津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスの弟子とされた幸い」(マルコ9:30-37)
マルコ福音書第9章30節-37節、2015年9月27日、聖霊降臨後第18主日礼拝(典礼色―緑―)、エレミヤ書第11章18節-20節、ヤコブの手紙第4章1節-10節、讃美唱119/3(詩編第119編17節-24節)

マルコによる福音書第9章30節-37節

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


  説教「主イエスの弟子とされた幸い」(マルコ9:30-37)

 今日の福音、マルコ9:30-37は、先週の第1受難・復活予告に続く第2受難予告であります。フィリポ・カイザリアから、変貌の出来事の後、ガリラヤを通って進む道すがら、主イエスは、ご自身をだれかが認識するのを欲されずにおられました。
 それは、弟子たちに、御自分の受難と、その後続いて起こるご復活という秘儀を12弟子だけに教えておられ、こう語っておられたからであります。
 「人の子は人間どもの手に渡される、そして、彼らは彼を殺すだろう、そして、彼は殺された後、三日後に起き上がるであろう」と。
 私たちの新共同訳では、教えておられたという言葉がなぜか訳出されていません。
 しかし、とにかく、人の子、受難、苦しみを受ける主イエスは、神によって死に渡されるのであります。罪なくみ子を、父は私たちの罪のために、死に付けられるのであります。
 弟子たちは、第1予告の時のペトロのように表立っては出てきません。ただ彼らは、主のなさった2回目の予告も理解できずに、あるいは、自分たちも死を迎えることを予感したのか、あるいはさらに、主イエスに質問することで様相が更に悪化することを直感していたのか、主に訊きただすことを恐れるばかりでありました。
 そして、一行はカファルナウムに戻って来ます。そして、このときも、家に入ると、主イエスは、質問なさいます。
 「道すがら、何を議論していたのか」と。「彼らは黙然たり」と文語訳では訳されていました。それは、み国、すなわち神の国に入るには、相応しい会話とはとても言えないことを、彼らは自覚させられていたからであります。
 すなわち、自分たちのうちで、だれが一番大きいのか、偉いのかと論じ合っていたからであります。
 今の教会でも、だれの信仰が一番大きいかということは考えますが、比較し合う問う点では、12弟子たちと同じであります。だれが一番の席次であるかは、い尼も同じように教会でも関心のあるところであります。
 ところが、主イエスは、腰を下ろし、改めてそう大きくない家の中で、12人をことさら呼び寄せて語り始められます。
「あなた方の内で一番になりたい人は、そのすべての者の内で最後のものになりなさい、そしてすべての者への仕える人になりなさい」と。
 仕える人というのは、ディアコノスという言葉です。ディーコン、長老という教会の中の役員のような人を指して言う言葉がありますが、これは、下で仕えるという意味で、ディアコニアという言葉のもとになっている言葉であります。下で支える者になりなさいというのです。
 決して、教会に上下関係や序列があってはならないということではありません。教会にもそれなりの秩序が大切であります。
 一番になりたい人は、最後の者となり、すべての人の下に仕える人になりなさいというのです。その人こそが、あなた方にあっては、一番大きな者であり、偉い人なのだと、ガリラヤを通り抜けて、十字架への旅の途上で教えておられるのであります。
 そして、これはペトロの家であったでしょうか、主は、子供を手に受け取って真ん中に立たせ、それから抱き上げて教えられます。当時、一般に子供は、弱く、無力で助けを必要とし、一人前の人間としては扱われなかった存在でした。
 ここで出て来る「子供」とはパイディオンと言い、パイスから来た言葉で、これは「しもべ」をも意味する言葉です。そして、主はその子を抱き上げて言われたのです。
 「この子供のような一人を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私を受け入れるのではなく、私を遣わした方を受け入れるのである」と。
 主イエスは十字架に付いて、神の身分であったのに、最も低いしもべの姿を取り、私たちすべての者のために苦しめられ、辱められ、最も小さい者、低くされた者となられるのです。
 神の独り子であったにもかかわらず、子供のように、そして、イザヤ書第53章に出て来るように、私たちの身代わりとなって、罪のないお方が、私たちのために死に渡されるのであります。ですから、子供のように無力で貧しく、助けなしには生きられない、この世でいちばん小さい者となって下さったのです。
 そして、私たちはそのような形で、私たちのところに来て下さったお方を受け入れ、歓迎し、もてなす弟子になるようにと招かれました。主は高ぶる者は、神によって低くされると戒めておられます。
 主イエスご自身の謙りと、父の意志への従順を、私たちは知っており、同じように、この世の最も小さい者、無力な者を受け入れ、キリストがそうなられたように、私たちも、自ら小さい者を受け入れ、それに仕えていく弟子となるように招かれています。
 私たちは、この自分を低くしていく道を選びとった一人一人であります。
 人の子は人々の手に渡され、殺され、三日後に死から起き上がると主は、今回、弟子たちだけに諄々と説かれ、教えておられました。
 しかし、弟子たちはそれが何のことかわからず、十字架に主が向かう途上にありながら、自分たちの内でだれが一番偉いのかと論じ合っていました。
 しかし、主イエスの弟子としての偉さは、この世界での影響力の大きさや名声、威信を求めるところには、存在しないのであります。
 子供のように、一人前の人間としては顧みられることのなかった小さい者となり、また、私たちの罪のために苦しみを受けるしもべとなって、主は十字架にかかり、復活なさいました。
 私たちも、主に倣って、すべての人に仕える者に、また、子供を抱き上げ祝福し、歓迎する者に、小さい者に仕え、自らもディアコニア、すなわち、下から仕える者になる者こそ、主の弟子として大きいことを知らされております。このまことに幸いな、小さな弟子の群れとされている道を、主に従って歩んでまいりましょう。アーメン。

