津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなたは、後でついて来ることになる」(ヨハネ21:15-19)
ヨハネ福音書21章15節-19節、2015年4月26日、復活後第3主日礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録4章23節-33節、ヨハネの手紙一3章1節-2節、讃美唱23(詩編23編1節-6節)

ヨハネによる福音書21章15節-19節
 
 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。




説教「あなたは、後でついて来ることになる」(ヨハネ21:15-19)

私たちは今、復活節を祝っています。今日の最初の朗読は、釈放されたペトロとヨハネを仲間たちが、迎え、神が復活の証言をする者たちへのご加護を、たもうことを願うのではなく、今後も、弟子たちが復活の主を大胆に証しできるようにとの願い、祈りを記し、彼らは、持ち物も出し合って、一つ心となって生活していたというものです。
それは、主イエス復活後の生き方の転換を指し示しています。
第2の朗読、一ヨハネは、私たちは既に神の子たちであり、主イエスが終わりの日に来られる時には、私たちは神に似た者とされるという信仰でした。
今日の讃美唱は、詩編23編で、神はわが牧者であり、死へと向かう荒れ野という人生を、神は羊飼いのように、導き、死の陰の谷を行くときも、終わりの日まで、主の慈しみと恵みがあとを追うという詩人の信仰、主なる神への信頼であります。
そして、今日の福音は、ヨハネ21:15-19の短い件です。復活の主は、パウロによれば、三日目によみがえり、ペトロや使徒たちに、また、500人以上に、そして、月足らずで生まれたような自分にも、死人からの復活のその体をもって、現わされました。その主イエスとのガリラヤでの顕現を記しています。
主は、あなたは、今は自分の行く所について行けないが、後に私の後について来ることになると既に告別講話の部分で、ペトロに言われていました。
自分は命を捨ててでも、あなたに従いますと誓ったペトロは、主の受難の時、三度も主を知らないと否認してしまいましたが、その主が、ガリラヤ湖畔での奇跡の大漁の後の食事を終えた時、語ります。
ヨハネの子シモン、これらのもの以上に私を愛するか。ペトロは、主よ、あなたを私が愛していることは、あなたがよくご承知ですと、三度も質問と答えがなされます。主は、私の羊、私の小さな羊たちを飼いなさい、養い、世話しなさいと、教会の群れの魂の養いをペトロに委託し、お命じになります。
もはや、ペトロの人間としての人格や無謬性の上に、この務めをゆだねるのではなく、主イエスの復活の上に、この使命が託されます。
これは、教会を牧する者に与えられるのみならず、すべてのキリストの信仰者に託された務めでもあります。魂のさ迷いから、復活の主の恵みと慈しみへと導く使命が私たち一人一人に、今日、託されているのです。
聖書の神の民は、一人で歩むのではなく、神の民として、支え合って、守り合って、人生の荒れ野の死に終わるまでの旅路を、主に感謝しながら歩む礼拝の民です。
主のご復活とは、死と闇と罪を打ち砕き、勝利した喜びの訪れです。「私の羊を飼いなさい」これが、復活の主のご命令であり、私たちに課せられる光栄な職務であり、召命であります。
そして、主は、ペトロに自分の後をあなたは、これから付いて来ることになると預言なさいます。若いときには、自分で帯を締めて自由に動き回っていた。しかし、年老いてからは、あなたは両手を差し出し、他人が帯をして、あなたが行きたくないところへ連れて行く。
ペトロは、ローマから逃げ出したとき、途上で、主に出会い、どこへ行かれますかと聞くと、ローマへと言われ、自分も帰って行き、そこで、逆し十字架刑にあって殉教したと伝えられます。
復活の主に従って、生きるにも死ぬにも、主の栄光、主が尊ばれるような生と死を歩むべく、私たちは招かれています。
十字架の主と復活の主によって、私たちは新しい生涯へと招き入れられ、本当の明るさ、喜びに生きることができます。主に愛された弟子がこの後に出て来ますが、ペトロのその弟子を通して、ヨハネ福音書の意図、キリストに従う人生を私たちは知ることが出来ます。
                                   アーメン


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2015/04/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「まことの光が世に来た」(ヨハネ21:1-14)内海望牧師
ヨハネ福音書21章1節-14節、2015年4月19日、復活後第2主日聖餐礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録4章5節-12節、ヨハネの手紙一1章1節-2章2節、讃美唱139(詩編139編1節-10節)

ヨハネによる福音書21章1節-14節
 
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現わされた。その次題はこうである。シモン・ペトロ、ディドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らはありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは、「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。いえすは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンをとって弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。


