津田沼教会 牧師のメッセージ
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「新しく生きる」(マルコ1:21-28)
マルコ福音書1章21節-28節、2015年1月25日、顕現節第4主日礼拝(典礼色―緑―)、申命記18章15節-20節、コリントの信徒への手紙一8章1節-13節、讃美唱95(詩編95編1節-9節)

マルコによる福音書1章21節-28節
 
 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。



説教「新しい教えに生きる」(マルコ1:21-28)
今日は総会礼拝に当たっています。それに与えられている聖書の個所、それらは、神さまのくすしき導きとも思われる総会礼拝にふさわしい記事、ペリコペーであると言えるものであります。
まず、第1の朗読の申命記18:15-20は、モーセに主なる神が与えた預言で、あなたがたのために、あなた方の民の中から、私のような預言者が起こされる、あなた方は、彼の言葉に聞き従えというものであります。そのモーセのように、旧約聖書で約束されていた方が、主イエスご自身であります。
次に、第2の朗読は、コリントの信徒への手紙一の8章であります。ローマ帝国内の神々の神殿でささげられた犠牲の肉を食べてもよいのかどうかとの当時起こっていた問題に対して、それによって弱い信仰の人たちが躓くことのないように、パウロは、食物によって、私の兄弟を躓かせることになるのなら、今後一切、肉を口にしないとも言っています。信仰の小さい兄弟を躓かせることのないように、信仰によって与えられている自由を、愛によって制御していきたいと、私たちにも奨め、教えてくれています。
因みに、今日の讃美唱は、詩編95:1-9ですが、そこでは、出エジプトの民を導かれた主なる神への讃美が語られ、メリバやマサ、水で争ったり、神を試したりして、神に反抗した主の民の40年の荒れ野の旅が思い起こされていますが、私たちは、神の新しい民として、主に養われ、導かれて、礼拝を守り、神を賛美していることを、改めて思い起こされます。
さて、今日の福音は、マルコ福音書の1:21-28が与えられています。私は、今日の説教題を「新しい教えに生きる」と付けておきましたが、イエスの新しい教えに生かされるとは、どういうことなのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
先週の記事、すなわち、4人の漁師たちが、ガリラヤ湖のほとりで、主イエスによって、呼び出され、最初の弟子たちとして、主イエスの後に、すべてをおいて従って行ったという出来事に続いて、今日の記事が始まっています。
「そして、彼らは、カファルナウムの中へと行く。そして、イエスは、ただちに、会堂に入って、教え始められた」と、今日の個所は始まっています。
そして、今日の終わりの部分は、「そして、彼の良き聞こえは、ただちに、あらゆる方向に、全ガリラヤ地方の一帯へと出て行った」となっています。
そして、もう少し、この後を見て行きますと、シモンの家へと彼らはやって来ます。さらに、その日、日が暮れた後、その家の戸口に、町全体の人々が、悪霊につかれた者たちや病人を連れて殺到するという記事が出て来ます。
主イエスは、公の礼拝の場で教え始められ、次には家庭の生活の場で奇跡をなさり、更には公の生活の場でも、人々を引き付けられ、主イエスのいるところに、神の力が支配し、神の国が実現していくことを、マルコは表わしているのであります。
さて、会堂で、主イエスが教えておられたとき、人々は彼の教えに、正気の外におかれるくらい打たれていた、なぜなら、権威ある者のごとく、そして、律法学者のようにではなく、イエスは教えておられたから、というのであります。
律法学者たちは、律法を解釈し、実際の場に適用して、成功する時には、人々からの信頼と尊敬を受けますが、同じく、多分ファリサイ派のラビ、先生として見られた主イエスは、いわば律法そのものでありました。そして、「権威ある者のごとく」、権威ある方として、教えられていたのであります。
そこに、汚れた霊における人がいました。会堂の中に、悪霊につかれた人がどのようにして参列できたのか、実情はよくわかりません。イスラエルの当時の町や村では、いたるところで、会堂が町ごとにあり、聖書が読まれ、それについての解釈や説教がなされていました。
