津田沼教会 牧師のメッセージ
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「救い主を待ち、備えよう」(ルカ19:28-40)
ルカ福音書第19章28節-40節、2015年11月29日、待降節第1主日礼拝、(典礼色―紫―)、エレミヤ書第33章14節-16節、テサロニケの信徒への手紙二第3章6節-13節、讃美唱25(詩編第25編1節-9節)

ルカによる福音書第19章28節-40節

  イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主に名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、
いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」




 説教「救い主を待ち、備えよう」(ルカ19:28-40)

 アドヴェント、待降節に入りました。新しい教会暦の一年を、今日からルカ福音書を中心としながら、三年サイクルのC年として始めます。そして、このアドヴェントの第1主日と、来年の3月27日に迎えます復活祭の前の日曜日である枝の主日に、今日の記事と、その後に続いている、エルサレムを見ながらの主イエスの嘆きと、その後の、エルサレム神殿を清めるという出来事が記されています第19章の終り、48節までが、再び読まれます。
 一年の教会暦の中でも、非常に大切な、あるいは素晴らしい節目に、このエルサレム入城という同じ個所が二度に渡って読まれるということは、この記事がそのように読まれるようになったのは、紀元後5世紀、あるいは6世紀ころまでには、定着していたと言われますけれども、それを見ても、ここの記事がどれほど教会で愛され、大事にされていたかを示していると言えましょう。

 「エルサレムへの入城」は「勝利の入城」とも言われますけれども、ルカによる福音書を読みますとき、決して人々が歓呼して、勇壮な王を迎え入れたもののようではないのであります。教会暦の新しく始まるこの日に、主イエスのエルサレム入城を読む意味について、しばらくご一緒に考えてみましょう。

 今日の参照として、週報に載せています讃美唱である詩編第25編1節から9節までは、主なる神のまことの道を教えてくださいとの願いと共に、自分の、あるいはイスラエルの若かったときに犯した罪と背きを、あなたは思い起こさず、み恵みのために、私にみ心を留めて下さいと詩人は歌っています。主イエスの再臨を待ち望むべきときでもあるアドヴェントの初めに当たって、私どもが、それにふさわしくあるように、身を整え、目を覚まして備え歩ませて下さいと祈り、そして、あなたはその道を貧しい人に教えてくださいますとの、主への信頼を歌っています。

今日の第1の朗読、エレミヤ書第33章14節から16節は、ダビデのためにわたしは正義の若枝を生えいでさせると、ヤハウェは約束しておられ、その日にはエルサレムは人の住まう都となり、その名は「主は我らの救い」と呼ばれるであろうと重ねて約束されています。

さらに、今日の第2の朗読、テアロニケの信徒への手紙二では、パウロは再臨が近いとの信仰のもとで、あなたがたは、なげやりな、だらしない生活に陥ることなく、たゆまず働いて、各人は自分の手でパンを得ることができるように励み、そのために目を覚まして生活するようにと励ましています。

それに続く福音の朗読が、今日のルカ福音書第19章28節から40節までであります。今日の出だしの記事は、主はこれらのことを話した後にとありますが、それは、今日の記事のすぐ前に出てくる「ムナ」の譬えを指しています。弟子たちは、エルサレムへの旅が終わりに近づき、今にも神の国が現れるのではないかと思っていた時に、この譬えを話されていたのであります。

それは、ある王が、王の位を得るために、10人のしもべに、それぞれ1ムナすなわち100デナリオン相当を与えて旅に出る譬えであります。1ムナは、100デナリオンで当時の労働者の一日の賃金が1デナリオンほどであったと言いますから、各人に100万円ほどをそれぞれに渡して、旅に出たと言っていいでしょう。マタイ福音書では、しもべに、それぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンずつ預けています。1タラントンは6000ドラクメ、1ドラクメはⅠデナリオンですから、最低でも6000万円ほど預けていますから、額が全然違っています。

しかし、ルカの「ムナ」の譬えでは、この人が王位を得て帰って来るのを望まない市民たちが先に陳情して、王位をもらってベタニアも戻って来るのを妨げようとするのであります。これは、ヘロデ大王やその子、アケラオが、ローマに行って、ユダヤの王になることを、ユダヤの民は好まなかったという故事に由来して、それに則って、主イエスがなさった譬えとも考えられていますが、ここでは、遠く旅をして、王位を得て戻ってくるのは、この譬えを語っている主イエスご自身を指しているとも考えられるのであります。

この王であるイエスが、この譬えをなさった後で、今日の出来事へと続いているのであります。すなわち、主イエスは、このエルサレム入城の出来事において、ご自分が王であること、そして、メシアであることを示され、メシアとしてふるまわれておられるのであります。その王、メシアとは、どのような王なのでありましょうか。

主イエスは、「ムナ」の譬えをなされた後、先頭に立たれて、エルサレムへと、そして、ベトファゲ、ベタニアへと、オリーブ山に向かってやって来られます。ベトファゲとは熟していないいちじくの木の家という意味があり、ベタニアも、なつめやしの家との意味だとも言われ、そうすると、パレスチナではその辺りは非常に肥沃な地であったのかもしれません。

そこに、近づいたときに、主は二人の弟子を遣わして言われるのであります。「向こうの村へと出て行きなさい、そうすると、まだだれも乗ったことのない子ろばがつながれているのを、あなた方は見出すであろう。それを、解いて連れて来なさい。もしだれかが、なぜ、子ろばを解いたりするのかと訊いたら、その主が必要としていると言いなさい」と託して、主は遣わされたのであります。