説教「まことの世界が世に来た」(ヨハネ21:1-14)内海望牧師

 今日の福音書の日課は、復活物語の中でも抜きん出て印象深い箇所です。一幅の絵になるような美しい箇所です。
 教会はイースターの喜びの中にありますが、聖書日課は未だ受難の痛みが響いています。今日の福音書の日課であるヨハネ21章3節で、ペトロが「私は漁に行く。」と呟いた時、その一言には万感の思いが込められています。彼は完全に望みを失っていました。ペトロは、「イエスさまこそ本当の救い主だ。」と信じていました。「いろいろな『救い主』が出てきたが、今度こそ本物に出会った!」という思いがあったのです。だからこそ、一旦は逃げましたが、思い直して大祭司の中庭にまで、イエスさまについて行ったのです。しかし、何の奇跡も起こらず、イエスさまは無残に、人々に罵られ鞭打たれつつ、十字架につけられ、殺されてしまったのです。期待が多かっただけに、「今度も駄目だったのか。」という絶望はまことに深かったのです。
 更に、ペトロをより深い絶望に追いやったのは、自分自身の罪深さでした。大祭司の庭にまでついて行きながら、いざ自分の身に危険が及ぶと感じると、「主よ。」と呼びかけている方まで裏切ってしまった、という罪深さです。罪の深淵をみたのです。そこで、彼は、すべてを諦めて、元の生活に戻ろうとしていたのです。
 改めて振り返ってみましょう。イエスさまの苦難と死。そこで何が起こったのでしょうか。そこには、自分の身を守るためには、師(先生)でも、親友でも裏切ってしまう人間の姿があります。また、ユダのように妬みが心に渦巻いた時、後先考えずに主を売ってしまう人間の姿がありました。ユダの心の痛み、悲しみは想像を絶します。犯してしまった取り返しのつかない罪の重荷は、私たちも経験する人間共通の痛みです。
 イエスさまにとってはどうだったのでしょう。「この杯を私から過ぎ去らせて下さい。」と血の汗を流しながらゲッセマネの園でひとり祈るイエスさま。これに反し、「一緒に祈ってくれ」というイエスさまの願いをよそに眠り込んでしまう弟子たちの姿。イエスさまが捕らえられるや、雲の子を散らすように逃げてしまった弟子たちの姿があります。今まで寝食を共にしてきた弟子たちの裏切りほど心痛む出来事はないでしょう。しかし、これが人間です。更に、鞭打たれ、唾され、いばらの冠をかぶせられ、長い時間、十字架上で苦しまれたのがイエスさまです。苦しい息の下から、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てに成ったのでしょうか。」とひとり絶望の中で祈り続けるイエスさまの姿があります。人間が経験する最も痛ましい姿と言えましょう。
 これは、ペトロやユダ、そして逃げてしまった弟子たちの物語ではありあせん。そこには、人間のありのままの姿が現れているのです。妬み、裏切り、自己保身、卑劣、怯だ(臆病、いくじなし)等々、あるとあらゆる人間の罪深い現実があるのです。それは私の姿でもあるのです。竹田泰淳が「私の中の地獄」と語った恐ろしい私自身の姿があるのです。ユダやペトロの問題に矮小化してはなりません。「それは私の問題だ!」と胸打つほかありません。
 また、私たち人間が経験したことで、イエスさまが経験なさらなかったことは一つもありません。これは、非常に重要な点です。イエスさまは、「あなたがたを孤児にしない。」と約束して下さいました。それは、イエスさまは、「私は、あなたがたすべての最もつらい苦しみを共に苦しむ。あなたがたを決して孤独にしない。」という約束なのです。それは、口先だけの同情ではなく、同じ痛みをとことん苦しまれた方の約束なのです。
 ヘブライ4章15節、5章2節に示されているように、イエスさまは私たちが経験するすべてを「思いやる」ことが出来る方なのです。405頁。今日改めてこのイエスさまの約束を信じましょう。その時、私たちは必ず慰めを与えられます。

