津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスとニコデモー神と人との平行線ー」(ヨハネ3:1-12)
ヨハネ福音書3章1節-12節、2015年5月31日、聖霊降臨祭聖餐礼拝(典礼色―白―)、イザヤ書6章1節-8節、ローマの信徒への手紙8章14節-17節、讃美唱19(詩編19編2節-15節)

ヨハネ福音書3章1節-12節
 
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなた方は新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」





説教「イエスとニコデモー神と人との平行線―」(ヨハネ3:1-12)

 今日は、再び復活節の時の白い聖卓の色となり、神の本質、また復活の主を表わす色であり、教会の信じる三位一体の神について考える、特別な主日となっています。
 私が、大学時代に、司法試験の勉強をしていましたころ、法律を勉強するには、六法の条文と判例と法律学の基本書が三位一体として、不可欠な、いわば三本柱であると言われていましたが、これは、聖書の神、教会が信じる神が三位一体の神であるというところから、用いられたものであります。三位一体の神とは、ひとりの神でありながら、3つの働きをする、すなわち、使徒信条によれば、創造主なる父、救済のために来られたみ子なるキリスト、そして、清めの働きをし、今も私たちを導く聖霊なる神として、ひとりの神の働きは3つの位格をとって、私たちに示されるのであります。
 今日の第1朗読のイザヤ書6章の始めの部分は、イザヤが神殿にいたとき、神が降り、セラフィムが現れて、聖なる、聖なる、聖なる万軍の主と、唱え、だれが、我々に代わって行くだろうかとのみ声を聞き、私がここにおります、私を遣わして下さいとの召命を受ける出来事であります。これは、神の霊が語りかけたと言えましょう。
 第2の朗読も、肉に従うのではなく、神の霊によって導かれる者は、神の子であり、キリストと共に神の共同相続人であると、パウロは語っています。
 今日の讃美唱は、詩編19編で「天は神の栄光を物語り、大空はみ手のわざを示す」と詩人は、被造物の世界を賛美しながら、主の律法や命令は完全で、心に喜びを与えるなどと、特に父なる神、創造主としての神への信頼をうたっています。
 今日の福音はニコデモとのイエスの対話、ヨハネ3:1-12となっています。三位一体主日になぜ、ここが選ばれているのでしょうか。それは、霊の働き、聖霊が私どもを新たに生かしめ、私どもを、まったく肉から生まれた者、人間のそのままの欠陥に満ちた存在を、上から、すなわち神から、霊によってもうけられた者に変えられるからであります。
 今日のすぐ前のヨハネ福音書2章の終りの記事を読むと、主イエスは、人間の心の奥底をよく知っておられ、人間を信用して、自分をおまかせになることを、なさらなかったとあります。
 イエスのなさった奇跡を見て、多くの人が、イエスの名を信じたが、イエスは、人間に信用なさらなかったというのであります。しるしを見て、イエスを信じるのでは、まだ不十分だということでしょうか。 
そこに、ユダヤ教の教師、律法学者であり、サンヘドリンの議員でもあり、この後には、イエスを守ろうとして、発言したり、さらに主イエスの十字架刑のあとには、アリマタヤのヨセフと共に、丁重に埋葬しようと、香料等を携えてやって来る者へと変えられているのでありますが、今日のところでは、霊から新たに生まれるということが、まったく分からない、ユダヤ教の代表として、主イエスの言葉を信じない者の代表として、登場するのであります。
 それは、夜のことでありました。昼は12時間あり、そのうちに歩めば躓くことはないと、主は言われましたが、ニコデモは、いまだ、光を知らず、闇になお属する者として現れたかのようであります。
 ラビ、あなたが神から遣わされた方であることを、私は承知しています。でなければ、あなたがなさっているようなしるしは、だれもできませんと、話しかけますと、主は、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと、答えます。
 ニコデモは、年老いてもいたのでありましょう、人は年を取ってもう一度生まれることなどはできませんと反論します。
 主は再び、よくよく、あなたに言っておくが、人は誰でも、水と霊とからもうけられなば、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は、肉であり、霊から生まれる者は霊であると重ねて申されます。ニコデモは、どうしてそんなことが起こりえましょうと、二人の対話は、今日のペリコペーにおいては平行線のままであります。
 そして、主は、風は思いのままに吹くが、それがどこから来て、どこへ行くのかはあなたは、知らない。霊から生まれる者もそのようであると言われます。
 私どもは、肉なる存在であって、欠けた器、欠陥をもった存在であって、そのままでは、神の領域に属する、すなわち神のもとに移ることはできない者であります。
 私の言葉に驚いてはならないと言われますが、ニコデモは、そんなことは起こりえないと、信じることができないままであります。
 イエスは、この地上のことを、私は語っているが、あなた方は信じないなら、天上のこと、神的なことを語っても、あなた方は信じるだろうかと、二人の対話は、今日のところは、平行線のままに終わっているのであります。
 しかし、この天的なことというのは、主イエスが天から来られ、また、天へと上って行かれる。そして、主は、十字架に上げられ、復活するのであり、天に戻られる秘儀が、この後に述べられて行くのであります。
 すなわち、人の子は、十字架に上げられ、復活して、死から上げられる、それが、神の栄光であると、ヨハネ福音書は語って行くのであります。
 私どもが、霊によって新たに上より、もうけられ、生かされていくことがなくてはならないのであり、肉なる、ありのままの人間にはそれは不可能なのであります。
 水と霊によって、すなわち、洗礼によって、古い体、肉に死んで、洗い清められ、霊によって新しく生かされていく。その意味では神の子として、もう一度、新たにもうけられる者とされていくように、この日のみ言葉は招いているのであります。アーメン。
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2015/05/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「み霊に満たされ、神の言葉を語る」(使徒言行録2:1-21)
ヨハネ福音書15章26節-16章4節a、2015年5月24日、聖霊降臨祭聖餐礼拝(典礼色―赤―)、エゼキエル書37章1節-14節、使徒言行録2章1節-21節、讃美唱89(詩編89編2節-9節)

