津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神さまの憐れみールターによるパウロの再発見」(ローマ3:19-28)
ヨハネによる福音書第8章31節-36節、2015年10月25日、宗教改革主日聖餐礼拝、(典礼色―赤―)、エレミヤ書第31章31節-36節、ローマの信徒への手紙第3章19節-28節、讃美唱46(詩編第46編2節-12節)

ローマの信徒への手紙第3章19節-28節

 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者とによって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 
 



説教「神さまの憐れみールターによるパウロの再発見」(ローマ3:19-28)
 
 ルターは、修道僧として厳しい戒律を守り、恵みの神を求めて自分を律していましたが、自分を恐れさせる裁きの神しか出会うことができないでいました。その聖書との格闘の中で、ローマの信徒への手紙第1章17節の「正しい者は信仰によって生きる」のみ言葉を見出し、信仰のみによって義とされるのであり、行いは決して人を義とするものではないことを知らされたのであります。
 今日の日課、ローマの信徒への手紙第3章19節から28節までから、み言葉に聞いていきましょう。これは、聖書の区切り方が新共同訳とは違っています。第3章19節から20節までと、第3章27節から28節までとが言わば、付け足されています。
 少し前の部分から読むと、すべての人は罪の下にあると、パウロは語り、神を求める人は、地上に一人もいないと詩編などを引いて、断言しています。
 私どもは、いや、地上には、立派な人はいるのではないかと思いがちですが、聖書は、すべての人は、口と足とで罪を犯し、それに染まってしまっていると言っていると、パウロは断言します。
 そして、全世界は神に対して有罪であり、律法によって、すべての口は閉じられると言います。
 しかし、ルターは、今日の日課、この聖書の部分に救いを見出し、その改革者としての出発点を見出したともいえるでありましょう。
 「ところが、今や、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証言されながら、神の義が、知らされたのである」と。それは、イエス・キリストという贖いとその供え物を通して、罪が赦されるということ、ただの贈り物として、キリストを十字架に付けて、私たちの罪が赦されるということを通して、神の義、神が遣わされた義、神が正しいお方であることが明らかにされたということであります。
 私たちは、アダムの堕罪以来、神の栄光を受けられなくなっているが、ただイエス・キリストへの信仰を通しての贖いを通して、贈り物として、無償で、私たちは義とされるのであります。
 今まで、神は忍耐して、私たちの罪を見過ごしておられたが、イエスへと信仰する者を通して、自分が正しい方であることを証明されるのであります。
 私たちの誇りは、キリストを信ずるところにのみあり、自分たちの行いにはなく、信仰を通しての法則、信仰を通しての律法にある。
 私たちは、誇るとすれば弱さを誇るのであります。なぜなら、信仰によって、律法の行いなしに、義と宣言されるべく、私たちは認めるからであります。
 神は罪をどこまでも罪として問われるお方であります。私たちは、神をどこまでも神とすることを、神はお求めになるのであります。
 神はそのためにイエス・キリストを十字架の死に付け、贖いの供え物とされ、償いの供え物とされたのであります。
 私たちの行いが、私たちを義とすることはあり得ないのであります。キリストへの信仰が義とする。
 そこから、まったく新しい生き方だ生まれてくる。そのパウロの信仰の再発見が、改革者ルターを誕生させたのであります。
 行いの律法ではなく、信仰の律法、信仰の法則を通して、神のみを誇りとし、自己への誇りは取り除かれたのであります。
 2017年10月31日、改革500年記念を前に、み言葉との取り組み、信仰により義とされるに立ち帰りつつ、絶えず改革が進められなければなりません。アーメン。

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2015/10/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「全能の神に安らぐ」(マルコ10:17-31)梅田與四男牧師
マルコによる福音書第10章17節-31節、2015年10月18日、聖霊降臨後第21主日聖餐礼拝、(典礼色―緑―)、アモス書第5章6節-15節、ヘブライ人への手紙第3章1節-6節、讃美唱119/8(詩編第119編65節-72節)

マルコによる福音書第10章17節-31節
 
 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」


説教「神の全能に安らぐ」(マルコ10:17-31)梅田與四男牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがありますように。