 福音書に戻ります。ペトロと弟子たちは、重苦しい心で漁に出ました。しかし、「その夜は何もとれなかった」と書かれています。無駄働きに終わったのです。皆、心身共に疲れ果てて岸に向かって舟をこいでいたのです。
 4節。その時、岸辺に、朝の光の輝きの中にイエスさまが立っておられる姿が見えたのです。何と美しい情景でしょう。夜明けの空を金色の輝きで覆う朝日の光を浴びて岸辺に立つイエスさま。絶望に沈む世界に光が射し込んで来たのです。茫然とする弟子たちでしたが、イエスさまの「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」という一言で何が起こったか悟りました。かつて(ルカ5章)、自分たちが夜通し苦労しても何もとれなかった時、イエスさまの「網を下ろし漁をしなさい。」とおっしゃった時に起こった出来事を思い出したのです。イエスさまの愛していた弟子の「主だ。」という言葉に呼応してペトロは上着をまとって湖に飛び込みました。「主だ。」という言葉が二度繰り返されている点に、弟子たちの衝撃の深さが示されています。
 「主イエスは生きておられる!!」という喜びがペトロを海に飛び込ませました。実は、イースターの喜びは、この「私たちを思いやることが出来るイエスさまが、今も共にいて下さる」という喜びなのです。
 更に、13節には、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。」と書かれています。最初の聖餐式の場面です。この時、弟子たちは、イエスさまが罪と死に勝利された方で、私たちのすべての罪を赦し、新しい命を与えて下さったことを経験したのです。この時、弟子たちは、新しい命に生きる喜びに満たされました。
 何と多くの人々が、この岸辺に立つ光の中のイエスさまの姿に、新しく生きる喜びを得たことでしょうか。夥しい数の証言があります。まことの光が世に来たのです。私たちもこの復活のイエスさまの光に包まれて生きているのです。私たちも、この聖書の場面を心に描き出す時、確かに新しく生きる力が与えられます。
 今日の第二の日課にあるヨハネの手紙一1:7には「私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」とあります。暗闇の中を生きている時は交わりがありません。孤独です。闇の中では互いに顔を合わせることが出来ないからです。しかし、今、岸辺に立つイエスさまの光の中で、共に罪赦された罪人として人々は一つにされたのです。153匹もの多種多様な魚が飛び跳ねても破れない交わりが生まれたのです。ヨハネによる福音書によるペンテコステ、教会誕生の瞬間です。
 「罪赦された罪人」と申しました。イエスさまの光の中で、私たち人間は罪人同士であることがはっきり見えました。ユダであり、ペトロである私たち自身の姿として。しかし、復活のイエスさまの光は、私たちを弾劾する光でなく、あらゆる罪を清める光であったのです!復活のイエスさまの光は、罪と死に対する勝利の光でもあったのです。パウロは、「罪が増したところでは、恵みはなおいっそう満ち溢れます。」(ローマ5章20節)と喜びの声を挙げています。更に、ヨハネは、「この方こそ、わ(2章2節)。私たちの目にどんな姿にみえようとも、全世界は確かに復活のイエスさまの愛による勝利の光の中にあるというのです。
 このことを信じて、決して望みを失わずみ言葉を伝え続けているのがイエス・キリストの教会なのです。
 第一の日課に目を向けてみましょう。そこには新しく生まれ変わったペトロの姿があります、あのおどおどと「イエスさまなんか知らない。」と逃げ出したいくじなしのペトロでなく、議員、長老、律法学者など権力者がきら星のように居並ぶ真ん中で、大祭司にい向かって堂々と「イエスさまこそ唯一の救い主である。」と証するペトロの姿があります。このペトロは決して私たち普通の人間とは違った偉大な人物ではありません。13節には、「ペトロ、ヨハネが無学な普通の人(ただの人)であるのを知って人々は驚いた」と書かれています。
 私たちは決して類まれな立派な信仰者ではありません。「ただの人」です。しかし、イエスさまは私たちを用いてまことの光の到来をすべての人々に伝えようとされているのです。まことに光栄な、喜ばしい使命ではありませんか。共に、イエスさまに当てにされている群れとして、光を伝える足になりましょう。



2015/04/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「新しい言葉を語る」(マルコ16:9-18)
マルコ福音書16章9節-18節、2015年4月12日、復活後第1主日礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録3章11節-26節、ヨハネの手紙5章一5章1節-5節、讃美唱148(詩編148編1節-14節)

マルコによる福音書16章9節-18節
 
 イエスは、週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現わされた。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現わされた。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴なう。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」




説教「新しい言葉を語る」(マルコ16:9-18)