そして、主イエスの言われたとおりにことは進み、その通りに、二人は見出すのであります。主イエスのお言葉を、その通りに従いますと、言われたとおりに二人は見出していく。それは、すばらしい体験であったに違いありません。この後にも、エルサレムの都に入って後に、最後の晩餐の用意をさせに、主が二人を遣わした時にも、同じことが起こっています。私たちも、主のしめされるお言葉どおりに、出て行き、同じみ言葉体験をするようにと、この日の出来事は教えているのではないでしょうか。

さて、まだ、だれも乗ったことのない子ろばというのは、神聖なことのために、すなわち、主イエスのご用のために用いられることを意味しています。まだ、使われたことのない動物、牛などが、たとえば血を流した罪に対する犠牲として、旧約聖書の中では用いられたりしています。ただ経験がないというのではなく、主イエスのご用のために、神聖な任務を負わされているのは、実は私たちのことではなかったでしょうか。

主イエスの言われたとおりにことは進み、子ろばを解いていると、その持ち主たちが何で解いたりするのかと、訊ねるのであります。

今日のこの、子ろばがつながれているというのは、創世記第49章の11節と12節で、シロという者が来て、諸国の民は、彼に従い、彼はろばの子をぶどうの木につなぐとあり、彼はぶどう酒で自分の衣を洗い、その目はぶどう酒によって輝き、その歯は乳によって白くなると出てきます。

そこでは、非常に豊かな王が暗示されていますが、エルサレム入城の主イエスはそれとは全く異なって、柔和な王、低くされた、貧しいお方としてお出でにあられているのです。

子ろばの持ち主たち、これも主という同じ字ですけれども、彼らに対して二人は、その主が必要を持っていると、言われていたとおりに答えるのです。主は神聖な子ろばを、人を乗せたことのない子ろばを必要とされます。アドヴェントを迎えた今日、主は、このときと同じように主のお言葉に従って、ご用をなすように、お命じになっています。そして、主の言われたことはその通りに進んでいくのです。

今日の福音の記事のすぐ前に主が語られた「ムナ」の譬えは、しもべの一人一人に、み言葉が預けられていることを意味しているとも言えましょう。そのみ言葉を、私たちは信頼して従っていくようにと招かれているのであります。

さて、二人は、子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に放って敷いた後、主イエスをお乗せします。すると、大勢の弟子たちが、主イエスの前に自分対の服を敷いて、大声で賛美し始めます。

ほめたたえられよ、お出でになっている方は、主の名において来られている王はと。そして、天には平和、いと高き所では、神の栄光がと。主イエスの誕生の時には、地には平和、神には天で栄光がと天使の軍勢は歌いました。
ここでは、天において平和がと、変えられています。ルカは、ここで詩編第118編26節からおそらく引用しています。ホサナ、どうか、主よ、私たちを救ってくださいは、ルカ福音書にはありません。その代わり、天において平和が、いと高き所に栄光があるようにと加えています。ここでは、この後まもなく、主イエスは、人間の罪のために十字架につき、復活して、天と神との間の平和、そして、和解がもたらされるのであります。

ルカでは、主イエスの弟子たちだけが、この賛美を大声で喜び叫んでいます。共に巡礼の旅をしてきたはずの群衆や、あるいは、ヨハネ福音書のように、都から迎えに来る人々は除外されています。

主イエスは、エルサレムの当局や官憲から、知られないように、子ろばを用意させ、弟子たちだけに、メシアとして賛美させ、エルサレムにメシアとしてふるまいつつ、入城なさているのであります。

しかし、群衆の中から、ファリサイ派の者たちが、叫んで、先生、あなたの弟子たちを叱って下さいと言って、このメシアとしてエルサレムに入城なさった主イエスを拒んでいるのであります。ちょうど、「ムナ」の譬えの市民たちが、王として位を得ようとした人物を拒んだように、彼らはメシアを受け入れませんでした。

しかし、主イエスは、答えられます。もし、この者たちが黙ったなら、この石どもが叫び声をあげるであろうと。

このようにして、メシアが、エルサレムへと、子ろばに乗って、勝利の入城を果たしておられるのであります。家造りらには、拒まれたが隅の親石となられる主イエスがこの日、はっきりと救いをもたらすメシアとして、お出でになられたのであります。そして、この方は、クリスマスの時に、馬舟の中でお生まれになられましたが、再び、エルサレムにお出でになられる再臨の主でもあります。

このアドヴェントを迎えた今日、主が私たちを用いたいと言われているのであります。この日、ホサナと叫んで歓びの叫び声をあげた弟子たちと同じように、この主イエスのご到来を喜び迎えるために、目を覚まし、備え、また日々の生活を整え、主のご用のために用いていただき、そのために、それぞれの持ち場で働き勤しむ者とさせていただきましょう。

祈ります。

天の父なる神さま。

 新しい教会の一年が、また新たに今日から始まりました。あなたが必要とされる子ろばとして、それぞれが仕えていくことのできる一年とならせてください。まことの王としてお出でになられ、子ろばに乗り、柔和な方、心貧しくあらゆるどん底にまで身を低くされ、虐げられた者の友となって下さったみ子を、再び待ち備える時を得させて下さい。そして、主のご降誕を共々に喜び迎えるために、慎み深く生活し、また、悔い改めの時を与えて下さい。キリストによって祈ります。アーメン。











