津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「すこやかな暮らし」(マルコ5:21-34)
マルコ福音書5章21節-43節、2015年7月26日、聖霊降臨後第9主日礼拝(典礼色―緑―)、哀歌3章22節-33節、コリントの信徒への手紙二8章1節-15節、讃美唱121(詩編121編1節-8節)

マルコによる福音書5章21節-43節
 
 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって、病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、鳴き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

説教「すこやかな暮らし」(マルコ5:21-43)

 ここのところ、テレビや新聞では、日航機事故30年の特集を組んだりしています。30年前、御巣鷹山に墜落し、520人の、単独としては世界史上最悪の事故となった、その残された遺族たちの30年が特集されたりしています。
ある方は、亡くした父の遺志を継ぐようにしての30年の歩みであり、ある人はその痛手から、解放されずに、今もある意味では苦しみから抜け切れずに、歩まれています。ある父親は、墜落する30分ほどの間に、メモを書いて、「自分の生涯は幸せだった。家族に感謝します。お母さんを助けて幸せに歩んでください」と走り書きを残し、それが、その遺族の大きな励ましとなったケースもありました。
平凡だが「すこやかな暮らし」がどんなに恵まれた祝福であるかを、考えさせられます。
また、最近、暑中見舞いを書きましたが、昨年の今頃には、丁寧な返事をもらった某教会の主婦が昨年の暮れに、脳内出血で急死された出来事があり、その文面を読みながら、人の命が死と隣り合わせであることを改めて知らされています。

今日の福音は、そのような、病と死をも癒し、解決なさる主イエスの二つの奇跡の出来事が、マルコの好むサンドイッチの構造で、語り伝えられています。
主イエスは、ゲラサの地から、舟に乗って、横切って、対岸のカファルナウム辺りに戻って来ます。そして、湖のほとりに立っておられると、大勢の群衆が集められます。ところがそこに、会堂長たちの一人で、ヤイロと言う人が、やって来てひれ伏し、しきりに、嘆願し始めます。「私の幼い娘が、終わりの時を持っています。しかし、あなたがやって来て、手を置いてくださったら、彼女は救われ、生きるでしょう」と言ってきかないのです。
主は彼と共に出発しました。大勢の群衆も後をついて来ます。ところが、そこにある女性がいて、彼女は12年間も長血を患い、すべての財産を投じて、あらゆる医者にかかりましたが、一向に良くならず、かえって悪化していたのでした。
彼女は、イエスのうわさを聞き、この人の服にでも触れば、救われるだろうと思って、群衆に交じり込み、後ろから、その服に触れたのです。その瞬間、血の源が渇き、癒されたことを感じました。ところが、イエスは、自分から力が出て行ったことを認識し、私に触れた者は誰かと見回しておられました。
弟子たちは、この群衆が押し迫っていることがお分かりでしょう、それなのに、だれが触れたのかと言われるのですかと、諌めんばかりです。群衆を見回すイエスに、その女性は、恐れさせられ、震えながら、回復したことを感じつつ、すべての真実を申し出ます。
そのとき、主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った。平和へと出て行きなさい。病気、これは、鞭という言葉ですが、もうそれから自由となって、元気でいなさい」と語りかけるのです。
