津田沼教会 牧師のメッセージ
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「内側からの清め」(マルコ7:1-15)
マルコ福音書第7章1節-15節、2015年8月30日、聖霊降臨後第14主日礼拝(典礼色―緑―)、申命記第4章1節-8節、エフェソの信徒への手紙第6章10節-20節、讃美唱15(詩編第15編1節-5節)

マルコによる福音書第7章1節-15節
 
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。-ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、実を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。-そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。、つまり神への
『この民は口先ではわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
 人間の戒めを教えとしておしえ、 
むなしくわたしをあがめている。』
  あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべき者は、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」



説教「内側からの清め」(マルコ7:1-15)

先週の、湖上を歩いて、逆風に漕ぎ悩んでいる弟子たちのもとに、丘の上から目を留めて、祈られていた主イエスが、その弟子たちの舟のそばを通り過ぎようとされるのを、弟子たちは、幽霊だと怯え、うろたえる。しかし、主イエスが「私である、恐れるな」と言われて、舟に乗り込まれると風も止んだという奇跡に続いて、今日の記事の前には、ゲネサレトに着いた主イエスの一行のもとに、大勢の人々が押し寄せ、主イエスは、病をいやしておられたという記事が挟まれています。

 今日の出来事は、その主イエスのもとに、エルサレムからも、ファリサイ派や律法学者たちの数名が集められるという文章で始まっております。

 あるいは、主イエスの教えやなさっている力あるみ業に、恐れを感じたエルサレム当局から遣わされたスパイのような存在だったかもしれません。

 主イエスの弟子たちが、市場や公衆の場から帰って来たときに、入り口で、念入りに手を念入りに洗わないで、入ってしまい、そのまま食事をしたりするのを見て、訝るのであります。

 というのは、当時の敬虔なユダヤ人たち、特にこのファライサイ派どもや律法学者たちは、市場などで異邦人や汚れた者たちと交渉のあった後には、手を洗うことなどのほかにも、やかんを水に漬けたり、水差しや、引いては寝台なども水に漬けて汚れを取るなどというやかましい細則を几帳面に守っていたのでります。

 しかし、主イエスは、彼らに、あなた方のことを見事に、預言者イザヤが預言している、すなわち、あなた方は私を敬っているが、その心は遠く私から離れていると、引用して言われ、例えば、十戒の父母を敬えと、モーセは命じたのに、あなた方は、この与えるべきものは、コルバン、すなわち、神への供え物ですと言えば、両親に与えなくてもよいなどとして、神の律法の教えから遠く離れてしまっていると、その偽善を断固として暴かれたのでした。

 私たちもまた、十戒の父母を敬え一つとっても、これを十分に守ることのできない、罪に塗れた、弱い一人一人に過ぎません。

 しかし、主イエスは、私たちがまず、心の内側から清められることがなければ、如何様に、手を入念に洗い、外のものを清めても空しい。そして、実は外から入るものは、何ものも、その人を汚すことは出来ず、内側から出て来るものが、その人を汚すのであると、ファリサイ派や律法学者たちの偽善をはっきりと指摘されたのであります。

 現代は、刹那的な快楽を追求する社会とも言われています。そのような中にあって、私たちを、内側から清め、家庭生活を守り、社会を真の意味で清め、導くものは、主イエスのお言葉を始め、聖書のみ言葉の一つ一つであります。

 私たちは弱く、罪に塗れ、倒れ伏してしまう罪人ではありますが、既に、主イエスのみ言葉を通して、清められ、義とされた罪人であります。

 罪に陥っても、すぐに戻って来るべきともし火を知っています。十字架にかけられ、三日後に復活なさった主イエス・キリストです。主イエスと共に歩む道の幸いを、世の人にも伝えるために、私たちは教会に集う者であります。

 主イエスと共に歩むときに初めて、十戒をも私たちは真の意味で守ることができる者へと変えられます。いや、既に、主イエスが言われたようにあなた方は清いので、足だけ洗えばよいのです。

私たちの罪のために死なれた義なるお方と共に歩むことが既にここに集う一人一人に赦されているのです。アーメン。



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2015/08/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「常にあなたの傍らにおられる方」(マルコ6:45-52)
マルコ福音書6章45節-52節、2015年8月23日、聖霊降臨後第13主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、ゼファニア書3章18節-20節)、エフェソの信徒への手紙4章1節-16節、讃美唱141(詩編141編1節-8節)