 私たちは、先週、主イエスのご復活を祝いました。そして、今日は、再び、主イエスのご復活の知らせを、若者、天使によって、3人の女たちに知らされて、彼女たちは恐れて、震え上がり、困惑してだれにも、何も言わなかったで、終わっているマルコ福音書の後につけられた、いわば、付録のみ言葉を、今日の福音として与えられています。その部分がなぜ、あえて加えられたのか。その意義はどこにあるのか、それを問いながら、今日のみ言葉を、しばらくご一緒に、考えてみたいと思います。
 さて、この、すべてのものが、新しくなる、4月のときに、教会では復活節を重ね迎えて、世の中での新学期、あるいは新年度と共に祝うことができますことは、神の不思議な摂理によるとさえ、思わされます。
先週は、津田沼小学校で入学式があり、かつてPTAの会長を4年間もしたこともあって、招かれ、出席して来ました。120名ほどの新一年生が、拍手の中、先生に誘導されて入場し、一人一人の子どもたちの名が、担任の先生によって、それぞれ呼ばれ、みんな元気に返事をして応え終わりました。親や先生や大人たちに対する、まったき信頼から来る、屈託のない笑顔で、しかし初めての小学生生活に、不安と希望に満ちて、新しい第一歩を、在校生にも歓迎されて、一人一人が祝福されて歩み始めました。迎える在校生たちも、あるいは、先生たちまでも新しい面持ちとなって映り、その新入学した1年生の顔は、そこでしか見られない、張りつめているが、総じて初々しい表情で満ちておりました。
4月は、このように、すべてが新しく始まるときでありますが、この時期は、教会に属する私たちにとっても、もう一度、主の十字架とご復活という出来事を思い起こす時であって、特別に新たにされる、祝福された季節であります。
 さて、今日の第1朗読の使徒言行録は、聖霊降臨後の出来事のあとに、ペトロたちが生まれつき足の不自由な者を、エルサレム神殿の境内にあったソロモンの廊において、いやし、それに驚いて集まって来たユダヤ人たちに語った説教の一部であります。
 そこで、ペトロは、この人が癒されて立っているのは、復活した主イエスのみ名への信仰によるのであると、証言し、あなた方は、知らずして、メシアであるこの方を、十字架につけて、殺してしまったが、それは、旧約聖書の、サムエルを始め、預言者たちによって一貫して預言されていたことが、成就するためであったのであり、あなた方は知らずしてこの過ちを犯したのであって、今こそ立ち帰って、罪、悪から清められなさいと、説いています。主イエスの十字架の生々しい死のとき、あの絶望と悲嘆の時から、そんなにまだ立っていない、聖霊降臨後の直後に、既に弟子たちはまったく変えられて、復活の主を証言し、神の計画を説き明かしする者に変えられているのをここに見るのであります。
 第2の朗読はヨハネの手紙一5章1節から5節までで、およそ、イエスを、メシアと受け入れる人はみな神から生まれた子たちであり、親を愛する者が、その子たちをも、愛するように、子同士であるあなた方も、神の掟、すなわち互いに愛し合いなさいという命令を守るべきであり、それは決して難しいものではない。なぜなら、み子を愛する者は、世に既にうち勝っており、主イエスと共に、悪に勝利しているからであると言い、兄弟間で、すなわち、先ず何よりも教会内で愛し合うことの大切さを説いています。
 さらに、今日の讃美唱としての、詩編148編は、すべての造られたもの、被造物は、主をほめたたえよ、と喜びの歌を歌っています。天も、星も、地上のものも、海のものも、そこに含まれるすべてのものが、自然、雨や霜もあられも、野の獣も家畜も、王も、しもべも、老いも若きも、すべての男女が、主をほめたたえ、そして、イスラエルの子らよ、イスラエルの角を引き上げてくださる神を賛美するように、ハレルヤと、まことに復活節にふさわしい詩編が選ばれています。
 さて、今日の福音は、マルコ16章9節から18節が与えられています。マルコ福音書は、ぶっきらぼうに、主イエスの復活の出来事を、青年すなわち天使のお告げと、からっぽの墓、そして、埋葬をすますために、安息日が明けた次の日の朝のこと、その墓から逃げ出した、3人の女たちの恐れ、驚きと困惑で終わっていました。