 <富める青年>(マタイ19:20参照)と呼び習わされてきたこの物語は主イエスによって説かれた「財産」に関わるキリスト者の態度と生き方を示しています。23節の「財産」という言葉は「富」「金銭」「金」とも訳されますし、25節には直接的に「金持ち」という言葉が現れているため、問題の事柄は何かは明らかです。ただし「青年」という言葉はここには現れません。しかし大切なのは、新共同訳では訳出されていませんが、「道」という言葉がこの物語のはじめ17節に現れており、さらに32節にも「途中」と訳出されて現れているだけでなく、そもそも8章27節や9章33、34節にもくり返し現れて、主イエスが「エルサレム」への旅の途上にあることをくり返し示していることです。
 このことは「弟子たち」と同じく私たちキリスト者の信仰生活にも重なります。私たちも主イエスに従う「道」の途上にあるからです。それゆえ、この世にある限り、誰も無関係ではいられない問題として、お金や「持っている物」とどう関わっているかが私たちへの問いに付されることになります。その関わりにおいてキリスト者は「信仰」以前と以後とで転換が起こされるし、それゆえまた求められもするのですが、はたしてその実態がどうか、あらわにされることになるからです。

 この物語は、まず「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という当時のユダヤ人らしい「ある人」の問いとそれに答える主イエスとの問答と結末を伝え、それを目の前の具体例として主イエスが続いて「財産」をめぐり「弟子たち」に教えを説かれるという展開になっています。「永遠の命」の受け継ぎ」という信仰者ならではの問いが「何をすれば・・・」という<行為>の問題とされ、十全な<行為>を自認しながらも確信を得られないユダヤ人らしい問題があらわになります。
 この実例を他人ごとに思えるとしたら、ユダヤ人の<律法主義>への批判によってその逆に振れ過ぎているあの<安価な恵み>という問題に陥っているかもしれません。「富」を失う危機を経験したことがあるなら、いつの間にかどっぷりつかっている「富」への執着がいかに激しく強いものか、主イエスの招きの言葉によってあらわにされたことがおありでしょう。ユダヤ人に「律法」がるように私たちキリスト者にも、「福音」のゆえに新たに「律法」が働きかけてくるからです。
 「律法」はひとり人間を「神」の御前に立たせます。主イエスが「善い先生」という自分への呼びかけをあえて問題になさったのはそのためです。登場する「ある人」は「富」がユダヤ人一般のあいだで神の祝福と見なされ、自ら「掟」を「子供の時から守ってきました」と自認できたとしても、「永遠の命を受け継ぐ」確信を得ることができませんでした。<律法主義>に囲まれて、「神」の御前にひとり立って与えられた「子たる身分」(口語訳:ローマ8:15、23、9:4、ガラテヤ4:5、エペソ1:5)を見失っていたのではないでしょうか。

 「受け継ぐ」とはまさしく、自分が「何」を“する”ことによってではなく、自分が「何」“である”かによって可能とされる事柄だからです。<行為>ではなく<存在>の問題なのです。それゆえ、この「ある人」「あなた」は、「神」を「父」と呼ぶ関係性を見失っているとしか言えません。「富」「財産」「持っている物」は、「神」への絶対的な依存関係を蝕み、「天におられるわたしたちの父よ」と呼べるようにしていただいた養子縁組を見失わせてしまうほどのものだからなのです。
 主イエスはこの「人」に全「財産」の売却や「貧しい人々」へのすべての「施し」を命じられたわけではありません。主イエスへの随順、「弟子となる」ことが、「天におられるわたしたちの父」との関係の回復になるからこそなのです。「財産」への執着と「神」への絶対的な依存とは、まるでシーソーのような関係にあるのだからです。一方に傾くなら、他方は失わざるを得なくなるからです。この世で通じる価値は「天」には通じません。限定的なのです。限界的にとどめ置く力、それが、「神」への依存なのです。
 「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)という主イエスの教えは、なるほど「神」と「富」との二律背反を説いています。それはなぜでしょうか。人間は「富」を「神」と並ぶ価値にするからです。「富」は「神」に並ぶ価値であるかのように思わせる力を持つからです。欺きなのです。「富」本来の限定的な価値にそれにふさわしくとどめ置く、それが、主イエスに従う「弟子たち」の「道」なのです。