マルコ6章45節-52節
 
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


説教「常にあなたの傍らにおられる方」(マルコ6:45-52)

今日の福音は、先週の5000人の群衆の必要とした糧を、主が弟子たちの集めたわずかな食べ物で満たしたという驚くべき奇跡に続く記事であります。
既に時も遅くなったとき、主は強いて12弟子たちを舟に乗り込ませて、向こう岸のベトサイダに向けて、先に船出させられます。
一方で、主は、群衆を解散させ、彼らと別れて、一人、山へと祈るためにお登りになります。何を求めての祈りだったのでしょうか。並行記事のヨハン福音書では、群衆が、主を王にしようとしているのを見て、山へと退かれたとあります。
主イエスは、ご自身の使命を今一度深く父なる神に問い、これからの道行きを父から知らせて頂くために、祈られ、そして、そのためのご用に当たる12弟子たちにご自分を、悟らせるために、あえて独り、丘の上へと進まれたのではないでしょうか。
ところが、弟子たちは、湖上で逆風にあって進みあぐねていました。陸には、主イエスお一人、海、ガリラヤ湖の上では弟子たちの舟だけが浮かんでいました。
それを見た、主は、彼らのもとへと、みず海の上を、歩き回りながら、進んで行かれます。岸辺近くを、主は歩いておられただけで、弟子たちの舟が、岸辺に引き戻されたのではないかと、考える説もあります。
しかし、これは、主イエスが、海の上の波を打ち砕きながらな実を砕いて歩くことのできる方、ヨブ記で出て来る主なる神のみのおできになるみ業をなさっていることを、示しているのであります。
そして、主は、弟子たちの舟のそばを、なぜか通り過ぎようとしておられました。そして、それを見た弟子たちは、幽霊かと思い、怯えて叫び声をあげるのです。
なぜ、主は、彼らの傍らをすぐには、助けようとせず、通過しようとしたのでしょうか。それは、出エジプト記で、モーセが、シナイ山で主と出会うとき、主なる神は、モーセの顔を手でおおい、過ぎ去るまでそうして、モーセは通り過ぎていった主の後ろ姿しか見なかったとあるように、あるいはまた、エリヤもシナイ山、ホレブ山に登って来たとき、主なる神は、エリヤのそばを通り過ぎたという故事に則っているのです。
このお方は、まことの神として、この地上に、人間の形を取りながらも、実際にこの通り、湖上を歩き回り、しかも、彼らの脇を過ぎ越そうとしていました。
しかし、主は、幻影を見ているかのように、恐れてうろたえ、叫び声をあげたとき、お語りになります。「勇気を出しなさい、私である、恐れることをやめなさい」と。
そして、主が舟に乗り込まれると、風も止みました。私であるというのは、主なる神がヤハウェと言われましたが、出エジプト記でモーセに示された「私はありて、ある者だ」というのと、同じでありまして、これは、「私たちと共におられる方」という意味合いの言葉であります。
この12人の者たちは、その時、過度に、自分たち自身において、正気を失っていた。それは、パンの出来事を理解できず、彼らの心は、鈍くなっていたからであると、マルコは記しています。
主イエスは、私たち教会に集いますキリスト者が進みゆく荒波の信仰の旅地にいつも、共にいて下さいます。
あのさ迷い、飢え渇いた5000人の群衆を、12弟子たちを通して、養い、満ち足らせたお方を彼らは、そのすぐ後の湖上での苦闘の中で忘れていました。主の奇跡の意味を悟ることができずに、真夜中で見た主イエスを幻影、幽霊と錯覚してしまう弟子たちであります。
これはまた、私たち、それから2000年も経っている現在の教会の信者の姿でもあります。しかし、主は、今日もまた、窮状の中、不安と苦悩の中にあって、近づいて来られ、私たちの教会という舟に乗り込まれて、風も静めて下さいます。このお方に従って、一人一人、主イエスの弟子として歩む人生でありますように。アーメン。
2015/08/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「五千人を満たした糧」(マルコ6:30-44)
マルコ福音書6章30節-44節、2015年8月16日、聖霊降臨後第12主日礼拝(典礼色―緑―)、エレミヤ書23章1節-6節、エフェソの信徒への手紙2章11節-22節、讃美唱23(詩編23編1節-6節)

