津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ぶどう酒に変えられた水」(ヨハネ2:1-11)
ヨハネ2章1節-11節、2014年12月28日、降誕後主日(典礼色―白―)、イザヤ書62章1節-5節、コロサイの信徒への手紙1章15節-20節、讃美唱111(詩編111編1節-10節)

ヨハネによる福音書2章1節-11節
 
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。


説教「ぶどう酒に変えられた水」(ヨハネ2:1-11)

今日は、降誕後主日、クリスマスのさなかの日曜日、そして、今年の最後の主日礼拝です。そこに与えられているのは、ヨハネ2章1節から11節です。
さて今日の主日の祈りには、「人となられたイエス・キリストによって、私たちをあなたのいのちに生きる者として下さい」とありました。
 今日の福音は、ヨハネ福音書2章1節は、「三日後に」とありますが、これは、ヨハネ福音書1章の「初めに言葉があった」との最初の創造の出来事から数えますと7日目の新たな、私たちの創造の出来事をも考えられているとも言えましょう。
 あるいは、もっと単純にはイエスの死後「三日目に」と、主イエスの復活を暗示していると考えることもできます。
 もっとも、文脈からはナタナエルがキリストに出会って、キリストから「あなたがいちじくの木の下で佇んでいるのを見た」と言われて、「あなたこそ、イスラエルの王です、神の子です」と信じたのに対して、イエスが「もっとおおいなることをあなたは見るだろう」、さらに、「人の子の上に、天が開いて天使がのぼりくだりするのをあなたがたは見るだろう」という預言の言葉から数えて三日後の出来事と言えましょう。
 さてそのとき、カナで婚礼があり、それに続く婚宴があって、主イエスの母も、主もその弟子たちも招かれていました。主イエスの親戚の結婚式だったのかも知れません。主イエスの公生涯の初めが、私たちにとって、何と言っても人生の喜びである婚礼の出来事で始まっているのは、まことに、主イエスにふさわしいことです。
 さて、ところが、この披露宴の途中でぶどう酒が足りなくなります。主イエスの母が、―どういうわけか、マリアとはヨハネ福音書では一度も出て来ないのですがー、彼女がそれに気づき、進言します。すると、主は、「婦人よ、あなたと私と何なのですが、私の時はまだ来ていない」と言います。
「婦人よ」という言い方は、自分のお母さんに対して、冷たい気がしますが、必ずしもそうではなくて、婚宴の席で大事なぶどう酒が切れたのに対して、こまやかに対処してふるまう姿に対して、語りかけている言葉とも言えます。十字架のもとでも、主イエスは、「婦人よ、ここにあなたの息子がいるよ」と、主が愛した弟子を指さして語っています。
また、「あなたと私とは何なのですか」というのは、聖書では、たとえばエリヤがやもめの一人息子が死んだのを生き返らせた後、また、死んでしまったときに、やもめが語った言葉です。やもめは、そのとき、自分の罪を思い起こさせるために、エリヤは死人を起こさせるという奇跡をなさったのですかと聞いています。
あるいは、新約聖書では、悪霊たちが、お出でになられたイエスに対して、この言葉を用いて、新共同訳聖書では、「私たちにかかわらないでくれ」と訳されています。
