロデ大王の統治のときでもありましたから、少なくとも、紀元前4年以前のことでありました。そして、大勢のものが、自分の故郷へと向かっていきましたが、ヨセフとベツレヘムまで、来て、ついに、マリアは、月が満ちて、男の子の初子を産み、布でくるみ、産帯をして飼い葉桶の上に寝かせました。彼らには、その宿舎には、場所がなかったからだと記されています。
 他にも大勢、この村に戻ってきた者たちがいたからでありましょうが、そうお金持ちではなかった二人には、お産をするのには、この場所しかなく、これは馬小屋とも訳され、その宿舎の裏庭か、洞窟であったと想像する人もあります。
 先に、六ヶ月ほど前に生まれた洗礼者ヨハネは、ユダの山里で、人々が祝い、この子はどんな子になるだろうかと言い、父ザカリヤもベネディクトスという賛歌をうたい、それまで、父は、天使のお告げを信じなかったので口が利けなくなっていた、といった奇跡や、反響があったのに対して、非常に簡潔に、私たちと同じように、生まれ、そしてしかも、「飼い葉桶の上に」寝かされた事実だけが、語られています。
 
さて、しかし、この出来事は、思わぬ形で、ベツレヘムから、死海のほうに下る羊飼いの野と言われる地域で野宿をして、自分たちの羊の番をしていた羊飼いたちに、天使のお告げと言う形で知らされます。それは、ベツレヘムの出身で、サウルに代わって王となったダビデが、エッサイの七番目の末子として、羊の世話をしていたことにも、因んでいるのでしょう。私も、今から30年近く前、「出エジプトの旅」と題して、神学校に入って一年経った春休みに、モーセとイスラエルの民が辿った年の旅を、思い起こしながらの15日間の聖地旅行に行ったことを思い起こされます。ユダの荒れ野の、死海近くのエン・ゲディというダビデもサウル王の手を逃れて隠れていたところにできたホテルに一泊しました。その時の荒れ野で見た、あれほど、くっきりした大きな月を晴れ渡った夜に、散歩に出て見たのですが、それ以後も見たことはありません。
そういうところで、羊の番をしていた羊飼いたちのところに、主のみ使いがそばに立ったのです。そして、主の栄光が彼らの周囲を照りめぐらしたのであります。
彼らは大きな恐れを、恐れたとあります。すると、み使いは、「恐れることはない。私はあなた方に民全体にそうなる大きな喜びを告げる。今日、あなた方に救い主が生まれた。それは、ダビデの町における主、メシア(油を注がれた者、キリスト)である」と語るのです。しかも、さらに、こう語るのです。「これが、あなた方へのしるしである、すなわち、あなた方は、布に包まれて、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を見るであろう」と。
大きな喜び、救い主のしるしは、飼い葉桶に寝かされた、私たちと同じ、母親の世話なしには生きられない弱く、脆い、低い身分となって生まれる男の子であると言うのです。
と、突然、天の軍勢が起こり、神をあがめ、賛美しながら、彼らが加わってこう歌い出すのです。
「栄光がいと高きところにおいて、神に。
 そして、地上で、平和が、ご好意の人々に。」
救い主誕生の知らせは、天使たちによって、局外者の羊飼いたちに、まず最初に知らされました。真っ暗な世界の片隅で、ローマの宮廷にでもなく、エルサレムの祭司や律法学者や都の人々にでもなく、また、宿舎にいた他の客たちにでもなく、ある意味では見捨てられた者たち、局外者であった羊飼いたちに、天使たちを通して知らされるのです。
栄光が天において、神に。そして、地上に、平和が、神のご好意の人々にと。神の輝かしいみ栄えが、天に顕され、そして地の上で、ご好意を受ける人間たちにあるというのです。
この平和は、旧約聖書が書かれているヘブライ語では、シャロームと言いますが、これは、はかない権力とか力によってもたらされる、たとえば、当時のアウグスツウスによる平和ではなく、神のご好意を受ける、神の喜びとされる人間たちの上にもたらされる救いであり、調和であり、神さまによって与えられるすこやかさとでも言えましょう。羊飼いや、世において見捨てられている人たちに限らず、思い煩い、しかしなお、神のみ心に適うように生きようとしている私たち、すべての者に、この日、神のもたらされる平和が与えられたのであります。