マルコによる福音書6章30節-44節
 
 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。




説教「五千人を満たした糧」(マルコ6:30-44)

 この夏の休暇を用いて、結婚して赴任した水俣教会を訪ねて、松山へ戻って来ました。水俣教会には、早蕨幼稚園という小さな学校法人の幼稚園があり、この度、熊本の神水幼稚園付属幼稚園と、惠幼稚園と法人合併して、「子ども園」も採用して1億五千万円の総工費で古かった園舎を急遽、立て替えているところで、12月には二階建ての園舎が完成します。
 今年4月から迎えた、神学校を卒業し、結婚したばかりの牧師夫妻を交えて、信徒5人ほどが、久しぶりに降りしきる雨の中、古いままの教会・牧師館と続いている、昔のままの礼拝堂に集まってくれました。
20年前に、私ども夫婦は、赴任しましたのですが、その頃よりも信徒は、天に召されたり、他へ引っ越ししたりで、かなり減っています。
けれども、懐かしい、その守っておられる方々は、20年前と同じ、堅い信仰生活を守っておられることに、深い感銘を受けました。
実は、もう一人、県境を越えた鹿児島県の阿久根教会で、獣医をしている兄弟を是非、尋ねたいと思ったのですが、ちょうど彼はチンタオに出張して、木曜日まで帰らないとのことで、会うことはできませんでした。
この兄弟は、51~52歳で、早蕨幼稚園の卒業生でもありますが、ご一家で阿久根教会を守っているような家族でありました。ところが昨年の暮れ、12月30日の主日のことでしたが、奥さんが蜘蛛膜下出血で急に召されたのであります。ご主人は出張中で、当日、ある姉妹のお父さんが、めでたく洗礼を受けるとのことで、愛餐会の食事の準備をしていて、倒れ、発見も遅れたという悲しい出来事でした。男の子3人を残して、急に召され、御主人の彼は、今も悲しみから立ち直れていないとのことでした。
牧師をしていますと、このような不条理とも思われる兄弟姉妹の死に接することが少なくありません。
水曜日の夕方に、松山に着きました。介護の仕事をしています妹に久しぶりに会いましたが、今度は、その妹から、宇和島の高校時代の私の同級生で、尊敬していた友人が、ガンで不幸な死に見舞われた戸の情報を知らされ、もう私も還暦を迎えていますので、こういうこともあってもおかしくはないと思わされています。彼は、最後は宇和島市消防署長まで勤め、高校、大学時代は野球をやり、男女を問わず、皆の信望を集める友人で、私が牧師になっていた頃には、週報等も送っていた時期があったと記憶しています。
もっと、親しく付き合っていればと残念にも思います。
さて、今日のみ言葉は、「五千人への供食」と呼ばれる記事であります。そして、今日の第1の朗読は、エレミヤ書で、やがて、あなた方にまことの牧者、ダビデのための若枝、メシアが与えられるであろうとの預言であります。
第二の朗読は、平和主日の朗読とも重なりますが、エフェソ書からの記事で、異邦人も、ユダヤ人も、また、すべての人の間の隔ての中垣が、十字架にかかって下さったキリストによってなくなり、まことの平和が与えられているというものでした。
因みに、今日の讃美唱は、詩編23編全体で、口語訳では、「主はわが牧者」と始まっておりました。主なる神こそ、私の羊飼いであり、緑の草の上に伏させ、水のほとりに導かれる。だから、私は、たとえ死の陰の谷を歩む時にも、恐れない。主は食卓の杯を、ぶどう酒で満たし、生涯、主の恵みが私の後を追うという記事でありまして、今日の福音の記事には、最も相応しい、旧約聖書からのペリコペーであると思います。
 さて、今日の福音、マルコ6:30-44であります。使徒たちは、杖一本しか与えられない、初めての宣教から戻って、主のもとに集められます。