主イエスは、ここでは、母に対して「私とあなたとで、その問題は解決できるものではない。しかし、それが父なる神のみ心であるなら、み心の通りに神はなさるでしょう」といった意味で、この言葉を用いておられるでしょう。
更に、イエスの時とは、普通ヨハネ福音書においては、死の時、栄光のとき、十字架のあげられ、また、死から天へと上げられる時ですが、ここでは、主のそれよりは前の決定的な時、死へと至る受難の時くらいの意味ではないでしょうか。
 母への言葉は、一見、厳しいが、イエスは、母の進言に従って、奇跡を起こされます。それを、しるしと、ヨハネ記者は呼んでいます。イエスのふるまいを通して、神のみ業が現わされるのです。
6つの石がめに、2ないし3メトレテス入るものに、それぞれ水を上まで、給仕人たちが命じられたとおり満たすと700リットルにもなったことでしょう。1リットルのペットボトル、700本分くらいになりますから相当なものです。
給仕者たちは、それをイエスの指示に従って、宴会の主人、世話役、客から選ばれた者にしろ、給仕人からの者にしろ、宴会の主人で、酒の判定もできた者、口語聖書では料理頭と訳されていますがその者のところに持って行きます。
彼は味見すると、ぶどう酒、しかも上等のぶどう酒に変わっていました。給仕人たちは、それがどこからか知っていたが、その料理頭は知りません。
花婿を呼び、「人は誰でも、よいぶどう酒を先に出し、酔いが回ったとき、劣ったのを出すものだが、あなたは、今まで見事なぶどう酒をのけておいた」とほめます。これが、ガリラヤで主イエスがなさった最初のしるしであり、これを見て、弟子たちは信じとあります。
 この奇跡は、ごく少数の者にのみ現わされ、主イエスはその栄光を現わしたが、これは、1章から、2章、そして4章に至る流れの中でよりよく理解されます。
豊かな極上のぶどう酒は、イザヤ書ではメシアの終わりの日の祝宴で、上等の肉などと共にふるまわれるとされています。そして、この奇跡は私たちの聖餐をも現わしています。 
主イエスの復活、旧約律法の媒介者モーセにはるかにまさる恵みと真理が、独り子が地上に肉をまとって、人となられて、私たちに与えられました。クリスマスとは、人の子が、おおいなる栄光を現わす出来事ともつながっています。
真のからだによる礼拝、上から水と霊とにより生まれる必要性、サマリアの女に与えられるいのちの水、十字架と復活による栄光が示されるその出来事として、今日のしるしが与えられています。
これから、11章の終わりまでに与えられる12の奇跡、「しるし」の最初の奇跡として、今日の「しるし」が与えられています。それは、共観福音書の中に出てくる苦しみや悲惨の中に置かれた人を癒したり、5000人の飢えを満たしたパンの奇跡のように目立った、華々しいものではありません。
しかし、私たちの日常生活の喜びである結婚式の日に現わされた、ごくわずかの弟子たちにだけ、示された奇跡でありました。そうです、主イエスは私たちの喜びの中にも、それを満たして下さるためにも、奇跡をお用いになられるのです。しかも、ヨハネ福音書によれば、その最初のしるしとして、主イエスの栄光を現わすために、このしるしが行われたのです。
み子は、私たちに今日クリスマスの贈り物として与えられています。闇が支配するこの世に、まことの光が来て、私たちを光に歩む者としてくださいました。絶望しないで、この栄光を見、しるしを見て信じ、証しする者とされ、クリスマスと新年を心から祝いたいものです。アーメン。