この天使たちが、奏でる賛美歌と共に、去ったとき、羊飼いたちは互いに言い合っていました。「主によって語られ、成った、この言葉、レーマ、出来事を見に、ベツレヘムへ行こうではないか」と。この言葉は、既に、成っている出来事であります。しかし、それを見に行こうではないかと、彼らは急いで、出て行き、探し当てるのです、飼い葉桶に布切れで包まれた嬰児と、マリアとヨセフとを。
そして、羊飼いたちは、そこにいた人々に、自分たちに語られた言葉と出来事とを告げ知らせるのであります。しかし、これを聞いたものはみな、不思議に思ったとあります。これは、昔の文語訳では、聞きし者は、皆、怪しんだと訳しています。彼らには、信じられなかったのであります。すなわち、神が人となられたのでありますが、そのしるしが、飼い葉桶であり、しかも、布切れで辛うじて命を守られている乳飲み子であることは、受け入れられなかったのであります。しかし、マリアは、羊飼いたちと同じように、信じることができたのであります。彼女は、それらの言葉、レーマ、成った出来事を、心のうちに宝物のように積んでいた、そして、それを、あれこれと思い巡らしていたのであります。
そして、羊飼いたちは、帰って行きます、自分たちに語られたとおりに、彼らが見、聞いたすべてのことの上に、神をあがめ、賛美しながら、であります。
私たちも、今宵、この羊飼いたちのように、主のなされた出来事・言葉を信じ、それを、周囲の人々に告げ知らせる証人として帰宅の途についたいと思います。
一言、祈ります。天の父なる神。あなたは、およそ2000年前、世界の片隅で、み使いを通して、救い主の誕生を、最初に羊飼いたちに知らされました。私たちも、今宵、この言葉、出来事を信じ、周囲の人々に告げ知らせる者としてください。キリストのみ名によって、アーメン。
2015/12/24(木) 19:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「だれを信じるのか」(ヨハネ1:1-14)
ヨハネ福音書第1章1節-14節、2015年12月20日、クリスマス主日聖餐礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第52章7節-10節、ヘブライ人への手紙第1章1節-9節、讃美唱98(詩編第98編1節-9節)

ヨハネによる福音書第1章1節-14節

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。ヨは言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。




説教「だれを信じるのか」(ヨハネ1:1-14)