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2015/11/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「永遠に朽ちない言葉」(マルコ13:24-31)
マルコ福音書第13章24節-31節、2015年11月22日、聖霊降臨後最終主日礼拝、(典礼色―緑―)、ダニエル書第7章9節-10節、ヘブライ人への手紙第13章20節-21節、讃美唱108(詩編第108編2節-7節)

マルコによる福音書第13章24節-31節

 「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」



説教「永遠に朽ちない言葉」(マルコ13:24-31)

今日は、教会では一年の最後の日曜日です。同じ総武地区の市川教会では、この日を召天者記念礼拝として守ると聞きました。私たちの命と死について、想い起こし、残された生涯を、目覚めて、確かな歩みをするべき時として、一年の終わりの礼拝に、先に召された人々の信仰の生涯を思い起こすと共に、改めて、自分の生き方を振り返る意味で、それもまた、ふさわしいと、思わされます。

さて、今日の教会暦聖書日課3年サイクルB年、最後のマルコ福音書と共に与えられている、それぞれの聖書の個所は、いずれも決して暗いものではなく、確かな約束とそれへの信頼を表わすみ言葉であります。

讃美唱の詩編108:2-7は、私は、曙、しののめ、東雲を呼びさましますと、主なる神をほめたたえ、あなたの輝かしい助けを与えてください、と願っています。

また、第1の朗読、ダニエル書第7章9-10は、「日の老いたる者」があらわれ、そのもとに、数千、数万の者が仕えるという終わりの日の幻を描いています。

使徒書のヘブライ人への手紙も、羊の大牧者キリストをよみがえらせた父なる神が、キリストを通して、わたしたちを、よいもので満たして下さるようにとの2節の祝福の言葉で終わっています。

いつかは来る終わりの日が、決して恐ろしいものではなく、主に信頼する者にとって、むしろ喜びに満ちたものであることが、これらの聖書個所からもうかがえます。

時は、現在、フランスでは、戦後最悪とも言われる同時テロで、世界の行く手には暗雲が漂っているとしか思えないような、厳しい現実が一方にありますが、平和をもたらせる聖書の神に思いを馳せながら、今日の福音、マルコ13:24-31の短いくだりをご一緒にしばらく考えたいと思います。

主は、すぐこの後に待ちかまえている十字架を前にして、オリーブ山にお座りになって、エルサレムの神殿を見ながら、4人の弟子たちに語っています。マルコの小黙示録と呼ばれる、この福音書の中では一番長い説教がここ13章にまとめられています。

「ところがどっこい」、それらの日々において、その苦難、なやみの後に、と今日の個所は始まっているのです。

苦難の体験が、終わりの時の前にはいやおうなしに待っています。今、見ているエルサレム神殿は、滅ぼされ、跡形もなくなり、偽キリストが現れたり、戦争のうわさが聞かれたり、産みの苦しみがなされ、激しい迫害が起こったりする。それらのことに十分注意していなさいと、この説教では始まっていました。

しかし、そのような苦難、悩みの後に、「それらの日々において」、天に異変が起こると言います。太陽は暗くされ、月はその輝きを与えず、天の星々は、落ちつつあるであろうし、天の軍勢、天の万象、あるいは諸要素とも訳される、それらは、揺すぶられるであろう、と言います。それらの表象は、旧約聖書の中では、バビロンの崩壊や、エジプトの没落、エドムの陥落を預言するときなどに、出てくる表現であります。

しかし、これらの異変の後に、人々は、人の子が雲に乗って、大いなる力と栄光を帯びてやって来るのを見るというのです。この言葉は、主イエスが、この後、受難において、お前は、メシアなのかと大祭司に問い詰められたときに、表明する言葉でもあります。

この1節は今日の福音のなかで、否、この小黙示録と言われる説教の中で、最も大切な言葉であります。そして、これは、第1朗読で読まれたダニエル書の記事のすぐ後に出てくるダニエル書7:13から取られている言葉であります。多くの、神に敵対する国や王たちによってイスラエルが苦しめられる歴史の中で、黙示文学として生まれ、そこでは、夜見ていると幻の中で、人の子のような者が、日の老いたる者の前に、天の雲に乗って到来し、主権や、力、光輝がこれに服し、諸国民がこれに仕える、という幻をダニエルは見ていたのであります。

そして、主イエスが、ご自分のことを「人の子」と言う場合、苦難のしもべを意味する場合と、終わりの時に栄光において到来し、世を裁く者という、大きく二つの意味があります。神から遣わされたメシアであることを示していますが、その意味することが何なのか、マルコの弟子たちは、ここでも無理解であり、分からなかったでありましょう。

その後に、彼は、天使たちを遣わして、天の果てから、地の果てまで、四方から、ご自分のために選ばれた者たちを、共に集まるように、命じます。イスラエルの神の民が、世界に散らばらされていたのを、ヤハウェが、再びご自分のもとへと呼び集めると約束していたように、人の子は、選ばれた者たち、弟子たちをご自分のもとに集めると約束されています。そして、ここには、世の終わりに、羊とやぎをよりわけ、一人一人を厳しく裁くという表現はみられません。

それから、主は、そのいちじくの木から、「譬え」を学びなさいと続けておられます。イスラエルでは、長い冬の後、ようやく、枝が樹液で柔らかくなり、葉が現れ、広がっていくと言います。それを見たとき、あなた方は、夏が近いことを知ると主イエスは説かれます。

そして、そのように、あなた方は、それらのことが、起こるのを見たときには、彼、人の子が、あるいは、それ、神の支配でしょうか、それが、戸口どもの上に近いことを知りなさいと言われる。