使徒言行録2章1節-21節
 
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。
 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
 終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、
太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる』」
 



説教「み霊に満たされ、神の言葉を語る」(使徒言行録2:1-21)

 今日は、ペンテコステの礼拝です。五旬節に復活の主の約束を信じて、一つどころに集まり、一つ心になって祈っていた弟子たちの上に、聖霊が降ったのであります。そのとき、赤い舌のような形をした聖霊が、一人一人の弟子たちの頭の上にくだり、彼らは、集まって来た、敬虔なユダヤ教の人々や、ユダヤ教への改宗者たちに向かって、それぞれの言語で、神の言葉を宣言するに至ったのであります。
 これは、バベルの塔の出来事の折に、主なる神が、その建設をやめさせて、人類の言葉を混乱させ、それ以降、人類は地上に散らばされて、異なる言語をしゃべるものとされていたのを、本来の状態へと回復させられた出来事とも言えましょう。
 ガリラヤの無学な漁師たちの混じっている12人を始め、100人ほどの者が、集まっていたディアスポラのユダヤ人たち、あるいはそれへの改宗者たちに向かって、その故郷の言語で神の言葉を宣言するに至ったのであります。
 そして、この出来事によって、教会が生まれたのであり、ペンテコステは、教会の創立記念日ともされているのであります。
 そして、それは、旧約聖書によって、終わりの日に成就すると約束されていた出来事でありました。
 困惑する、集められた人々に向かって、ペトロは、ここで、大胆に説教を、弟子たちを代表して始めるのであります。
 終わりの日々に、こうなると、預言者ヨエルが記している。すなわち、すべての人に、私の霊を注ごう、と神は言われる。すると、あなた方の息子、娘は幻を見、あなた方の老人たちも夢を見る。あなた方のしもべ、しもめも、預言することになり、天では不思議なしるしがあり、太陽は赤くなり、月は血のようになり、下では、煙の蒸気などがあらわれるが、すべて神を信じる者は救われる、輝かしい時が来ると言われている通りであると、ペトロは、大胆に神の救いの成就を説教し始めるのであります。ここに、教会の誕生があり、この時から、使徒たちの、宣教が始まり、聖霊によって、世界宣教が始まったのであり、それを記録した使徒言行録も、聖霊行伝であるとも言われることになったのであります。
私どもも、この出来事をもう一度、確認しながら、聖霊によって力を与えられて、この世界へと宣教に、ここから出て行きましょう。アーメン。
2015/05/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「信仰に生きた人々」(Ⅰコリント15:50-58)
コリントの信徒への手紙一15章50節―58節、2015年5月17日(日)召天者記念聖餐礼拝(典礼色―白―)