 しかし、他の福音書や使徒言行録、あるいは、パウロの手紙などが伝える主イエスの復活顕現がないままでは耐えがたかったのか、その当時の人々、おそらく紀元後100年から150年頃に、この末尾の文章が付け加えられたと、考えられていますが、どうにも、落ち着いて、信仰生活を守ることができない、そして、しかも復活がいまだなお、なかなか信じられないという実情が、このマルコ福音書を用いる教会にはあったようであります。
 主イエスのご復活とは、何を意味するのか、それを、他の福音書や、使徒パウロの手紙などから、教えられて、この部分の、マルコ福音書の記者は、ここにそれを、記しているのであります。
 他にも、もっと短い、末尾の付録があり、私たちの新共同訳聖書では、このあとに、追加、その二として、記されています。それもまた、味わい深い1節の言葉であります。
 パウロの、コリントの信徒への手紙一15章によると、これらの手紙は、福音書が書かれるよりも早く、すなわち、おそらく紀元後59年頃、すなわち、主イエスの十字架と復活の出来事からは、30年ほどしかたっていない時点で既に書かれていますが、そこで、パウロは、復活の体を持った主イエスが、ペトロやヤコブやヨハネ、12使徒たちや、他にも500名ほどの兄弟に現れ、更には月足らずで生まれたような私にも現れ、天へと召された者もわずかにいるが、その大部分の者は、今なお、私たちと共に生きていると証言しています。
今日の個所や、他の福音書の個所での、主イエスの復活顕現の場所や状況の違いは、それほど、主要な問題ではなく、主イエスの復活の事実を揺るがせにするものではありません。
 今日の記事を含めて、復活された主イエスは、どこで、弟子たちに現れたのか、その時の状況はどうだったのか、まちまちであります。エルサレムにおいて、主イエスと弟子たちは、再開したのか、それとも、先週のイースターの記事にあるように、ペトロと弟子たちに、ガリラヤに行けと指示されていたとおり、ガリラヤに戻って、そこで、復活の主にまみえたのか、必ずしも、明瞭ではありません。しかし、11弟子たちに復活の主イエスが約束通り、その体を現わされたということは、確かにどの福音書も、また、使徒言行録も、使徒パウロも、一致して、聖書は語っているのであります。
 さて、今日の部分は、新共同訳聖書が、丁寧にいくつかに分けて、書かれているように、違った伝承を、他の福音書や、使徒言行録なども用いながら、ここの記者が編集し、まとめたものであります。しかし、それだけではなくて、マルコ福音書の、その後の状況をも踏まえて、16章8節で終わっていた、いわば、オリジナルの結末を、補い、さらに完結させたものであります。 
まず、彼、イエスが起き上がったとき、週の初めの日、今の日曜日に、朝早くに、まずもって、マグダラのマリアに、御自身をあらわせられ、彼女は進んで行って、泣いている、喪に服している、彼と共に成っていた者たちに、知らせたが、弟子たちは、信じゆだねなかったのであります。復活させられた主イエスは、他の福音書でも、必ず、このマグダラのマリアにまず、その復活の体で現わされています。しかし、その知らせを聞いた、男の11人を始めとする弟子たちは、それに信じゆだねることをしないのであります。
当時の女性は、ユダヤ人社会で重んじられておらず、ましてや、7つの悪霊を、主イエスによって追い払っていただいていたという、おそらく重い、精神的な病に悩まされていた女性の証言をそのまま、信じゆだねることは、当然のことながらなかったのであります。
 同じ日に、今度は、彼ら、弟子たちのうちの二人が、野へと歩き回っていたときに、彼らに「別の形で」、主はあらわされ、彼らは戻って伝えますが、残りの者に伝えますが、彼らもまた、信じることはしなかったと、あります。
ルカによる福音書では、エマオ途上の二人の弟子に、主が現れるが、彼らの目が遮られていて、主だとは分からなかったとありますが、「別の形で」現わされたというのは、復活の新しい姿でお出でになられたことを指し示しているでありましょう。今の私たちと同じように、彼らにとっては、死人からの主イエスの復活は、主イエスの口を通して、三度も、受難の前に、予告されていたにもかかわらず、今度も、エルサレムの残っていた弟子たちは、二人の言うことを、信じることはできなかったのであります。