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2014/12/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の訪れ」(ルカ1:67-79)
ルカによる福音書1:67-79、2014年12月21日、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)、ゼファニア書3:14-17、フィリピの信徒への手紙4:2-7、讃美唱118/1(詩編118編14-24節)

ルカによる福音書1:67-79
 
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、
我らのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して
 語られた通りに。
それは、我らの敵、
すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは、
敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
 知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」
 




説教「神の訪れ」(ルカ1:67-79)

今日は、待降節第4主日兼クリスマス主日として、礼拝を祝っています。今年の教会暦は、B年となり、マルコ福音書を主たる福音として、読み始めていますが、御存じのとおり、マルコ福音書には、み子の誕生の記事がありません。そのこともあるのか、アドベント、クリスマスの福音としては、ルカ福音書が多く用いられます。
さて、待降節の最後の福音として、今日は、ルカ福音書1章67節から79節が与えられています。これは、み子の誕生、すなわち、クリスマスを迎えるアドベントの最後には最も相応しい聖書の個所であります。なぜなら、このザカリア賛歌の記事の後は、そのまま、クリスマスイブに読まれるベツレヘムでのみ子イエスの誕生の記事、ルカ福音書2章1節から20節へとつながっているからであります。
今日は、クリスマスを祝うために、津田沼教会でも、少なからぬ高齢の方が礼拝に出席されています。年老いた方の信仰は我々の大きな励みを与えてくれます。津田沼教会では、週日の聖書を学び祈る会などでも、高齢の方が、自分はみ言葉の説き明かしなしには、信仰を守ることができない、聖書なしには、自分は弱い者で、礼拝とそのような聖書の学びと祈りの会なしには生きていけないと祈られます。そのような姿を見て、私たちは大きな力と慰めを与えられます。
今日のザカリアも、そのような老人でありました。彼は祭司であり、ルカ福音書の幕開けは、彼が神殿で仕えているとき、あなた方に、メシアの先を行く者、その道を整える者、すなわち、洗礼者ヨハネが生まれると天使よりお告げがあったとき、信じることができず、恐れに包まれて、口がきけなくされた者であり、その意味では、すぐにみ子があなたから生まれると、同じ天使により告げられて、すぐに信じたおとめマリアとは違って、失敗し、挫折を経験した人でありました。
その父ザカリアが、とうとう最後には、洗礼者ヨハネが生まれた時、この歌を歌ったのであります。彼は、聖霊に満たされて、こう語りつつ預言します。
イスラエルの神である主は、ほめたたえられよと。そして、その後の長い預言の賛歌は、何と、なぜならばとその理由についてわずかに二つの文章、切れ目から成っているのです。すなわち、前段の文章は、イスラエルに対して、神がなさった憐れみ、誓いの成就に関して、過去形で書かれてあり、後段は、それに対して、自分の息子ヨハネについて、将来起こることを、未来形で書かれています。前段では、神がその民イスラエルを忘れず、訪れてくださった、その民の罪を贖って下さった、父アブラハムへの誓いを忘れず、その僕ダビデに対しての契約を守り、あらゆる敵、私たちを憎む者の手からの救いを与えられた。それは、私たちが、これからのすべての日々を彼に仕えるために、敬虔と義において歩むためであると、歌っています。
そして、後段は、これからまさに起ころうとしている出来事について、高らかに預言しています。息子ヨハネよ、お前は、主、メシアの前に先立って進み、主の道を整え、主に先立って、いと高き方の預言者として罪の赦しによる救いを宣べ伝える者となる。そして、神の憐れみの心、はらわたのねじれる断腸の思いにおいて、私たちを、あけぼのの光がいと高きところから、訪れる。そして、それは、闇と死の陰に座り込んでいる私たちを照らし、私たちの足を平和の道へとまっすぐにすると預言しています。
この平和とは、まさに今生まれようとしているキリストを意味しています。私たち罪によって絶望と闇に包まれている全人類のために、まことの平和が訪れようとしている、これが、待降節すなわちアドベントに与えられるメッセージであります。私たちの罪を贖うために十字架にお付きになるみ子が、今目前に生まれようとしている。その喜びを、老人ザカリアが今日の参加を通して預言しているのであります。アーメン。








2014/12/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「道を備えよ」(ヨハネ1:19-28)
ヨハネ1章19節-28節、2014年12月14日、待降節第3主日(典礼色―紫―)、イザヤ書61章1節-4節、テサロニケの信徒への手紙一5章16節-24節、讃美唱301(ルカ1章47節-55節)、302(ルカ1章68節-79節)

ヨハネによる福音書1章19節-28節
 
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表わした。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアの出来事であった。