その汚れた霊は、大声でこう語って、叫びます。「私たちと、あなたととは何なのですか、イエスよ、ナザレ人よ、あなたは、我々を滅ぼしに来たのか。私は知っている、あなたがだれなのか、神の聖なる者だ」と。
「あなたと、私と、何なのか」というのは、かまわないでくれと、訳されていますが、エリヤがやもめの息子を生き返らせ、のちにまた、死んでしまった時にも、使っていて、そこでは、エリヤに、私を悩ませないでほしい、私の罪を思い起こさせるために、あなたはお出でになったのかという脈絡で使われています。
汚れた霊どもは、イエスがどういう方なのかを知っています。ナザレ人というのは、ナザレ出身という意味以外に、ナジル人、「若枝」とか聖別された者を指すかもしれません。そして、神の聖なる者とは、士師記では、士師となるサムソンについて、ナジル人が、「神の聖なる者」として、訳されています。
イエスがどういうお方であるか、汚れた霊どもは、分かっています。自分たちを滅ぼすためにお出でになった方、サタンの勢力に打ち勝つ方として、神の子として、そして、メシアであることを、知っているのです。
主イエスは、だまれ、この人から出て行けと咎め、叱りつけます。これは、相手を征服するという意味合いのこもった言葉です。お前は口輪をかけられよ、そして、出て行けというのです。
汚れた霊どもは、その人をひきつけさせ、もだえさせ、最後の抵抗をして、大声を上げ、死の嘆き声を発して出て行きます。
そして、すべての者たちは、びっくり仰天して、こう言って互いに論じ合います、「これは、何なのだ、権威に従った新しい教えだ」と。まったく今まで、私たちの耳にしたこともない教えだというのであります。
主イエスは、カファルナウムの会堂で、この最初の奇跡を行われました。イエスの教えは、私たちを、悪霊たちの力から、サタンの力から、神の力によって、解き放つものであります。イエスの教えた内容は、ここには、何も具体的には記されていませんが、イエスの教えとは、言葉とそのみ業、ふるまいであります。
私たちを、悪の力から守り、解き放つものであります。
 世界は今も激しく移り変わって行きます。何を、私たちは、信じて行けばいいのだろうか。神さまのなさることは、非情ではないかと思わされることもあります。昨日、鹿児島教会の小山先生から、月報が届きまして、ふと見ていますと、その兼牧をしています阿久根教会の姉妹の急逝が記されているではありませんか。10名ほどで礼拝を守っている群れで、その御主人は、水俣教会の幼稚園の貴重な卒業生で、全国を駆け回って、牛の獣医の仕事をなさっている方であります。年の暮れ、同じ信徒のお父さんが、年老いてようやく洗礼の喜びにあずかるという日の朝、一人、御馳走の準備をしていて、脳溢血で倒れたことが、後になって分かったとのことでした。三人の息子さんを残し、52歳の若さでした。その次男さんは、今年の年が明け、堅信礼を受けたということも、この月報には記されていました。
このような信じられないような出来事も起こされる神さまを前にして、何を信じていけばよいのか、自分の闇、また、世界の闇の中で、時として途方にくれそうになります。しかし、主イエスは、悪霊を追い払う力ある教えをもって、私たちの前に、今日お出で下さっています。この日の出来事は、目に見える形で起こされました。しかし、それは、私たちが、信仰の目を持って、受け取らなければ、新しく生きる力にはなりません。
この一年、津田沼教会にとっても、私にとっても、大きな節目の時となると思います。今日この後、開かれます津田沼教会の総会の上に、また、この一年の皆さま、一人一人の信仰生活、礼拝生活の上に、神さまの豊かな祝福がありますように。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2015/01/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「方向転換への招き」(マルコ1:14-20)
マルコ福音書1章14節-20節、2015年1月18日、顕現節第3主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、エレミヤ書16章14節-21節、コリントの信徒への手紙一7章29節-31節、讃美唱62/2(詩編62章9節―13節)