それらのことというのは、何でしょうか。それは、終わりの日の来る前に、先に述べた大きな苦難の出来事をまず必ず、あなた方は体験することになっているということであります。

そして、よく言っておくが、それらすべてのことが起こらない内には、この世代は決して過ぎ去らない、と言われたのです。

すなわち、主は、聞いている弟子たちに向かって、あなた方の世代は、それらの大きな悩み、苦難を体験し、人の子が雲に乗り、世界中の主の民を集めるのを、生きている間に見ることができると約束なさっているのであります。

そして、天も地も、それらのものは、過ぎゆくであろうと言われます。およそ、造られたものは、滅びるでありましょう。しかし、最後に、主は、私の言葉どもは、決して過ぎ去らないであろうと、他にはない強い言いまわして、ご自分の語った言葉どもが、永遠に過ぎ去ることは決してあるまいと断言なさるのであります。

この主の言葉とは、今日の記事で語られている、私たちが体験する大きな苦難の後に、人の子が雲に乗り、神の力と栄光に包まれてふたたびおいでになる。そしてその来臨と接近は、あなた方の世代が過ぎ去る前に起こるとの約束の言葉であります。

さらにそれは、主イエスが語った、霊と命の言葉、人を生かすすべての主の御言葉まで含んでいると言っても言い過ぎではないでしょう。主の約束のみ言葉に賭けて生きて行くように、この一年の最後の日曜日に、私たちは招かれているのであります。

主イエスの言葉、それは、永遠に朽ちない言葉であり、私たちは、そこに自分の魂をかけて生きるのであります。そして、それは、「究極」の生き方をするということでありましょう。しかし、それは、「究極以前の」事柄、言わば、この世のささいな問題と思われる、日常生活で求められる、人と人との間のささやかな配慮、気配りとか健全な常識を軽んじるものではないのです。

終わりの日に思いを馳せるこの日曜日、その日が決して恐ろしい神の裁きの日ではなく、主イエスのことばに信頼し、救いと完成の日であることを信じ、待ち望みつつ、目をさまし、日々与えられている責任や仕事に堅実に向き合い、ルターが言ったと言われるように、たとえ、明日が終わりの日であるとしても、私はりんごの木を植える、そのような生き方を、新しい一年もしていきたいものです。

天の父なる神さま。
主イエスが、人の子として、再び、私たちの苦難の後に、神の栄光のうちにお出でになることを、固く信じることができますように。信仰と希望と愛、このうち最後まで残るのは愛であるとパウロは言いました。それは、キリストのお語りになった言葉すべてでもあります。この一年のそれぞれの歩みのうちに、あなたの恵みを数えさせてください。そして、神への愛と隣人への奉仕に生きる、新しい一年をお与え下さい。キリストによって、アーメン。




2015/11/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「すべてを神に献げる生活」(マルコ12:41-44)
マルコ福音書第12章41節-44節、2015年11月15日、聖霊降臨後第25主日聖餐礼拝、(典礼色―緑―)、列王記上第17章8節-16節、ヘブライ人への手紙第9章24節-28節、讃美唱146(詩編第146編1節-10節)

マルコによる福音書第12章41節-44節

 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。



説教「すべてを神に献げる生活」(マルコ12:41-44)

マルコ福音書と共に歩んできたB年も残すところ、今日と次週の主日2回のみとなりました。マルコの、福音書としては一番古いという福音書が伝える、生き生きとした主イエスのお姿をこれまで見てきました。
そして、今日のマルコの記事は、エルサレム神殿の境内での一幕であります。婦人の庭といわれる所に、13のラッパの形をした容器が置いてあって、それにささげものをしていた。その自由にささげられるうちの1つにこの貧しいやもめは、やって来て2レプタ、当時の最初の貨幣2つを入れたのであります。
Ⅰデナリオンが当時の一日の労賃、その64/1と言いますから、2レプタで300円ほどであったでしょうか。それを、宝物殿という場合に使われる言葉であるこのもの、賽銭箱と新共同訳では訳されていますが、この訳は誤解を生むのではないかと思いますが、とにかく、そのなかへと投げ入れたのであります。賽銭箱とありますが、日本の神社のそれとは、違ったものであります。
ユダヤ人たちは、初物の10/1をささげていた。そして、それは、レビ人ややもめや孤児を助けるために本来用いられたのであります。ところが、この時代には、律法学者がやもめの家を食い荒らし、贅沢な祭儀のために余分な、有り余った中から献金をし、神の喜ばれぬ捧げ物や祭儀が、平然と行われていたのであります。
今日の列王記上の記事では、やもめがひでりと飢饉の中、一握りの小麦粉の身で餓死し王になったとき、エリヤの求めで、パンを作り差し出して、息子もエリヤも、雨が降るまで、尽きざる壺の粉、尽きざる甕の油で養われるという奇跡が記されています。
しかし、主イエスの目にしたやもめの献金は、律法学者や不正な金持ちによって、歪められた神礼拝に陥っている中での嘆きのささげものとも言えるのであります。しかしまた、それは、すべてを神に明け渡し、神に全信頼をおいたささげものであります。
主イエスは、この一人の貧しいやもめに目を留めるようにと弟子たちを、自分の側へと召集し、集中させるのであります。自分の持っているものすべてを、窮乏の中から、全生活費を、これはすべての命、ビオスという言葉ですが、生きざまを、生活を彼女はささげるのであります。
主イエスによって、今日の記事のすぐ前で、「律法学者たちに気をつけなさい」と、言われた、その者たちは、高ぶりと有り余る中から、神の喜ばれないささげものをし、神の喜ばれない贅沢な祭儀に明け暮れていました。
そこで、主は、この後すぐに、あなた方の見ている神殿はあとかたもなく崩壊すると、預言されるのです。
私たちの礼拝、私たちの信仰生活は、どうでしょうか。主が気をつけなさいと言われた律法学者の生活ぶりを、他人事といって笑うことは出来ません。
この教会暦の終わりを前にして、私たちは、自己を捨てて、自分の十字架を負って、私に従って来なさいと言われる主イエスの後に従わないわけにはいきません。
今日の記事で記されているこの一人の貧しいやもめは、この後まもなく、私たちの罪のために十字架にお付きになる、私たちのためにすべての命を差し出される主イエスご自身をも、指し示す姿なのです。
私たちの礼拝が、神に喜ばれるくずおれた魂のものとなり、焼き尽くすささげものや、有り余った中から差し出すささげものの礼拝ではなく、すべてを神に差し出し、自分をすべて神に明け渡す礼拝となりますように。
新しい教会暦の一年に向かって、罪から解き放たれ、やがて迎える一年も喜びの礼拝を過ごす一年となりますように。祈ります。

