津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ガリラヤの春」(マルコ3:1-12)
マルコ福音書3章1節-12節、2015年6月28日、聖霊降臨後第5主日礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書58章11節-14節、コリントの信徒への手紙二5章1節-10節、讃美唱81(詩編81編2節-11節)

マルコによる福音書3章1節-12節
 
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。


説教「ガリラヤの春」(マルコ3:1-12)

 今日の福音の記事、マルコ3:1‐12は、マルコ3:1-6と後段の3:7-12から成っています。前段の3:1-6は、5つの論争物語の5番目のものであります。それに、続くいわば要約文が今日の日課として与えられているのであります。
 今日の説教題を「ガリラヤの春」としましたが、今日の記事は、既にこのガリラヤの春と呼ばれる、主イエスの神の国の宣教が、十字架の兆しを含んでいる、そういう意味では逆説的なものであったことを、示しています。
マルコのこの5つの論争物語は、最初のものと、今日の5番目のものが、いわば、対照をなしており、残りの3つのものは、イエスとその弟子たちの飲み食いに関わるエピソードから成っています。2つ目はなぜ、主イエスは徴税人たちや罪人たちと飲食を共にするのかであり、3つ目は、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは、断食するのに、イエスの弟子たちは、それをしないのかというものでありました。
 そして、先週の4つ目は、安息日に、主イエスの弟子たちが麦畑で歩を摘んで食べるということは、安息日違反ではないかというものでした。
 そして、今日の出来事は、やはり、安息日に起こったものでありました。主イエスは、再び、安息日にシナゴーグへお入りになる。
 主イエスは、様々な場所で、福音を説かれ、活動なさっています。最初は、イエスの、あるいは、ペトロの家でありましたし、2番目は、レビの家であり、3番目は定かではありませんが、4番目は麦畑での出来事でありました。
 今日は、シナゴーグでの出来事であります。主イエスは、少なくとも、故郷のシナゴーグで公然と拒まれる頃まで、シナゴーグを神の国の開始、そして、既に主イエスにおいて到来していることを、説き明かされるのです。
 ところが、今日の場合は、そこに、片手の萎えた人が座り込んでいたのです。この時、既に敵意を持っていた一連の人々がいて、主が安息日に癒されるかどうか、主に敵意の眼差しを持って、見つめていたのです。
 主は、それを知って、人々の心の鈍さを悲しまされながら、怒りを持って、彼らを見回されます。そして言うのです。「律法で認められているのは、良いことをすることか、悪いことをすることか、魂を救うことか、それとも滅ぼすことか。」
 彼らは、それに対して答えるすべがなく、皆黙りこくっていたのであります。そして、主はその人に、手を差し出しなさいと、「真ん中に立ち上がりなさい」と言っておいた後に言われたのです。すると、その手は、見事に元の状態に回復されたのでありました。
 これは、単なる奇跡にはとどまりません。主イエスが来たのは、神の支配が、来たのであり、それを信じず受け入れないことこそ、悪を行うこと、引いては魂を滅ぼすことでありました。
 この癒された人間は、ただ身体の回復を与えられたにとどまらず、魂の救いをもこの時受けたのであります。主がお出でになられたのは、このように健全でまったき霊肉へと、人間を回復させるためでありました。しかし、人々はそれには気付かぬ鈍い心に支配されていたのです。
 その筆頭であるファリサイ派は、そこから出て行き、すぐに、あのヘロデ・アンチパスを信奉し、権力と一体となったヘロデ派とまで結束し、主イエスを亡き者にしようと、この時からすでに計略を、共に凝らす者たちとなっているのであります。
 主イエスの受難と十字架は、その最初の「ガリラヤの春」から同時に始まっていたのであります。それに加えて、マルコ3:7-12が、今日の日課として加えられているのはなぜでしょうか。5つの論争物語の締めくくりとして、また、新しく実際始められる主イエスの働きと、周りに及ぼした反響を、ここに、マルコは、差し挟んでいるのであります。
 すなわち、彼は、そこから出て、海のほとり、ガリラヤ湖の湖辺へと立ち去られるのです。主イエスの福音を受け入れるのは、湖辺に集まるおびただしい、多数の者たちでありました。
 ガリラヤ地方から始めて、ユダヤ、イドマヤ、ヨルダンの向こう側や、チロスやシドンからさえも、主イエスのなさっておられるすべてのことを聞いて、従い、押し寄せてくるのであります。
 5つの論争物語と、この癒しを求めてやって来る夥しい多数の者たちとの違いは何を意味するのでありましょうか。病気、あるいは、これは天からの鞭とも訳せる言葉ですが、そのように病んでいる者が、癒されるために触れようとしてやって来るのであります。
 主は、それに押しつぶされないために、弟子たちに、小舟を用意させるのであります。
主イエスのそのみ業と、み言葉において、神の国の良き訪れは既に来ているのであります。そして、今もその主イエスの良き知らせは、私たちの許に到来しているのであります。
 私どもは、罪多く弱い者でありますが、主イエスにおいて、今日の手の萎えた人と同じように、罪から癒され、まったき命と生活を与えられているのであります。
 かの文豪ゲーテは、その生涯を顧みたとき、自分の生涯で本当に幸せだったと言えるのは、1月にも満たないであろうと、振り返ったと言います。
 私どもは、ゲーテとこの世での業績においては及ぶべくもありませんが、少なくとも、今日の片手の萎えた人と共に、主によってまったき生活を回復されている存在であります。
 主イエスによって、快活で健全な、まったき生活ができる者へと招かれている一人一人なのであります。その主に従って行く幸いを与えられた者として、この1週間も、希望を持って歩み出したいと思います。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。       
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2015/06/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「安息日に憩う」(まるこ2:23-28)内海望牧師
マルコ福音書2章23節-28節、2015年6月21日、聖霊降臨後第4主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、サムエル記上6章1節-6節、コリントの信徒への手紙二4章7節-18節、讃美唱81(詩編81編2節-11節)