コリントの信徒への手紙一15章50節-58節

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
 「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたたちは知っているはずです。




説教「信仰に生きた人々」(Ⅰコリント15:50-58)

今日は、津田沼教会につながる先に天に召された方々を覚えて、私たちはここに集まっています。そして、与えられました聖書の個所は、今読んでいただきましたように、コリントの信徒への手紙一の15章50節から58節までです。
これは、使徒パウロが、コリントの教会の信徒たちに向けて、復活について語った一節です。
天に先立たれた方々を思い起こします時、共通して言えることは、自分は、自分の力では到底やっていけないと、いつしか、知らされて、それぞれ、キリストにつながって生きるようにされたということであります。そういう意味では、この津田沼教会につながる信徒ならびにご家族で、信者にはついにならなかった方でも、信者の息子を、あるいはその伴侶を、心から応援してくれて、今日お読みしました聖パウロの「復活」を通しての生き方をし、あるいは、そのような生き方を喜んで応援してくれたということであります。
聖パウロは、このように、言いました。
血と肉は、神の国を受け継ぐことはできないし、滅び易いもの、朽ちるものは、死なないもの、朽ちないものを受け継ぐことは決してないと。
私たちのこの肉体は、はかなく、死すべきものであり、これに望みを託することはできません。
パウロは、自分たちの死ぬ前に、主イエス・キリストがまたお出でになられるとの再臨が近いという考えを持っていました。
 ですから、私たちのすべての者が眠らされる、すなわち、死ぬるわけではないが、私たちすべての者は、一瞬のうちに、終わりのラッパの音と共に、変えられるであろうというのです。
そして、朽ちるものが、朽ちないものを着、死すべきものが死なないものを着ることに決まっている。
 そのときには、次の書かれている聖書の言葉が、その通りに成るであろうと言います。すなわち、死よ、お前は、勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか、という旧約聖書の言葉のとおりに成るというのです。
 キリストの十字架の死によって、死は永遠になくなったというのです。死のとげ、死の痛みは、キリストによって、全滅させられました。
 そして、パウロは、死のとげは、罪であり、罪の力は律法であるといいます。罪から、死がもたらされました。罪の結果として死があるのです。そして、罪の力は、律法によってあらわになるのです。
 罪の力から、解き放たれてこそ、死から命へ移ることができます。そして、神の国、神の支配を受け継ぐことができます。
 そして、パウロは、私たちに、こう奨めるのです。それゆえ、兄弟たち、愛する者たちよ、しっかり立つ者、動かされない者となるように、主の働きにおいて、豊かな者になりつつ、主において、あなた方の苦労は空しくないことを知りながら、と。
 私たちは、偽りの教えや、誤った力によって、絶えず挑戦されています。
しかし、パウロは、復活があるということを通して、朽ちるもの、死すべきものから、永遠に滅びないもの、変わらないものへと、私たちが一瞬にして変えられることを、教え、私たちが主の御業において豊かな者となりつつ、また、主にあって、私たちの労苦が決して空しくならないことを、知りつつ、しっかり立つ者、動かされない者と成るように、励ますのです。
 私たちも、先人の信仰にならって、今しているわざ、宣教の働きや、毎日の地味な一つ一つのふるまいも、主にあるなら決して空しくないことを信じて、また、この肉体が、さらに、朽ちることのない復活の体を着ることが約束されていることに励まされ、天からの兄弟姉妹の声援にも答えるような力強い信仰の歩みをここからまた、新たに始めようではありませんか。祈ります。