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2015/09/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスとそのお言葉を恥じる者」(マルコ8:27-38)
マルコ福音書第8章27節-38節、2015年9月20日、聖霊降臨後第17主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書第50章4節-11節、ヤコブの手紙第2章1節-18節、讃美唱116(詩編第116編1節-19節)

マルコによる福音書第8章27節-38節

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代にわたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



説教「主イエスとそのお言葉を恥じる者」(マルコ8:27-38)

9月号月報「まろにえ」にも少し書きましたが、昨日も、一人の老紳士らしい人から、電話がかかりました。悩んでいることがあるので、また改めて相談に乗ってほしいということで、30分ほど話した後、打ち切りましたが、その人の問いは、エホバの証人とルーテル教会とではどこが違うのかというのです。
私は、教会は、三位一体の神を信じているが、エホバの証人は、エホバの神、すなわち、旧約聖書の主なる神だけを神として信じ、主イエスは、あくまでも、人間であり、たとえば、アブラハムやモーセのように、偉大な預言者にすぎないと考えていると伝えました。人となられた神、それがイエス・キリストであると説明しました。
その人は、エホバの証人の人たちは、聖書すなわち旧約聖書を文字通りに信じているけれども、ルーテル教会ではどうなのかと訊かれるので、たとえば、創世記の始めの天地創造の記事を、エホバの証人はそのまま文字通りの事実として信じているが、それは、人間とは何なのか、信仰から書かれた記事で、必ずしも進化論を否定するものではないと説明し、しかし、進化論も一つの仮説ではないかと伝えました。
その人は、人類は猿からそのまま人に進化したのではなく、チンパンジーとかとは、枝分かれして進化したもので、生物は、はるか昔に、地球に彗星が衝突して、海の中からアミノ酸のようなものから、アメーバ―のような生物が誕生し、進化していったと、今では考えられていると言うのです。
イエス・キリストが、神であり人でもあるということが、ピンとこないようで、又後日悩みを聞いてもらいに連絡すると言われていったん、電話を切りました。
こういう問いから始めて、聖書、又、教会の持ち続けて来た教理や、信仰告白に対しては、疑問を呈する人がたくさん、特に日本ではおられます。
例えば、イエス・キリストのこと、あるいは聖書のことを知らずに死んでいった日本の先祖はいっぱいいるが、その人たちはどうなるのだろうかといった質問を出す人もいます。
しかし、私たち、教会の者も、主イエスがどういうお方なのか必ずしもはっきりと理解していないのではないか、あるいは、頭の中では信じているが、何か別世界のことのように抽象的に考えてしまっていないだろうか、とも思われるのであります。
それらの疑問や、曖昧さに対して、一つのはっきりした答えを出してくれているのが、今日の福音の記事、あるいは、今ほど読まれた今日の日課であります。
主イエスとその一行は、フィリポ・カイザリアの村々へとやって来ます。カイザリアというのは、皇帝(カエサル)に敬意を表して付けた場所であります。
フィリポ・カイザリアには、私も聖地旅行で行った記憶があり、泉が岩間から湧き出し、今でも風光明媚な地であります。半人半獣と言いましょうか、顔は人で体は獣、パヌエルという牧羊神を祀った地域で、純粋のユダヤ人たちにとっては、異教めいた地であり、ローマ帝国の支配の中で、ローマ皇帝こそ、神の子であると多くの者たちが信じていた地方であります。
わざわざ、そのような土地に来て、その道すがら、主イエスは、人間どもは、私をだれと言っているかを、弟子たちに質問なさいます。
弟子たちは、こう答えます。ある者たちは洗礼者ヨハネだと、又、別の者たちは、エリヤだと、更に又、別の者たちは、預言者たちのうちの一人だと言っていますと。
そして、今度は、弟子たちに対して、では、あなた方は私を誰だというのかと、主は聞かれるのです。その時、あのペトロが代表して、言います。「あなたこそメシアです」と。ギリシャ語では、「クリストス」と記されており、「キリスト」であり、旧約聖書の中では、「メシア」、油注がれた者の意味であり、やがて、ダビデの末から起こされると信じられていた救い主でありました。そして、主は、このことを、だれにも言わないようにと、弟子たちに厳しく命じられます。