ただ、長年の病から解かれたままにしておかれないで、主はその人を探し当て、御自分との人格的なふれあい、交わりにまで、引き上げられるのです。社会から、絶縁させられて、汚れた存在として見捨てられていたこの人を、主は、人々との交わりにも回復させ、さらに、神との交わりへと回復され、もう病にかからないように達者でいなさいと、平凡でもすこやかや、体も魂も健全な生活へとお返しになるのです。
ところが、主がまだ語っておられるときに、会堂長の家から、使いが来て、ヤイロに向かって言うのです。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わせることはないでしょう。」
このときのヤイロの思いはいかばかりであったでしょうか。死は人間を打ちつけます。今までの会堂長としての威信も、そしておそらく栄光も、一切が空しく思われ、どん底に追いやられた時であったでしょう。
しかし、主イエスのその言葉を耳にして、これは、その言葉を聞き流し、あるいは無視するかのように、ヤイロに向かって語ります。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。
ヤイロとは、啓示を受けるとか、目覚めさせられ、起き上がるといった意味の名前です。ヤイロの父が、その誕生の時に、思いを込めて付けた名前だったでしょう。
ヤイロは、主のこのお言葉を聞いて、自分を取り返したのではないでしょうか。彼らは、ヨハネとヤコブとペトロだけを伴ない、群衆にはついて来させず、ヤイロの家に向かいます。
するともう、家では、泣き女と嘆き悲しむ声と騒ぎで満ちていました。主は、なぜ騒ぐのか、その子は眠っているのだと戒めます。人々はそれを聞いてあざ笑ったとあります。
主イエスは、その父と母と、3人の弟子だけで、その子の置かれていた所に入ります。
そして、「タリタ・クム」と呼ばれました。これは、訳すると、私はあなたに言う、少女よ、起きなさいという意味だと書いてあります。私はあなたに言うという言葉はないのですが、「少女よ、起きなさい」というアラム語で主イエスが用いた言葉を残したものです。
そして、主は、その子の手を取りますと、その子は起き上がり、そこらへんを歩き回り始めます。人々は驚きのあまり、我を忘れたとあります。そして、主は、あなたがたが見たことを、だれにも言ってはならないと厳しく、命じられ、何か食べ物を与えるようにと言われるのです。その子は、もう12歳にもなっていたと記されています。
この子も、やがて大きくなり、あの人は「タリタ・クム」のおばさんだよと人々は後年噂したことでしょう。しかし、やがては、年老いて、あるいは病気となって、地上の生涯は終えたことでしょう。
12年長血を患っていた女性も、また、ヤイロも主イエスと向かい合うことを通して、神との関係において、その後の生涯を歩んだことでしょう。この二人の物語は、私たち、信仰者の物語でもあります。
私たちが、毎週、すこやかな暮らしへと、たとえどんなに辛い1週間であっても、礼拝を通して、主イエスと出会って、病、そしてその終曲である死をも支配しておられる主イエスの眼差しの中で、「平安へと出て行きなさい。達者でいなさい」と毎週、み言葉を受けて送り出されるのが、私たちの信仰生活であります。アーメン。
スポンサーサイト
2015/07/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなたは怖がらなくてもいい」(マルコ4:35-41)
マルコ福音書4章35節-41節、2015年7月19日、聖霊降臨後第8主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、ヨブ記38章1節-11節、コリントの信徒への手紙二7章1節-16節、讃美唱107(詩編107編1節-3節、23節-32節)