天の父なる神さま。
今日ここに、先に召された兄弟姉妹の信仰に思いを馳せ、自分たちのたつべき信仰を、確認することができました。残されました御家族、御遺族の一人一人が、ここからさらにしっかりと立って、それぞれの人生を歩んでいけますように。この感謝と願いを、キリストのみ名によって、お献げいたします。アーメン。






2015/05/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなた方は、私の友である」(ヨハネ15:11-17)
ヨハネ福音書15章11節-17節、2015年5月10日、復活後第5主日礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録11章19節-30節、ヨハネの手紙一4章1節-12節、讃美唱98(詩編98編1節-9節)


ヨハネによる福音書15章11節-17節

 
 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」









説教「あなた方は、私の友である」(ヨハネ15:11-17)

 今日の第1朗読の使徒言行録では、ユダヤ人キリスト者たちが、アンティオキア教会で、最初はユダヤ人たちだけに宣教していたのを、やがて異邦人、ギリシャ人たちにも宣教するに至った経緯が記され、バルナバとパウロは、パレスティナで大地震が起こったとき、援助のためにエルサレムの教会に、献金(ディアコニア)を捧げたことが記されていました。
 復活の主を伝える教会は、物質的な援助の手をも、その基となっている教会に差し伸べる愛の共同体であることが示されています。

 第2朗読は、ヨハネの手紙一で、この手紙の記者は、子らよ、偽りの霊、偽りの預言者とまことの霊、神の霊を見分けるようにと促し、キリストが体をとって、お出でになられたことを告白するのは、正しい霊であると言い、キリストが御自身、人間のからだの形を取ってお出でになったことを、言い表わす者は、正しい霊によっていると、まさしく私たちと同じ人間の肉体となって来られたイエス・キリストを、信じるようにと奨めると共に、そのキリストの愛に応えて、何よりもまず、私たち兄弟間で愛し合おうと呼びかけています。

 今日の讃美唱、詩編98編は、新しい歌を歌おう、イスラエルの民に恵みと慈しみを与える、主なる神をたたえようと主の民であることの喜びを歌っています。そして、その主は、地を裁き、世界を裁くために来られる、全世界は喜び歌えと、王なる主の御業を賛美し、ほめ歌っています。

 さて、今日の福音は、先週の、弟子たちを、ぶどうの木につながっている豊かな実をもたらす枝とよび、主イエスにつながって、豊かな実を生むことによって、父なる神が尊ばれることになるように励もうとの主イエスのなさった告別講話といいましょうか、渡される前の晩になされたという一連の告別説教の続きです。

 そして、今日のみ言葉は「これらのことを語ったのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが完成されるためである」と始まります。迫りくる別れの時を、直感的に感じ取っていたであろう弟子たちに向かって、これらの言葉は、あなた方の悲しみはやがて、喜びに満たされることになるためのものであると、主イエスは告別の言葉を語り続けます。
 
「私があなた方を愛したように、あなた方もお互いに愛しなさい、これが私の命令である」と、ここではそれまで複数形であった命令が単数形に変わっています。
そして、だれも、その命をその友どものために、置く以上に大きな愛を持たないと言われ、私はあなた方をもはや、僕とは言わない、あなた方が、私の命令を守るなら、私の友どもであると言われます。
 