天の父なる神さま。この過ぎました一年、多くの罪を犯しましたが、にもかかわらず、あなたのみ子、主イエスの十字架によって、罪赦され、ここまで恵みのうちに歩めましたことを感謝します。キリストによって、アーメン。
















2015/11/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神が先ず愛された」(マルコ12:28-34)内海望牧師
マルコ福音書第12章28節-34節、2015年11月8日、聖霊降臨後第24主日礼拝、(典礼色―緑―)、申命記第6章1節-9節、ヘブライ人への手紙第7章24節-28節、讃美唱119/9詩編第119編73節-80節)

マルコによる福音書第12章28節-34節

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。



説教「神が先ず愛された」(マルコ12:28-34)内海望牧師

 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 与えられた福音書の日課を通して、み言葉を聴きたいと思います。
 律法学者は、イエスさまに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と訊ねています。当時、律法は煩瑣を極めるようになっていて、613もの守るべき掟があったそうです。当時の人々にとって律法とは六法全書のようなもので、守るべき規則集であったのです。律法学者は、全部は無理でも、このうち一番大切な条文を守ろうとしたのです。それで、このような質問をしたのです。
 これに対して、イエスさまは、「全身全霊を尽くして神さまを愛すること。」と「隣人を自分のように愛すること。」、この二つが共に第一だとお答えになっています。イエスさまは、「規則を守ること」よりも「神と隣人を愛すること」が大切だとおっしゃるのです。
 イエスさまの答えの前半は、第一の日課である申命記6章からの引用です。これは、モーセの告別説教の一節です。そもそも、申命記そのものがモーセの旅を終え、いよいよ約束の地「乳と蜜の流れる」カナンの地を目前にのぞみ見て、モーセが最後の説教をしているのです。
 ここで私たちが感じるのは、確かにモーセは、ここで戒めと法を教えているのですが、その口調は感謝と喜びに満ちており、決して冷たい法律条文の解説のようなものではないということです。むしろ、モーセの口調は、40年に亘る出エジプトの旅を通して、また彼の全生涯を通じて、弱い信仰の持ち主であり、罪人である彼自身と民を決して見棄てず、最後まで導いてくださった神さまに感謝し、これからも、この方を全身全霊をもって愛し、従うことによって、きっと民は守られるという神信頼の告白なのです。モーセにとって、掟は、神さまが人間に与えて下さった賜物であり、滅びから守ってくれるガードレールであったのです。その事実を彼は、全生涯を通して学んだのです。モーセにとって律法は、誤った道に迷い込んだ時、それに気づかせ、正しい道を指し示してくれる道標であったのです。そればかりか、神さまは、常に先手を打って、私たちが及びもつかない支えを与えて下さったと10節以下で語っています。このような経験から律法を語るモーセの口調が感謝に満ちていることは当然です。モーセにとって、律法は、冷たい条文ではなく、神さまが、私たちを愛し導く恵みの賜物であったのです。モーセは、私たちでなく、神さまが先ず愛して下さったことを経験したのです。
 モーセと違って、律法学者は、彼を守り導いて下さる神さまの愛の働きに気付かず、条文の一つ一つを守ることによって神の国へ入る保証を得ようとしています。自分の努力によって、神の国の市民権を獲得しようとしているのです。ですから、掟の条文をしっかり守らなければ、神の国に入ることは出来ないのです。彼にとって、律法は、自分の運命を左右する関門でした。
 そこには、モーセが経験した感謝とか、喜びはありません。反対に、「きちんと守っていないではないか。」という不安、「神の国の住民になれないのではないか。」という恐れを感じさせるものでした。この不安から逃れるために律法主義者となるのは当然の成り行きです。つまり、他者批判に転じるのです。例えば、「私は週に一度断食しているが君たちはしていないから神の国から遠い。」などと他者を裁くために律法を利用するようになっていくのです。他者を貶めて自分を高め安心を得ようとするのです。
 私たちは、律法主義者を批判することは出来ません。私たちもまた「クリスチャンらしい」とか「らしくない」とか他者にレッテルを貼りがちです。その時、わあつぃたちもまた、律法を利用して人を裁くようになってしまうのです。恐ろしいことです。