クリスマス、おめでとうございます。私たちは、この日を、一足先に、キリストのご降誕を祝う主日として、迎えております。今日の与えられました、各朗読個所は、いずれも、み子のご到来を喜ぶ記事で満たされています。イザヤ書では、よき訪れを告げる者の足の美しさを、歌い、メシアが強い御腕をもって来られ、バビロン捕囚からイスラエルの民を導き帰られるヤハウェを賛美しています。
 ヘブライ人への手紙の冒頭の個所では、旧約の時代には、いろいろな形で、仕方で、神は預言者を通して語られたが、終わりの時には、み子を通して、救いを表わされたと書かれています。そして、このみ子、キリストの言葉を通して、すべてのものは、造られ、父なる神は、天使たちを、風や火のように用いて、ご自分に仕えさせたが、主イエスに対しては、「私は今日あなたを産んだ」と言われ、天使たちとは違って、「神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多くあなたに注いだ」と言われ、イエスのことを神と呼んでいます。
 さて、今日、クリスマスに与えられている福音は、ヨハネ福音書1:1-14であります。ヨハネ福音書の教会、初代の教会が歌っていた賛歌にヨハネ福音書記者が編集を加えたものだと言われます。「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった(神に向かってあった)、言葉は神であったと始まるこの記事が、クリスマスに、教会では伝統的に読まれてきました。それは、なぜなのか、その意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 私たちは、今日のこの書き出しの記事を聞きますとき、創世記の、初めに、神は天と地をお造りになったという、全聖書の一番最初の記事を思い起こします。そして、そこでも、神は、言葉を用いて、光あれと言われると光があり、そのようにして被造物のすべて空や、水や植物や生き物をお造りになりました。
 それに、対するように、福音書記者ヨハネは、初めに言葉、ロゴスがあった、そして言葉は神の傍らにあった、そして、言葉は、神であったと、この福音書を語り始めるのです。そして、言葉によって、すべてのものは、成った、言葉によらずして成ったものは一つとしてないというのです。この言葉とは、何のことでしょうか。あるいは、だれのことでしょうか。それは、ご想像されるでしょう通り、主イエス・キリストのことであります。主イエスが、神の現実として、初めからおられ、父なる神と向かい合っておられ、そして、私たち、すべての者が、この言葉によって、造られたのであります。今日の記事には、この「言葉」、私たちの新共同訳聖書では、「言」と一字で特別に書かれています、この言葉、ロゴスという字は、もとの文では1節と14節にしか、実は出て来ないのです。あとは、彼と出てくるのを、意訳しているのであります。
 Ⅰ章の14節は、そして、この言葉は、肉となった、そして、彼は私たちにおいて住んだ、出エジプトの神が、幕屋に臨んだように、私たちの所にテントを張って住んだ、そしって、私たちは、彼の栄光を見た、父からの独り子としての栄光を、それは、恵みと真理に満ちていたというのであります。
 神であられた言葉が、飼い葉桶に置かれた主イエスとして、人となられたことを、指しております。神が人となられた出来事がクリスマスであります。私たちを造られた言葉が、肉となり、造られた者の一部になられたのであります。そして、その神であられた方が、飼い葉桶から、十字架までの歩みをなされたのであります。
 この言葉は、命であり、光であり、この世に来てすべての人を照らすまことの光でありましたが、闇は、光を理解しませんでした。闇は、光であるこの言葉を把握せず、受け入れなかったということであります。
 光について、証しをするために、洗礼者ヨハネが起こされました。しかし、彼は光ではなく、光を証しするひと時のともし火であり、人々に光を証しする証人に過ぎませんでした。しかし、世は、光を受け入れなかったのであります。
 このクリスマスの祝いの時でありますが、私の脳裏に思い起こされますのは、信者であるにしろ、ないにしろ、召されていった人々のことであります。ことに同級生や教会で交わりをもった、若い兄弟姉妹、あるいは年配の方々、親しい恩師などは、地上を去ったということが信じられないのであります。
 しかし、初めからおられ、私たちを造られたお方が、私たちと同じ肉となられ、地上に、同じ造られた者の一部になってくださった。その方は、十字架の死をへて、よみがえって、父のもとに、帰られたが、今も、私どもに命を与え、まことの光として、すべての人を照らしておられます。
 律法はモーセを通して与えられましたが、その言葉である方の栄光を、私たちは見たのであり、今も見ているのであり、それは、真理と真理に満ちているのであります。その言葉を受け入れ、信じる者には、神の子たちとなる力、権利を与えられるのです。その光を拒む者は既に裁かれていますが、彼を受け入れる者には、慈しみとまことを示され、恵みに恵みを、加えて与えられます。
 私たちは、罪にまみれ、弱く迷い易いものですが、そのためにこそ、み言葉が、肉となられ、私たちの間に住み、罪のないお方を、父なる神は十字架にまでおつけになられるのです。私たちはいったいだれを、信じて生きていけばいいのか。今日の福音書は、それは、言葉であるお方であり、肉となられ、飼い葉桶に眠る主イエスであることをはっきりと指し示しております。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。

2015/12/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マリアの従順な信仰」ティモシー・マッケンジー牧師
日本福音ルーテル津田沼教会     
待降節第3主日、2015年12月13日                       
Luke 1:26-38 
説教者、ティモシー・マッケンジー 
    