そしてそれに続けて、主は第一回目の受難、復活予告をなさいました。人の子は、長老たち、祭司長たち、律法学者たち、すなわち、サンヘドリン、エルサレムの最高法院のメンバーによって、排斥される。これは、詩編にあるように、家造りらによって無価値と宣言された隅の親石というときに遣われている言葉です。そして、多くの苦しみを経て、彼らによって殺されるが、彼は三日後に起き上がることになっていると予告したのであります。
そんな先の運命が、主イエスには分かったのだろうかと、疑問に思う人たちもいます。しかし、三回にわたって、主イエスは、この予告を弟子たちになさいました。もちろん、弟子たちは、主イエスの言われる言葉の意味が何のことか、いずれの場合もわからなかったと聖書には書いてあります。
ここで、主は、御自分のことを「人の子」と自称しておられます。これは、ダニエル書7章に出て来る名称で、そこでも、「人の子」は、多くの苦しみを受けると預言されています。
まことの「神の子」が、「人の子」として苦しみを受ける。しかし、また、彼は殺された後三日後に起き上がる。
旧約聖書でそのように約束されていると主は言われるのです。今日の日課、イザヤ書50章でも、主の僕は、「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には、頬をまかせた」とある通り、後の教会はそれを、主イエスのご受難の預言として受け取ったのであります。
しかも、主イエスは、この予告を、はっきりと弟子たちに語っておられた。ところが、先の、信仰告白をしたはずのペトロが、主を脇へ連れて行って、然り、諌めようとするのであります。
主は弟子たちの方を振り返り見ながら、ペトロに、「サタン、私の後ろに退け」と叱りつけ、「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。
私たち、人間の思いでは、このように神の子が苦しみを受けなければならないなどということは、思い至らないことなのであります。
ここで、サタンと呼び付けたのは、「敵対者」という意味であります。主を、あなたこそメシアですと答えたばかりのペトロを、主は、神のご計画に敵対する者として、退けられるのであります。
そして、急に群衆も出て来まして、12弟子たちと共に、主は召集なさって、教えられるのであります。「もし、私の後について来たい者はだれでも、自分を捨て、自分の十字架を担い、それから、私に従って来るがよい」と。ルターは、主イエスが、私どもは、あくまで、自分を憎む者でなければならないと言われる点を繰り返し強調しています。あるいは、自分の妻子をも憎む者でなければならないと主は言われるのです。
 そして、今日の受難予告をなさる主は、彼に従うすべての者たちも同じ師の道を歩まなければならないというのです。その通り、12弟子の多くは、殉教の死を遂げたと遂げたと伝えられています。
現代の私どもは、殉教の死は殆どなくなっているでしょう。しかし、主イエスと同じような道を、主に従うすべての者は歩まねばならないと言われます。
そして、最後の4節を、なぜならば、という理由づけの言葉で記しています。真の命の道を歩むために、かえって肉の体を殺さねばならないのです。自分の命、魂を失ったなら、全世界を手に入れても何の役に立とうかと主は言われます。
自分の魂、本当の生き方を失ったなら、どんな代価でそれを取り戻せようかと、主は言われます。
主は、「私のため、福音のために、その命を失う者は、かえってそれを救う」と言われます。福音、もう神の国は、主イエスと共に現在しているのです。この神の支配のために命を失う者は却ってそれを救うのです。
この福音である主イエスとそのお言葉を恥じる者は、この姦淫と罪深い時代にあって、そうする者は、人の子が父と共に聖なるみ使いたちと共に来るときにその者を恥じる。主イエスは、その者を仲間とは見なされないと言われ、この言葉を聞いているあなた方の中には、私が再び来るのを見る者がいると、御自分の再臨が近いことを約束されています。
主イエスが十字架と復活を遂げられた後、2000年近く経ちますが、いまだに、主の再臨は起こっていません。けれども、私たちはその日が来ることを知っており、「主よ、早く来て下さい」、マラナ・タと祈ることを知っています。
私たちは、今一度、主イエスの呼ばれた一人一人の弟子として、主イエスとそのお言葉を証ししていく者とされたい者であります。アーメン。