 で、その次に、11人が食卓を囲んでいたときに、再び、すなわち、受難予告と同じく三度目に、彼はあらわされ、彼らの不信仰と、容易には信仰へとその心に浸み込んでは行かない弟子たちを、お責めになります。彼ら、すなわち使徒たち全員が、彼、主イエスが復活したことを、聞いたにもかかわらず、その者たちの言う言葉に身を信じゆだねることがなかったからであります。
 彼らは信じゆだねなかった、信じることをしなかった、と繰り返し、繰り返し、聖書は記しているのであります。これは、私たちが復活ということが容易には信じられない者であること。また、私たち人間は、もともと、不信仰で、頑固な心の存在である。そして、聖書の言葉、主イエスの言葉、また、復活の主を見たという弟子たちの証言を、聞いても信じることができない。あるいは、その信仰は、揺らぎやすいものであるい、人間の本性では容易に持つことはできないものであることを、教えています。
 そして、イエスへの信仰とは、パウロも言いますように、「聞いて信じる」ということであります。ですから、私たちは、日曜日ごとに、礼拝に集まり、み言葉を朗読し、それを説き明かしする、すなわち、説教を聞く必要がある。それも、一生涯、繰り返し、繰り返し聞く必要があるのであります。
 この三度目に、11弟子たちに、現わされた主イエスは、他の弟子たちが見たことを信じなかったというよりも、その言うことを信じなかったこと、聞いても信じなかったことを、他の場面では見られない激しい調子で、お咎めになるのであります。そして、ここでは、ヨハネ福音書とは違って、あの疑い深いトマスだけが、非難されているのではなく、11使徒たち、全員が、言わば、復活の主によって、ののしられているのであります。
私たちはそのように、復活の主の出来事が、あの使徒たちであっても、信じられなくなる、もともとは不信仰な者であることを、主イエスはよくご存じなのであります。
 さて、ここに16章14節に、別の注釈のような写本がありまして、あまりにも、激しく主イエスによって、咎められているので、弟子たちが、それに対して弁明するかのような言葉が加えられています。そこで、弟子たちは、復活の主に、サタンの力と権威はいつまで続き、悪霊によって、世は不信仰のままにとどまるのでしょうか、すなわち、その結果、いつまで神の力が現れるのを許さないのですかと質問すると、主イエスは、悪魔の限界の時は既に来ているが、さらに恐るべきことがあなた方に近づいている。すなわち、それは、こういうことである。私は、罪人たちのために、こうして死へと渡されたのだが、今や、彼らが立ち帰り、もはや、罪を犯さなくなり、天にある栄光の義を彼らが受け継ぐときが来ていると、答えておられるのであります。
 私たちが、主の復活を知って、肉と血の身である滅ぶべき、朽ち果てるべき体の上に、もはや朽ちることのない体を上に着て、永遠の命に生きるようになることこそが、十字架と復活の勝利のもたらす意味であります。
日本では、伝統的に、仏教の教えが、私たちの根底にはありまして、たとえば、方丈記では、「行く川の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず」と言い、あるいは「あしたには、紅顔の美少年も、ゆうべには白骨と化す」などと言った無常観が今なお、日本人の心の根底にはあります。
確かに聖書もまた、同様に、「花は枯れ、草はしぼむ」などと、被造物のはかなさを語っていますが、たとえば、イザア書では、その言葉の後に、しかし、「主のみ言葉はとこしえに立つ」と宣言しています。主イエスの十字架と復活とは、そのような、私たちのそれまでの生き方を根本的に覆す出来事であります。
 さて、この厳しい非難の16章14節の言葉の後で、今度は出し抜けに、主は、弟子たちに、世界宣教を託します。
 あなた方はここから、全世界へと出て行って、すべての造られたもの、すなわち、全人類に、あるいはそれをも超えて、全被造物に、この福音を告げ知らせと、お命じになります。
そして、そのとき、弟子たちに付き従うであろうしるしについて、約束して言われます。
