津田沼教会 牧師のメッセージ
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「み旨に従うキリスト」(マルコ11:1-11)
マルコ福音書11章1節-11節、2015年3月29日、枝の主日礼拝(典礼色―紫―)、ゼカリヤ書9章9節-10節、フィリピの信徒への手紙2章6節-11節、讃美唱92(詩編92編2節-10節)

マルコによる福音書11章1節-11節
 
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスは得るされ身に着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「み旨に従うキリスト」(マルコ11:1-11)

いよいよ今日から受難週に入ります。長く、途中で倒れ、躓くこともあったレントの時期も、残すところ1週間となりました。今日の第1朗読は、ゼカリヤ書でも、最も有名な個所であり、主イエスもそれをご存じで、今日のエルサレム入城を果たされたと思います。  
第2朗読は、キリスト讃歌であり、毎週、レントの間の礼拝で歌って来たものであり、キリストがみ旨に、十字架の死に至るまで従われたので、すべてのもの、被造物は、神をあがめ、跪くようになると、使徒は語っています。
讃美唱、詩編92編も、主のみ業をほめたたえ、感謝すると歌い、不義なる者は、裁かれると信仰を言い表わしています。さて、今日の福音は、マルコによる主イエスのエルサレム入城の場面です。もう30年近くも前、初めて、海外旅行に出、出エジプトの旅と題して、ちょうど今頃、エジプトから、聖地イスラエルにはいり、最後に迎えたエルサレムでの数日のこと、自由行動の日に一人でオリーブ山を上って行ったことを、思い出します。主イエスがくだられたオリーブ山の経路とは、言えないでしょうが、今日の出来事を思い起こしながら、エルサレムの町から上っていったのでした。さて、今日の福音書の記事は、そのオリーブ山のふもとに、近づかれ、エルサレム、ベトファゲ、ベタニアへと一行がやって来たところから始まります。主は二人の弟子を遣わして、言います。ペトロとヨハネであったでしょうか。向こうの村に行きなさい。そこに入るとすぐに、まだだれものったことのない子ろばがつながれているのに出くわすだろう。それをほどいて連れて来なさい。だれかが、何でそんなことをするかと言えば、それの主が必要を持っていると言いなさいと。神聖なものが、メシア、キリストのご用のために、用いられます。このあと、受難週に、十字架につけられ、アリマタヤのヨセフによって主イエスのご遺体が納められる墓も、だれも入ったことのない新しい墓です。神聖なご用をするために用いられる子ろばであり、私たちも、そのろばと同じく用いられる一人一人です。もし、だれかが何でそんなことをするのかと聞いたら、その主がお入り用なのです。彼はすぐ、また、ここに返されます、遣わしますと言いなさいと言って送り出します。これは、子ろばの主人が主イエスのそばにいて、その了解のもとに送り出したのかもしれません。あるいは、父なる神がお求めであると言われたのかもしれません。あるいは、やはり、主イエスが、メシアとして、ここで初めて、自らを主と呼んで遣わされたのかもしれません。いろいろな読み方ができるのが、聖書であり、福音書であり、主イエスのお言葉であるとも言えます。
そして、事柄が主イエスの言われたとおりに運びます。二人は、子ろばを連れて、主イエスのもとに帰って来ます。そして、子ろばの上に、自分たちの外套をしくと、主イエスは、それにお乗りになる。そして、大勢も、服を広げて道に敷き、別のものたちは、野から葉の付いた枝、草やいぐさのようなものを、切って来て、主イエスの進まれる前に敷いて行きます。これは、主イエスが王であることを示しています。そして、前を行く者も、あとに従う者も、詩編118編のあの言葉を交唱して、行きます。
「ホサナ!」、これは、今、救って下さいの意であり、主のみ名によって来る者は祝福されている。我らの父ダビデの来たりつつある王国は祝福されていると、歌い、さらに、いと高きところで、ホサナと歌って行きます。昔、ユダ・マカバイが神殿と祭壇を奪回して清めてから、喝采のうちに、エルサレムに入城したように、主イエスも、今度は子ろばに乗って、入城し、その後には、宮清めもされることになります。しかし、ここでは、エルサレム当局の動きも、ローマ人たちが目を光らせることもなく、エルサレム巡礼の一行として、むしろ、地味に、控え目に、主イエスはふるまい、また、一言も自らは語っていません。
巡礼の者たちが、神殿についての詩編118編を使って、歌い、交唱して、主イエスがメシアであることを、期せずして言い表わしているだけです。ホサナ、これは、今救ってください、その人々はやりとりし、主のみ名によって来られる方、メシアを知らずして、助けて下さいと、唱え、打ち砕かれた信仰の人ダビデ、我らの父ダビデの来たりつつある国を、そして、まことの神の国が来ることを、同行の人々は、期せずして、願い求め、歌っていました。
マルコには、ゼカリヤ書9:9の引用こそこそありませんが、主イエスは、喜び迎えるエルサレムを、イメージし、同行する人々の歓呼する中を、子ろばに乗ってお出でになる、柔和な王であり、平和をもたらす王であることを、控え目に示しておられるのであります。  
ところが、エルサレム神殿の境内に到着してみたところは、どうであったでしょうか。そこに祭司長たちの歓迎や喜びの叫びは一切なく、主イエスは、境内のすべてのものを、見回したあげく、時が既に遅くなったので、12人と共に、ベタニアへと立ち去られるのであります。
それは、受難週の出来事の不吉な始まりを意味しています。私たちの罪のために、十字架の死が既に目前に控えていることを、主イエスは、その目で確かめて、神殿の境内から、一旦、退かれるのであります。そして、ここから始まる1週間の出来事は、主イエスの受難と苦しみの出来事でありますが、それを、乗り越えられて、父なる神のみ旨に従われる1週間となるのであります。
私たちもまた、このキリストの必要とされる子ろばとして、あるいは、自らを装う服を脱いで、主に向かって差し出し、キリストのしもべとされる歩みを、ここから、共にしていきましょう。アーメン。
 