私は、思春期頃から、孤独をよく覚えました。しかし、今日、これらの言葉を語られている主イエスに、思わぬ形で出会い、洗礼を受けて、今日に至っています。それからはもはや、以前のような孤独に悩まされるということはなくなりました。
あなた方が、共に愛し合うならば、私の友だとまで、主イエスは私たちを、呼んでくださいます。なぜなら、しもべは、その主人のすることが分からないが、私はあなた方に、父から聞いたすべてのことを、知らせたからであると言われます。その意味で、もはや、私たちは、家の中の奴隷ではなく、むしろ、家を継ぐ息子であって、自由で開かれた者の地位、友という特権を与えられているのであります。
 
しかし、私どもは、ある一面では、依然として、パウロやペトロが自称しているように、主イエスの僕、あるいは、主に仕える奴隷でもありますが、それはもはや私たちの真価を損なうものではありません。パウロも、多くの弟子たちも、主のご復活以後も、主の僕であることを恥じるどころか、むしろ主のご用に用いられることを誇りにしているのであります。
 
けれども、他方ここでは、主は、私たちが、主につながり、互いに愛するならば、あなた方は私の友であると宣言なさるのです。
確かに、私たちの方から、主イエスを選んだのではなく、イエスが私たちを、弟子として選ばれたのですが、この後に起こる十字架の死と復活をも含めて、すべて父から聞いたことをあなた方に知らせたのだから、私の命令を守るならば、私の友であると約束なさいます。

これは、アブラハムやモーセに対して、主なる神が例外的に呼ばれた名称と同じであります。信仰の父と旧約聖書でたたえられている、そしてすべての人類の祝福の基となるアブラハムと同じ位置が私たちに与えられるとまで、主は言われるかのようです。あるいは、律法を投与したあのモーセに劣らない立場に、あなた方は立つとまで、主は言われるかのようであります。それは、主ご自身が十字架の死を通して、私たちのために、命を差し出される、あるいは、それを置いて、与えて下さることによって初めて起こる出来事なのであります。
 
ところで、先日は、今年になって、年の始めに、初めて教会に初めて来られた大学生の人の親御さんから電話があり、週報等を今後は送らないでほしいとの伝言があったとのエピソードがありました。
それは、ささいな出来事のようではありますけれども、不思議にも、この世界は、ヨハネ福音書が説くように、世の光として来られた主イエスを拒む一面があるのであります。その独り子を与えるほどに、父なる神はこの世界を愛されましたが、逆にこの世界は、それを受け入れず、喜ばなかったのであります。

しかし、この世界を救うために、父なる神のご意志は、十字架にみ子をつけ、死んでよみがえらすという、いわば曲線の方法を取られます。直線で、まっすぐに救いが私たちのところに来てもなかなか人間は、容易に救いを受け入れられないからであります。

そのような中にあって、主イエスは自分の弟子たちを、この世から選び出し、あなた方は、私の戒めを守るならば、「私の友」であるとまで言われます。そして、その戒めとは、御自分が、弟子たちを愛されたように、弟子たちが、互いに愛し合うことに尽きると言われるのであります。

「友」という聖書では例外的な言葉を、主イエスはここでお用いになりますが、それは、「愛する者たち」とほぼ同じ意味であります。
ヨハネ福音書は、当時のギリシャ世界、ヘレニズムの中で、グノーシス主義などに影響されているのではないかとも言われますが、主イエスがあくまで弟子たちをお選びになるのであり、グノーシス主義のように、弟子たちが、師を選び取ったり、自ら入会式をするというのではありません。

あくまで、主イエスが弟子たちを、選び出し、そして、私たちが出て行って、豊かな実を結び、その実がとどまるようにと主導権を持って任命する、すなわち、主イエスが先に立って、私たちをそこへと置き、実を結ぶように与えるというのであります。

それは、この後の使徒たちの世界宣教へ向けて按手されたという意味にも、読みとれますが、それよりもむしろ、私たち、弟子たち同士の間で、相愛し合うという神的な一体となった生活そのものへと、主は私たちを「置かれた」のであります。