主と同じように、悔い改めの説教をし、悪霊を追い出し、病人を癒す宣教ができたのであります。彼らは、自分たちが教えたこと、なしたこと、すべてを報告します。
そして、主のもと、彼らのもとに、大勢の人が出入りしていて、食事をする暇もありませんでした。そこで、イエスは、あなた方はしばらく休みを取るがよいと言って、舟に乗り、「寂しい場所」へ、一行だけで向かいます。
これは、「荒れ野」という言葉でもあります。さて、ところが、これに気付いた群衆は、陸路で、徒歩で、あらゆる町から駆け付け、一行よりも先に着いたのであります。
主イエスは、舟から下りると、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを見て、はらわたがちぎれる思いになります。それは「共に苦しむ」(コンパッション)とも訳されます。そのイエスの熱いまなざしによって、今日の奇跡は、起こされるのであります。
イエスは、その群衆に向かって、多くのことを教え始められます。そして、多くの時間が過ぎた時、イエスの弟子たちが来て言います。「もう時が遅くなりました。群衆を解散して、近くの集落や、村々に行かせて下さい。そうすれば、彼らは、自分対が食べるものを仕入れることができましょう。」
すると、イエスは、「あなた方が、彼らに食べることを与えなさい。」弟子たちは、驚いて言います。「200デナリオンものパンを、私たちが買って与えよとでも言うのですか」と。
マルコに出てくる弟子たちは、主イエスのなさることが分からない弟子、ある意味では不信仰な弟子たちであります。主イエスがなさろうとしていることが分からないし、自分たちの常識、人間の理性でしか考えられない、信仰の小さい者たちであります。
主は、あなた方はどれだけの食べ物があるか、行って見て来なさいと言われます。弟子たちは確かめて来て、五つのパンと二匹の魚を、と答えます。
主は、弟子たちに、人々を組にして座らせるように、横にならせるようにと命じます。人々は、青草の上に、50人ずつ、あるいは100人ずつ列になり、グループになって座ります。
主は、パンを取り、天を見上げて、讃美の祈りを唱え、それを裂き、弟子たちに与え、弟子たちはそれを、彼らの前に差し出します。イエスは、同じように、魚をも皆に分配しました。
これらの表現は、最後の晩餐の聖餐式の設定を思い起こさせます。そして、彼らは食べ、すべての者が満腹させられた。それは、男の者が五千人であったとマルコは記しています。しかも、彼らは、パン屑と魚の残りで満たされた12の籠を持ち上げたというのです。
羊飼いのいない羊のような、迷い、人生の荒れ野で満たされず、飢え求める無数の群衆を、五つのパンと二匹の魚というわずかな食物を祝福し、聖別して、人々の真の心の飢えを満たし、又、体の飢えをも満たすことができました。
旧約聖書では、出エジプトの民に、主なる神がモーセを通して、荒れ野でマナを降らせ、うずらを降らせて、イスラエルの民を養いました。あるいは、預言者エリシャも20の大麦のパンで100人の弟子たちの職を満たし、余りが残されたとあり、エリヤも、サレプタのやもめを、尽きない麦の粉で、主なる神に執り成して、養うことができました。
そして、詩編23編では、詩人ダビデは、主こそまことの牧者として、自分を恵みで導く神をほめたたえました。
しかし、寂しい場所、人生の荒れ野に集まる無数の人々を、今日も、十字架と復活の主は、そのすべての渇きと飢えを満たし、養うことがおできになります。水俣教会の小さな信徒の群れ、又、阿久根のもっと小さな群れの、そのうちの一人をも、主は見放すことはありません。
これから、主の聖餐にご一緒に参与します。主が飼い主のいない羊のような私どもにまなざしを向け、私たちの生きていくまことの糧を、その分からないでいた弟子たちを通して与えて下さいました。
私たちも、この荒れ野を生きていく、まことの糧を人々に与えていく、そのような人生を歩んで行きましょう。