 あなた方は、私の名によって、悪霊を追い出し、新しい言葉を語るだろうと言われます。この新しい言葉というのは、「新しい舌」というのが、もとの言葉で、聖霊降臨の出来事の時に、あのガリラヤの漁師などであった弟子たちが、語り出した、集まって来ていた外国生まれの人たちの言葉で、それぞれに神のみわざを証ししていたあの言語であり、あるいはまた、信じゆだねた異邦人たちもが語り出した異言をも、意味します。パウロは、異言も聖霊の働きによる、弟子たちに与えられる賜物の一つであるが、自分はⅠ万の異言を語るよりは、5つでも預言の言葉を語りたいと申しております。
しかし、新しい言葉とは、もっと言えば、新しい約束、新約の言葉を語り、また、信じる私たちが、まったく日々新しい人に生まれ変わって行くことをも、意味しています。
 主のご復活を信じる私たちは、もはや、以前の古い人ではなく、新しい言葉を、良き知らせ、福音、すなわち、主イエスの十字架の死と、死人の中からの復活という、何ものにも代え難い、喜びを告げ知らせる人に、私どもは、既に変えられているのです。
 更に、復活の主の約束、すなわち、信じる弟子たちのふるまいにおいて伴ない従うしるしが、約束されています。弟子たちは、その手で、蛇を持ち上げるだろう、そして、いかなる猛毒を飲んでも、それは彼らを害することはなく、もし、彼らが、病人たちにその手を置くと、彼らは見事に持つであろう、すなわち癒されるであろうと、言うのです。このような特段のしるしは、現在の教会に属する弟子である私たちには、殆ど見られませんが、疑いがちで、不信仰であった私たちが、洗礼を受けて、復活を遂げた主イエスの勝利を告げ知らせる者とされ、主のご用のために用いられているという現実は、それらのしるしにも、匹敵する驚くべきことであり、恵みではないでしょうか。
 私たちの宣教は、どのような困難や危機に直面しても、それによって致命的な打撃は受けずに、悪霊を追い出し、み言葉を語り、病人をいやす、生前のイエスの働きを、健全に継続するものとなると、復活の主は、保証し、ここで約束なさっておられるのであります。
これらの出来事と主のお言葉が、復活の主の顕現と共に付け加えられ、主は、天に上げられ、父の右の座に座して、弟子たちと共に働かれ、今も彼らに伴なうしるしを通して、彼らの語るみ言葉が真実であることを、示していると、本来のマルコ福音書に、今日のみ言葉は、時を経て、書き加えられたのであります。
それは、再臨の主がなかなか来ない中で、しかも、迫害や困難、苦難が続く状況下で、この記事を読む教会の人たちを、励まし、力を与えるものとなったのであります。
 現代世界、特に、日本ではなおのこと、主イエスの十字架のご復活の意味は、良く分からないのが、大部分の私たちの周囲の人たちの実情でありましょう。
私たちもまた、主のご復活の知らせを聞いても、一筋縄では信じゆだねきれないでいる信仰の弱い者であります。
 しかし、そのような私たちが、このメッセージを、知らされ、主によって、それを周りのすべての人々に伝えるべく、いや、全世界へ、全被造物に向けてすら、押し出され、遣わされている者とされている。
これまでにない「新しい言葉」を語り、「新しい人」とされて、身近なところから、自分の生活を通して、土の器ではあるが、まったく新しくさせていただいた自分を、自然に、表わしていく、そのような一人一人に、されていきたいものであります。
祈ります。
恵みに富みにたもう天の父なる神さま。私たちは、主の十字架と復活の出来事が、すぐに信じられなくなる、あるいは、忘れてしまう、信仰の弱い者であります。しかし、あなたは、今も、み言葉と、聖霊の働きを通して、死からよみがえり、私たちを通して、生きておられます。その喜びを、私たちの信仰生活を通して表わし、証ししていけますように。
私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2015/04/12(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「死を打ち破られたキリスト」(マルコ16:1-8)
マルコ福音書16章1節-8節、2015年4月5日、復活祭聖餐礼拝(典礼色―白―)、イザヤ書25章6節-9節、コリントの信徒への手紙15章21節-28節、讃美唱118/1(詩編118編14節-24節)