 ところが、前半の物語に続いて、主イエスはその「弟子たち」の教育へと転じられます。開口一番、彼らに告げられたのは、「財産のある者が神の国へと入るのは、なんと難しいことか」でした。これに「驚いた」「弟子たち」の反応に追い打ちをかけるかのようにほぼ同じ表現をくり返し、そして言われます、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。「針の穴」についていくつかの解釈がありますが、この表現は、恐らく身ひとつなら何とか通ることができるというものではなく、どだい無理なことだという不可能性を絵画的に理解させるものなのです。
 この表現に対する「弟子たち」の反応が、当時のユダヤ人一般の理解をよく表わしています。「たくさんの財産」こそ「神」の祝福なのではないか、それにあずかる「金持ち」こそ真っ先に「救われる」のではないか、その「金持ち」が「神の国に入る」のは不可能とは・・・。「それではだれが救われるのだろうか」となったわけです。したがって主イエスの申されようは、「救われる」のは「金持ち」さえ不可能なのだから、おしなべて「人間にできることではない」のだということになるのです。
 この「人間」の不可能の対極として明言されるのが、主イエスにおいて「神」は「できる」です。「神」の全能性にかかっているからです。したがってこれに対応し得るのは、人間の(行為)ではなく、「神の子にする」という身分の変化による新しい人間の<存在>なのです。私たちはそれをただ主イエス・キリストにその贖いという「信仰」に見ています。だからこそ主イエスに「従って」<いる>のです。私たちはその「道」に<いる>のです。」

 物語はしかし、「弟子たち」に対する主イエスのどんでん返しの、まったく思いがけない警告の言葉で結ばれます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。なぜなら、「弟子たち」は誇らしげに言うからです、「気を落とし、悲しみながら立ち去った」「ある人」を遠目に見ながら、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と。なるほど主イエスはその犠牲に対する報いを約束されます。しかし考え違いをしてはなりません。それらもやはり「受ける」のであって、勝ち取り、獲得するものなのではありません。
 犠牲と服従が、「道」の「途中」で自分の<行為>になる、<業績>になる、そういう考え違いが起こり得るのです。「恵み」で一貫しない「信仰」になり得るのです。他者と比較せずにはおれなくなり、その上でしか自分を評価できず、あれこれ自慢したり卑下したり批判したり陰口するようになるのです。「神」の御前にひとり立ち、ただ主イエス・キリストにおいてのみ与えられた「子としての身分」という「恵み」の賜物を見失っているからです。
 「道」の「途中」で大切なのは、まさしく「神」の全能にのみ信頼して安らぐ歩みです。私たちの「救い」はただ「神」の自由な「恵み」にかかっているのだからです。その「信仰」に立っているのなら、自分の<行為>を数える必要はありません。ただ「恵み」に感謝し、喜んでさせていただいていることなのですから。惜しんで数えながらしていることではないのですから。

 <教会暦>のこの<期節>、まさしく<終末>に向かうキリスト者の基本的態度と行動が主題として語り聴かせられる時期です。それは「道」の途上にあらわになる「弟子たち」の内心の在りようです。そこでは、前進だけではなく、退歩も起こります。成長のみならず、退行もあります。それに気づかないまま、前進や成長と錯覚してしまうことがあります。ここで語られた主イエスの御心を真摯に深くくみ取るなら、私たちは自分たちが「恵み」に依らないで何も「できることではない」のだという不動の事実を受け取るほかありません。
 「オックスファム」というNGOの報告によれば、昨年の世界で最も富裕な80人の資産額は1兆9000億ドルで、59%の35億人の資産に匹敵しただけでなく、来年には、世界の最も裕福な上位1%の人々の資産総額が、残り99%の人々の資産を上まわる可能性があるということです。日本の経済的格差の拡大も連動しているのではないでしょうか。
 ヨーロッパ中世における偉大な神学者トマスが「もはや、『わたしには金や銀はない』と言わなくてもよくなった」と言うローマ教皇の言葉に対して、「その通りですが、『持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』とも言えなくなりました」と返したと聞いたことがあります。「神」から与えられて「持っているもの」は何か、この物語は、それを私たちに問いかけています。

祈り:主よ、不安な人々、悲しむ人々、貧しい人々に寄り添い、差し上げることのできる、「持っているもの」がある、そういう「弟子たち」の一人にしてくださったことを感謝いたします。「福音」の「自由」にいまこの時代で精一杯生かしてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
2015/10/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「寄りかかり、仕え合う家族」(マルコ10:1-16)
マルコによる福音書第10章1節-16節、2015年10月11日、聖霊降臨後第20主日礼拝、(典礼色―緑―)、創世記第2章18節-24節、ヘブライ人への手紙第2章5節-9節、讃美唱128(詩編第128編1節-6節)