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2015/03/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「光に来るか、闇にとどまるか」(ヨハネ12:36b-50)
ヨハネ福音書12章36b節-50節、2015年3月22日、四旬節第5主日礼拝(典礼色―紫―)、エレミヤ書31章31節-34節、エフェソの信徒への手紙3章14節-21節、讃美唱51/2(詩編51編15節-21節)

ヨハネによる福音書12章36b節-50節
 
 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。
 主の御腕は、だれに示されましたか。」
 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
 「神は彼らの目を見えなくし、
 その心をかたくなにされた。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 心で悟らず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」
 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公には言い表わさなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしに言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」




説教「光に来るか、闇にとどまるか」(ヨハネ12:36b-50)
  
 レントも、残すところ、2週間となりました。第1の朗読エレミヤ書31章31節から34節は、私、主なる神は、あなた方、イスラエルの民に、新しい契約を与えるというものです。バビロン捕囚から帰ってくる民に、もはや石や書物に書きつけるのではなくて、その心に律法を記し、もはや、あなた方は互いに、主なる神を知れと言い合うことはなくなると言われます。
 主は民の罪を赦し、「あなた方は私の民となり、私はあなた方の神となる」と約束され、
言わば、新約聖書の時代が来ることを預言していると言えます。
 第2の朗読のエフェソ書では、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知って、信仰によって、父があなた方の心のうちに、キリストを住まわせ、愛にしっかり立つ者として下さいますようにと励ましています。
 さらに、讃美唱の詩編51編では、レントの時期にふさわしく、主の喜ばれるいけにえとは、悔いた心、砕かれた霊をみ前にささげることですと、詩人は歌っています。
 さて、今日の福音は、このところ、与えられてきたヨハネ福音書からの3回目の日課で、ヨハネ12章36b節から50節が選ばれています。
 今日の説教題を、「光に来るか、闇にとどまるか」と付けておきました。先週の火曜日には、2年ぶりくらいで、高校の同窓会に行って来ました。この関東地域、首都圏には、高校時代、同学年だった320人ほどのうち、30人くらいが住んでいるようです。
 先日の同窓会には10数名が、週日の夜に新宿駅近くの店に集まり、5時半から8時半まで、旧交を温める楽しいひと時を過ごして来ました。
 高校の同学年であった320人くらいのうちで、牧師となっているのは、どうやら、私一人のようで、珍しいこともあって、旧友たちは、私に一目置いてくれています。
 そこで、良く質問されるのは、当然ながら、なぜ、牧師の道を選んだかということであります。もう、同学年のほとんどは、60歳になっており、還暦を迎えています。もう定年で仕事を辞めている男子もいます。共通の話題は、高齢になっている親の介護の問題です。
 どうして、牧師になったのかという疑問に対しては、いろいろと辛いこともあってとか、十分に答え切ることはことは難しいです。
 大学生になったばかりのことだと憶えていますが、トルストイの比較的短い小説に「光あるうち、光の中を歩め」という本を店頭で見つけ、当時一緒にアパート暮らしをしていた兄と一緒に読んだ記憶があります。
 それは、多分、今日のヨハネ福音書の記事の直前にある主イエスの言葉から来ています。ローマ帝国下での原始キリスト教の時代に、主人公の青年が、キリスト教会に入っている友人たちと触れ合いながらも、そして、自分も入信しようと思いながらも、その都度、地あある老人などが現れて、「若いの、今は、やめときなさい、急ぎなさるな」などと言って忠告されて、兄弟愛に内に生活している信者たちの群れに入れず、いつしか時が流れて、ついに死に際になって、このみ言葉、「光あるうち、光の中を歩め」というイエスの言葉を思い起こしながら、死を迎えるという物語でした。