マルコによる福音書2章23節-28節
 
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。



説教「安息日に憩う」(マルコ2:23-28)内海望牧師

 先週同様、ここでも、イエスさまとファリサイ派の人々の考え方は噛み合いません。その理由は、律法理解の違いにあります。更に、その根底には、律法を利用して自分を正しい者としたいという人間の原罪が潜んでいます。
 先ず律法理解です。27節でイエスさまは、「安息日は、人のために定められた。」とおっしゃいます。律法は人間が人間らしく喜びに満ちた生活を歩むための道しるべとして、神さまが与えて下さった賜物であるとおっしゃるのです。あるいは、人間が、誤って道から転落しないように神さまが設置して下さったガードレールと言ってもよいでしょう。
 実際、モーセから戒めを与えられた時、民は喜んで、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います。」と一斉に答えています。(出エジプト記19章8節p.125、24:3)
民は賜物として受け取っているのです。
 それでは、実際の安息日の戒めを見てみましょう。出エジプト記20章8節以下(p.126)。
何と喜びに満ちた文章でしょうか。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々(異邦人)も同様である」。これは、奴隷制度のような、当時の社会制度の問題は別にして、男女の違い、身分の相違、民族(宗教)の壁を越えて、すべての人々に、労働から解放される憩いの時を与えよ」という戒めです。その恩恵は、家畜にまで及んでいます。素晴らしい賜物です。
 ところが、今日の福音書のファリサイ派の人々はどう考えていたでしょうか。
 当時の律法学者たちは、例えば、この戒めの「いかなる仕事もしてはならない。」という言葉の厳密な言葉の定義をめぐって議論を重ねます。その結果、「何歩以上歩くのは労働になるから、それ以上歩いてはならない。」というような規定を作るのです。これなどは、まだユーモラスな感じがします。しかし、律法の一つ一つについて決めて行くので、実に煩雑な規定集が生まれたのです。それによると、「麦の穂を食べることは許されているが(申命記23:26)「摘む」という行為は脱穀に当たるので労働だからしてはいけない」ということになるのです。この規定に則って、今、ファリサイ派の人々は、イエスさまの弟子たちを、律法違反のかどで告発しているのです。「律法を正しく守りたい」という初めの発想は純粋だったでしょうが、いつの間にか、律法を盾にして、人を裁く、縛る道具にしてしまったのです。「人を裁く」ということは、自分を正しい人間だとして、自己を高めるということです。
 ここから、私たち人間は、一直線に、自分を神の位置に置き、絶対自分が正しいと言い張る自己絶対化へと転落していくのです。すべての憎み争い、民族間の紛争などは、「自分は、絶対に正しい」という主張に基づいています。「絶対的正義」のぶつかり合いこそ戦争です。
 ところが、自分を神のように絶対化することは、アダムとエバがそうであったように、人間が最も心動かされる魅惑的な誘惑なのです。
 アダム以来、この自己を神とするという罪は全人類に及んだと聖書は語ります。(ローマ5章)。原罪です。
 しかし、ここで、私たちがしっかりと立ち止まって、考えなければならない事実があります。それは、私たちもまた原罪から自由ではないということです。
 その証拠に、私たちの周りには、必ず「間違った人」がいます。その時、同時に、「間違っていない私」が存在するのです。知らずに、私たちは、人を裁く者となっているのです。そして、「わたしは間違っていない。正しい。」という「安心」を手に入れるのです。この事実を否定することは出来ません。
 ここにおいて、今日の福音書は、私たちの問題となって来るのです。
 私たちは、「イエスさまとファリサイ派の人々の会話」を読んでいますが、実は、これは、「イエスさまと私たちの会話」であることに気付かされるのです。今日の聖書は、私たちにその事実を気づかせるのです。ファリサイ派の人々の言動を見ていて、「それは私の姿だ」と気付かされるのです。この「気付く」ということが大切です。私たちは、たいていの場合、自分の罪に気付かず、他人を批判しているのです。ダビデ王がそうでした。
 私たちは、神さまが設けて下さったガードレールを乗り越え、転落してしまった罪人なのです。「気付く」ということは、まことに恐ろしい自己認識なのです。
 では、私たちは転落してしまった、滅びに定められた罪人で終わってしまうのでしょうか。