マルコによる福音書第10章1節-16節

 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は話してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。





説教「寄りかかり、仕え合う家族」(マルコ10:1-16)

今日の第1朗読の創世記では、神がご自分の像に似せて人間を造られ、男と女とに造られました。しかし、人が一人でいるのはよくないと言われて、必要な助けを、人に与えようとされます。そこで、多くの生き物、空の鳥や野の獣などを造られ、人がそれに名を付けますが、それらの生き物には、神は命の息、霊をアダムの場合のように、鼻から吹き込むことをなさらなかったので、人に必要なパートナーとはなりえませんでした。
 そこで、神は、人を眠らせ、そのあばら骨の一つから、女を造り出します。男は、これこそ、私の骨の骨、肉の肉と呼び、互いに向き合って生きる、救いへの助けを見出すというのであります。私どもは、一人で生きていくべき者としては、造られておらず、男と女とが支え合って生きるように、もともと創造されているのであります。

 さて、第2の朗読で読まれましたヘブライ人への手紙では、その著者は、「あなたが顧みて下さる人間とは何者なのでしょう」と問い、神は天使どもの栄光を求められるのではなく、人間を救うために、人の子を遣わして、天使どもよりも、わずかに劣る人間のかたちを取らせ、私たちの罪のために、死の苦しみを味わわれ、復活させられた後、天の父のもとに帰らせたと、その信仰を告白しています。

 因みに、今日の讃美唱、詩編第128編は、主を畏れる者はほめたたえられよと歌い、その家族は栄え、その人の妻は、家の奥にいて、ぶどうの木のようであり、その子らは食卓に集い、オリーブの木のようであると賛美し、睦ましい家族の姿で描写されています。

 今日の福音は、先週の個所に続く、マルコ福音書10章1節から16節であります。十字架を目指す主イエスは、先週のカファルナウムの家への立ち寄りから、出立してユダヤの地方、あるいはその境界線、そして、ヨルダン川の向こう側へとやっています。なぜ、エルサレムにより近いユダヤの地方が先に書かれているのかはよく分かりません。
 
しかしヨルダンの向こう側とは、ペレヤ地域を指し、ヘロデ・アンティパスの支配領域であります。洗礼者ヨハネが、ヘロデと、フィリポと離婚してその妻となったヘロディアの再婚は、律法で認められないと非難し、それがきっかけで、洗礼者ヨハネは捕らえられ、さらには処刑されることにもなったのであります。
 
このペレヤ地方に入って来られるのでありますが、この切迫した十字架にお向かいになる主イエスのもとに引き寄せられるようにして大勢が群がってやって来ます。そして、この段階になられても、主イエスは、いつものように、彼らに教え始められるのであります。
 
しかし、今日の出来事の中でも、弟子たちは未だに、主イエスの教えを十分に理解できるどころではなく、その真意がつかめないでいる状態を続けています。これは、今の私たちにとっても言えることであり、主の十字架と復活のあとになって、弟子たちははじめて、主のお言葉が理解できるようになるのであります。

 既に、ガリラヤを後にしての十字架を目指しての途上にありながらも、主イエスは、私たちにとっての、身近な、しかし、より一層、深刻な問題、夫婦のあり方や、子供の存在、あるいは、財産やお金の問題といった、生きていく上でだれもが直面する問題について、み言葉を述べられるのであります。十字架と復活という出来事は、私たちの身近な生活と深いつながりがあることを、主は示しておられるのであります。

 さて、この場面で、かのファリサイ派の論敵たちが登場して、主イエスに質問しはじめ、しかもそれは、主イエスを試みるためでありました。主イエスを何とかして罠に陥れようと目論んでの質問でした。
 そもそも、人が妻を離婚することは認められているのかと、問うてきたのであります。
 それに対して、主イエスは、モーセは何と命じたかと反問なさいます。論敵たちとも、また、弟子に対しても、主イエスは、ルターの小教理問答のように、質問をし合いながら真理を教えられ、目を開いて行かせられるのであります。
 
そして、彼らは、申命記24章1節を基に、「モーセは離縁状を書いて、妻を去らせることを許しました」と答えます。主イエスはそれに応えて、それは、あなた方の心がかたくななので、モーセはそう書いたのであると説かれます。ファリサイ派のあなた方のその頑固な心に向かって、反対しながら記しているのだと言われ、神のみ心の本意はそこにはないと、彼らの考えを打ち消されるのです。
 