マルコによる福音書4章35節-41節
 
  その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


説教「あなたは恐がらなくてもいい」(マルコ4:35-41)

今日の第1朗読のヨブ記38:1-11は、3人の友人たち、そして更に、友人エリフとの議論の後に、ついに、ヨブに向かって主なる神が、声をかける、ヨブ記の終曲の部分に入った記事であります。
ますらおよ、腰に帯びして、男らしくせよと、主はヨブに向かって、その神批判をやめさせようとします。
そして、水の果て、海の果てに、堰を作り、柱を立てて、限界を作り、それを水が越えることがないようにしたのは誰かとヨブに質問なさいます。水と海を支配することができるのは、主なる神のみと、旧約聖書では語られています。
それに対して、今日の、ガリラヤの海での出来事は、挑戦するかのようにも思われる出来事が記されています。
その日、夕方になったとき、主イエスは、彼らに、向こう岸に行こうと誘われます。異邦人の多い対岸にも神の国を知らせようとされたのでしょう。弟子たちは、主イエスを小舟に乗せたまま、漕ぎ出します。マルコ4:1を見ますと、カファルナウムの湖辺でしょうか、主イエスのもとに、大勢の群衆が、神の国の譬え話を聞くために、押し寄せてきます。主は、押しつぶされないため、小舟に乗り、腰かけて、「種の譬え」や、「種まき人の譬え」や「芥子種の譬え」などを語っておられました。途中で、弟子たちと、自分の側の者たちとだけ、ひそかに語った言葉や、譬えで語るわけなどのみ言葉もありますが、それは、マルコの好むサンドイッチ方式の妙法によっていました。
 今日の出来事はその日の夕の出来事として、続けて読むことができます。彼らが置きへと出て行ったとき、主イエスの舟と共に、他にも数隻の舟もいたと、マルコは記します。
ペトロの追憶に基づく記事なのか、共観福音書の中では、今日の出来事でも最も生き生きとその時の光景、状況が記されていることが分かります。
舟が沖に出たとき、風の激しい突風、ハリケーンのような疾風が吹いて来ます。これは、今でも、ガリラヤ湖ではよく起こる現象です。
私が、もう30年近くも前、初めての海外旅行で、聖地旅行に行った折にも、ティベリアスに泊まった夕方にも、北の方から急に曇り、風と共ににわか雨が近づいてきたため、慌てて、そちら方面に向かっていたジョッギングをやめて、引き返したことを思い出します。
ガリラヤ湖は、海面下にあり、すり鉢状の深い湖となっており、突然の嵐に漁師が悩まされるということは、しばしばあったようであります。波が高まり、舟に打ちつけて、舟は水浸しとなり、弟子たちは、漁師の出である者が4人もいたにもかからわず、もはや終わりかと思うほどの嵐でありました。
ところが、主イエスはと言うと、日中の説教でくたびれ果てていたのか、船尾の舵のある辺りで、枕に向かって眠りこんでおられたのであります。
これは、旧約聖書のヨナ書の、主なる神の命令に反して、船に乗って地中海へと逃げ出した時のヨナの物語を思い起こさせます。ヨナも、何とか逃れて来て、ヤッファから船に乗り、疲れ果てて船底で眠りこけていたのであります。
ところが、嵐となって、船員たちは苦闘しますが、どうにもならなくなり、だれかが、その神の意に反して、乗船したためだろうということになり、くじで当てた所、ヨナに当たり、ヨナは、白状して、この窮状から脱するために、自分を海へ投じてくれと言います。
船員たちはそれはできないと言いますが、ついにこと切れ、ヨナを海に放りこみます。
すると、嵐は治まり、彼らは助かったのです。ヨナは、ご存じのとおり、海中で、鯨に呑み込まれ、三日三晩、過ごし、その後、砂浜に吐き出されて、アッシリアの首都ニネベの人々に悔い改めの説教へと今度は、主の命令に従って出て行ったという記事であります。
さて、ガリラヤ湖の猛烈は嵐の中で、弟子たちは、ついにイエスのもとに来て、叱責するかのように訴えます。「先生、あなたは、私たちが滅びようとしているのに、何ともお思いにならないのですか」と。
主イエスは、そのとき、すっと起き上がって、風と湖に向かって命じられます。「静まれ、黙れ」と。すると、生き物のように、湖は大きな凪となり、風も止んだのです。
このような自然奇跡と呼ばれるものは、実際にはその通りには怒らなかっただろうと、ある有力な新約学者たちは唱えています。
しかし、ここには、旧約聖書では、海や嵐を治めるのは主なる神のみであるとされているのに対して、主イエスは、同じような神の力が与えられているとの弟子たちの信仰を言い表わしたものが出ていると言えましょう。
そして、主は続けて言われるのです。「あなた方はなぜ、臆病な者であるのか、まだ、信仰を持っていないのか」と。
神の国、神の支配が、主イエスと共に、既に現在していることを、主イエスは、この航海の前に、弟子たちもいる中で、譬え話で、じゅんじゅんと説いたばかりでした。
それなのに、弟子たちは、まことの命の実を結ぶ者とされていることを、不意に襲った嵐の中で、肉体的な危急の中で忘れていたのです。
彼らは、この出来事に大いに恐れさせられ、互いに言うのです。「この方は一体誰だろう、海も風もこの人の言うことを聞く」と。
このお方は、私たちが真の危急に面した時にも、どのような苦境に立たされても、そこから救い出して下さるお方であります。そして、たとえ、この地上の命の今わの際においても、共にいて下さる方であります。ですから、私たちは、たとえこの世の命の終わりの時にも、この方が「あなたは恐がらなくてもいい」と言って下さる方なのです。私たちの罪のために十字架におかかりになり、そのご復活し、私たちに朽ちることのない命を与えて下さる唯一のお方が、既にここにお出でになっておられるのであります。アーメン。


2015/07/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の恵みに身をゆだねよう」(マルコ4:26-34)
マルコ福音書4章26節-34節、2015年7月12日、聖霊降臨後第7主日礼拝(典礼色―緑―)、エゼキエル書17章22節-24節、コリントの信徒への手紙二6章1節-18節、讃美唱92(詩編92編2節-10節)

マルコによる福音書4章26節-34節
 
  また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。譬えを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。







説教「神の恵みに身をゆだねよう」(マルコ4:26-34)