「マリアの従順な信仰」
 
 皆さまの上にキリストの平安がありますように。
 皆さん、お早うございます。今日、津田沼ルーテル教会に於いて共に礼拝することが出来るのは、誠に喜ばしいことです。この礼拝の準備をされた皆様に感謝しています。またルーテル学院大学・日本ルーテル神学校よりご挨拶を申し上げます。皆様がいつも心厚く本学をご支援して下さることを心から感謝しております。
 さて、クリスマスが近づいて来ました。どこに行ってもクリ
スマスの飾りや音楽やグッズを販売しています。クリスマス会やプレゼントの季節に成りましたね。
 このような世俗のクリスマスの中で、教会は、待降節(アドベント)の第3主日に向かいます。教会の中でも、主イエスの降誕を迎えるために、色々なご準備をしていらっしゃることでしょう。例えば、教会の飾り、アドベント礼拝と様々な集会、クリスマス・コンサート、贈り物を用意すること、お菓子を焼くことなどです。クリスマスの準備の季節は本当に忙し過ぎるような気がする!
 ところで、Adventという言葉の意味は「顕われる」と言う意味です。キリストが顕われることを待つという意味です。このために日本語で「待降節」と言います。待降節の中で、主イエスを待つことがこの季節の目的です。
 しかし、我々は本当に待っていますか。我々は祈りや瞑想の内に主イエスの降誕を待ち望む時間をとっていますか。クリスマスの準備はバンバンしていますが、心の準備はいかがでしょうか。
 本日の福音書は忙し過ぎる私たちにマリアの例を見せて下さいます。マリアは神の言葉を信じて、身ごもって、救い主になるイエスを待ち臨みました。クリスマスは近づいてきました。そして、今日マリアが我々を思い出させて下さるのは、クリスマスに対して「信仰」が最も必要な心の準備ということです。
 恐らく、静かに待つことが現代のクリスマスの一番大きなチャレンジです。なぜなら、世俗した社会のクリスマスの過ごし方が私たちを引っ張るからです。しかし、近代のサンタさんやプレゼント交換やクリスマスケーキなどの時代の前には、「待降節」は復活祭の前の「四旬節」のような季節でした。中世の時代には待降節は悔い改めるための季節で、救い主の降誕を迎えるために、自分の罪と神の憐れみと贖いについて祈る季節でした。私たちの近代の世界は殆どこれを忘れています。
 今日の福音書の中心はマリアの信仰です。マリアが天使ガブリエルの予告を通して神の言葉を信じたからです。今日の福音書の中で、天使ガブリエルは言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの言葉は何のことかと考え込んだ。天使ガブリエルは言い続いた。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子を言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 ガブリエルの言葉は救い主を描きます。生まれる子は偉大な人となり、ダビデ王の王座から永遠に支配される。しかし、イエスは何の王になるのでしょうか。イエスは「平和の主」(テサロニカ二3:16)になるために、イエスの王座からはいつまでも平和が与えられます、
 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」当然の質問です。マリアの信仰は質問を聞くのを恐れません。これは私たちの祈りの生活に大きなヒントを与えるのではないかと思います。
 マリアの質問に対して、天使は言った。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる…神にできないことは一つもない。」ああ、なるほど、マリアが身ごもることは神の聖霊の力による出来事で、マリアの助けを求めている理由は「聖なる神の子」を産むためです。又、私たちの場合、神様に頼まれている時に、神様が私たちの力を貸して欲しい時に、私たちはどのように答えるでしょうか。
 マリアは天使ガブリエルの言葉を聞いてから次のように言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この言葉はマリアの信仰を示している。
 さて、教会の歴史や伝統の中で、何でマリアが偉大な人物になったのでしょうか。その関係はマリアの従順な信仰が神の救いの計画と結ばれているからです。古代教会のわりと早い時期から、マリアはギリシア語で「Theotokos」(神を産む方)と賛美されていました。天地創造の最初の女性イブが神の言葉に背いて罪を犯し、人間の堕落となったのと反対に、マリアは神の言葉を信じることにより人間の罪と堕落を救ってくださるイエスを産みます。
 初代教会の431年に行われたエフェソ公会議でマリアは「Theotokos」(神を産む方)と定義されました。その理由は、マリアによって産まれるイエスは神と人間の両方であるからです。神の救いの物語の中で、マリアの役割は不可欠な役割です。そして、この理由で、アドベントの礼拝の中でマリアのことを賛美し、神に感謝するのです。
 毎日、信仰生活を送ろうとしている私たちにとって、マリアの従順な信仰の例が必要だと思います。神は権威や権力や経験強い人を通して救いをもたらしたのではなく、神はその当時には特に立場の弱い若い女性を選んだ。マリアの信仰は小さく見えるが、実に最も強い信仰なのです。世界の権威や権力や経験より強いのです。マリアの信仰が神の救いの計画を受け入れ、信じた。罪に堕ちた全人類への救いの道を開いたイエスを産みました。そして、マリアに産まれたイエスの十字架と復活によって、私たちは神の憐れみと愛を受けています。このために、2,000年後に私たちはまだまだマリアを覚えています。マリアはキリスト者の信仰の模範になります。
 そうであるから、小さくて弱い人間である私たちは、神の言葉に従順な信仰とはどのようなことを成し遂げられるのかをマリアの例を通して覚えます。教会の待降節の中で、最も忙しい季節の中で、私達はマリアとともに立ち、もう一度信仰の原点へ戻ろうとします。クリスマスを迎えるために、マリアの信仰をキリスト者の必要な心の準備として覚えるのです。若し、マリアとともに立てば、我らも、信仰が強められ、そして我らもマリアのように答えられます。「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身に成りますように。」アーメン。