 さて、今日のこのヨハネ福音書12章16bから50節は、イエスの公生涯の厳密な意味での結論部分に当たっているテキストであります。
 主イエスはそこから、立ち去って、御自身を隠されたと、今日の日課は始まっています。光あるうちに、闇に追いつかれないように、光と共に歩めと言われた後に、エルサレムの人々から隠されて、多分、ベタニアの村に退かれたのでしょう。
 今日のテキスト、ペリコペーの部分は、新共同訳聖書では、二つに分けられています。ある人は、この順序を逆にして読んだ方が理解できるとも言います。
 そうすると、こうなります。主イエスは大声で叫ばれ、こう言ったと始まります。「私へと信じゆだねる者は、私を送られた方、父へと信じゆだねるのである。私を見ている者は、私を送って下さった方を見ているのである。」
 主イエスは、私は自分から話しているのではなく、父が言われるとおりに語っているのである。そして、私は、光として、この世界にやって来たが、それは、あなた方がもはや、闇の中にとどまらないようになるためであると、言われます。
 私たちの生きているこの世界は、闇であり、この世の君、サタンが支配している世界だと、主イエスは言われます。また、全聖書も、そのように証言しているとも言えます。
 そこに、主イエス、神の独り子がお出でになって、光と闇とに分かれることになる。
しかし、私たち、洗礼を受けている者も、完全に光になりきっている訳ではなく光と闇の間を揺れ動いているような、弱く脆い存在です。
 しかし、私どもは、主イエスのみ言葉によって、既に清くされているのであり、主イエス・キリストの十字架の苦しみとその後のご復活による勝利に与っている者であります。
 そして、主イエスのみ言葉を運ぶ者とされている。主イエスは、私は、あなた方を救うために来たのであり、裁くためではない。裁くものは、別にある。私の語った言葉が終わりの日にその人を裁くと言われ、また、すべての人は、終わりに、正しい行いをした人は救いへと、永遠の命へと復活し、そうでない人は滅びへと、裁きへと復活すると言われます。
 これ、すなわち、裁きと救いは、両方とも起こるのであります。主イエスのみ言葉によって、弱い私たちは救いへと、又、同時に、裁きへと招かれている。しかし、私たちは、主イエスのみ言葉につながって、多くの人々を光へ、命へと指し示し、招き入れる働きへと導かれている。
 そして、主イエスはこう言われるのです。「私は、父の命令は、永遠の命であることを知っている。父から遣わされた主イエスは、父である神を知っていると言われ、その命令とは永遠の命であることを知っていると言われます。
 ルカ福音書では、若い青年がやって来て、「先生、永遠の命を得るにはどうしたらいいのでしょうか」と尋ねますが、主イエスはそれに対して、十戒を守るようにと言われます。
 神を知り、神だけを神とし、隣人を愛していくことが、永遠の命につながるのでありあす。
 さて、残りの前半の文章へと、逆にして考えると、福音書記者ヨハネは、多くの当時のユダヤ人たちが、また、彼の時代のユダヤ人たちが、主イエスを信じゆだねることができなかったのは、神のご計画によるのであり、預言の言葉がそれによって実現していると言います。
 主イエスは多くのしるしを行ったが、大方のユダヤ人たちは信じなかったと言います。主よ、だれが、私たちの報告、聞いたことを、信じましたか、主の御腕は、だれに啓示されましたかと、イザヤ書の主の僕の預言を持ち出し、彼らが信じなかったのは、次の預言の言葉が成就するためだと言って、引用します。
 彼らは見るには見るが、見えなくされ、その心は、かたくなにされ、暗くされ、彼らはたち帰ることがなく、私は彼らをいやさないというイザヤ書の預言が実現したと言います。
 にもかかわらず、ユダヤ人の当局者たちの内にも、ニコデモや、アリマタヤのヨセフや、あるいは、あの金持ちの青年もそうだったかもしれないが、主イエスへと信じゆだねた者も多かったのであります。
 しかし、あのファリサイ派たちの故に、シナゴーグから追放されることを恐れて、信仰告白するに至らなかったと、ヨハネは記し、なぜかというに、彼らは、神からの誉れよりもはるかに、人からの誉れを愛し、好んだからだと言うのです。
 旧約聖書で預言者が預言している通りに、大勢の者たちは、信仰告白するには至らなかったと、記者ヨハネは、主イエスの公生涯の終りに要約しているのです。
 現代の私たちはどうでしょうか。自分の罪や弱さの故に、光へと、死と闇から命へと、人々を導くことが出来なくなっているのでしょうか。このレントの終わり近い時、イエスこそ、闇の中に来た光、死ではなく、闇ではなく、永遠の言葉を持っているのはあなたですと信仰告白したペトロや弟子たちに従って、この世の霊に立ち向かい、救いのみ言葉を人々に取り次ぐものとされたいものです。アーメン。