2015/09/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「普通にしゃべれるようになる」(マルコ7:31-37)
マルコ福音書第7章31節-37節、2015年9月13日、聖霊降臨後第16主日礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書第35章4節-10節、ヤコブの手紙第1章19節-27節、讃美唱146(詩編第146編1節-10節)




マルコによる福音書第7章31節-37節
 
 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


















 説教「普通にしゃべれるようになる」(マルコ7:31-37)

 今日の讃美唱の詩編146編では、私たちは、人間により頼んではならない、霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰ると、詩人は教えています。

また、第1朗読のイザヤ書35章では、「心おののく人々に言え」と始まり、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌うとイザヤは記し、荒れ野に水が湧き、荒れ地に川が流れると宣言して、バビロン捕囚のイスラエルの民が、シオンに帰り着く日を預言しています。

また、最初から、ほぼ通読している、第2の日課のヤコブ書では、人は語るに遅く、聞くのに早く、敏くあるように戒め、舌を制するようにと、信仰の実践を奨めています。

さて、今日の福音は、先週のティロスでのシリア・フェニキアのギリシャ女性の信仰に、主イエスが降参し、まいった出来事に続く記事であります。

主イエスは、そこから、北へとシドンに行き、そこから遠回りに、ガリラヤ湖の東側を通り抜けて、ガリラヤ湖の南側のデカポリス、10の町と呼ばれる異邦人の住む地に入り、そこから、上って、ガリラヤ湖の南端へとやって来ます。その間、主イエスは何をお考えになっていたのでしょうか。同行したであろう弟子たちは、主イエスのこの大旅行の目的をどう受け取っていたでしょうか。真意が分からず、内心つぶやいている者もいたでありましょう。