 断じてそうではありません。救いはあります。今日の聖書で、モーセでなく、イエスさまが、「安息日は、人のために定められました。」と改めて語っていらっしゃる点に目を向けて下さい。イエスさまは、まさに、ガードレールから転落してしまった罪人を救うために、この世界に来て下さった方なのです。そのために、ご自分の命さえ惜しまれなかったのです。
 イエスさまは、ご自分の十字架の死をかけて、安息日の主になって下さったのです。イエスさまと共に、新しい時が始まったのです。イエスさまの愛によって、「安息日を、心に留め、これを聖別せよ。」という戒めが、新しい風光を帯びて来ます。
 ルターは、「エンキリディオン―小教理問答」で、この安息日の戒めを、「私たちは神を畏れ、愛するのだ。だから、私たちは説教やみことばを軽んじないで、かえってこれを聖く保ち、喜んで聴き、学ぶのだよ。」と解説しています。説教という言葉が出てくることによって、これが礼拝のことを指しているのは明らかです。「安息日を心に留め、聖別せよ。」という戒めを守ることは、礼拝を大切にすることだとルターは言うのです。私もそうだと思います。
 それでは、礼拝を大切にするということは、どのようなことでしょうか。ルターが言うように、それはみ言葉を大切にし、喜んで聴くことです。
 私たちは、礼拝で、どのようなみ言葉を聴くでしょうか。それは、神さまの独り子であるイエスさまが、神さまの身分を捨て、人となり、私たちすべての罪人の罪を追い、十字架に死に、死に打ち勝ち、復活されたという出来事です。つまり、イエスさまの十字架と復活によって、ガードレールを飛び越えて転落してしまった私たちがもう一度引き上げられ、罪赦された罪人として、新しい命が与えられたという救いの出来事を聴くのです。しかも、安息日の主として、イエスさまは、今日も、私たちに、この救いの確かさを伝えて下さっているのです。
 このイエスさまの十字架による救いの事実を信じ、感謝と喜びの時を過ごすのが、礼拝を大切にするという意味です。