マルコによる福音書1章14節-20節
 
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えられ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。




説教「方向転換への招き」(マルコ1:14-20)

顕現節第3主日となり、典礼色はしばらく緑が用いられます。顕現節とはエピファニーという言葉で、文字通り、神がみ子を通して、この世界に現れるという意味です。
今日の福音は、主イエスのこの世界への登場と、初めての弟子たちを、ガリラヤの漁師から得るという出来事であります。
そして、第1の朗読、エレミヤ書の記事も、漁師や狩人が、人々を釣ったり、岩の穴に隠れている者を捕らえるといった終わりの時の裁きのような預言でもありますが、バビロン捕囚からイスラエルの人々が帰って来る約束の預言となり、ひいては異邦人の国々が、神々に仕えることをやめ、イスラエルのまことの神に立ち帰るに至ると預言しています。
さらに、第2の朗読、コリント第1の手紙も、終末を覚えて、妻のいる夫は、妻を持たないかのように、喜んでいる者は、そうでない者のごとくに生きるように、なぜなら、この世の事柄は過ぎ去るからであると、身をただして生きるように奨めています。
 さらに、今日の讃美唱、詩編62章の部分も、これを歌った詩人は、共同体内部の者によって苦しめられますが、今からは、富や人間の力、権力などに頼るのではなく、まことの力である神の慈しみに身を委ねて生きますという信仰を告白しています。
 さて、今日の福音、マルコ福音書1章14節から20節は、主イエスのこの世での宣教の第一声と、それに続くシモンたち、二組の兄弟の漁師であった者たちを、最初の弟子として召しだすという記事から成っています。
 「神の子、イエス・キリストの福音の初め」という出だしで始まったマルコ福音書は、今日のところで、洗礼者ヨハネが渡された後に、イエスがそれに続いて、やはり渡されることになる運命のお方として、ガリラヤへと、荒れ野でのサタンと戦って打ち勝った後に、お出でになったという文章で始まっています。
 荒れ野で、水で悔い改めの洗礼を宣べ伝えたヨハネとは違って、主イエスは、異邦人の地とも言われたガリラヤに、罪人がうずくまる闇にまみれた地にお出でになられるのであります。
 そして、その地での第一声は「時は満たされた、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」でありました。これは、預言者イザヤの言ったとおり、洗礼者ヨハネが起こったように、主イエスの到来において、同じくイザヤが預言した「喜びを知らせる者の足は何と美しいことか。神が、シオンにおいて王となられた」とのイザヤの預言が、この主イエスのお出でになられている出来事において既に成就しているとの主イエスご自身による宣言であります。
 主イエスは、旧約聖書によって約束されていた、良き知らせ、終末時の喜びの訪れを告げる使者であると共に、その喜び、「福音」そのものなのであります。
 マルコは、主イエスがガリラヤの地で現れたこの時に、旧約聖書で待たれた喜びの音連れが実現したと言いたいのであります。
 ですから、その時は満たされ、神の支配が実現しているのですから、その神の向かって、自分の全生活を方向転換させ、神に立ち帰って、身をゆだねることが、「悔い改め」であり、それは、イエスにあっては、悲しいことではなく喜びなのであります。
 さて、このイエスは、ガリラヤ湖に沿って歩いて行きます。そして、シモンとシモンの兄弟アンデレが網を打っているのを御覧になります。そして、何と「私の後について来なさい。あなた方を人間をとる漁師にしよう」と招くのです。それに対して、二人は、網を捨てて、すぐに従ったとあります。魚をとるのにはたけていた二人は、今度はその心もつかみ難い人間を相手にする漁師に成らせてあげようという主イエスの言葉にゆだねて、漁の仕事を中断して、網を捨て、即座に従ったと、マルコは伝えます。
 更に少し進んで、今度は舟の中で、父や雇い人たちと共に網の手入れをしていた兄弟ヤコブとヨハネを見て、すぐに呼びます。すると、二人もすぐに、舟の者たちをあとに残して従ったと今日の弟子召命の出来事は記されています。
 私たちもまた、このイエスによって召し出され、弟子とされた一人一人であります。神へと全身をゆだねて生活を方向転換し、そして、やっていた仕事、あるいは計画を中断して、人間をとる漁師へと変えられた者であります。そのようにして、洗礼を受け、今も歩んでいる一人一人なのであります。私たちに、そのような道を歩むことができるのだろうか、自信がありません。けれども、イエスは、「私があなた方を人間をとる漁師になれるように、作るであろう」と保証して下さいました。生涯をかけてひたすらそのみ声に従って行けばいいのです。きっと、私たちも、ペトロやヤコブのように、ついには、人間をとる漁師へと作り変えられるのです。それを信じて、この一年も歩んでいきましょう。アーメン。