2015/03/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の十字架の死とご復活」(ヨハネ3:13-31)
ヨハネ福音書3章13節-21節、2015年3月15日、四旬節第4主日礼拝(典礼色―紫―)、民数記21章4節-9節、エフェソの信徒への手紙2章4節-10節、讃美唱34/1(詩編34編2節-9節)

ヨハネによる福音書3章13節-21節
 
 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」 




説教「主の十字架とご復活」(ヨハネ3:13-21)

 主イエスの十字架上での死と、死者の中からのご復活を覚えるレントの中にあって、今日の福音は、先週に引き続き、ヨハネ福音書から与えられています。
 ファリサイ派の教師、ニコデモとの、主イエスの対話から、今日の福音記事は始まっていますが、いつのまにか、この福音書記者ヨハネ自身の信仰告白のように、すり替わって行きます。
 イエス・キリストは、メシアではないとのファリサイ派の迫害の中で、主イエスこそ、メシアとの信仰から離れないように、書かれたのがこの福音書の動機であります。
 モーセが荒れ野の試練の中で、不満を持つイスラエルの民が、荒れ野での炎の蛇によって噛まれて、命を落とす者が続出する中で、モーセが主なる神から示された青銅の蛇をさおの上に付けて、それを仰ぎ見るならば、たとえ、噛まれた者でも、命が助かった故事のように、人の子も、上げられねばならないと、主イエスは言われます。そして、それはまた、この記事を書いている記者ヨハネの信仰告白でもあります。
 父がその独り子を与えるほどに、この世を愛されました。しかし、そこに、信じない者には裁きがくだされ、救われる者との間に分断が起こるのです。いや、それはすでに起こっていると言います。
 今、キリストと共に復活し、共に生きることになる。しかし、この世は、光を憎むと言われています。
 私は、自らは、清くなることが出来ません。しかし、み言葉によって、私たちは既に清いと、主イエスは言われます。
 闇は光を憎み、この世は、キリストを憎む。マルティン・ルターは、この辺の事情を、創世記講解の中で、信仰の教会と、不信仰な教会、あるいは、神的な教会と、不神的な教会と分けております。
 信仰によって、光の中を歩む教会でありたいものです。アーメン。
 