悪霊の取りついたゲラサ人を、主イエスは癒されましたが、その異邦人の多い地へと大旅行をして戻って来ます。
ティロスの地でも、主イエスは、知られ渡っており、隠れて保養することができなかったように、このガリラヤ湖の南端でも、人々は、耳が聞こえず、口の回らなかった人を、主イエスがお出でになったことを伝え聞き、さっそく連れて来て、手を置いて下さるように、願うのです。
口が回らなかったというのは、生まれつき耳が聞こえず、従って、人の言うことも理解できず、はっきりとはしゃべれなかった人であったでしょう。それで、人ともコミュニケーションが、ままならず、ましてや、神とのコミュニケーションができず、おののきながら、この時を迎えた人であったでしょう。

しかし、これは、主イエスと出会う前の人間、いや、主イエスに出会った後も、自由に、自然にその恵みを感謝し、賛美することが必ずしもできていない、私たちの姿をも現わしている人物ではないでしょうか。

もう40年以上も前になりますが、私が希望に燃えて、田舎から京都の立命館大学に入学してまもないころ、その大学の元総長の末川博先生の晩年の講演を聴いたことを思い出します。なくなられる1、2年前のことであったと記憶しています。

その末川先生は、「彼の歩んだ道」という短い自伝を書いておられます。その中で、人類の学問や技術や科学文明は、著しく発展してきたが、人間の心は、イエス・キリストや釈尊やソクラテスや孔子の時代からそれに伴って進歩したとは言い難く、2000年前より良くなったとは言えないと述懐しておられます。
今日の主イエスのもとへ、恐らく異邦人たちであったであろう人々が連れて来たその人とは、それから2000年たった、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。神の言葉も聞き取れず、その恵みの賛美もすることができないでいる。それが、私たちの罪にまみれた現実の一面だと思うのです。

しかし、おそらくユダヤ人ではなく、異邦人たちであったであろう人々が、主イエスのなさっておられた癒しの奇跡や、神の国の到来の教えを伝え聞いて、この人を連れて来るのであります。

ユダヤ人たちの指導者たちは、主イエスを理解せず、殺そうとさえして来ましたが、主イエスが当面は対象外ともお考えであった異邦人たちが、主イエスのもとに、信頼して、この耳が聞こえず、口もままならない人を連れて来るのであります。

ここでも、ティロスの場合と同じように、主イエスの12弟子たちは、この大旅行に同行したとは明記されていませんが、この癒しの奇跡の時にもそばにいたことでしょう。

しかし、主イエスは、この人とだけ、二人きりの場所に連れて行って、両耳に指を差し入れ、御自分の唾を取って、その人の舌につけて潤します。

そして、天を見上げ、深くため息をして、「エッファタ」、開かれよと呼びかけられます。
この人は、聞こえなかったでありましょうが、その時、耳が聞こえるようになり、また、はっきりとしゃべれるようになる、通常の人のように普通にしゃべれるようになったのです。
主イエスが、天の父に祈られ、深くうめくように、執り成しのいのりをし、言葉をかけると、そのとおりになるのです。そして、主イエスは今も父なる神の右に座して、呻くように、私たちのために、執り成して下さっています。

さて、そのようにして、癒されたこの人を見た人々に、このことをだれにも言わないように、主は口止めなさいます。

それは、見世物のように、この人を癒されたのではなく、主イエスについて、誤解を招くことを、主は避けようとされるのです。

しかし、口止めすればするほど、人々は周りに告げ広めるのであります。まだ、十字架の死と、ご復活の時は来ていないのです。にもかかわらず、人々は主イエスのなさったこの奇跡を告げ広めざるを得ませんでした。
そして、彼らは、この上もなく、測りを越えて驚き、打たれ圧倒されてこう言っていました。