2015/01/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「聖霊の力を受けるみ子」(マルコ1:9-11)
マルコ福音書1章9節-11節、2015年1月11日、主の洗礼日礼拝(典礼色―白―)、イザヤ書42章1節-7節、使徒言行録10章34節-38節、讃美唱202(イザヤ書12章1節a-6節)

マルコによる福音書1章9節-11節
 
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教「聖霊の力をうけるみ子」(マルコ1:9-11)

 今は、顕現節に入っていますが顕現節の通常の緑ではなくて、今日も先週に引き続いて、白、クリスマス以来の色が、聖卓やストールにも使われています。白は、基本的に神さまを表わす色です。なぜ、今日が、白で特別の主日として、祝われるかというと、「主の洗礼日」の礼拝だからです。
 第1の朗読では、イザヤ書42章1節から7節が読まれました。「主の苦難のしもべ」というイザヤの預言に属します。
 また、第2の朗読は、使徒書から、ペトロが初めて、異邦人に向かって説教したくだりであります。神が共におられたので、イエスは、多くの人々の病を癒し、悪霊を追い出すことが出来たとペトロは、人々に語っています。
 今日の式次第の中、礼拝の中ではまだ読まれていませんが、先週の週報の予告を見ていただきますと、讃美唱が載せてありまして、讃美唱はほとんど詩編から取られているのですが今日のそれは、珍しくイザヤ書12章1a節から6節です。「主こそ、わたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」イザヤは喜びを預言で表わしています。いずれも、今日の福音の記事につながっている聖書と言えます。皆さんも、ぜひ、次週の聖書個所を、讃美唱も含めて、前もって読んでいただき、黙想したうえで、日曜日にのぞまれるといいと思います。
 さて、今日はマルコ1章9節から11節が福音として与えられています。主イエスが、私たちと同じように洗礼をお受けになった事実がまず9節で淡々と記されています。
 4つの福音書がいずれも、イエスの洗礼の出来事を記していますが、それぞれ微妙に異なっています。
マルコでは、今日の記事のそのすぐ前の文章は、洗礼者ヨハネが、水で洗礼を授けるが、私よりも強い方が、お出でになって、その方は、聖霊で洗礼を授けるであろうと言っています。ですから、私たちが、今受けている洗礼は、聖霊による洗礼であります。洗礼を受けたイエスの、今日の日の出来事があった上で、受けている洗礼が私たちの今の洗礼であります。
 さて、マルコは、先程言いましたように、「成ったことには、それらの日々において、ガリラヤのナザレから、イエスがやって来た、そして、ヨルダン川へと、ヨハネによって、洗礼を受けた」と今日の記事を始めています。イエスは、大工として、この時まで、およそ30歳のころまで、ナザレで生計を立て、多分母や弟、妹たちを助けて成長し、洗礼者ヨハネの知らせを伝え聞いて、このときに至って、洗礼者ヨハネから、罪に赦しに至る悔い改めの洗礼を受けられたのであります。
 イエスは、もちろん、罪なきお方で、洗礼を受ける必要はなかったのであります。神の子だからであります。そのお方が、この時に人々に合わせるように、洗礼を受けるために、やって来られた。しかし、マルコは、他の群衆のこと等にはまったく触れず、ただ、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けた事実だけを淡々と書いています。