 福音書の日課に戻ります。ここで私たちの心に起こって来る疑問は、イエスさまの言葉の後半、「神さまを愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」が、どうして同じなのかということです。イエスさまは、この二つは、「同じだ」とはっきりおっしゃっています。しかし、どうもしっくりしません。
 その謎を解く鍵は、イエスさまご自身の心中を推し量ることの出来る文章があります。
 今日の日課の少し前の10章32節を開いて下さい。本当に緊張に満ちた文章です。先ず、イエスさまは「弟子たちと共に」でなく、「先頭に立って」歩まれます。このイエスさまの姿勢に、イエスさまの強い決意を感じさせられます。イエスさまは、きっとエルサレムを見つめて、十字架への道を真っ直ぐに歩み始められたのです。その真剣さに、弟子たちは驚き、恐れすら感じたのです。事実、この数日後、イエスさまは十字架刑に処せられたのです。そのようなご自分の運命を見定めながら、イエスさまはエルサレムに入城されたのです。そこに極めて強い緊張感が働くのは当然と言えます。
 しかし、それにしても、なぜイエスさまは十字架で死ななければならなかったのでしょうか。それは、それが、罪人を救う唯一の道であったからです。
 聖書には、驚くべき言葉が多々あります。なかでも、「キリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な(私たちの)者のために死んで下さった。それによって、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5章6、8節)という言葉は、驚くべき、私たちの理解を遥かに越えるものです。「キリストは信仰深い者のために死んで下さった。」というのなら分かります。理にかなっています。しかし、「不信心な者(私たち罪人)のために死なれた」とは到底理解できません。しかし、イエスさまは、十字架上で、「父よ、彼らをお赦し下さい。」と自分を殺害する罪人への執り成しの祈りを祈りながら、罪人の罪をご自分の身に負って、息を引き取られました。イエスさまの愛は、私たちの因果応報的合理性を打ち砕く愛なのです。実は、モーセは、この罪人を愛する神さまの姿を、その生涯を通して経験したのです。40年に及ぶ出エジプトの旅で、民の罪深さはモーセを悩まし続けました。忘恩の民といってもよいくらいです。また、モーセ自身も再三神さまを疑い、反抗しました。しかし、それでも、神さまはモーセを含めて、民を愛し導いて下さったのです。「宝の民」として。(7章6節)。ここには、神さまの愛には「愛する理由」はない、ただ愛によって、私たちは罪赦され、救いが与えられたのです。新しい復活の命を与えられて生きて行くことが出来るのです。これほど素晴らしいことはありません。この出来事をヨハネは次のように語っています。(ヨハネ一4章10、11節.p445)。神さまが、先ず、イエスさまの十字架を通して、罪人である私たちを愛して下さったのだから、私たちも互いに愛し合おうとヨハネは勧めるのです。イエスさまの愛が、「神さまを愛し」、同時に「隣人を愛する」新しい人間を創造するのです。このようにして、神さまを愛することと、隣人を愛することが一つになるのです。
 律法学者は、エルサレムのイエスさまに出会うことにより、「供え物をささげる」などという規則、儀式を守ることより大切なことがあるということは学びました。ですから、「あなたは神の国から遠くない」という暖かい言葉をイエスさまから頂いたのです。
 さて、パウロは、「キリストはその兄弟のために死んで下さったのです。」(ローマ14:15、コリント一8:11)と繰り返し語っています。「その兄弟」とは教会内で誤った信仰、信仰の弱い人を指します。それでもパウロは、「どんな罪人でも、その人のためにキリストは死んで下さったのだ」と言い切るのです。これを、私たちは、「キリストに愛された人間の尊厳」と受け留め、大切にしたいと思います。その尊厳を大切にするのが教会の交わりなのです。キリストに愛されている者の喜びと尊厳が教会には満ちているのです。その愛されている喜びが泉となって隣人へと流れ込むのです。律法によって、命じられたから愛するのでなく、キリストの愛が、私たちを通して隣人へ流れ行くのです。この愛の源泉は、イエス・キリストによって明らかにされた神さまの理由のない愛なのです。

 人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

















2015/11/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「幸いなるかな、主のみもとに身を寄せる人」(マタイ5:1-12)
マタイ福音書第5章1節-12節、2015年11月1日、全聖徒主日聖餐礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第26章1節-13節、黙示録第21章22節-27節、讃美唱34/1(詩編第34編2節-9節)

マタイによる福音書第5章1節-12節

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害されている人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。








説教「幸いなるかな、主のみもとに身を寄せる人」(マタイ5:1-12)

 私たちは、今朝、全聖徒の日の礼拝をしています。そして、私たち津田沼教会では、主イエスを救い主として、信仰告白した信仰の先達ばかりではなくて、先に天に召された信徒の方々の両親や伴侶、兄弟等の方の遺影も、共に飾って礼拝をしております。その方々も、信仰の告白にまでは、故あって至りませんでしたが、残された私どもの信仰の歩みを見守り、み国から応援してくれていると、信ずるからであり、また、またそのご遺族の方々も、年に二度持っています、このような礼拝に出られて、故人の信仰の生涯に思いを馳せ、ご一緒に、主のみ言葉を聴けるように、津田沼教会では、特別に考えてのことであります。
 
この日、与えられている福音は、先程お読みしました、マタイによる福音書第5章1節から12節までであります。
 私たち、ルーテル教会では、この全聖徒の日、三年サイクルで、この個所が読まれます。讃美唱は、まだ礼拝の中では読まれていませんが、2017年の宗教改革500年記念以後に用いられる予定の新しい式文からは朗読される予定であります。それに備える意味でも、週報に、参照個所として載せていますが、今日の讃美唱は詩編34編2節から9節であります。
 今日読まれました第1の朗読のイザヤ書26章の1節から13節も、また、第2の朗読のヨハネの黙示録21章22節から27節も、そして、福音書の個所も、いずれも、自分の力で生きるのではなく、神の恵みに身をゆだねて生きる生き方をはっきりと、指し示している点では一致していると思います。
 