「この人のなさったことはすべてすばらしい。耳の聞こえない者どもを、聞こえるようになさり、口の利けない者どもをしゃべれるようにしてくださる」と。

この人のなさったことは、すべて素晴らしいというのは、見事である、あるいは、美しいという言葉であります。創世記1、2章で主なる神が、天地創造をなさり、6日間の間にすべての被造物を造られ、人間をもご自分の姿に似せて造られたとき、すべては、神の目に良かったと書かれているのと、同じ言葉が使われています。

主イエスは、私たちが主イエスを賛美し、その恵みを感謝できるように、今日の人物の耳を開き、口で自然にしゃべれるように、造り変え、その不自由さから、人間のあるべき姿、神と人とに心を開いて自由に交わる者へと回復してくださいました。

今日の福音の最後の節、7章の37節は、私ども、教会の者すべてが、主イエスを賛美する大合唱であるとも言われています。

主イエスは、良き知らせ、福音を携えて、私どものところにお出で下さっています。そして、洗礼をヨハネから受け、荒れ野でのサタンとの戦いに勝って、ガリラヤに戻られたとき、第一声を上げて説教されたとおり、「時は近づいた、あなた方は悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されています。

弟子たちも、未だにその主イエスのなさること、語られるみ教えを誤解したり、理解できないでいるときに、異邦人たちが、ここで、主のみわざを賛美し、ほめたたえているのです。私たちも、今日の連れて来られた人と一体となって、この喜びの知らせを、周囲の人々に告げ広めるものとされましょう。

祈ります。
天の父なる神さま。
私たちの耳を開き、口のもつれをほどいてください。そして、あなたと交わり、人々と自由に関り合いながら歩んでいくことができるように憐れんでください。あなたが、み子を通して、私たちの孤独を解き、一体となって、あなたを、また、み子イエスを賛美する群れとして下さい。キリストによって祈ります。アーメン。


2015/09/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスを捉えた母の愛」(マルコ7:24-30)
マルコ福音書第7章24節-30節、2015年9月6日、聖霊降臨後第15主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書第35章1節-3節、ヤコブの手紙第1章2節-18節、讃美唱123(詩編第123編1節-4節)

マルコによる福音書第7章24節-30節
 
 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせねばならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食事の下の小犬も、子供のパンはいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。


説教「主イエスを捉えた母の愛」(マルコ7:24-30)