 それに対して、続いて起こったことは、おそらく主イエスだけが見ることのできた、周りの人々には見えない出来事でありました。主イエスが、水から上がられると、すぐ、天が裂かれていくのを、また、霊が鳩のように、降って来るのを、彼は見たのであります。
 イザヤ書の63章の終りに、イザヤがどうか、天を裂いて降って来てください。み前に山々が揺れ動くようにと願った預言が、ついにこの時、実現したのであります。神さまの側から、この主イエスが、洗礼を受けたときに、人類の願いがかなえられたのであります。神が、主イエスの洗礼を通して、われわれ人の位置にまで身を降ろされ、人となってくださったのであります。
 そして、その時、声が天から成った。これも、マルコでは、イエスが聞くことの出来た出来事として記されています。
「あなたは、私の子、愛する者、あなたにおいて、私は非常に喜んでいる」と。これは、詩編2章9節と、そして、今日の第1の朗読のイザヤ書42章1節以下がもとになっていると言われます。
詩編2章9節は、王の即位式の歌と言われます。「私は今日あなたを生んだ」。イエスが、神の子として、そして、王として即位なさったのであります。ローマ帝国の皇帝が王ではなく、このナザレから、洗礼を受けに来られたイエスこそ王であるとマルコは言うのです。ところがこの王であるイエスは、更に「愛する者、私は、あなたにおいて大いに喜ぶ」と、天から父なる神は言われたのです。これは、イザヤ書42章1以下では、主のしもべの預言として、「見よ、わたしのしもべ、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない、云々」とあります。
すなわち、洗礼をお受けになったイエスは、しもべとなられたのであります。
 王にして、しもべとなられたのであります。神がそういう方としてお出でになられた。
そのことを、今日の主イエスの洗礼の出来事は教えているのであります。そして、主イエスの洗礼にはもうひとつの洗礼があります。それは、後にヤコブとヨハネに言われたように、「私には飲まねばならない杯があり、受けねばならない洗礼がある」のであり、すなわち、十字架の死が、今日のイエスの洗礼において、既に指し示されているのです。
 私たちの罪のために、主イエスはお出でになられ、洗礼を、その公生涯の初めに、お受けになったのであります。私たちが失われた者として罪のうちに死ぬことがないように、主イエスは、この日、洗礼を受けられたのであります。
 ですから、私たちも、その洗礼を受けているのであります。私たちも、自分の十字架を追って、主イエスのあとに日々、ついていくように、その洗礼を受けているのです。
 私たちは、死を恐れますが、主イエスが、この日の洗礼において、御自分が私たちの罪のために、死んで下さることを示してくださっているのであります。
 ですから、私たちは、もはや、死を恐れることなく、真っ直ぐに向かい合って、自分に与えられている生涯を、清く正しく歩むことが許されているのであります。
 マルティン・ルターは、試練に会うたびに、「自分は洗礼を受けている、自分は洗礼を受けている」と言い聞かせて、悪魔に向かってインク瓶を投げつけたことさえあると言われています。
 それほどに、私たちの洗礼は重たいものなのであります。そのことを、示してくれるのが、今日の主イエスの洗礼の出来事であり、私たちは何度も何度も、今日のイエスの洗礼の記事を読む必要があるのであります。
神の子が、この世界にお出でになりましたが、その方は、王であると共にしもべである、まことのお方であります。神が人間となられたお方であります。このイエスこそ、「神の子であった」と十字架の下で主イエスの最後を見届けたローマの兵隊は告白するのであります。
そして、それはまた、私たちにも、まことの生き方を、今なお、教えてくれているのであります。アーメン。