 この一週間、私たちはいろいろな罪の重荷、思い煩いを背負って生きてきました。自分や家族の健康のこと、親の介護、子どものこと、隣人のこと、家計のこと、政治経済のこと、それにも増して、犯してしまった罪の数々、思い悩むこと、思い煩いは数え上げればきりがありません。
 重い足取りで、教会の門をくぐった方もいらっしゃるでしょう。しかし、イエスさまは、すべての罪を赦し、すべての思い煩いを私に委ねなさいとおっしゃるのです。ルターは、「すべてをお委ねした時、神さまが、私のことを心にかけて下さっていることを経験するだろう。捨てられていないことを経験するだろう。」と語っています。確かにそうです。イエスさまは派、全く真剣に、私たち一人一人を心にかけて下さっているのです。この喜びを経験する時が、礼拝の時です。安息日は、まさに心と体の憩いの時なのです。
 イエスさまのみ言葉によって、再び、安息日の戒めが賜物として取り戻されたのです。ほんとうに嬉しいことです。
 今日の福音書の少し前のマルコ2章11節で、イエスさまは、寝たきりの中風の人に向かって、「あなたの罪は赦された。起きて、床を担いで、家に帰りなさい。」と命じていらっしゃいます。すると、「その人は起き上がり、すぐに床を担いで出て行った。」と報告されています。これは、福音書の中でも、特に印象的な箇所の一つです。
 自分の力で歩くことも出来ず、ベッドに縛り付けられた生活を余儀なくされていた人物が、そのベッドを担いで軽やかな足取りで家族の許に帰って行ったのです。
 そうです。もし、私たちが、今日、重い足取りで教会に来たとしても、イエスさまが、すべての思い煩いを担って下さり、罪の赦しと、新しい復活のいのちを与えて下さったことを確かな事実であると信じるならば、私たちもまた、あの中風の者と同様、必ず足取りを軽くされ、軽やかに家路に就くことが出来るのです。これこそが、安息日の喜びではないでしょうか。この安息日の憩いを与えられ、新しく生きる力を与えられた喜びを共に分かち合いながら、新しい一週間を歩みましょう。




2015/06/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「新しく生きる」(マルコ2:18-22)
マルコ福音書2章18節-22節、2015年6月14日、聖霊降臨後第3主日礼拝(典礼色―緑―)、ホセア書2章16節-22節、コリントの信徒への手紙二3章1節-6節、讃美唱103(詩編103編1節-13節)


マルコによる福音書2章18節-22節
 
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食していないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」







説教「新しく生きる」(マルコ2:18-22)

 第1の朗読のホセア書では、ホセアは、背信に走っていた女の人を妻に迎えますが、その彼女でたとえられる、イスラエルに対して、彼女、イスラエルはもはや、私、主なる神を、「わが主人」とは呼ばず、「わが夫」と呼ぶようになると主なる神は言われ、その日には、野の生き物や空の鳥とも、契約を結ぶと言われ、私は「あなた、イスラエル」ともまことの契りを結び、あなたは、私を知るようになると約束されています。

旧約の時代に、既に、人間と神との関係は、妻と夫のように親しく深い関係であり、やがて、主イエスによって、そのことの実りが与えられることを、神は約束しておられるのであります。神と私たちの関係は、夫婦の関係のように、どこまでも深く交わっていくものであります。

 また、第2の朗読、Ⅱコリント書3:1-6では、パウロは、コリントの信徒の人々を、あなた方こそ私たちの推薦状であると言い、あなた方は、キリストが私たちを用いて書かれた手紙であり、石の板ではなく、聖霊によって人の心の板に書きつけられた手紙であり、神は私たちに、新しい契約に仕える資格、すなわち文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さった。文字は、律法によって、私たちの罪を裁断し、私たちを殺すものであるが、聖霊は私たちを生かし、命を与えるものであると言っています。

さらに、讃美唱、詩編103:1-13は、私の魂よ、主をたたえよ、で始まり、主はお前の罪をことごとく赦し、命を墓から贖いだして下さると詩人は、主をほめ歌い、天が地を越えて高いように、慈しみは、主を恐れる人を越えて大きく、東が西から遠いほど、私たちの背きの罪を遠ざけてくださると、慈しみと赦しの神をたたえ、歌っています。
 
そして、今日の福音、マルコ福音書2:18-22は、断食を巡っての論争であります。先週は、なぜ、主イエスは、徴税人や罪人たちと食卓の交わりをし、その仲間となるのかとのファリサイ派の呟きに対する論争でした。ある人々は、ガリラヤ宣教の進んだこの時期を「ガリラヤの春」とまで賞賛し、主イエスの宣教が順調であった時代を評していますが、よく見ると、マルコ福音書のこの初期の2章から3章に入りかけた論争のはじまりにおいて、既に十字架の影が差しているのであります。