マルコによる福音書16章1節-8節
 
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


説教「死を打ち破られたキリスト」(マルコ16:1-8)(30分)

 今日は、復活祭の朝を迎えています。主イエスが復活なさった、あるいは、父なる御神によって復活させられた、死人の中から、起き上がらされたことを祝う礼拝であります。そして、礼拝という言葉は、ドイツ語では、ゴッテス・ディーンストと言いまして、神が奉仕してくださるという意味であります。また、ローマ・カトリック教会では、ミサといいますが、これは、聖餐式を表わしていまして、そのもとになっている新約聖書のギリシャ語では、聖餐式のことを、感謝(ユーカリスト)と呼んでいます。
 今日、私たちは、ここに集まっていますのは、神のサービスを受け、み言葉を聞くと共に、主イエスの流された十字架の死における血と、復活のからだを現わしますパンとぶどう酒を受けるためであります。
 去る4月3日の金曜日には、受苦日の礼拝が、守られましたが、そのとき、ある姉妹が、新聞記事を持って来ましたが、ある専門家の調べたところによると、主イエスが十字架にかかったのは、紀元30年の4月3日であると言います。そうしますと、2000年ほど前のちょうど今日の朝早く、主イエスは、あの墓から、復活の体をもって、よみがえられたことになります。ほぼ日本と同じような季節でありまして、あちらの地では、荒れ野に近いところでも、広がります石地の間にも、健気に、アネモネの花がうっすらと咲いている時期であります。この喜びの朝、与えられているみ言葉に聞いて行きましょう。
 まず、第1朗読のイザヤ書では、罪によって、異国に捕囚となっていましたイスラエルの民が、赦され、主なる神が、祝宴をもうけて、その民の涙をぬぐい、顔おおいをとって、ひいては、すべての国をおおっていた布を滅ぼし、永久に死を滅ぼして下さると預言しています。
 第2の朗読では、使徒パウロが、一人の人アダムによって、死がこの世界にはいり込んで来たように、一人の人キリストによって、死が滅ぼされることになる、死者の復活も、一人の人によって来ると宣言しています。
今日の讃美唱は、118編14-24ですが、これは、先週の枝の主日で、エルサレム入城の時、巡礼の群衆が、ホサナ、主のみ名によって来られる方は祝福されるようにと歌ったそのすぐ前の部分で、ハレルヤ詩編の一節であり、家造りらの捨てた石が隅の親石になったというおなじみのみ言葉を含んでおり、当時は、捨てられた民イスラエルが、隅の親石になるというふうに解釈されていましたが、私たち、キリスト者にとっては、それは、主イエスのことと信じるのであります。
 さて、今日の福音は、マルコ福音書の終わりの部分であります。主イエスのご復活の記事でありますが、復活した主イエス自身は登場しません。このあとに、括弧書きで、二つの写本が追記されていますが、これは、紀元後100年よりも、ずっと後になって加えられたものであると考えられています。
 今日の部分は、もとの文を見ますと、「彼らは恐れさせられていた、なぜならば。」と唐突な表現で終わっています。ですから、これに続く文があって、それが、何かの理由で失われたのだと考える人もいます。しかし、私たちは、現段階では、もっとも、信用できる写本に従って、今与えられているマルコ16:1-8、こそ、マルコ福音書の結論であると、信頼して、み言葉に聞くことにしましょう。
それと言いますのも、4つの福音書の中では、マルコ福音書が、一番古く、他の聖書、特にマタイとルカとは、マルコ福音書をいわば、下敷きにして書かれていると考えられているからであります。
 主イエスは、三度までも、自分が、エルサレムに行って、祭司長や当局の者たちから憎まれ、排斥され、さらには、異邦人の手に渡され、殺されるが三日目によみがえる、死人の中から起き上がらされる、と12弟子たちに告げていました。
 私たちの罪のために、苦しまれ、死んで、しかし、よみがえると、弟子たちに聞かせて、ここまで来られたのであります。
さて、私たちが、復活祭に、思い起こすのは、何よりも、自分の親しい者の死ではないかと思います。私も3年ほど前に、父をなくし、心の傷を負って1、2年は大きな悲しみを感じました。また、つい最近は、50歳過ぎの若さで、3人の息子さんを置いて、天に召された、同じルーテル教会の姉妹のことを、祈らずにはおられません。死んだらどうなるのだろうか、自分自身の死をも、想像すると、不安と恐れを、覚えずにはいられませんが、聖書は、死は、人間の罪の結果だと言います。それを、打ち破られる出来事が、今日読みました、主イエスの復活の出来事であります。
 マグダラのマリア、ヤコブの母のマリア、そして、サロメは、主の十字架の死を見定め、アリアタヤのヨセフによって埋葬された墓の位置を確認していた上で、安息日が今の土曜の日没によって終わると、香料を買い求めます。特に死後3日間は、遺体を丁重に葬るのは、当時の慣習で、ましてや、ガリラヤから着いて来ていた女弟子たちにとっては、当然のふるまいでありました。
 そして、安息日どもからの1日目、週の初め、今日の日曜日の非常なる早朝のこと、日が出た後に、3人は、「墓」、思い出のしるしという意味の言葉ですが、先に確かめていたその墓に向かいます。3人は、あの墓の大きな石、1メートル半から、2メートル位の正方形の形をしたものであったでしょうか、まるいものだったか、そこをふさいでいた大きな石をだれが、転がしてくれるだろうかと、思っていました。心もうつむき加減で来て、顔を上げると、何とその石は既にのぞかれていました。
 そして、中をのぞくと、若者が右手にみえて、3人は不安になります。すると、白い衣を着た若者は言います。「不安がることはない。あなた方は、あのイエス、ナザレの人、十字架に架けられた方を捜している。あの方はよみがえられた。ここにはいない。見よ、彼らが彼を置いた場所である。あなたがたは、出て行って、その弟子たちと、かのペトロに言いなさい。彼はあなた方より先にガリラヤに向かっている、かつて、あなた方に言われたとおりにと。」3人は外に出て逃れて行きます。そして、震えと、困惑、エクスタシーと言う言葉ですが、それに捕らえられます。そして、「彼らは恐れさせられていた、なぜならば」と今日の復活の記事は終わっているのです。
  人間の力で、神のことを推し量ることはできません。若者の形を取った天使が、主復活の出来事を伝えます。石を取り除かれたのも、神の働きでありました。
 恐れで、3人は、逃げ出し、弟子たちにも、伝えられないでいたと、マルコは閉じています。けれども、神のなさった約束を、やがて、知って、マグダラのマリアたちも、やがて、復活のよき知らせを、告げ知らせて行ったのであります。
 私たちの罪を赦し、新しく生きる者とされ、死をも、罪をも打ち破った方の良き知らせは、この後、世界に充満していきます。
 キリストは、死人たちの中ら、パウロも言うように、朽ちることのないからだでよみがえられました。そして、私たちも、終わりのラッパがなるときに、一瞬にして、この新しいからだを、着せられます。滅ぶことのない、朽ちることのないからだを、着せられるのです。主イエスと共に、この朽ちることのない命を与えられ、命ある限り、罪の赦し、新しい生活をさせていただきましょう。アーメン。

2015/04/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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