今日の福音、マタイによる福音書第5章1節から12節を通して、今日の福音を聞いていきましょう。
 主イエスは、今日の記事のすぐ前では、大勢の人々を癒し、教え、み国の福音を宣べ伝えておられます。そして、今日の個所から、主は、群衆に目をやりながら、山に登られ、お座りになると、弟子たちが近づいてきます。そこで、主は口を開いて語り始められます。

いわゆる山上の説教と言われている冒頭の部分であります。昔は山上の垂訓とも呼ばれましたが、現在では説教と言われるようになっています。むろん、叱ってお説教をするとか、道徳めいた教訓を垂れるというものでもありません。弟子たちへの、また、山上の説教の最後に出てくるように、群衆に向かっても、語りかけておられる慰めと励ましのみ言葉であります。信者たちだけではなく、今日集まっているすべての皆さんへの慰めと招きと言葉であるとも言えるみ言葉であります。
 
主は、もとの文ではこういうふうに語り出されました。「幸いなるかな、心の貧しい者たちは、なぜなら、彼らのものなのが天の国だからである。」これは、以下の文でも同様で、「マカリオイ・ホイ」と始まっています。祝福されているよ、以下の者たちは、「ホティ」なぜなら、こうだからだと、主は、詩文のように韻を踏みながらくり返して、説いていかれます。幸運だよ、以下の者たちはと感嘆詞で始まるのです。そして、ここに残されている言葉の多くは、実際に主イエスが口にされた言葉に遡ると、多くの聖書の研究者たちは言います。

 「心の貧しい人たち」というのは、霊でもって貧しい人と原文では訳せますが、これは、文字通り、貧しい人たちをも意味しますが、自分の力では生きていけない貧しさ、困窮、窮乏を身にしみて痛感している人たち、そして、それは、主イエスの教会に属し、迫害に耐えている一人一人を指しています。そして、その幸いである訳は、ホティ~という、なぜなら~だからであるという文体で、この8つ、ないし9つの至福、マカリオスは、記されているのであります。
 
そして、それは、心の貧しさ、悲しんでいる者、柔和な者、義のために飢え渇くといった人間の内面の状態から、次第に、憐れむ者、心の清い者、平和を造り出す者たち、義のために迫害されている者たちといった、積極的なふるまいの生き方へと高められていきます。主イエスの気持ちの高揚を伝えているのでしょうか。そして、神によって、将来、終末の時にはそう変えられるであろうという約束であると共に、今現在既に、弟子たちは、主イエスと共にみ国の支配のもとにあるとも、主は言われます。
 
「心の貧しい者たちは、幸いである、天の国は彼らのものである」とマタイは、記していますが、ルカ福音書では、「貧しい者は幸いである、神の国はあなた方のものである」となっています。これは、殆ど同じ内容を指していると言われますが、昔、京都教会で教会学校の教師を始めたばかりの頃、能勢で関西の教会学校でのキャンプに参加した時、思い出の聖句を木彫りにしようというプログラムが最後にあったのですが、私が担当した小学校3、4年の子供たちは、どうしても「心の貧しい者たちは幸いである、天国は彼らのものである」の方でなければならないと、押し切られたことを思い出します。

 マタイの方が主イエスの真意をより鋭く突いていることを、子供たちは、直感的に感じ取ったのでありましょう。
 ここに挙げられている8福あるいは9福という生き方は、これを語っておられる主イエスご自身の生き方そのものであり、そしてまた、それに従う私たちの生き方そのものでもあります。
 私たちは、自分の力や功績によっては生きていけないことを痛感させられるのであります。マルティン・ルターは、死を前にして、自分は貧しい物乞いにすぎないと言いました。み言葉を求め続ける、霊的な物乞いに過ぎない。これは、聖書に向き合うすべての人の偽らざる姿でありましょう。主イエスを信じて生涯を終えた、ここに遺撮が飾られているすべての聖徒の方々も、「心の貧しい者」として、自分を自覚し、罪に悩み、主の憐れみによってのみ生き得たのではないでしょうか。また、洗礼にまでは至らず、あるいは堅信礼にまでは至らなかった方々も、主のこれらの招きの言葉を聞きながら、それぞれの人生を精一杯歩まれたのではないでしょうか。

 悲しんでいる者は幸いである、彼らは慰められるであろうから。義に飢え渇いている者は幸いである、なぜなら、満たされるであろうから。柔和な者は幸いである、彼らは地をうけつぐだろうから。心の清い人々は幸いである、彼らは神を見るであろうから。平和を造り出す者は幸いである、彼らは神の子たちと呼ばれようから。義のために迫害されている者たちは幸いである、天の国は彼らのものだからだと、主は言われます。

 そして、最後の9番目の至福は、あなた方が罵られ、迫害され、私のためにあらゆる悪口を言われ、嘘をつかれながら、そうされるとき、あなた方は祝福されているよ、なぜなら、あなた方の前のすべての預言者たちにも、彼らは同じことをしてきたからと言い、あなた方は、喜び、大いに喜べ、天におけるあなた方の報いは大きいからだと主は言われます。