マルコ福音書2:1から3:6まで、5つの論争が続く中、今日の記事はその中核に位置しています。私たちは今は断食しないという主イエスの弟子たちの意志表明であります。

断食は、古今東西を越えて、あらゆる宗教に存在するとも言えるものでありましょう。たとえば、現代史では、私たちは、英国の植民地支配に抵抗して、20日ほどでありましたか、わずかの水分補給をしながら、生死の境目まで戦ったマハトマ・ガンジーの例を思い起こします。旧約聖書では、悲しみの出来事、たとえば、サウル王と王子ヨハタンがタボル山で討ち死にした時、近くの部族が遺体を弔って、喪に服し、断食したことが記されています。
 
また、主イエスも、公生涯の始まる前に、荒れ野で40日間の断食をして、悪魔と戦いましたし、断食を禁止しているわけではなく、断食をするときには、それが人に気づかれないように頭に油を塗りなさいとも奨めておられます。

 
今日の記事では、断食が行われていた時や場所やこの出来事、論争が起こった状況は、何も記されていません。しかし、ヨハネの弟子たちが、断食をしているときに、断食をしないイエスの弟子たちのところに人々が来た格好になっていますから、洗礼者ヨハネが命を絶たれたあとの出来事であったかもしれません。
 

ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派が断食をしていたときに、彼ら、すなわち、一般の人々がやって来て、質問して言うのであります。

「あなたの弟子たちは、なぜ、彼らと違って、断食しないのか。」これに対して、主イエスは、言われるのであります。

「婚礼の客は、花婿といるときに断食出来ようか」と。婚礼の客と訳されているのは、「花嫁の部屋の息子たちが、彼らと共に、花婿を持っている時の間は」とも訳すことができ、花婿の友人たちであり、花婿の付添人、介添え人が、主イエスの弟子たちであると言われるのであります。

イエスの弟子たちは、まさしく花婿の友人たちであると主ははっきりと言われるのであります。旧約聖書の時から、終わりの日にメシアがお出でになり、あるいは、神の子がお出でになって、祝宴が持たれると信じられてきました。そして、そのメシアは、主イエスであり、花婿であり、花嫁は教会であるということになります。
 
待たれていた神の国が、主イエスにおいて、既に来たと主イエスはここで言われるのであります。その婚宴の喜びと祝いのときに、その付添人である主イエスの弟子たちは断食出来ようかと言われるのであります。

洗礼者ヨハネの弟子たちは、荒れ野のヨハネと同様に厳格で、禁欲的な生活をし、ヨハネの死に面して断食し、喪に服しておりました。

また、ファリサイ派も厳格な断食を試み、週に二回、断食を守っていました。あの徴税人と共に神殿に祈りに来たファリサイ派の人が、それを誇った通りであります。

そのような、言わば、自力による禁欲的で、一般の人々には、とうていできっこない道徳的な苦行、その身を命の限界にまで追いやるような、当時の人々の敬服を集めるような厳格な断食を、両者とも守っていたのであります。
 
しかし、神の国、神の支配が、主イエスにおいて、既に現在している今、イエスの弟子たちは、イエスと共に祝宴の中にいるのであります。そして、先週読みましたように、主イエスは、そして、その弟子たちは、それまでは、救いから漏れていると考えられていた徴税人や罪人たちと懇ろな食卓の交わりに、既に生きていたのであります。
 
しかし、主は続けて、花婿が奪われる日々が来るであろう、その日には、彼らも断食するであろうと言われます。この5つの論争の始まったばかりの中で、マルコによる福音書3:6では、既に、これらの論争の後、ファリサイ派や、ヘロデ党の者は結託して、主イエスを殺そうと早速画策し始めているのであります。
 
その意味で、この主の言葉は、既に暗示的な受難予告の言葉と言えるのであります。そして、主イエスの受難と十字架の死のとき、弟子たちは羊飼いを打たれた羊のようにばらばらとなり、嘆き悲しむ喪の日を迎えることになります。

その点について、ヨハネ福音書では、あなた方は、羊のように散らされて、私を見捨て、悲しみに沈むことになるが、しかし、あなた方は、子を産む時の母親は悶え苦しむが、生まれた後はその苦しみを、もはや憶えておらず、新しい命が誕生したことで、喜びに満たされるように、あなた方も喪の後に喜びに生きるようになると、最後の晩餐の席で主イエスは語っています。