今日の讃美唱、詩編92編2節から10節は、その詩人のひたむきに、主に信頼する讃美が、素直に表明されています。「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」と歌い始め、終わりも「あなたに敵対する者は、必ず滅び、悪を行う者は皆、散らされていきます」と正しい者の信仰は必ず祝福されると、信じて疑わない者のようであります。


次に第1の朗読、エゼキエル書17章22節から24節では、主なる神が約束して、語っています。私が、レバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上にそれを移し植えると。


そして、今日の福音書に出て来ましたように、その木のもとに、あらゆる鳥がやどり、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになると主なる神が約束されています。この若枝とは、メシアのことを指しており、終わりの日に異邦人たちが、神の民イスラエルのもとにイスラエルの神の被護を求めてやって来ることを預言していると解釈されています。私、主なる神が、高い山を低くし、低い山を高くし、生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせると約束され、主である私がこれを語り、実行すると約束しておられるのです。


更に、第2の朗読、コリントの信徒への手紙二6:1-18で、パウロは、神から受けた恵みを無駄にしてはいけないといましめ、自分はどんな場合にも、神に仕える者としてその実を示していると言います。そして、どのような迫害や困難にあっても、それに耐えることができ、逆に好評を博するような順調な時にも、奉仕の務めが非難されないように努めていると、真理の言葉、神の力によって恵みに常に生かされていると証ししています。そして、キリストとベリアルとどんな調和があろうかと問いかけ、神の神殿として歩み、不信仰から、信仰へと進み、神の息子、娘となるように諭しています。


さて、今日の福音、マルコ4章26節から34節は、4章1節から始まった神の国の譬えの部分の締め括りの記事であります。それは、湖辺に集まって来た群衆に対して、小舟に主イエスがお乗りになり、小舟に座って語られた譬え話として、始まっています。

主は、ここで初めて、その教えをより具体的に、分かりやすい民衆の体験や日常生活の身近な譬えを通して教え始められます。それは、神の国の譬えでありました。神の支配が、主イエスの到来と共に始まっており、主イエスと共に既に現在していることを説き始められていたのであります。

しかし、主イエスは、10節以下をみますと、イエスおひとりになられたとき、12人と主イエスの周りにいた人々にして、あなた方には、神の国の秘密が打ち明けられるが、外の人々には、すべてが譬えで示されると言われています。そして、「種蒔きの譬え」を弟子たちには説明されています。

それから、神の国に関わって、主イエスが語られた言葉、マタイ福音書では色々な所に分散している言葉が、ひとまとめて出てきます。マルコ4章10節以下25節までも、これは、マルコ福音書記者がよく用いるサンドイッチ構造だと考えることができます。

ともし火を升の下に置く者はいない、あるいは、持っている者はますます豊かになり、持っていない者はますます貧しくなると、主イエスは、御自身をともし火にたとえ、それを、私たちが見えるところに、家いっぱいに掲げるように励まされ、あるいは、神の国の譬えに耳ある者は、さらに深く聞き、その意味を悟りなさいと招いておられるのです。


そして、今日の福音の部分に入ります。これは、再び、4章1節以下につながる群衆に向けて語られたみ言葉であると考えられます。二つの、神の国の譬えでありますが、いずれも、「そして、彼は語っておられた」と始まっています。

最初の譬えは、農夫が土の上に種を蒔くという、きわめて日常的な譬えであります。ある人が地上に種を蒔いたというのです。そして、夜昼、彼は寝起きしているのです。創世記の始めを読むと、神が天地を造られたとき、夜があり昼があったと出てきます。ユダヤの人々にとっては、日没から新しい一日が始まります。安息日は、主なる神が、七日間で天地万物を造られて、お休みになった金曜日の日没から土曜日の日没まででありますが、農夫も働きを終えた夜寝るときから、新しい一日が始まります。

この譬え話は、他の福音書には出て来ません。一読しただけでは、単純な、ありふれたたとえのようで、主イエスの意図されたところはつかみどころがないように思われますが
、24節で「何を聞いているかに注意しなさいとあるとおり、耳を澄まして聴きとる必要があります。

この農夫は、種を蒔いた後は、日常生活に戻った中で、その種が芽を出し、成長していくわけですが、それがどのようにして、そうなるのかは知っていません。そして、主はひとりでに、土は実を結ぶと言われます。この「ひとりでに」というのは、見える理由もなくといった意味で、私たちの目では分からない、神の力によってという意味です。特に古代の主イエスの時代の人々にとって、蒔かれた種の成長は、特別な奇跡のように思われたでしょう。