説教「道を備えよ」(ヨハネ1:19-28)
私たちは、今日、初めの歌として教会讃美歌7番「道を備えよ、シオンの町よ」で始まる讃美歌を歌いましたが、私はここから、今日の説教題をつけました。
もちろん、道と言いましても、それは「主の道」、メシアが来られる道を準備することであります。
ヨハネによる福音書によれば、この洗礼者ヨハネの荒れ野で叫ぶ声から、実際の歴史の中での救いの出来事、主イエスの到来は始まっているのであります。
「さて」すなわち「そして」ヨハネの証しは次のようであったとこの部分はさりげなく開始しているのであります。
すなわち、エルサレムからのユダヤ人たちは、祭司長たちやレビ人たちを遣わして尋ねるのであります。あなたは、メシア、キリストですかと。
洗礼者ヨハネは、私はメシアではないと、告白して、拒まずとあります。「拒まず」、これは、そう答えることを侮らず、はっきりという意味であります。
では、エリヤですかと聞かれると、私はそうではないと断言し、では、あの預言者ですかと聞かれると、いいやときっぱり答えます。
3回否定し、それもだんだん短く答え、強調されています。終末の時に、メシアに先立って、あの火の戦車で天に上げられた預言者エリヤが再来すると信じられていました。また、モーセも、自分のような預言者がイスラエルの中から、神によって立てられると申命記18:15にあって、終末に現れることが期待されていました。
エルサレムのユダヤ人たち、当局、ユダヤ教の指導者たち、サンヘドリンの権力者たちは、メシアの到来を予期し、むしろ、自分たちの現状維持のために、それを不安に思い、恐れていました。
しかし、ヨハネは、その三者、メシア、エリヤ、預言者のいづれでもないと断言していたのであります。
それでは、自分を何だというのか、教えてもらいたい、自分たちを遣わした者たちに答えを持って帰らねばならないと彼らが迫ると、彼は、自らこう答えるのであります。
私は荒れ野で叫ぶ声である、預言者イザヤが言ったとおりと(イザヤ40:3)。洗礼者ヨハネは、他の3つの福音書とは違って、ヨハネ自ら、私は、荒れ野で叫ぶ声であると宣言するのであります。
私たちは、今、み子イエスの誕生を祝うために、アドベントの時を過ごしていますが、それは、この洗礼者ヨハネにならって、メシアのお出でになられるのにふさわしく、主イエスの来られる道をまっすぐにするようにと世に向かって告げることであります。
主イエスは、まことの永遠の言葉、ロゴスでありましたが、洗礼者ヨハネは、そのことを告げる一時の「声」に過ぎないというのであります。
自分は、メシア、キリストではないばかりか、それに先立つエリヤでも、かの預言者でもない、単なる荒れ野で呼ばわる声であるというのであります。
人々が、まことの光であるキリストを見出せるように告げる一時の声であると、私たちも証言しながら、人々にキリストを指し示す者となりたいものであります。
そして、洗礼者ヨハネは、あなた方の立っているその中に、そのお方が既にやって来ている。そして、私は、水において洗礼を授けているが、その方は、聖霊において洗礼を授けなさる。すなわち、まったく新しい救いの時代が始まりつつあると宣言しているのであります。
そして、私の後に来られるそのお方のその片方の履物のひもを解くのにも、私は値しないと、はっきりと、エルサレムからのユダヤ人たち、特に後半ではファリサイ派の者たち、特にヨハネ福音書の書かれた時代に猛烈に、キリスト教徒たちを迫害していたグループの者たちに向けて、証言しているのであります。
そして、それは、ヨルダン川の向こうのベタニアでの出来事であったと明記し、現実の場所と時が記されて、救いの出来事が私たちのこの世界で実際に始まったこと、又今も我々の身近なところに、救い主がお出でになることを示すのです。
 私たちも、主の「道を備え」る者となりたいものです。アーメン。













2014/12/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「喜び待ち望みつつ」(マルコ1:1~8)内海望牧師
マルコ1章1節-8節、2014年12月7日、待降節第2主日(典礼色―紫―)、イザヤ書40章1節-8節、ペトロの手紙二3章8節-14節、讃美唱85/1(詩編85編2-8節)

マルコによる福音書1章1節-8節
 神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 
 説教「喜びの時を待ち望みつつ」(マルコ1:1-8)内海望牧師