その予告通り、主イエスの弟子たちも、花婿イエスが奪い取られる時に、喪に沈む断食をするであろうと、主イエスは質問しに来た人々に宣言されるのであります。
 
この前半の言葉に続けて、主は、その弟子たちが断食しない理由を、さらに二つのたとえ、あるいは格言とでも言うべきみ言葉を用いて、答えるのであります。
 
それ、特に前者のみ言葉は、特に家庭の主婦にとっては、明々白々たる例、あるいはたとえであったでありましょう。だれも、古い服に新しい布で継ぎ当てをする者はいない。もし、そんなことをすれば、その新しい布地は、縮かんで、古い上着の糸を引っぱり、上着の穴、裂けていた部分は、ますます悪く大きくなるだろうと、言われます。

私の子ども時代の頃までは、日本でも継ぎを当てたズボンや洋服、靴下などを身につけているのが普通でしたが、今ではほとんど、継ぎの当てた服を着ている子どもの姿は見えなくなりました。主イエスの時代には、古い着なれた上着の裂け目を、特に主婦は、新しい布切れではなく、上着と同じように布地をさらして、衣服をことのほか、大事に使ったことでしょう。
 
さらに3つ目の断食しない理由を付け加えます。そして、また、新しいぶどう酒を古く壊れかけているような革袋に入れて保存しようとする者はいないではないか。もし、そんなことをすれば、ぶどう酒も、多くの革袋も、共にだめになり、失われてしまうことになる。

そして、マルコは、主の言葉として、結語として「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」入れるべきだと記すのであります。
 
古い服と、真新しい継ぎ当ての布地が、まったく合わないように、また、醗酵しているぶどう酒は、古い革袋を破裂させてしまうように、洗礼者ヨハネの弟子たちの禁欲的な生き方、また、律法と規則づくめのファリサイ派の宗教と、主イエスの人格とふるまいにおいて、既に来ている神の国という良き訪れ、福音の知らせを、知っている弟子たちの生き方とは、まったく両立しない、相容れないものであることを、主イエスは、ここで宣言しているのです。
 
しかし、このことは、古い存在、古い服、古い制度や律法、あるいは旧約聖書がまったくすべて無意味になったことを意味するものでは必ずしもありません。

主イエスの弟子たちも、そして現在に至る教会も、もちろん旧約聖書をも用いて、礼拝もし、また、40日間のレントのときには、しばしば、教会でも断食をさえ取り入れて来ました。

しかし、私たちは、主イエスにおいて、罪赦され、神の支配がはじまり、喜びの知らせのうちに、生かされつつ、それまでとは全く違った新しいいのちの道を歩んでいるのです。この罪赦されて、生きる喜びを、私たちは、この「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの標語、福音の宣言によって与えられているのです。

私たちは、この喜びに生きる新しい生き方を、主イエスの十字架と三日後の復活を通して、約束されています。それは、それまでの陰鬱な、自分で自分を縛り、人を裁く、自縄自縛の生活ではなく、お互いに罪赦された者として、喜びの食卓に生きる生活を、主イエス、花婿が、この地上から奪い取られる代価を通して、与えられています。

ルターは、キリストを信じる者が、何気なく草を引いたり、ごみを拾ったりするようなささやかなふるまいにも、大きな価値があると言いました。信仰を持って、つつましやかな家庭生活を送る。夫が妻を敬い、妻が夫に従い、睦ましく一生を歩み、食卓を共にしていく。その地味な、毎日の生活の中で、今日の主イエスのみ言葉、私たちは断食はしないで、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」との、まったく今までとは、質の違った喜びに生きる生活をしていくのです。

私たちの生活には、にもかかわらず、多くの試練や悩みが、1週間の間にも、責めさいなむように、訪れて来ます。しかし、私どもの避けどころは、聖書のみ言葉の中に、主イエスの福音の知らせの中に、宝のように存在しています。そして、主イエスを知らなかったそれまでとは、まったく異なる変わることのない喜びと希望を約束されています。週ごとに、その福音と、聖餐あるいはまた洗礼のもとに集められ、慰めを与えられる信仰生活を送ってまいりましょう。