見えない、隠された神の力によって、その土はまず、草をもたらし、次に、穂を、さらに、穂の中に豊かな実をもたらすのです。

そして、その実が熟した時、文字通りには、その実が許したとき、彼はただちに、小鎌を入れます、なぜなら、収穫の時が来たからだと、主は言われます。これは、ヨエル書のみ言葉から来ています。そこでは、終わりの日の神の厳しい裁きが言われていますが、主イエスは、神の言葉を蒔いたその完成の時、その喜びの時が、既に今、主イエスの宣教と共に来ていることを言われているのです。

主イエスは、サタンとの荒れ野での40日間の試みに打ち克たれつつ過ごされました。そして、ガリラヤに現れ、「神の国は近づいた、あなた方は悔い改めて福音を信じなさい」と宣教の第一声を上げられましたが、この譬えを語っておられる主イエスと共に、神の国、神の支配あるいは統治は、既に現在し、実現していると、言われるのであります。

「そして又、彼は語っておられた」と主イエスは、今日の個所で2つ目の譬えに入られます。神の国を、我々は、どのように譬えようか、あるいは、それをいかなる譬えで示そうかと、主イエスは慎重を期して、次の譬えを人々に問いかけます。

すなわち、一粒の芥子だねにたとえられるのです。主イエスは、その当時のユダヤの人々がよく用いた、その始まりの取るに足らない小ささと、その結末の、その目を見張る大きさの代表としての、芥子だねを、神の国の譬えとして、お選びになりました。弟子たちにも、「あなた方に芥子だね、一粒ほどの信仰さえあれば、その通りになる」とお語りになった、親しみのあるたとえであります。

それは、地上に蒔かれる時には、地上に蒔かれるあらゆる種の内で最も小さいが、それは、蒔かれると、伸びていき、すべての野菜の内で最も大きく成り、大きな枝を張り、空の鳥たちが、その陰に巣を作れるほどになると言われるのであります。

その空の鳥たちが、その陰に巣を作るほどになるという言葉は、今日の旧約聖書の朗読のエゼキエル書17章23節等から来ています。それは、主イエスがお出でになり、また、その弟子たちを通して、教会が、今は小さいけれども、やがては全世界に広がって行くことを、主イエスが、保証されているみ言葉として受け取ることもあながち間違ってはいないと思います。

神の国、神の支配は、キリストと共に、そして、その民である教会と共に始まっていると、弟子たちに保証し、今の教会を励ましているとも言えるのであります。

主は、この二つの神の国の譬えを、湖辺での群衆に語り始めた種蒔きの譬えの終わりにお語りになりました。そして、この譬えの締めくくりとして、4章の33節と34節にマルコは、次のように記しました。

そして、そのような多くの譬えでもって、主はみ言葉を語っておられた、彼らが聞くことができるのに応じて、そうしておられたと。一方、譬えなしには、彼は彼らにしゃべってはおられなかったが、一方、弟子たちには、ひそかに、すべてのことを解釈し説明しておられた、というのであります。

では、どうして、主イエスは、人々には譬えで話し、譬えなしには語っておられなかったのでしょうか。それは、日常のありふれたこの世界の中に、隠されてではあるけれども、既に、主イエスのお出でになられたのと共に神の支配が来ていることを伝えるためには、今日語られているような譬えの形でしか表現できないものであったからであります。

神の国は、大げさな奇跡のように来るものではなく、日常の取るに足らない出来事、身近な出来事を通してしか、譬えるのがふさわしくないものだからであります。主イエスは、神の国はあなた方の間にあるとも言われました。しかし、それは、主イエスの宣教と共に、確かに始まっており、確かな喜びの実りを既にもたらしているのであります。

主イエスは、群衆には、その聞くことのできる力に応じて、譬えで語られ、御自分の弟子たちには、密かに、すべてのことを解釈し、教えておられました。この「すべてのこと」のうちには、主イエスの十字架、そして、ご復活のことも含まれていたでありましょう。それは、主イエスに定められたその時まで、すなわち十字架の後になるまで、弟子たちにも理解できなかったことであります。