祈ります。
天の父なる神さま。
この世に、まことの大牧者、私どもの羊飼いとしてお出でになられた主イエスに、また、み子を遣わされたあなたに感謝いたします。そして、このお方が、私どもの罪のために命を与えて下さり、他でもない、弱く惨めなこの私たちに、恵みと平和が与えられていることをお礼申し上げます。
今日の主イエスのまなざしを受けて、生涯を、信仰のうちに歩ませて下さい。
主イエス・キリストのみ名を通してお祈りいたします。アーメン。
2015/08/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「良い知らせを伝える足として」(マルコ6:6b-13)内海望牧師
マルコ福音書6章6節b-13節、2015年8月9日、聖霊降臨後第11主日礼拝(典礼色―緑―)、エフェソの信徒への手紙1章3節-14節、讃美唱85/2(詩編85編9節-14節)

マルコ6章6節b-13節
 
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、 悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


説教「良い知らせを伝える足として」(マルコ6:6b-13)内海望牧師

 イザヤ書には、美しい詩があります。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ書52章7節 p.1148下段)。
これは、紀元前6世紀にイスラエルの民がバビロニア帝国によって捕囚の民となり、苦難の生活を続けていた時、神さまの使者として遣わされた預言者が、良い知らせを伝える足として、捕囚よりの解放を人々に告げ知らせ、人々に希望を与えた詩です。パウロも宣教の素晴らしさを、この詩を引用しながら語っています。(ローマ10:15)