 私たちは、待降節(アドベント)の時を歩んでいます。待降節とは文字通り、「降誕(クリスマス)を待つ時」です。「降誕」とは神の独り子であるイエスさまが、救い主として、私たちの所に来られたという喜びの訪れを指します。
 このような時期に、改めて、「イエスさまが私たちの所に来られたということの意味を考えることは大切だと思います。それは、フィリピ書のいわゆる「キリスト讃歌」によく示されています。(フィリピ2章6-8p363)。ここで、降誕という出来事が、いかに驚くべきものであったことが分かります。神さまの独り子であるイエスさまが、私たちの罪を赦すため、神の子としての身分を捨て去り、自分を無とし、私たち罪人である人間の仲間となり、しかも僕として私たちの罪を担って十字架に死んで下さったというのです(Ⅰテモテ1:15p383)。ルターが言うように「悪魔も震えおののくほどの出来事」なのです。この世界が、決して神さまから見捨てられた孤独な世界でなく、神さまの愛の内にあることを知らされる時なのです。確かに、「降誕」の「誕生」という意味が示すように、クリスマスは、イエスさまの誕生を喜ぶ時ですが、同時に。そのイエスさまが、私たちを救うために十字架に向かって一歩を踏み出された時であることも忘れてはなりません。教会の典礼色が四旬節(受難節)と同じ紫であり、私たちが、ハレルヤに変えて「詠唱」を唱う理由です。クリスマスの出来事には、思いを越えた深みがあるのです。待望節を通じて通奏低音として十字架、つまり受難の音色が響いているのです。しかし、これは決して暗い陰鬱な調べではありません。暗い夜が明け染め、救いの光が射し込んで来る時を予感させる希望に満ちた響きです。

 さて、今日与えられた聖書に心を向けてみましょう。第一の朗読のイザヤ書40章の時代、イスラエルの民は、絶望の淵に沈んでいました。その時代、イスラエルはバビロニア王国に蹂躙され、最後のよりどころとしていた神殿も破壊されてしまいました。そればかりか、主だった人々は、捕虜としてバビロンに連れ去られて行ったのです。人々は、この苦しみが、神さまに叛いた自分たちの罪の結果だと知っていました。
 そのような絶望の底にあった民に、「慰めよ、私の民を慰めよ。苦役の時は満ち、彼女の咎は赦された。」という神さまのみ言葉が響き渡ったのです。旧約聖書にも福音はあるのです。神さまは、預言者イザヤに、この福音を民に伝えよ(呼びかけよ)と命じられるのです。ところが、イザヤは「出来ません。」と拒みます。「彼らは花や草のように枯れてしまいます。」と答えるのです。イザヤにとって「とこしえに立つみ言葉」と「罪に沈む民」との隔たりは到底埋めつくせないものでした。救われる可能性が全くない民の罪深さを目にしてしまったのです。「彼女の咎は赦された。」というみ言葉を信じられなかったのです。イザヤは、それほど、罪の底に深く沈んでしまった民の姿に絶望しているのです。
 今、共に歌いました讃美歌300番はルターの作詞、作曲による有名な讃美歌です。歌詞は詩編130編から取られています。(詩130:1-3節p973)。イザヤの心境も同じであったと思います。ルターも、自分が神さまから最も遠い「深い淵にある」罪人であることの悲しみを経験した人間でした。
 私たちは、「老い」を恐れ、不安に落ち込むことがあります、病に苦しめられることもあります。不条理な死との出会い、自分の不運に涙することもあります。「どうして、私にこんなことが」と叫びたくなることもあるでしょう。絶望の叫びです。
更に、それに優って罪の思いが、私たちの心を苛みます。悔恨の情と共に眠れない夜を過ごすこともあります。その時、私たちは、ただひたすら「主よ、憐れんでください。」と祈るのみです。
イスラエルの民は、自分たちの苦しみは、神さまから離れ去った自分たちの罪の結果だ感じていました。しかし、その罪が赦され、祖国に帰還することが出来るというのです。このみ言葉は、歴史的には、ペルシャ王キュロスがバビロン王国を滅ぼし、イスラエルの民は祖国に帰還することが許されたという形で実現します。「苦役の時」は終わったのです。しかし、民は罪の淵に沈んだままでした。罪赦される時は来なかったのです。