2015/03/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスのからだのよみがえり」(ヨハネ2:13-22)
ヨハネ福音書2章13節-22節、2015年3月8日、四旬節第3主日礼拝(典礼色―紫―)、出エジプト記20章1節-17節、ローマの信徒への手紙10章14節-21節、讃美唱19(詩編19編2節-15節)

ヨハネによる福音書2章13節-22節
 
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人対はイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
 

説教「主イエスのからだのよみがえり」(ヨハネ2:13-22)

 ルーテル教会では、毎週の日曜日の礼拝のためには、3つの聖書個所、ペリコペーと言いますが、これが3年サイクルで与えられています。さらに、今検討されている新式文では、讃美唱も、これは殆ど詩編から取られていますが、これも、再び取り入れられようとしています。
 多くのプロテスタントの教会では、ルーテルの伝統的なやり方は、むしろ、珍しいことで、今でも、多くの教会が、今年はマタイ福音書を通読しよう、それが終わったら、ローマの信徒への手紙を通して、福音を聞いていこう、というふうな礼拝を守っている。あるいは、牧師が日曜日の説教個所を1回1回選んで礼拝を守っているのが多いのではないかと思います。
 しかし、私たちは、長い伝統のある聖書日課に則り、さらには、式文をほとんど毎週使って、礼拝をしています。
 二つの以上のような礼拝のやり方には、それぞれ、一長一短があると思います。私たち、ルーテル教会に属する者としては、礼拝での聖書日課を豊かに用いながら、あとは、聖書研究会や、家庭集会、そして、家族での「聖書日課」を使っての礼拝や、各人の聖書通読などを通して補強していくことが大切だと思います。
 さて、今日の第1の朗読は、出エジプト記から、モーセがシナイ山で十戒が与えられる記事であります。出エジプトの大変に厳しい40年の旅の中で、この十戒が示されるのであります。
 ルターは、もしも、十戒が十分に守られるのであれは、信仰も必要がなくなるだろうというような言葉を述べていますが、その通りで私たちは、十戒が守れないことから、罪を認識させられ、キリストへの信仰へと導かれるのであります。
 そして、神が世界をお造りになって、休まれた7日目を、今では、教会は主の復活の日である日曜日に守り、創造主である神のみわざに思いを潜める日として、神のみ言葉、とりわけ、キリストの福音を聞くために、礼拝に集うのであります。
 次に第2の朗読はローマ書から、パウロの手紙の一節を与えられています。そこで、パウロは、信仰は聞くことによって、しかもキリストのみ言葉を聞くことによって起こると言います。
 そして、この福音は、全世界に今や告げ知らされており、イスラエルの民にも、神は絶えずみ手を差し伸べていたと語り、しかし、彼らはうなじを固くして聞こうとしないでいると、イザヤ書の預言の言葉を使って述べ、自らはこの福音を伝える器として働いていると説いています。
 今日の讃美唱も、神のみ言葉は、太陽や月、星など自然を通して示され、また、完全な律法、神の教えを通して、全地に知れ渡っていると讃美の歌をうたっています。
 さて、今日の福音は、主イエスの「宮清め」と呼ばれている個所であります。
福音書の始まったばかりのところで、ヨハネ福音書では、この出来事が記されています。
 すぐ前には、カナの婚宴で水をぶどう酒に変えるという婚宴の席での喜ばしい初めてのしるしを、主は行われ、これを見た弟子たちは信じたとあります。