今日の福音書の日課であるマルコ6:6b以下は、まさに、イエスさまが12弟子を「良い知らせを伝える足」として送り出される場面です。「遣わす」と言う言葉は「使徒」と同じ言葉が使われています。
しかし、私たちは、この派遣の記事に戸惑いを覚えます。12弟子たちは、私たち以上に大きな戸惑いがあったでしょう。何故なら、弟子たちは、ごく最近のこと、ガリラヤ湖で突風に見まわれた時、イエスさまが共にいて下さったにもかかわらず、は見風に恐れおののき震え上がるような弱々しい群れであったのです。イエスさまから、「まだ信じないのか」と嘆かれるような信仰薄い群れであったのです。「どうして、私たちのような者たちが、神さまの良い知らせを告げる使徒になれるであろうか」という思いが12弟子の率直な感想であったと思います。私たちも同じです。彼らは、これまでに、使徒と呼ばれるにふさわしい信仰も業績も見せていません。
実は、私たちは、聖書の中に、同じような困惑を感じた人々を数多く見出すことが出来ます。例えばモーセです。神さまから「苦しみの中にあるイスラエルの民をエジプトの地から救い出しなさい」との召命を受けた時、彼は、頑として応じません。神さまから、「私が必ずあなたと共にいる」と言われても、「民が私を信じるはずがありません」とか「私は便が立ちません」と逃げ口上を次々に並べ立てて断り、ついに神さまの怒りを買ったと書かれています。そして、最後の最後にアロンという弁の立つ仲間を与えられて、しぶしぶ神さまの派遣の命令に従ったのです。
エレミヤもそうでした。神さまの召命を受けた時、「私は、語る言葉を知りません。私は若者に過ぎませんから、辞退します」と答えるのです。しかし、殆ど無理強いのような形で預言者とされてしまいます。
パウロも例外ではありません。「私は月足らずで生まれた、教会を迫害するようなものだから使徒と呼ばれる値打ちはありません」と告白しています。
しかし、それにもかかわらず、彼らは神さまの良い知らせ、福音を伝える足とし派遣されているのです。
私たちは、戸惑います。どうしてそんなことが起こるのか。しかし、まさにここに、神さまの愛の奥義があるのです。
神さまは、信仰深いだとか、高潔な人格の持ち主だとか、有能だとか、健康だとか、人間の側の資格を問題にされません。幼子も(「幼子のようにならなければ」、サムエル)、青年も(エレミヤ)、シメオンのような高齢者も、84歳の女預言者アンナも、身体的にハンデイのある者(モーセは障がい者であったとも言われます)、すべての人々を、「良い知らせを伝える麗しい足」として当てにして下さっているのです。つまり、私たちの人生そのものが、そのような使命を神さまから与えられているのです。私たちは、だれ一人例外なく、神さまから「良い知らせを伝える足」として召されているのです。
有能だとか、無能だとか、若すぎるとか、高齢だから何も出来ないとか、罪人だとか、病人だからとか、あるいは民族の違いで区別する、などという考え方は、私たち人間が作った壁なのです。神さまの愛は、このような人間が作った隔ての壁を打ち破る力なのです。私たちの偏った目を、正しくするものなのです。
神さまの目からすれば、私たちの誰一人不要な者はないのです。私たちは一人残らず、「神さまに必要とされている者」なのです。12弟子を遣わされるイエスさまは、今ここにいる私たち一人一人も「良い知らせを伝える足」として、遣わそうとしていらっしゃるのです。
しかし、私たちは、この神さまの愛を喜ぶと共に、私たちの生き方が大胆な「方向転換」(悔い改め)を迫られていることに気付かされます。何故なら、神さまに愛は、私たち自身が「隔ての壁」を作っている張本人であること、私たちの目が偏っていることを明らかにするからです。
 もちろん、私たちは善意の人ですから、平和を愛し、穏やかな心で生きて行こうと心がけています。しかし、一旦、私たちの平和を脅かすような出来事に出会う時、私たちは、自分の人生を守るために、自分の平和を乱す者を排除しようとします。たとえ、それが家族であっても、あるいは親しい友人であっても。
その意味では、「私の平和」「我々の平和」は利己的であると言って良いでしょう。いつも、新たな憎しみ、対立を引き起こし、隔ての壁を作るのです。その事実を、神さまの愛は明らかにするのです。その意味で、神さまの愛は両刃の剣です。
神さまの愛は、イエスさまの十字架において、その究極の姿を現わします。イエスさまは、その死に際しても、人々を分け隔てなさいませんでした。十字架上で、苦しい息の下で、イエスさまは、自分を苦しめ、殺そうとする人々を赦し、彼らのために執り成しの祈りを神さまにささげられ続けた方です。この祈りこそ、人々の心を変える力となったのです。
教会を迫害し、苦しめていたパウロは、この十字架上の祈りが自分のための祈りであることに気付かされた時、その歩みを180度方向転換させました。教会を迫害する、神さまに敵対する私を赦し、私を生かすためにキリストは死んで下さった、このイエス・キリストの愛を知ったとき、パウロは新しく生まれ変わり、福音の宣教者となったのです。パウロは、その経験を、「キリストの愛が、私に迫った」ので、私は変えられたと語っています(コリント二5:13=口語訳)。「迫って来る愛」、ダイナミックな表現です。パウロにとって、イエスさまの十字架の愛は、かくも大きな力強い出来事であったのです。
イエスさまの十字架の愛は、人間の良心を突き刺す剣でもあるのです。イエスさまご自身、「私が来たのは、地上に平和をもたらすためだと、思ってはならない。平和でなく、剣をもたらすために来たのだ。」とおっしゃっています(マタイ10:34)。イエスさまの十字架の愛は、私たちの愛が、利己的な、偽善的な愛であることを露わにします。しかし、イエスさまのこの剣は、同時に、古い私に死に、新しいいのちに復活させる力でもあるのです。12節の、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」と書かれているところは、「復活のいのちを与えるために宣教した」と読みかえることが出来るのです。
イエスさまは、唯一の新しい掟として、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)と命じられました。「良い知らせ」とは、まさにこのイエスさまの十字架の愛を伝えることです。私たちは、この「良い知らせを伝える足」です。「伝える」ということは、語ることより、キリストの愛を持ち運ぶことです。
今は、一切の戸惑いを捨てて、「イエスさま。私を遣わして下さい」と心から答えることが出来るのではないでしょうか。感謝と喜びのうちに「良い知らせ」を伝える者としての歩みを始める勇気が与えられました。新しい旅立ちです。
私たちは、先週「平和主日」を守りました。今日は長崎に原爆が投下されて70年の記念日です。私たちは、切実な心で、本当の平和を求めます。それは、神さまの愛以外にありません。神さまの愛は、真の平和を作り上げる原動力です。これは理屈ではありません。ご自身の命を奪う者のためにも祈り続けて下さっているイエスさまの心、生き方を自分の人生を通して持ち運ぶことこそ平和を作り上げる土台なのです。私たちは信仰薄く、勇気もない人間です。イエスさまのようには到底生きることは出来ません。しかし、イエスさまの恵みを体いっぱいにいただいた者としての喜びに生きる時、私たちは、「イエスさまの香り」は運ぶことが出来ます。私たちは、キリストの愛の力を過小評価してはいけません。「私一人頑張っても、何も出来ない」と言ってはなりません。神さまが、この罪人の私を用いて下さるのです。ですから、確かな足取りで、「良い知らせを伝える足」として一歩を踏み出しましょう。




