津田沼教会 牧師のメッセージ
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「聖霊の力を受けるみ子」(マルコ1:9-11)
マルコ福音書1章9節-11節、2015年1月11日、主の洗礼日礼拝(典礼色―白―)、イザヤ書42章1節-7節、使徒言行録10章34節-38節、讃美唱202(イザヤ書12章1節a-6節)

マルコによる福音書1章9節-11節
 
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教「聖霊の力をうけるみ子」(マルコ1:9-11)

 今は、顕現節に入っていますが顕現節の通常の緑ではなくて、今日も先週に引き続いて、白、クリスマス以来の色が、聖卓やストールにも使われています。白は、基本的に神さまを表わす色です。なぜ、今日が、白で特別の主日として、祝われるかというと、「主の洗礼日」の礼拝だからです。
 第1の朗読では、イザヤ書42章1節から7節が読まれました。「主の苦難のしもべ」というイザヤの預言に属します。
 また、第2の朗読は、使徒書から、ペトロが初めて、異邦人に向かって説教したくだりであります。神が共におられたので、イエスは、多くの人々の病を癒し、悪霊を追い出すことが出来たとペトロは、人々に語っています。
 今日の式次第の中、礼拝の中ではまだ読まれていませんが、先週の週報の予告を見ていただきますと、讃美唱が載せてありまして、讃美唱はほとんど詩編から取られているのですが今日のそれは、珍しくイザヤ書12章1a節から6節です。「主こそ、わたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」イザヤは喜びを預言で表わしています。いずれも、今日の福音の記事につながっている聖書と言えます。皆さんも、ぜひ、次週の聖書個所を、讃美唱も含めて、前もって読んでいただき、黙想したうえで、日曜日にのぞまれるといいと思います。
 さて、今日はマルコ1章9節から11節が福音として与えられています。主イエスが、私たちと同じように洗礼をお受けになった事実がまず9節で淡々と記されています。
 4つの福音書がいずれも、イエスの洗礼の出来事を記していますが、それぞれ微妙に異なっています。
マルコでは、今日の記事のそのすぐ前の文章は、洗礼者ヨハネが、水で洗礼を授けるが、私よりも強い方が、お出でになって、その方は、聖霊で洗礼を授けるであろうと言っています。ですから、私たちが、今受けている洗礼は、聖霊による洗礼であります。洗礼を受けたイエスの、今日の日の出来事があった上で、受けている洗礼が私たちの今の洗礼であります。
 さて、マルコは、先程言いましたように、「成ったことには、それらの日々において、ガリラヤのナザレから、イエスがやって来た、そして、ヨルダン川へと、ヨハネによって、洗礼を受けた」と今日の記事を始めています。イエスは、大工として、この時まで、およそ30歳のころまで、ナザレで生計を立て、多分母や弟、妹たちを助けて成長し、洗礼者ヨハネの知らせを伝え聞いて、このときに至って、洗礼者ヨハネから、罪に赦しに至る悔い改めの洗礼を受けられたのであります。
 イエスは、もちろん、罪なきお方で、洗礼を受ける必要はなかったのであります。神の子だからであります。そのお方が、この時に人々に合わせるように、洗礼を受けるために、やって来られた。しかし、マルコは、他の群衆のこと等にはまったく触れず、ただ、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けた事実だけを淡々と書いています。
 それに対して、続いて起こったことは、おそらく主イエスだけが見ることのできた、周りの人々には見えない出来事でありました。主イエスが、水から上がられると、すぐ、天が裂かれていくのを、また、霊が鳩のように、降って来るのを、彼は見たのであります。
 イザヤ書の63章の終りに、イザヤがどうか、天を裂いて降って来てください。み前に山々が揺れ動くようにと願った預言が、ついにこの時、実現したのであります。神さまの側から、この主イエスが、洗礼を受けたときに、人類の願いがかなえられたのであります。神が、主イエスの洗礼を通して、われわれ人の位置にまで身を降ろされ、人となってくださったのであります。
 そして、その時、声が天から成った。これも、マルコでは、イエスが聞くことの出来た出来事として記されています。
「あなたは、私の子、愛する者、あなたにおいて、私は非常に喜んでいる」と。これは、詩編2章9節と、そして、今日の第1の朗読のイザヤ書42章1節以下がもとになっていると言われます。
詩編2章9節は、王の即位式の歌と言われます。「私は今日あなたを生んだ」。イエスが、神の子として、そして、王として即位なさったのであります。ローマ帝国の皇帝が王ではなく、このナザレから、洗礼を受けに来られたイエスこそ王であるとマルコは言うのです。ところがこの王であるイエスは、更に「愛する者、私は、あなたにおいて大いに喜ぶ」と、天から父なる神は言われたのです。これは、イザヤ書42章1以下では、主のしもべの預言として、「見よ、わたしのしもべ、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない、云々」とあります。
すなわち、洗礼をお受けになったイエスは、しもべとなられたのであります。
 王にして、しもべとなられたのであります。神がそういう方としてお出でになられた。
そのことを、今日の主イエスの洗礼の出来事は教えているのであります。そして、主イエスの洗礼にはもうひとつの洗礼があります。それは、後にヤコブとヨハネに言われたように、「私には飲まねばならない杯があり、受けねばならない洗礼がある」のであり、すなわち、十字架の死が、今日のイエスの洗礼において、既に指し示されているのです。
 私たちの罪のために、主イエスはお出でになられ、洗礼を、その公生涯の初めに、お受けになったのであります。私たちが失われた者として罪のうちに死ぬことがないように、主イエスは、この日、洗礼を受けられたのであります。
 ですから、私たちも、その洗礼を受けているのであります。私たちも、自分の十字架を追って、主イエスのあとに日々、ついていくように、その洗礼を受けているのです。
 私たちは、死を恐れますが、主イエスが、この日の洗礼において、御自分が私たちの罪のために、死んで下さることを示してくださっているのであります。
 ですから、私たちは、もはや、死を恐れることなく、真っ直ぐに向かい合って、自分に与えられている生涯を、清く正しく歩むことが許されているのであります。
 マルティン・ルターは、試練に会うたびに、「自分は洗礼を受けている、自分は洗礼を受けている」と言い聞かせて、悪魔に向かってインク瓶を投げつけたことさえあると言われています。
 それほどに、私たちの洗礼は重たいものなのであります。そのことを、示してくれるのが、今日の主イエスの洗礼の出来事であり、私たちは何度も何度も、今日のイエスの洗礼の記事を読む必要があるのであります。
神の子が、この世界にお出でになりましたが、その方は、王であると共にしもべである、まことのお方であります。神が人間となられたお方であります。このイエスこそ、「神の子であった」と十字架の下で主イエスの最後を見届けたローマの兵隊は告白するのであります。
そして、それはまた、私たちにも、まことの生き方を、今なお、教えてくれているのであります。アーメン。






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2015/01/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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