 ところが、その後に、今日の、主イエスのなさった、激しい宮清めというふるまい、そして、そこで語られた主イエスの、謎めいたみ言葉が記されています。これは、どういうことなのでしょうか。
 他の福音書では、主イエスは、最後に、エルサレムへと、十字架につくために上られ、そのときに、神殿の境内で物を売り買いしている人々を追い出し、そこで結局は、ユダヤ当局から、反感を買い、あなたは、何の権威で語ったりしているのかと詰問され、やがて逮捕されて、十字架にかけられるという結末に至っています。
 それに対して、ヨハネ福音書記者は、福音書を始めるにあたって、最初の時点でこの出来事を記しているのです。
 それは、ヨハネにとって、この宮清めをなさった主イエスのふるまいと、そこで語られた主イエスのお言葉が、主イエスの生涯と働きにとって、決定的に大事であることを、示しています。
 カナの婚宴での、最初の喜ばしいしるしに対して、ここでは、同じユダヤ教の慣例、伝統がまったく新しいものに変えられることを暗示していますが、今日の出来事は、主イエスのからだの滅びと主に対する敵対と緊迫をもたらす対照的なしるしになっているとも言えるでしょう。
 さて、このところ日本では、少年の命が理不尽にも奪われるといういたましい事件が今年になって何件も続いています。私たちに、神によって与えられているかけがえのない命とはどういうものなのでしょうか。
 昨年末、九州のある小さなルーテル教会では、そこでは毎週10名に満たないような礼拝が守られているのですが、その教会を支えているといってもいい姉妹が、身近な、その教会の姉妹のお父さんの洗礼式があって、主日の朝、教会での愛餐会の準備をしておられたようです。ところが、脳溢血で倒れて、教会の人たちの発見も遅れて天に召されました。51歳の若さでした。3人の息子さんたちを残し、働き盛りの御主人を残しての、地上での生涯を閉じられました。私たち人間は皆、生まれた時から死に向かって生きている存在であります。しかし、それでは死によって、私たちの地上での宣教のわざは、一切無駄になり、空しくなるものなのでしょうか。聖書は、それに対して、ノーであると答えています。
 今日の福音書での、主イエスは、いつもと異なり、縄で鞭を作り、牛や羊や鳩を追い払い、両替人の机をひっくり返して言います。
 「私の父の家を、商人の家にしてはならない」と。神の礼拝の場、エルサレム神殿が、一方で、神殿の境内では、商売により不当な利益の場となり、まことの礼拝がなされなくなっているのです。
 そこに、主イエスは立ち、自分のからだを通して、まことの礼拝を回復し、実現するためにお出でになられました。
 「この神殿を壊してみよ。私はそれを三日で起こしてみせる」と。それが、今私たちが礼拝している教会だと言われるのであります。そのエルサレム神殿でもなく、ゲリジム山においてでもなく、霊と真実をもって礼拝するキリストのからだの教会なのであります。
 今は、キリストの十字架への道行きを思い起こし、罪を悔いるレントの時期でありますが、主イエスがこの日の出来事をなされ、また、そのときのみ言葉を残されたことを、弟子たちは、主の復活後に想起し、主イエスを信じたと聖書は語っているのであります。
 私たちは、例年通り、この四旬節を、主イエスの死と復活を思い起こすべく、教会暦を歩んでいますが、なかなか罪を認識し悔いることができませんが、み言葉を学び聖書の教えに励まされつつ、洗礼と聖餐の恵みの手段に参与しながら、世にキリストを証しする生活をこの場から歩んでいきたいものであります。アーメン。