主は、この講話を、私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝であり、枝は木につながっていなければ豊かな実をもたらすことはできないという譬えで語り始められましたが、今日の終わりの部分も、あなた方が出て行って、豊かな実を結び、その実がとどまるようにと、あなた方を置くのであると言われます。

そして、あなた方は、私の名において、父に何でも要求しなさい、それを、父は与えて下さるであろうと私たちに、言わば祈りの特権を約束しておられます。そして、「これらのことを、私はあなた方に命じる、すなわち、お互いに愛し合いなさい」と重ねて弟子の間での兄弟愛を、まずは、教会内で愛し合うことを求めておられます。

それは、あなた方の敵を赦し、迫害する者のために祈りなさいという、別の個所での主イエスのみ言葉と矛盾するものではありません。ヨハネ福音書記者は、キリスト教の愛を教会内の愛に狭めてしまったというのではありません。

しかし、この世界が、この世界に来た光であるみ子を拒む中にあって、あなた方相互の間で愛し合い、実を結び、その実がとどまることによって、あなた方が、私の弟子であることを、この世界が知るようになるためであると、主は、御自分の友と呼んだ者たちに、重ねて言い残されるのであります。

昔から、今日の主イエスのみ言葉を深く受け止めて、自分の命をその愛する者たち、あるいは同胞のために犠牲にした逸話も伝えられてきました。たとえば、三浦綾子の小説「塩狩峠」では、その主人公が命を捨てて、逆行し始めた汽車をとどめ、乗客の命を救った実話が伝えられています。

また、同じ作家のデビュウ作「氷点」も、青函連絡船が遭難した時に、自分の命を犠牲にして、数名の命を救った宣教師の実話を伝えています。

さらに、「イエスの友」という団体が今も存続しています。あの関東大震災の時に、神戸から上京して救援活動にあった社会事業家でもあった賀川豊彦牧師を助けた弟子たちの群れが、「イエスの友会」として、今も音楽伝道を続けたりして活動しています。

その名称の典拠となっているのも、今日のヨハネ福音書15章14節の「あなた方は、私があなた方に命じることどもを行うならば、私の友である」であります。
その精神は、この聖書個所から、与えられており、教会に下座奉仕をすることを、モットーとし、以下の5綱領を掲げています。
すなわち、敬虔、平和、純潔、奉仕、労働という5綱領を重んじるという精神を出発点とし、今もそれを基盤として活動を続けているのであります。
しかし、私たちは、特にこのような団体に加わらなくても、主イエスの命じられる、愛し合う兄弟愛の生活をしていくならば、皆「イエスの友」と言えるのであります。

この復活節の時に、今日のぶどうの木のたとえとそれに続く、主イエスが御自分の命を差し出して、私たちの罪と死と闇から救い出して、永遠の命に生きる者としてくださり、私たちを、御自分の友と呼んで下さるみ言葉は、私たちが、闇と死から命へ、平安へと招き、共に、助け合い愛し合うという豊かな実を分かち合い、そして、同じ主の食卓、聖餐に連なるという、復活のメッセージに相応しいみ言葉であります。

私たちは、まことのぶどうの木である主イエスのみ言葉を離れては、何一つまことの実を結ぶことはできない弱い者であることを知っています。けれども、それにつながっていくならば、父なる神に何でも願い求めなさい、それを、父は与えられると主は約束なさいます。この復活節の良き時、すべてが新しくなるこの時に、主のみ言葉と共に、もう一度新しくやり直し、ここから出発しようではありませんか。アーメン。

「父なる神が尊ばれることになる」(ヨハネ15:1-10)
ヨハネ福音書15章1節-10節、2015年5月3日、復活後第4主日聖餐礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録8章26節-40節、ヨハネの手紙一3章18節-24節、讃美唱22/2(詩編22編24節-32節)

ヨハネによる福音書15章1節-10節
 
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。






説教「父なる神が尊ばれることになる」(ヨハネ15:1-10)