2015/08/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「国は戦うことをしなくなる」(ミカ書4:1-5)
ミカ書4章1節-5節、2015年8月2日、平和の主日聖餐礼拝(典礼色―赤―)、エフェソの信徒への手紙4章1節-5節、ヨハネ福音書15章9節-12節、讃美唱201(イザヤ書2章2節-5節)

ミカ書4章1節-5節
 
 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。






説教「国は戦うことをしなくなる」(ミカ4:1-5)

 今年は、終戦というよりも、第二次世界大戦の日本敗戦から70年目の節目を迎えています。日本福音ルーテル教会では、毎年この8月の第1日曜日を、「平和の主日」として礼拝を守ります。

そして、この日には、飽くこともなく、同じ日課が与えられ、そこから説教されます。第1の朗読は、ミカ書4:1-5であります。そして、今日の讃美唱は、イザヤ書2:2-5が挙げられています。使徒書は、エフェソの信徒への手紙2章から、読まれました。イエス・キリストの十字架の死を通して、異邦人とユダヤ人との間の垣根は取り払われ、また、私たちの間の敵意という隔ての壁もなくなったとパウロは言います。もはや、天と地との隔たりも、主イエスの贖いの死によってなくなったのだから、キリストにおいて一つとなり、平和を実現されたお方のもとで、一つの霊となって御父に近づこうではないかというのです。

 さらに、今日の福音は、ヨハネ福音書15章からのみ言葉です。主イエスというぶどうの木につながって、互いに愛し合うという実を結びなさいという告別説教の中にある主イエスのお言葉であります。

さて、今年もまた、ミカ書の預言、ミカの見た、あるいは聞いた、万国平和の幻のみ言葉であります。この個所は、今日の讃美唱であるイザヤ書2:2-5と非常によく似ています。それで、昔から、どちらがより古いのか、どちらが他方から借りて来たのか、それとも、両者が拠り所とした共通の伝承があったのかなどを巡って、諸説があります。それを確実に決定することは、不可能でしょう。

しかし、両者は微妙に違っております。イザヤ書では、すぐ前に預言者イザヤが見た幻と表題が書かれているのに、ミカ書ではそれがなく、逆にイザヤ書にない文章がミカ書では巧みに織りなされています。ミカ書の方がより詳しく、世界平和のこの預言が記されており、平和主日に、ミカ書が第1朗読として読まれるのは、より鮮やかにこの終わりの日の預言、約束が記されているためとも考えられます。

従って、ミカ書の方がより後で、進化して記されているのではないかと、私は思います。イザヤ書と非常に似た預言であり、また、文脈的にも似通った特徴がありますが、ミカ書の方がより鮮明に、万国平和の使信を伝えているように思うのであります。

 ミカ書の今日の記事のすぐ前には、腐敗したエルサレム神殿の有様、賄賂を使う祭司や民のことなど眼中になく、神殿を汚す指導者たちの実態をミカは非難しています。そして、神殿は耕された畑のようになると、アッシリアに攻め滅ぼされる前のひどい実態を、預言者は非難し、エルサレム神殿への呪いを預言しているのです。

 それにもかかわらず、今日のミカ書の預言は、一変して、こう始まります。日々の終わりには、すべての山々が、シオンの山、ヤコブの家の丘に向かって流れ来たる。そして、この山は、すべての峰よりも高くそびえたち、堅く据えられるというのです。向かいのオリーブ山よりも低いシオンの丘がまわりのすべての峰峰よりも高くそびえたつ日が来るというのです。

そして、諸々の民は言うのです。我々は、シオンの山に向かって歩もう。なぜなら、ヤハウェがその道から、教えるので、彼の教えるその旅路を我々は歩もう。なぜなら、教え、これは、モーセ五書を言う場合のトーラーという言葉ですが、ここではもっと広い意味でヤハウェの教えは、シオンから出るからだ、そして、ヤハウェの言葉はエルサレムから出るからだと、異邦人たちは、ヤハウェのもとに巡礼するために、川のように流れ来たるというのであります。

そして、この終わりの日に、人々は、彼らの剣を打ち直して鋤とし、その槍を打ち直して鎌とするというのです。アッシリア帝国に攻め滅ぼされることになるエルサレムに、諸国民がヤハウェの教えのもとに巡礼をしに来る、しかも、世界の諸々の民は、戦争の武器を打ちたたいて、農作業の用具に作り変えるというのです。鋤や鎌を、戦争のために、剣や槍の刃に作り変えるというのが、それまでの人類の歴史でありました。ところが、ミカは、逆のことが、終わりの日に起こると約束するのです。