ようやく、福音書の日課に辿り着きました。イザヤの時から500年を経たのち、「慰めよ」という慰めの約束が、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という形で実現しようとしているのです。イザヤが予想もしなかった形で、「神さまと罪人の間にある断絶・深い淵」がつながるのです。
「神の子イエス」。イエスという名前はありふれた人間の名前です。従って、元来「神の子」と「イエス」という名は決して結びつかないのです。しかし、イエスさまは、神の子でありながら、人間を救うために「神と等しいものであることを捨てて、僕の姿を取って、私たちの許に来てくださったのです。「深い淵の底」にまで来て下さったのです。これがクリスマスの喜びです。「キリスト」という言葉は、よくご存じのように「救い主」と言う意味です。「イエス・キリスト」と言う時、見棄てられたと思うような深い淵に沈む私たちの所にまで神の子・救い主イエスが来て、共にいて下さるという出来事を意味するのです。イエスさまの来臨によって、私たち人間の努力ではどうしても産めることの出来なかった深い淵に天と地を結ぶ架け橋が架けられたのです。
「神の子イエス・キリストの死と復活」により、この世界は新しくされ、天と地は切れることのない絆で再び結び合わされたのです。なんと素晴らしいことでしょうか。
しかし、それでも私たちは日々罪を犯す罪人です。私たちは決して天国にふさわしい人間ではありません。パウロと共に「神の子とされることを、心の中で呻きながら待ち望んでいる者」(ロマ8:23)です。
「福音の初め」。その意味は、確かに、夜は明け染め、太陽の輝きの予感はしますが、まだ地にあまねく太陽の光は渡ってはいないのです。私たちは、「既に」と「未だ」の間に生きているのです。新しい天と新しい地の出現を「マラナタ。主よ、来てください。」と待ち望む時なのです。
しかし、確かに、贖い主、救い主イエスさまは、私たちと共におられます。私たちが、救い主の許に到着したのでなく、イエスさまが私たちの許に来て下さったのです。ここに揺らぐことのない救いの確かさがあるのです。私たちは、洗礼を受けても日々罪を犯すような恩知らずです。そのような自分の姿に落胆することもしばしばです。しかし、確かにあのクリスマスの夜、イエスさまは私たちの許に来て下さったのです。この事実を悔い改めと感謝の心を持って信じましょう。
ルターは大胆にもこう語ります。「悪魔が私たちの罪を数え上げ、私たちは死と地獄に値する」と言いました。『私は私が死と地獄に値することは認めます。それが何だというのですか。それは、私が永遠の呪いの判決を受けたということですか。断じてそうではありません。何故なら、私は、私に代って苦しみ贖って下さった方を知っています。彼の名は、神のひとり子イエス・キリストです。イエス・キリストのおられるところに私もいます。』と。赦しの確かさは、私たちの内にではなく、イエス・キリストにあると言うのです。これほど確かなものはありません。
さて、この終わりの日を待つことについて、今日の第二の朗読であるⅡペトロ3章9節は「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」と記しています。そうなのです。私たちが「待つ時」は、神さまの側から見れば、神さまの愛における忍耐の時なのです。「一人も滅びないで」という言葉が心を打ちます。そこで神さまは私たち一人一人のことを思って忍耐の時を過ごして下さっているのです。このことを心から喜びながら、同時に、砕かれた心からの悔い改めの時として待望節を過ごしたいと思います。「悔い改め」は自虐的な悔恨の情ではありません。神の子救い主イエスがこの世界に来られたという確かさの上に立った、慰めの中で、救いを信じ自己変革される時です。
私は、「喜びを待つ時」という説教題を、「喜びを待ち望む」に変えました。それは、クリスマスの出来事によって、私たちの「待つ」は「じれったい思いで待つ」のでなく、確かな希望において待つという積極的な姿勢に変えられたからです。
どんなに深い淵の底にも、イエスさまは来て、共にいて下さることを信じ、砕かれた新しい心を持って、神さまの救いの御業の完成する時、終わりの日を待ち望みつつ共に歩みましょう。
2014/12/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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