2015/12/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスよ、来てください」(ルカ3:1-6)内海望牧師)
ルカ福音書第3章1節-6節、2015年12月6日、待降節第2主日礼拝、(典礼色―紫―)、マラキ書第3章1節-3節、フィリピの信徒への手紙第1章3節-11節、讃美唱126(詩編第126編1節-6節)

ルカによる福音書第3章1節-6節

  皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リアニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」



  説教「主イエスよ、来てください~待降節に~」内海望牧師

 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。

 今日は、与えられた三つのの日課を通してみ言葉を聴きましょう。
 私たちは、先週から待降節、主のご降誕・クリスマスを迎える準備の時を歩んでいます。ここで、改めて「クリスマス」とは何か、ということを考えてみることは大切だと思います。
それは、フィリピ書2章6節以下に明確に記されています。(p.363)
 クリスマスは、イエスさまが私たちを救うため、神さまの身分を放棄して(無にして)僕となり、苦しみ悩む人間世界の真っ只中に来られたという出来事なのです。イエスさまは、私たち人間の苦しみ、悲しみを共に分かち合うために、一切の尊厳を奪い取られた姿で十字架の死を経験されたのです。飼い葉桶と十字架はかけ離れたものではありません。従って、このアドベントの時期、私たちは歓びのハレルヤ唱を四旬節(受難節)に歌う詠唱に代えています。
 ルターは、このクリスマスの出来事を前にして、「どうして宇宙の創造主が、私たち人間の肉をまとい、私たちの悲しみを共に分かち合うほど人間を顧みたもうのか理解できない。」と、神さまの人知を超えた大きな愛に感動のあまり、言葉を失っています。
 「イエス・キリストがこの世を救うために来られた」というクリスマスの出来事は、これほど衝撃的な出来事なのです。
 ところで、私たちは、ルターから「神さまの前に立つ有機」を学びたいと思います。アダムとエバが神さまの命令に背いて木の実を食べて以来、私たち人間は皆、「隠れる者」、あるいは、「罪を隠す者]になってしまいました。「神さまと顔を合わせたくない」「知られたくない」と神さまを避けてこそこそと生きるようになったのです。人間同士も同じです。
 アダムとエバは、神さまの顔を避けて木の間に隠れました。木の葉で身を隠そうとします。ところが、神さまは、ご自分の方から、逃げ隠れる二人に近づき、「どこにいるのか」と愛をもって呼びかけて下さいます。神さまは、今、私たちにも同じように呼び掛けて下さっています。しかし、私たちは、アダムとエバ同様、この呼びかけを聞いて、ますます心を閉ざし、自分の本当の姿を隠そうともがき、自分の殻に逃げ込もうとするのではないでしょうか。
 しかし、ルターは、この神さまの呼びかけに対して、敢然と「はい、ここにおります。」と答え、主の前に立ったのです。勇気ある生き方です。しかし、危険な生き方でもあります。
 ここで、今日のマラキ書の日課を見ましょう。
 マラキは「あなたがたが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」と語り、更に「彼が現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ」と。
 勇気をもって、「はい、ここにおります。」と神さまの前に立ったルターですが、そこで知らされたのは、自分の罪の深さでした。言い逃れるすべを失ったルターは「私の罪、私の罪」と叫んで倒れてしまいました。マラキが心配したように神さまの精錬する火に耐えることが出来なかったのです。ルターは、もはやあれこれの罪ではなく、全くの罪人でしかない自分を知り、絶望したのです。しかし、ルターは、それでもなお「主よ、来てください。」と深い淵から救いを祈り求め続けました。
 詩編130編はルターの特愛の詩です。(p.973)。彼はこの詩によって讃美歌史上に残る名曲を作詞、作曲したほどです。それほど口づさんだと言えましょう。
 「深い淵」という言葉は、「底知れない」という意味です。底知れぬ奈落の底に落ち込んでいる詩人は今、飢え渇くように必死に救いを求めているのです。ルターはこの詩人の姿に自分の姿を重ね合わせ、共に祈ったのです。