そして、ミカは、農業に勤しむ民の平和な生活を記しています。人は、彼のぶどうの木の下に座り、あるいは、もはや何をも恐れることなく、そのいちじくの木の下に座るというのです。何ものをも恐れることなく、人々が平和を楽しむ日が来るというのです。

そして、国民が別の国民に向かって剣をあげることはもはやなくなり、国は戦うために訓練することはなくなるというのであります。

そして、最後に、あらゆる民、異邦人は、彼の神、あるいは神々の名によって歩む。しかし、我々は、我らの主なる神の名において、永遠から永遠にどこまでも歩むと誓うのであります。

イザヤ書の並行記事では、ヤコブの家よ、主の光の中を歩もうと、微妙に違う表現となっています。イザヤ書では、ヤコブの家、イスラエルの民に向かって、招きの言葉で終わっています。

それに対して、ミカ書では、異邦人たちは、依然として、ヤハウェの名において歩まず、自分たちのそれまでの神、あるいは神々、あるいは、自分たちの力で歩んでいるのであります。

けれども、我々は、終わりの日には、我々の主なる神の名において、それからは永遠に歩むであろうとの決意表明となっているのであります。そして、この終わりの日とは、いつでありましょうか。それは、地球の運命の最後の日というようなことでしょうか。

そうではなく、これは、神が定められた約束の日という意味であります。すなわち、神が定められた救いの日、つまり、主イエスをこの世に送り、十字架にかけて、私たちの罪のために殺させ、復活させられた日のことであります。

私たち、教会が、今から後は永遠に、この復活の主の名において、堅く歩むとの誓いの言葉で、今日の万国平和の幻は結ばれているのであります。

聖書の他の個所では、詩編などに、神御自身が人々の剣や槍を打ち砕くといったみ言葉が記されています。しかし、ミカ書では、私たち、主の民が、今後は主のみ名において、ただ平和を享受し、満ち足りて座っているのではなくて、現状に甘んじて、ただ神にゆだねていくというのではなくて、自ら立ち上がって歩み続けるというのであります。

十字架の死から復活し、弟子たちに現れた主イエスは、全世界に出て行って、洗礼を施し、主の教えたことをすべて教えるようにと、弟子たちを送り出されました。

ミカ書も、そのことを預言していると言っても過言ではないでしょう。それは、軍事力による、大国の力による平和ではなく、キリストの十字架と復活を通して与えられるまことの平和であり、み子誕生の時に天使たちが歌った「いと高き所では、神に栄光が、地では、ご好意の人間に平和があるように」との、キリストによる平和であります。

国が国に向かって剣をあげず、もはや、戦うことをしなくなるとのミカ書の預言は、神の約束であります。神が終わりの日に実現なさるとの約束であります。

けれども、私たち、主イエスにより贖い出された民、教会につなげられた一人一人は、巣イエスのみ名によって、とこしえに歩き続けるとの決意と誓いを、この日新たにさせられるのであります。そして、それは、今日のヨハネ福音書にありますように、身近なものを互いに自分自身のように愛し合うことから始まるのであります。

アメリカ合衆国では、結婚するカップルの半数が離婚するとも言われています。日本での離婚率はそんなに高くはありませんが、いわゆる家庭内離婚といった状況は深刻になっていると指摘する精神科医もいます。

私たちの身近なところから、敵意の隔てを打ち破り、愛し合い、赦し合う家庭、また教会を打ち立てて行くところから、国が国に向かって剣を上げず、もはや戦うことをしなくなるとの今日の聖書の預言が実現されていくのであります。


一言祈ります。

天の父なる神さま。戦後70年のこの節目の平和について思い巡らす時を、目を覚まして歩んでいくことができますように。私たちが、ごく身近なところで、愛し合い、赦し合う生活を築いて行けますように、憐れみ励まして下さい。私たち、信仰者の一人一人が世の動きに目を凝らし、しっかりと自分の言葉で平和のために意見を述べていくことができますように、み言葉によって力づけて下さい。イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
2015/08/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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