復活節も終盤に入っていますが、先週までのヨハネ福音書の主のご復活の記事から、遡りまして、今日から、十字架にお付きになる前の、告別説教の記事が、復活節のペリコペーとして挙げられています。今日の日課から見ていきましょう。
第1の朗読の使徒書は、使徒言行録のフィリポが、エチオピアの宦官に洗礼を授けたという出来事であります。フィリポは、天使と聖霊によって導かれて、イザヤ書の主の僕の記事を朗読していた宦官にその意味が分かりますかと尋ねますと、宦官は導き、説き明かししてくれる人がいなければどうして理解できましょうと言うので、フィリプは馬車に同乗して、それは、キリストの十字架のことを預言しているのだと教え、水のあるところに来て、洗礼を申し出た宦官に洗礼を施すとやがて、見えなくなったが、喜びに満たされて宦官は帰って行ったというのです。
先週の使徒言行録にもありましたように、一つ心となって、一つの主の食卓にあずかれる様になったのであり、異邦人伝道の初穂であると言えましょう。
第2の日課のヨハネの手紙一は、子たちよ、口先だけでなく、行いを持って、互いに愛し合おうとあり、主のご復活はそのことをもたらすことを意味しています。
末の日に安心して、神の御前に立つことが出来るように、神のうちにいつもとどまりましょうと、記者は奨めています。
讃美唱は詩編22編24節から以降で、22編1節は「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」との、十字架上で主イエスが祈った言葉から始まりますが、24節以降では、イスラエルも異邦人たちも、また、既に死んだ人々も、後に生まれる人々も、主の恵みの業を、民の末に告げ知らせるでしょうと、主の十字架上の絶望の祈りから、神に信頼し、賛美する者たちに、私たちが変えられていることを教えています。
さて、今日の福音は、有名な、私はまことのぶどうの木、父は農夫、あなたがたは枝であるとの譬えであります。ぶどうの木は、これを聞いているユダヤ人たちにとって、出エジプト以来、自分たちのことを指す譬えとして、なじみ深いものでありました。
よい実のなる枝は、ぶどう園の剪定人である神が、さらによく実りをもたらすべく、剪定するのであり、実をもたらさない枝は、神が刈り取られ、外へ投げ捨てられ、枯れて燃やされることになる。
あなたがたは、既に私の語った言葉によって、清いものであるが、より豊かな実をもたらすために、私にしっかりとつながっていなさいというのです。これは、主イエスのみ言葉と命令、すなわち、互いに愛し合うということであります。復活の主と共に歩むということは、そのみ言葉と共に歩み、そこから離れないということであります。
しかし、私たちは信仰が弱く、しばしば、主イエスの教えから離れるのであります。ヨハネ福音書は、ファリサイ派などの迫害が激しい中で、まことの光、神の子であり、神である主イエスの救いから離れないようにと、励ますために書かれた、最後の福音書であります。
主から離れず、その命令である互いに愛し合うことを、告別説教において、言わば最後の掟として主イエスは命じておられます。あなた方が私の内にあり、あなた方のうちに私がいれば、何でも願い求めなさい、それは聞かれるであろう。
そして、そのことによって、私の父が栄光を受ける、すなわち、この世にあっても尊ばれることになると言われます。マタイ福音書では、山の上にある町は隠されていることができない、あなた方の光を人々の前で輝かしなさい、それは天の父があがめられるためであるとあります。キリストのみ言葉から、離れないために、どうすればいいのでしょうか。
それは、たとえば、今の私にとっては、ルターの聖書講解を、英訳のものですが、それを、なるべく毎日、一日の始めに一時間ほど読むことであります。創世記の第2巻目を、アブラハムの召命の辺りを、目下読んでおります。
皆さまにとっても、それぞれ、主イエスのみ言葉から離れない工夫をされるとよいと思います。そして、それは、お互いに愛し合うという命令を守ることであり、それによって、主イエスを送られた父なる神が栄光を受ける、すなわち、尊ばれることになると、この復活節において、主はお語りになっておられるのであります。アーメン。

2015/05/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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