祈ります。

天の父なる神さま。



御子イエスを、長らく待たれていた花婿、メシアとして、私たちに与えてくださり、この上ない喜びを与えられていることを有難うございます。この主イエスにつながり、まったく新しい人をこの肉なるからだの上に着せられて歩む日々となりますように、又、私たちをその良き知らせを運ぶ器、入れ物とならせて下さい。この祈りをキリストのみ名を通して、お献げいたします。アーメン。
















2015/06/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスに見留められ、応答する生涯」(マルコ2:13-17)
マルコ福音書2章13節-17節、2015年6月7日、聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書44章21節-22節、コリントの信徒への手紙二1章18節-22節、讃美唱130/2(詩編130編6節-8節)

マルコによる福音書2章13節-17節
 
 イエスは、再び湖海のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」



説教「イエスに見留められ、応答する生涯」(マルコ2:13-17)

今日から、また再び、マルコ福音書に戻って、三年サイクルB年の教会暦の後半へと入って行きます。聖卓や牧師の身につけるストールも緑に戻りました。これは、神の希望、ノアの箱舟の出来事の時、大洪水が引いたのを知らせた鳩が咥えて、帰って来たオリーブの葉の色でもあります。
そして、今日の福音は、論敵たち、ファリサイ派や律法学者たちとの5つの論争のうちの2番目に位置するものであります。
なぜ、あなた方の先生は、罪人や徴税人たちと、食事を共にするのかという、論敵たちの不平、つぶやきに対して、主イエスが答えた、み言葉であります。
さて、まず、主は、再び、ガリラヤ湖に赴かれ、集まって来た群衆に、教え始められます。
そして、そこから、引き上げるときに、カファルナウムの関税所のような場所で、机に向かい仕事をしながら、座っているアルファイの子レビを見出すのであります。
そして、彼を見つめ、私に従って来るようにと、声をかけられます。そのイエスの眼差しに応えて、レビは、立ち上がっていて行ったのであります。
マルコによる福音書によれば、その人の名は、アルファイの子レビで、他の聖書では、それに当たるのがマタイ担っているのですが、マルコ福音書、そして、いずれの福音書においても、アルファイの子レビという弟子は、この後一度も出て来ず、12使徒以外の弟子であるようであります。
12弟子に限られない、しかも徴税人が、イエスの眼差しを受け、その関税の仕事場から、立ち上がって、主イエスの弟子となったのであり、その意味では、彼は、私たち、後の弟子、信者の代表といってもいいかもしれません。
彼の家で、多くの仲間たちが集まり、主イエスとその弟子たちも、晩さん会に呼ばれて、正餐に与り、横になって、食事を共にしていたのであり、アルファイの子レビの仲間たちも、ぞくそくと集まっていたというのであります。
これを見たファリサイ派の律法学者たちは、つぶやき、なぜ、罪人たちと、あなた方の先生は食事を共にするのかというのであります。
主イエスは、「健康な者には医者はいらず、必要とするのは病人である」と言われ、さらに、なぜなら、「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためであるからだ」と申します。
言うまでもなく、ここで、病人とは、徴税人たちや罪人たちであり、健康な人、正しい人とは、ファリサイ派の律法学者たちでありました。
ここで、主イエスの本意は、神さまからも見放され、ユダヤの人々からも、地の民として、見放され、憎しみさえ受けていた、レビのような人が主イエスの十字架の死と復活によって、新しい生涯に移され、主イエスに応答する生涯を歩むことが急務でありました。
しかし、それは、正しいとされ、自らも、間違っていないと自負していたファリサイ派のような人々も、それを見て、まことの悔い改めに導かれ、主なる神の意志に立ち帰ることでありました。
私たち、すべての人間は、アダムとエバの堕罪の後は、神から外れた存在であるのです。ですから、主イエスの思いも、ファリサイ派の人たちが、これを見て、神の憐れみを知り、レビと同じように立ち上がって、主イエスについて来るようにとの願いでありました。
私たちは、日々の生活において、悔い改めることが、すべての人に必要であります。
信仰によって義とされると、ルターは言いましたが、彼はしかも、キリスト者の全生涯は、悔い改めの毎日であると言いました。
私たちは、今日聖餐に与りますが、それはまた、隣りに立つ兄弟の罪についても、祈る時でもあります。今日からのマルコ福音書に帰っての1週1週が、イエスのみ言葉とそのなされたみ業に思いを凝らす1週1週になりますように、心から願います。アーメン。
2015/06/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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