 今日の第1の朗読のイザヤ書は、荒れ野に花が咲き、裁くにも花を咲かせよと歌い、バビロン捕囚で弱り込んでいる手やよろめいている膝を強くせよ、そこから、解放されて戻って来られる日が来るからとイザヤは預言しています。
また、第2の朗読のヤコブ書は、信仰が試されることで忍耐が生じると言い、さらに、神は決して人を誘惑なさったりはしないと断言し、人は自分の欲望に従って誘惑に陥るのであり、欲ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生むと明言しています。
さて、今日の福音は、マルコ7:24-30です。先週は、主は人間は内側から清められなければならないと教えられ、内側の思いから、悪い欲望などが出て来ると戒められました。
今日の出来事は、主イエスがティロスの地域、フェニキアの港湾都市の領域にまで、プライベートな時と場所を求めて、出て行かれた時の出来事であります。
主イエスの磁力とでも言いましょうか、その魅力は、敵対関係にあったとも言われるティロス、シドンにまで既に伝わっており、主はだれからも気付かれたくないと願っておられましたが、それはできないことでありました。
主は先週のみ言葉を、家に入って弟子たちに説明しましたが、そこを去った後、遠く離れたティルスのある家にはいられましたが、一人の異邦人、異教徒である、汚れた霊に取りつかれた幼い娘の母親の伝え聞くところとなり、その母親は、娘から悪霊を追い払って下さいとやって来て主のみ足のみもとに、ひれ伏すのであります。
 ルターは、この物語を愛し、これは、彼女にとって自分自身との、又、主イエスとの戦いであったと説教しています。
悪霊が娘の病気の原因だとされていますが、私どもも、悪霊によって、自分の力では打ち克ち難い試みや激しい不安にさらされるものであります。
しかし、この母親を、ここで導いているのは、聖霊、神の霊であったと、シュニーバントという神学者は言っています。
ここで、主イエスはいつもの優しい反応を示さず、拒まれているように思われます。この女性は、ギリシャ人で、生まれ、国籍は、シリア・フェニキア女性であったと言います。
ギリシャ人にも、ユダヤ人にも、福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であります(ローマ1:16)。
しかし、主イエスは、今日の出会いにおいて、「まず、子供たちに十分食べさせるべきことを、あなたは認めなさい。なぜなら、子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくないからだ」と冷たく拒まれるかのようです。
マタイによる福音書では、「私は、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」とも言われています。
神の民イスラエルのところに、その救いの約束を、祝福を伝えるためにイエスはお出でになられました。
その民に十分、パン、命の糧を与えるためにこそ、主イエスは来られたのです。
しかし、ファリサイ派の者どもは、これを受け入れず、主イエスの弟子たちも理解できないでいました。
主イエスが言われる子供たちとは、ユダヤ人たちのことであり、小犬とは異邦人たちのことであります。その子供たちのためのパンを取り上げて、小犬に投げ与えるのは、よろしくない。子供たちにこそ、まず十分に食べさせることを、あなたは認めねばならないと、主イエスはいつになくきっぱりと厳しく明言されるのであります。
それに対して、このギリシャ女性は、恐らく教養もあり、主イエスのユーモアに対しても、機知を持って、答えを返すのであります。
「主よ、そして、食卓の下の小犬たちも、子供たちからのパン屑は食べるのです」と。この「主よ」というのは、異教徒の女性が、主イエスに対して、「だんなさん」という言い方で呼び返したのでしょうか。そうではありますまい。これは、主イエスを、「わが主よ、あなたの言われる通りです。そして、しかし、テーブルの下の小犬も、子供たちの落とすパン屑から、命の糧を受け、おこぼれをいただいています」と言うのです。
イスラエルの民の救い主として来られたあなたの前に、私は、一人の異邦人に過ぎません。しかし、あなたの救いの豊かさ、全世界の民をも恵まれる、あなたの祝福の一端には、私も、そして悪霊に憑かれた私の娘も、み心ならば、そのおこぼれには、価するのではないでしょうか。
この母親は、今なお、主イエスのみ足のみもとにひれ伏したまま、嘆願し続けるのであります。
主イエスは、その時、「まさにその言葉の故に、あなたは帰りなさい。もう悪霊は娘から出てしまった」と宣言されるのです。
この物語は、奇跡物語ではありますが、その方法や傍観者の様子などは一切記されていません。
主イエスは、遠く離れていても、この娘を癒すことがおできになるのです。母親が家に帰ってみると、その娘はベッドの上に寝ており、悪霊は出てしまっているのを見出すのであります。
このギリシャ人の母と娘は、後の教会の信徒となったとの伝説もあります。今日、私たちは、この後、「恵みの机に集いて、主イエスにまみえん。命と安きと喜び、ここにぞあふる」と始まる聖餐の歌を歌って、聖餐に与ります。
今日の、このギリシャ人の、小犬も子供たちのパン屑はいただきますとの信仰、そしてその戦いは、私たちの信仰、また、戦いでもあります。
この母親の示した、ひれ伏し、へり下る姿勢と開かれた態度をもって、ユダヤ人だけではなく、ギリシャ人にも、信じるすべての者に神の力である福音を思い起こし、すべての民が、主なる神のみもとに礼拝するようになるとの旧約聖書の約束が、今日の主イエスのみ言葉を通して実現している幸いを感謝したいと思います。祈ります。

主イエスキリストの父なる神さま。

何の功績にもよらず、ただあなたの憐れみによって、あなたのパン屑に参与が許される者とされましたことを有難うございます。
この信仰が、さまざまな試練を通し、忍耐を通して守られ、私たちを恐れなく、臆することなく、あなたの祝福のうちに、生涯を全うする者と成らせてください。キリストのみ名を通して祈ります。アーメン。

2015/09/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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