 「霊的飢餓」という言葉があります。私たちは、空腹になると食べ物を求めます。飢餓感がそうさせるのです。同じように、私たちは霊的な飢えを魂に持っています。「主よ、この声を聴き取って下さい!」という切実な祈りがあります。
 待降節(アドベント)とは、この詩人またルターと共に、「主イエスよ、来て下さい」と祈り求める時です。しかし、私たちは、そのような切実な思いで。「主イエスよ、来てください。」とクリスマスを待ち望んでいるでしょうか。

 誰の心にも霊的飢餓(祈り)はあります。しかし、正直言ってなかなか、それと向き合う時間がありません。日常生活というと、「退屈な、同じことの繰り返し」と考えられがちですが、実情は、次から次へと間断なく、思い煩いに追いまくられているのです。家庭のもろもろの事柄、育児、経済、介護、病気、近所づきあい、会社のこと等々、心を悩ます事柄が後を絶ちません。心の奥底に霊的渇きがあることを感じながらも、それを潤すことは後回しにしてしまうのが現実ではないでしょうか。
 私たちは、今日、待降節・アドベントというまたとない機会が与えられています。心を静め、赦しの恵みを祈り求める大切な時です。ヨハネは、「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。」と語り、人々に「悔い改め」を促しています。聖書で、「悔い改め」という言葉は、単に犯した罪を暗い思いで悔むという後ろ向きの姿勢ではなく、積極的に、自己の心を、神さまに向かって「方向転換」させることです。それが、「道を整え、まっすぐにする」ことなのです。
 ルターは、大胆に神さまの前に立ちましたが、もっと大胆に、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しを信じ、ヨハネの指さす方向に歩みを転換しました。その時、真の救いを経験することが出来ました。もはや、何者も自分をキリストにおける神さまの愛から引き離すことは出来ないという喜びを得たのです。私たちも、日々の歩みを方向転換し、イエス・キリストの十字架の愛に生きる喜びに与りましょう。
 イエスさまの生涯は十字架の死によって終わったのではありません。イエスさまは、復活し、罪と死の勝利者となられました。イエスさまの復活によって、私たちは、罪の赦しと新しい命に生きる喜びを与えられたのです。すべて赦されたのです。
 パウロは今日の日課で次のように語っています。フィリピⅠ章5、6節(p.361)。これは、キリスト・イエスを通してなされる神さまの業への信頼です。どんな神さまの御業に逆らう力が強くても、神さまの愛の業は必ず完成するという確信です。更に、方向転換することによって見えてくることがあります。それは、「人生で何が重要か見分ける力」です。これが「道を整え、真っ直ぐにする」ということです。
 いま、世界は騒然としています。無辜の命が正義の名のもとに殺戮され、憎しみの連鎖はとどまることがありません。心痛むことがあまりにも多すぎます。ともすれば、望みを失ってしまいます。
 しかし、幸いなことに、私たちは、イエス・キリストの愛のみ業を信頼することが出来ます。その信頼のうちに、「主イエスよ、来てください」(マラナ・タ)と祈る時、希望が与えられます。決して諦めることなく、イエスさまの愛に生き、その愛を伝えて行く勇気・力を与えられます。共に新しい一歩を踏み出そうではありませんか。そして、クリスマスを心からの喜びと感謝と希望の内に迎えようではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。







2015/12/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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