そして、今日の第1朗読の創世記の記事の中から、今度は結婚とは何なのかをと説かれます。すなわち、創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。それ故、人はその父母を後にして、妻と結ばれる、これは、夫は、誠実に妻に向かって献身させられるであろうという意味です。
 それゆえ、彼らはもはや二人ではなく一体であり、一つの肉である。いわば一人の人間であり、従って、神が合わせられたものを、人はばらばらに引き離してはならないと断言なさったのであります。

そして、神が、結婚を定められたのは、創造の秩序であって、神のご意志は本来、離婚を欲しておられないことを明言されたのであります。しかし、この主イエスの一見厳しいみ言葉は、神の恵みへの招きの言葉であります。

弟子たちは、マルコがよく使っているように、ここでも家へと入り、更に質問していました。すると、主イエスは、これにも答えて言われるのです。夫が妻を離縁して別の女と結婚するならば、もとの妻に対して姦淫の罪を犯すことになり、女ももとの夫を後にして別の男と結婚するならば、姦淫の罪を犯すのであると。

当時、ユダヤの社会では、夫が、夫を持つ別の婦人と関係を持った場合には、その相手方の夫に対して姦淫の罪を問われたのでありますが、主イエスは、自分のもとの妻に対して姦淫の罪を犯すのだと言われ、また、妻も夫と離婚して、再婚する場合も同様であると言われたのであります。
ヘロディアの場合、ヘロデの腹違いの兄弟フィリポに対して、自分から離婚して、ヘロデと再婚しても、姦淫の責めを負うのであり、本来離婚を認めないのが神のご意志であると、弟子たちには更に厳しく教えられ、その姿勢で主の十字架に従って来るようにと招いておられるのであります。現代では、離婚は昔以上にしばしば起こる問題であり、内村鑑三先生なども再婚されていますが、主イエスは、夫婦は互いに向き合い、責任を持ちあいながら、一体の関係として、互いに欠けを補い合いながら、仕え合っていく存在として、神だ定められたものであることを、今一度思い起こしたいものであります。

さて、今日のペリコペーは、さらに、10章13節から16節まで含められています。「そして」人々が、子供たちを、主イエスに触れていただくために連れて来ていたと続くのであります。
この子供たちというのは、乳飲み子から、13歳、14歳くらいまでをも含む言葉であります。力ある預言者、有名な教師であった主イエスのところに、せめて触れてもらいたちと願った母親たちが主であったとも考えられます。

ところが、弟子たちは、彼らを非難するのであります。すると、これを御覧になった主イエスは、お怒りになり、子供たちが私のところに来るのをそのままにさせておきなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちに属するからと言われるのであります。ここでも、弟子たちは、主のご意向に反し、そのみ言葉が理解できないである姿を露呈しているのであります。福音書の中で、主がこのように激しく怒られるという言葉はここにしか出てきません。

そして、主イエスは、アーメン、あなたがたに言っておくがと特に強調して、ここで言われます。子供のように、神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできないと。
この子供のように、とはどういう者を指しているのでしょうか。その当時、子供たちは、周辺に追いやられていた存在であり、5000人の給食の奇跡においても女と子供は数に入れられていませんでした。ある学者によれば、当時は家族の中で、その生命も受け継ぐべき財産も父親の意のままにされる、力弱く低い存在で、まったく父に依存して生きるほかはない存在でした。
まさしく、神の支配は、私たち人間の力や功績、影響力によって手に入るものではなく、まったく神からの贈り物、恵みとして与えられるのであり、弟子たちは、すぐ前の個所でも、自分たちの内でだれが一番大きいかと争っていましたが、神の国は、そういう者たちに与えられるのではなく、まったく周辺にいると思われていた、小さな子供たちにこそ、彼らへのプレゼントとして与えられるものであることを、主イエスは、再びここで示されました。
さらに、主イエスは、母親たちの願った以上のことをここでなさっています。それは、彼らを抱き上げた後、手を置きながら、祝福なさるのであります。一人一人を抱き上げて、その頭に手を置いて祝福なさる。この短い箇所は、幼児洗礼がその当時に守られていたことを暗示しているとも言われます。
いずれにしても、今日の福音の記事は、神の恵みのもとにある夫婦、子供を、主イエスが祝福なさっておられることを示しています。そして、家族が寄りかかり合い、互いに仕え合う生活へと招いておられます。

祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま。
あなたより与えられている妻や子供があなたの恵みとして与えられていることを感謝します。夫婦が、互いに神から与えられた者として仕え合い、また、私どもが子供のように
あなたに身をゆだねつつ、あなたのみ旨の近くにあって、あなたに招かれ、祝福された生涯を歩ませて下さい。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
 

2015/10/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「塩で味付けられた生活」(マルコ9:38-50)
マルコによる福音書第9章38節-50節、2015年10月4日、聖霊降臨後第19主日聖餐礼拝、(典礼色―緑―)、民数記第11章18節-20節、ヤコブの手紙第4章13節-5章8節、讃美唱135/2(詩編第135編13節-21節)

マルコによる福音書第9章38節-50節

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」


説教「塩で味付けられた生活」(マルコ9:38-50)

 厳しかった8月の暑さも過ぎ、又、日本列島を襲った台風等による災害の時も経て、あるいは又、安保法案が参議院を通過し、世界においても中米大国を中心に先行きが見えない中、確かなものはみ言葉にしかないと私たちは週ごとに教会に集まり、み言葉を聞き、聖餐に招かれ、今年も次第に終わりへと、一年の収穫の時期へと入って行きます。
 このところ、マルコ福音書の、十字架に向かわれる途上の主イエスの教えを聞かされています。
 ところで、今日の第1朗読の民数記では、エダド、ビルダデという者がモーセと同じように預言受胎になっているのを、従者ヨシュアがやめさせようとモーセのもとにかけつけると、モーセは、私のためにねたんで言ってくれているのか、私の願いは、すべての民が預言できることですらあるとヨシュアを押し止めています。今日の福音と通じるかのようにも想い起こされるエピソードであります。
 第2の朗読のヤコブ書は、富を誇らず、神の意志に適って用いるように戒め、貧しい者の搾取の上に欲望を思いのままにしている者に警告を発し、忍耐強く、秋の雨と春の雨を待ち望む農夫のように、確かな生活をするように奨めています。
 さて、今日の福音は、先週に続く記事であります。やはりカファルナウムの家の中での出来事であります。
 あの雷の子と言われた12弟子のうちのヨハネがやって来て言います。先生、あなたの名を使って悪霊を追い出しているが、私どもに従おうとしないので止めさせようとしましたと。しかし、主イエスは、止めさせないがよい。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後に私の悪口は言えないだろうからと言われます。
 私たち教会の部外者が、主イエスのみ名の上に悪霊払い等しているのです。ヨハネの主張は、間違ってはいないでしょう。しかし、その人は、主イエスのみ名を信じて悪霊を追い出し、神の国が来たことを証しする者であったことは違いないので、主イエスは、微笑みを浮かべて、ヨハネを諭したのでありましょう。
 この後、ペトロは、主の受難の時、その人を知らないとまで誓うのであります。しかし、主の復活と聖霊降臨の後、弟子たちは主のみ名を宣べ伝え、罪の赦しを、地の果てにまで宣言していく者と変えられていくのであります。
 主イエスは、弟子たちが主の十字架への道行きの意味が分からず、ただ恐れてばかりいるときに、この悪霊追い出しを、私たちに逆らわない者は、私たちの味方であるとまで認め、歓迎するのです。
 私たち現在、主のみ名を宣教する教会の者は、主イエスを悪くは言わないが教会には加わろうとしない人に対して、ここに洗礼があり、赦しがあることを説き明かしして、私たちの教会、主の体に招き入れるよう、温かく迎え入れる。そういう働きかける者でありたいです。
 次に、主イエスは、よく言っておくが、あなた方がキリストの者だという名において、水一杯でも飲ませてくれる者は、決して彼の報いを失うことはないと言われます。
 私どもは、キリストの者とされているのですから、どんなに取るに足りない弟子であっても、それを喜ぶ者でありたいものです。
 さて、主は続けて、私の弟子である小さい者の一人を躓かせるよりは、ロバに引かせる大きな石臼を喉にかけられて、海に投げ込まれる方がはるかによいと言われます。