2015/01/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「まず異邦人に知らされたみ子の誕生」(マタイ2:1-12)
マタイ2章1節-12節、2015年1月4日、顕現主日(典礼色―白―)、イザヤ書60章1節-6節、エフェソの信徒への手紙3章1節-12節、讃美唱72(詩編72編1節-15節)

マタイによる福音書2章1節-12節
 
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者たちが現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上で止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


説教「まず異邦人に知らされたみ子の誕生」(マタイ2:1-12)

 今日は、顕現主日、エピファニーという祝日で、カトリック教会では公現日とも言います。古代の教会では、特に西方教会では、今のクリスマスが祝われるようになる前から大切にされて来た特別の日曜日であります。
そして、それは今年、2015年の最初の主日にも当たっております。皆さま、年末年始如何お過ごしであったでしょうか。私も、新年礼拝の後、とんぼ返りで四国の松山の母のもとに帰ってきました。妹たちの家族や、兄もかけつけまして、楽しいひと時を過ごしたのでありますが、聖書の神、キリスト教を伝えることの難しさも、一方では痛感させられるときでありました。
また、皆さんから、年賀状やクリスマス・カードなどをいただく時期でありますが、宇和島の高校時代の同級生から、年賀をいただきました。関東で数年に一回、同窓会をして15人とか20人ほど集まることがありますが、何年か前にご一緒して、私が牧師であることを知って、興味深く話したことがありました。彼は、私たちはもう還暦の年を迎える年代ですから、銀行でしたか会社も一区切りついて、また別の会社で働いているという知らせを受けましたが、今は世田谷のほうに住んで暮らしているようです。同窓会では、当時は尖閣諸島の領土問題などが噴出しておりましたが、彼はクリスチャンの人々はそういう問題にどう対処するのだろうかと、少し疑問も隠せないようでありました。
しかし、彼は、私が牧師であることを心に留めて、一人の友として年賀状をくれたのだと思います。イエスこそ、私たちの救い主であるということを、私たちはどのようにして伝えることができるのでしょうか。今日の福音から聞いてみたいと思います。
さて、今日の記事は、原文では「そのイエスは、ヘロデ王の日々において、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と始まっています。「そのイエス」というのは、すぐ前の1章に出て来る夢でヨセフに天使が知らせた、マリアから生まれる子は、その民を罪から救う者になり、インマヌエル、「神が我々と共におられる」と呼ばれることになる。その子の名は、イエスと呼ばれるであろうと預言されていた、そのイエスであります。
その時、見よ、東方から、マギたちが到来し、こう告げるのであります。「ユダヤ人たちの王としてお生まれになった方はどこにいますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、拝みに来たのです」と。
この知らせに、ヘロデは、心騒いだ、悩まされたと言い、また、全エルサレムも同様だったと言います。決して彼らは喜ばないどころは、いやだなあと思ったというのです。ヘロデは、ユダヤ人の王でありました。エルサレム神殿の建設など、政治家としての辣腕をふるっていたと言われています。エルサレムのユダヤの国の首都として、ローマ帝国の圧政に苦しみながらも、それなりに政治経済、また宗教の中心地として栄えていました。その彼らは、決してマギたちによって知らされた「ユダヤ人の王」メシアの誕生を喜ばなかったのであります。
それどころか、ヘロデは、民の祭司長たちや律法学者を呼び寄せて、メシアはどこに生まれるのか、確かめようとするのであります。彼らは、はっきりと答えました。それは、ユダヤのベツレヘムです。預言者を通してこう書かれています。ユダのベツレヘムよ、お前は、決してユダの君たちの中で、いと小さき者ではない。なぜなら、お前から、指導者が現れ、彼はその民イスラエルを牧するであろうからとあるからですと。
しかし、彼らもまた、聖書からメシアの現れる場所を示しただけで、その方を捜し求め、拝みに行こうなどとはしないのです。
さて、今度は、ヘロデは、マギたちを呼び出し、その星の現れた時期を正確に確かめようとしていました。それから、彼らを送り出し、あなた方は進んで行って、その子のことを詳しく調べて報告してくれと頼み、なぜなら、そうすれば、私も行って、彼を拝もうと言うのです。彼らは、それを聞き流しながら、出て行くと、彼の星、メシアの星が、彼らを先導し、ついにその子のいる真上まで行って止まります。彼らはそれを見て、非常に大きい喜びを喜んだと記されています。メシアを知ることはそれほど大きな喜びなのです。彼らがその家に入ると、その子はその母と共にいるのを彼らは見出し、跪いてひれ伏し拝みます。聖書の民、神の民イスラエルの者によってではなく、異邦人、異教徒によって、まず最初にメシアは礼拝されたのであります。
そして、彼らは、金、乳香、没薬を宝箱から出して、彼に贈り物としてささげます。後になって、このマギたちは、王であったと考えられるようになり、ユダヤ人の王が、異邦人の王たちによって礼拝され、臣従されるようになったと信じられるようになりましたが、あるいは、マギたちはバビロンでは星を占いながらの魔術師のような者たちだったのかも知れません。その場合には、彼らは没薬などそれを用いて生活を立てていたものを、贈り物とし、まったく新しい生き方に変えられて、帰って行ったとも、考えられます。ヘロデのもとには帰らないように夢で示され、彼らは来たときとは別の道を通って立ち去りました。それまでとは全く別の道、いのちの道を見出してそこを歩む者として帰って行ったのであります。 
私たちをその罪から救うまことの王を受け入れるのか、それとも拒むのか、その二つに一つであります。この一年、私たちはどのように歩むのでしょうか。今日の聖書の記事は、私たちのその決断を、改めて迫って来るものであります。この一年が皆さんそれぞれにとって、祝福と平安に満ちたものとなりますように。アーメン。


2015/01/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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