案内:4月2日(木)午前10時~11時、 午後7時~8時、洗足聖餐礼拝
   4月3日(金)午後2時~3時、  午後7時~8時、受苦日聖餐礼拝
   4月5日(日)午前10時半~11時45分、復活祭聖餐礼拝、午後6時~夕聖餐礼拝
   4月19日(日)午後3時~4時、東教区我孫子墓地・春季墓前礼拝
2015/03/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人の思いと神の思い」(マルコ10:32-45)
マルコ福音書10章32節-45節、2015年3月1日、四旬節第2主日礼拝(典礼色―紫―)、創世記28章10節-22節、ローマの信徒への手紙4章13節-17節a、讃美唱115/2(詩編115編9節-18節)

マルコによる福音書10章32節-45節
 
 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕となりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。




  説教「人の思いと神の思い」(マルコ10:32-45)

 先だっての灰の水曜日から、レントに入りました。灰の礼拝では、会衆列席者の顔の額に、棕櫚の木の葉を焼いて作った灰をオリーブ油でとかしたものを、十字の形でつけて、「人は塵から造られたのだから、塵に帰るべきことを覚えなさい」と司式者が言って、私どもが、死すべき存在であることを確認します。
 そして、主イエスの十字架の死に至る道行きを覚えて、40日間を、私の知っているある牧師は、この期間は、アルコールも絶って過ごします。
 昨日もテレビを見ていましたら、少年が、同じ世代の少年たちによって、命を奪われるという惨たらしい事件が報道されていました。
 また、そのような、まさしく闇の出来事と言えるものではなくても、信仰者のある姉妹が、50歳を過ぎたばかりの若さで、3人の息子さんと御主人を残して、脳溢血で、ある洗礼式の主日の朝に、喜びの愛餐会の準備をしている最中に、地上の命を突如絶たれるという出来事を知らされ、私たちの命の短さをも痛感させられています。
 私たちは、今、受難節に入っていますけれども、その中にありましても、主日は、主イエスのご復活の祝いの日として、レントの期間の中にありましても、福音のみ言葉のもとに、そして、さらに、今日は聖餐礼拝として、私たちの罪のために流された主イエスの血を頂くために、集まっております。
 さて、今日の第1の朗読では、兄エサウのもとから、ハランの地へと逃れているヤコブに、天より、梯子というか、階段ができて、そこを天使たちが昇り降りしている夢を見ます。そして、主は、「また、あなたを、ここに、連れ戻し、この地で豊かな祝福を与える」と約束します。
 ヤコブは、この厳しい今の現実のもとにこそ、主がと身にいて下さることを知ります。私たちもまた、現実の今の自分のいる場所にこそ、主が共にいることを、知らされます。
 さて、今日の福音は、三回目の主イエスの受難予告、そして、ご復活の予告の場面であります。
主は、旅の途上で、初めて、ここでは、エルサレムへ向けて先立ち給います。彼らはそれを見て、驚かされます。そして、従う者たちは恐れたとあります。
 ここでこそ、従わない者たちと、従う者たち、真の弟子たちとが別れたでありましょう。主は、「見よ、我々は、エルサレムへと上って行く」と言われ、御自分が、ユダヤ人たちから拒まれ、異邦人の手に渡され、侮辱され、つばきされ、死の宣告を受けて殺されることになっていると告げます。
 そして、この時も、三日後に起き上がらされると、復活を予告されています。
 ところが、まさにこの時にも、愛弟子のヤコブとヨハネが近づいて来て、何かを願おうとするのです。主イエスが、尋ねられると、二人は、あなたの栄光の時に、その左右に座らせてほしいと願い出たのです。
 主イエスは、「私が飲む杯、私が受ける洗礼を、それぞれ飲み、また、受けられるか」と問うと、二人は、「はい、できます」と答えます。
主は、あなた方は、いずれはそうなることになっているが、自分の左右にだれが座るかは、自分に与えられていることではないと言われます。
 そして、異邦人においては、長である者が圧政を強いているが、あなた方においてはそうではないと言われ、あなた方の中で大きくなりたい者は、仕える人、僕になりなさいと教えられます。
イザヤ書53書の、主の僕こそ、私があなた方に命を与える姿であると、言われます。しかしながら、今日の二人にも見られるとおり、私たちは間違いを犯しながらも、主イエスの後に従って行く一人一人であります。アーメン。
 

2015/03/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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