私たちにとっても、神の国、神の揺るぎない支配を信じることができない試練の時がしばしばあります。けれども、今日なさった主イエスの二つの譬えにあるように、神の支配は今は隠されていても、確実に始まっており、また、今は小さくても、芥子だねのように大きな結末が約束されているのであります。この神の恵みに身をゆだねて、1週間ごとの信仰生活、そして、週ごとに新たな教会生活へと出て行き、共々にみ言葉の種蒔きに励もうではありませんか。



祈ります。

天の父なる神さま。
 み言葉の種蒔きに、絶望することなく、あなたのみ恵みのうちに、日々の家庭生活、職場の生活をあらせてください。そして、あなたが治められる御国の一員として、喜んで、それぞれの務めに勤しむ者とならせてください。キリストのみ名によって祈ります。
2015/07/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「サタンを滅ぼす約束」(マルコ3:20-30)
マルコ福音書3章20節-30節、2015年7月5日、聖霊降臨後第6主日礼拝(典礼色―緑―)、創世記3章8節-15節、コリントの信徒への手紙二5章11節-15節、讃美唱130/2(詩編130編6節-8節)

マルコによる福音書3章20節-30節
 
  イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。




説教「サタンを滅ぼす約束」(マルコ3:20-30)

 安全性が世界で最も高いとされてきた新幹線で、焼身自殺とそれに巻き込まれた死者がでました。また、母乳であるとの通信販売で、実際には、未熟児には危険な、偽った飲料が出回ったりしている昨今であります。そもそも、人間の罪とは、あるいは、サタンとは、どこから現れたのか、をも、改めて考えさせられます。

 今日の日課の創世記3:8-15は、アダムとエバが取って食べてはならないと神に命じられていた「善悪を知るの木」から、蛇にそそのかされて、食べたことから始まります。
 しかし、そこで、既に神は、エバの末から、蛇の末の頭を打ち砕く救い主を約束されています。

 第2朗読のコリント第2のパウロの言葉も、キリストの愛が私に迫っている。罪なき人が、罪ある者たちのために、死んで下さった。それゆえ、今からは自分のために生きるのではなく、私たちのために死んで下さった方のために生きようと奨めています。

今日の讃美唱、詩編130:6-8も、「我、悩みの淵から、汝に呼ばわる」と始まる、ルターが特に愛した詩編の一節で、エルサレムの城壁を守る夜営が朝を待つにもまして、私はあなたの贖い、神の約束の言葉を待ちますと歌っています。

 さて、今日の福音はマルコ3:20-30であります。マルコ福音書は一番早く書かれた福音書で、ここでは、サンドイッチ方式で、3:20-35まで書かれています。主イエスは家へと入られます。そして、大勢の者が、主イエスに従って、押し迫って来ます。
 神の国が、主イエスと共に、既にここに到来しているのです。

 肉のままなる主イエスの身内の者たち、これは、3:31-35で、その母や兄弟たちであることが分かりますが、彼らは、主イエスが木が変になっていると思って捕まえに来ます。しかし、真の兄弟、真の母とは、主イエスに従う弟子たち、また、従って来る群衆の中にこそ、存在するのです

 主イエスの福音に敵対する肉親の兄弟たち、また、エルサレムからの律法学者たちがいます。律法学者たちは、主はベルゼブルにとりつかれているとし、サタンの長がサタンを追い出していると言います。

 しかし、主は、サタンより強い者としてお出でになり、サタンを縛り、その家の財産、すなわち、サタンに取りつかれていた者たちを、分捕り、自分の者とされるのです。

 私たち、人間のどんな罪も、神冒瀆の言葉も、主イエスの到来によって赦されている。しかし、主イエスと共に来た聖霊を冒涜する罪だけは、永遠に、終わりの裁きの時にも赦されないと言われます。主イエスを汚れた霊を持っているという律法学者たちや肉なる者の身内は赦されないというのです。

 荒れ野での40日間のサタンとの戦いにおいて、主イエスはサタンに打ち克ち続けられました。サタンを滅ぼすとの創世記3:15の神の約束は、実現されています。このお方の到来と共に、神の支配は、既に実現しています。

 私たちは、この主に従い行く者であります。多くの試練や挑戦は続きますが、究極的には、主と共に歩まされています。キリストの愛が、私に迫って、もはや自分のためでなく、他の人のために、十字架を主と共に担う道を歩まされています。アーメン。

2015/07/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。