 主イエスの教会に属するということは、昔から、今に至るまで、形を変えた迫害に耐えるという生き方を余儀なくされます。主イエスその方が柔和な王として、お出でになられ、この世界の王とは異なり、柔和さ、貧しさにおいて生きられたお方です。それに従う弟子たちは、すべて同じ生き方を求められます。

しかし、その報い・報酬は、天において大きい、多いと主は約束なさるのです。終わりの日に、主を見上げ、仰ぎ、父なる神と子羊であるみ子がすべての人の涙を拭って下さると、今日のヨハネの黙示録にもありました。そこでは、すべての国民が新しいエルサレムの神殿へとやって来る。しかし、清くない者、忌まわしいことを行う者はそこへは入れないともありました。
 
主イエスの言われた、祝福されているよ、と言われる人たちの有りよう、心が貧しいこと、柔和なこと、義に飢え渇いていること、心が清いこと、義のために迫害されること、平和を造り出すこと、憐れみ深いこと、悲しんでいること、そして、主イエスのために、罵られ、あらゆる悪口を嘘をつかれながら言われることとは、主イエスご自身の有りようでありましたし、このような言葉を、私たちに向かって語ることのできる人は、主イエスをおいて、他にはおられません。なぜなら、主はこれらの言葉を、弟子たちに、また、群衆に語られたのち、十字架に付けられ、そしてよみがえられた方であるからであります。
 ご自分の死によって、ご復活によって、これらの言葉を成就されるのであります。
 
全聖徒の日に、この個所が与えられているのは、今日のみ言葉は、すべての人が、この言葉を聞いて慰められ、すでにみもとに召された人々の信仰、生きざまを思い起こすと共に、地上に残されている私どもすべての者が、このみ言葉に従った生き方をするようにと、改めて奮い起こされるためであります。
 
私どもは、だれもが義のために飢え渇いている者ではないでしょうか。与えられた命を、一回しかないこの地上の生涯をだれしもが生きてきてよかったと言えるものにしたいのであります。しかし、罪のためにそれができなくなっていると説くのが聖書であります。義とは、ここでは正しいふるまいと言えましょう。私たちはそれに飢え渇いているのであります。しかし、それができないことを、私たちは悲しむのであります。しかし、主イエスが、十字架と、ご復活を通して、満たしてくださったのであります。

そして、そのような正しいふるまいを、追い求めて生涯を歩んだ先人たちを、私たちは知らされています。内村鑑三先生もその一人でありましょう。天皇陛下を拝まなかった有名な不敬事件はその一つの出来事であったでありましょう。主イエスが十字架を通して、これらの幸いな生き方を約束して下さいました。

その意味ではすべての聖徒が、この幸いな、主のみもとに身を寄せる生き方をしてきたとも言えるのであり、私どもも、この幸いなる8福、あるいは9福の生き方ができるのであります。
 
自分の功績や力に頼っては生きることのできないことを、主イエスの弟子たちは痛感させられていたことでしょう。そして、この福音書が書かれた時代、マタイの教会の人々は、特にユダヤ教の人々によって、主イエスのために、罵られ、迫害され、嘘をつかれながら、あらゆる悪口を言われる中で、主の祝福の言葉、あなた方は喜べ、大いに喜べ、天におけるあなた方の報いは、大きいという言葉によって、信仰を守る力と勇気を与えられていたことでしょう。そして、その励ましは、2000年経った今も、変わることなく続いているのです。
 
この8福、あるいは9福と言われる幸いは、それに私たちが、命をかけて従ってゆくべき、まさに至福というべきみ言葉であります。それらの幸いのどれかひとつに自分は当たっているので安心できるといったものではありません。私は、平和を造り出すような者として、神の子とはとうてい呼ばれるには値しないが、しかし心は比較的清い方だろうとうぬぼれることができるようなものではないのです。
 
その一つ一つの幸いのみ言葉は、それぞれ、まことに豊かなみ言葉でありますが、煎じつめて言えば、心の貧しい人は幸いだよ、天の国は彼らのものであるからとの最初の1節に要約することもできましょう。

そして、この心の貧しい人とは、主イエスご自身のことであるとも言えるのであります。これは、最初に言いましたように、文字通り貧しい人をも意味し、虐げられて生きていたイスラエルの心ある民やまた、霊において貧しい者である故に、神により頼んで生きるしかない者たちであり、「柔和な人たちは幸いだよ」の「柔和」とも同じ語源から来ていると言います。

私たちは、神にに寄りすがらなければ生きてゆけない貧しい者であります。そのような「貧しい者」に主イエスがなってくださったのであります。そして、「柔和な」王として、十字架について、まことのやさしさを私たちに教えておられるのであります。
 
今日のこの全聖徒の主日の礼拝を、私たちは、「幸いなるかな」のみ言葉によって守りました。これから、聖餐に与ります。終わりの日に祝うべきキリストの体とその尊い血を頂く祝宴を、先に召された聖徒たちと共に与ります。私たちの残された生涯を、主のみ言葉と共に歩みえます幸いを感謝しつつ、生かされてまいりましょう。


祈ります。

天の父なる神さま。先立たれたすべての聖徒の方々と共に、また、主と告白するには至らなかった方々をも覚えて、ご遺族を招き、ご一緒に主のみ言葉に耳を傾ける幸いを感謝いたします。どうか、残された私どもが、主の約束のみ言葉に従って、生涯を貫くことができますように助けてください。そして、主があなた方は幸いだよと言われる信仰の歩みをまっとうさせてください。キリストのみ名によって、アーメン。 










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