 先週のみ言葉で、主は、このような子供の一人を、私の名の上に受け入れる者は、私を受け入れるのであると言われましたが、私はここで、特に私の弟子、信者のうちの小さい者、信仰の弱い者、あるいは歩み始めたばかりの者などを躓かせるよりは、海の深みに、女の引く石臼ではなく、大きな石臼がかけられて海に投げ込まれる方が、その人にとってずっと良いと言われます。
 そして今度は、人を躓かせるのではなく自分を躓かせることに対して警鐘を鳴らします。もし、あなたの片手が躓かせるなら、片手を切り取って、不自由になっても命に入る方が、両手そろって、ゲーナへと、燃え尽きない火へと出て行くよりもあなたには良い。憶え易い言葉で、今日のみ言葉は記されており、連想ゲームのように、つながっていきます。
 もし、あなたの片方の足があなたを躓かせるなら、切り取って捨てなさい。両足そろって、ゲーナ、地獄に投げ込まれるより、片方の足で不自由になっても命に入る方がよい。
 これは、はかない一時的な満足に過ぎないものより、神との交わりによる命のためには、どんな犠牲も惜しんではならないと言われるのです。
 さらに、あなたの片方の目があなたを躓かせるなら、それをえぐり取って捨ててしまいなさい。片目になって神の国に入る方が、両目で地獄に投げ込まれるより、あなたには良いと言われます。
 自分にとって大事と思われるものでも、神の支配、神の領域に入ることを妨げるものであるならば、それを捨てなければならないと言われます。
 そして、地獄、ゲーナでは、彼らの蛆は死なず、その火は消されないと、イザヤ書巻末の言葉を、主は引用されました。
 それは、ゲン・ヒンノムの谷を意味し、悪王などがモロクの神、息子や娘を火に投じた、エルサレムの西の場所で、後には屑やゴミ焼き場となり、神に逆らった者たちの罰の場所と考えられていました。
 そして、主は言われるのです。なぜなら、すべての人は、火で塩味が付けられねばならないだろうからだと。これは、昔から、分かり難い言葉の一つとされてきました。レビ記には、ささげられるすべての穀物やささげ物は塩をかけられ、清められねばならないとありますが、あるいはまた、火で焼きつくすささげ物とされねばならないということでしょうか。
 ここは、前節の、ゲンヒンノムの裁きの恐るべき火ではなく、清める火、精錬する火で、主イエスの弟子はすべて忍耐としつこさとまでを持って、苦しみに耐えるべきことを、主イエスは語っておられるようであります。
 洗礼者ヨハネが、私の後に来られる方は、火と聖霊であなた方に洗礼を授けると言いましたが、主イエスご自身の十字架をさえも、主はここで指さしておられるのかもしれません。
 迫害や苦しみに耐えて、邪悪は滅ぼされ、善が保存されることを、ネロの迫害等の中で、弟子たちは、このみ言葉の中に思い起こしたのではないでしょうか。
 そして、続けて、関連するみ言葉が続きます。塩は良いものである。しかし、塩が塩気を奪われたならば、それを何においてあなた方は、塩味を付けるだろうかと言われます。
 塩は保存し、又、防腐剤の働きを持ちます。死海の岩塩が他の物質と混ざり合い、馬鹿になる。その保存したり、腐るのを防ぐ資質を失うことがあるそうです。
 あなた方は地の塩であるが、塩が塩気を失ったなら、外に投げ捨てられ、何の役にも立たなくなると主イエスは言われました。そういう資質、特徴を持ち、一つに収束する塩を、あなた方の内に持ちなさいと主は言われます。
 そして、お互いに平和に過ごしなさいと。塩で味付けられた言葉を用いなさい。そうすれば、どのように答えるべきか知るでしょうと、パウロは言いました。
 主イエスもここで、健全な常識を働かせ、快い言葉を用いなさい。慈悲に満ちた、相手に慈善となる生き方をしなさい。そうすれば、お互い同士、和らいだ生活、塩気の利いた生き方が、あなた方、教会の中で保証されるでしょう。そして、み国において、だれが一番大きいかではなく、小さい兄弟を躓かせることなく、また、自分自身をも躓かせない、神の国に入り、神との交わりに生きることができると、主は、分からないでいる、十字架に進まれる途上で、弟子たちを招いておられます。
 塩に味付けられた言葉を用い、赦し合い、励まし合い、高め合う共同体、教会を、私たちも、今日のみ言葉から求めて行きましょう。アーメン。



2015/10/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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