津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスがお出でになる」(マルコ11:1-11)
マルコ11章1節-11節、2014年11月30日、待降節第1主日(典礼色―紫―)、イザヤ書63章15節-64章7節、コリントの信徒への手紙1章3節-9節、讃美唱98(詩編98編1-9節)

マルコによる福音書11章1節-11節
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。 
「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「イエスがお出でになる」(マルコ11:1-11)

 今日から、聖壇で用いる布も、紫となって、アドベント、待降節に入りました。教会暦においては、新年であり、皆さん、新年おめでとうございますと言いたいと思います。世の中の新年にちょうど一か月ほど早く、私たちは、教会では今日から、ニュー・イヤーであります。
私たちは、1月1日の元旦の朝から、新しい一年の計画を立てるように、新しい一年の思いを今日から新たに胸にしたいものであります。
 私事としては、この一年はとても厳しいものがありましたが、それも神さまからのご計画、摂理のうちにあったと思います。
今、思いますことは、これからの一年間は、日曜日の礼拝を中心として、信仰生活をやりかえよう、そして、どうしても夜型になりやすい生活を、朝型にしよう、そして、朝日と共に一日を始める規則正しい生活にしたいと思います。
 さて、アドベントの最初の日曜日に与えられる聖書の個所、特に福音書の個所は、主イエスのエルサレム入城の記事であります。
 これは、カトリック教会では、アドベントの第一主日のペリコペーにはなっていないようであります。このルーテル教会の伝統がどこから来ているのか、私は知らないのですが、とにかくルーテル教会では、今の青色式文ではそうなっており、ここが読まれ、来年の三月の頃の枝の主日、受難節の最後の日曜日である受難週の初めに、主イエスが文字通り、十字架におつになるために入城なさる場面として、一年に二度も読まれます。
 それが、今日、一年の教会暦の初めの日曜日のアドベントに、そして、主イエスのご降誕を祝うクリスマスの前の喜ばしい時期に、読まれるのはなぜなのか、それをしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、お気づきのように、今日からは、主たる福音は、マルコ福音書であります。マルコ福音書は、4つの福音書の中では一番古く書かれました。伝説では、ペトロの通訳であったマルコが書いたとも言われています。
4つの福音書の中では、素朴で、時にはぎこちないとも思われる文章も見られますが、逆に生き生きとした主イエスの生きざまが伝わってくる福音書ということもできるでしょう。
 今日の福音、マルコ11:1-11を思い起こしながら、再びお出でになられる主、来臨(パル―シア)のメシアについて考えていきましょう。
 主イエスの一行は、エルサレムへと、そして、オリーブ山のふもと、ベテファゲ、ベタニアへと近づいてきます。順路としては、ガリラヤから進んで行けば、ベタニア、ベトファゲと書くべきでありますが、エルサレムから見て、ベトファゲへと、ベタニアヘトやって来たと記者は記しているのでしょうか。
そのとき、主イエスは、二人の弟子を遣わして言います。向こうの村へ行きなさい。そうすると、まだ人をだれ一人乗せたことのないろばの子がつないであるのを、あなた方は見出す。それをほどいて、連れて来なさいと。
この二人の弟子がだれであったのか、記されていません。ペトロとヨハネであったのか、それとも兄弟、ペトロとアンデレであったのか、ヤコブとヨハネであったのか。この後でエルサレムで過ぎ越しの食事の準備をする時にも、今日と同じように、二人の弟子が遣わされて行って、水がめを、頭にのせた人に出会い、二階座敷の食事をする家へと案内される出来事が起こり、主イエスの言われるとおりに、事が運んで行くことが記されていますが、そこでも二人の弟子の名前は記されていません。主イエスの言われた通りに、事が運んで行くのです。
 さて、主イエスは、さらにその際、こう言われます。もし、だれかが、なぜそんなことをするのか、と聞いたら、こう答えなさい。主がお入り用なのです。またすぐ、ここにお返しになりますと。これは、もとの文をみると、「彼の主は必要を持っている」になっています。彼の主とは、その子ろばの主人、すなわち、飼い主が、あたかも主イエスの弟子たちのもとにいて、その承諾のもとに、自分の子ろばを連れに行かせたかのようです。しかし、それでは何も不思議なことではなく、あえて記すまでもなかったでしょう。
 あるいは、その主とは、神さまとも考えられます。神はすべての被造物の主であり、創り主であるからです。
 しかし、やはり、ここでは主イエスご自身のことを指して言われたのではないでしょうか。当時の世界の王は、そのような懲役権を持っていました。主イエスは、来られたメシアであり、まことの王であって、この世の王と同じように、子ろばをも必要として、召しだされるのであります。軍馬ではなく、子ろばを、しかも、まだだれも人を乗せたことのない新しい子ろばを要求なさるのであります。この世界にお出でになったまことの王にふさわしくご用とされた子ろばであります。
 わたしどもも、この世界の罪を贖うために来られたこのまことの王にご用のために、必要だと言っていただける新しいものでありたい。それは、ちょうど、十字架に息を引き取られた主イエスが納められた墓がまだだれも納められたことのない墓であったのとつながるかのようです。
 こうして、二人は、出て行くと、村に入ってすぐ、通りの戸口に向かってつないであるろばの子を見つけ、ほどいていると、そばに立っている者たちのある者たちが、そんなことをしてどうするつもりかと聞きます。主イエスの言われたとおりに言うと、彼らはそのまま、行かせてくれます。主イエスの言われるとおりに信じて、進んで行った弟子たちはその通りに事が進んで行く不思議な体験をして、戻って来ます。
 そして、主イエスのところに子ろばを連れてくると、二人は、その子ろばに自分たちの着ていた服をしき、主イエスはその上に乗られます。そして、多くの者は、自分たちの服を、その前にひろげ、また他の者たちは、野から葉の付いた枝を切って来て、しいていました。王を迎える入城の行進が、期せずして整ったのです。そして、群衆は、歓呼の叫び声を上げ、ホサナ、私たちに救いを!主のみ名によって来られる方は祝福されるように。来たるべき父ダビデの国は祝福されるように、いと高きところでは、ホサナと、期せずしてメシアの王である方イエスは、勝利のエルサレム入城を果たします。そして、急にエルサレム神殿の境内において、自らを見出された主は、もはや祭司らの歓呼は一切なく、それを見据えられた主は、夕方になったので、12人と共にベタニアへと退かれるのであります。私たちは、クリスマスを迎える前に、アドベント、主のご到来のとき、来臨(パル―シア)の王の勝利の入城に備えて、この方に用いていただけるように、心を慎ましく一年の歩みを始めたい者ものです。そして、その後に、私たちの救い主が、罪の贖い主として、2000年前にまぶねの中でお生まれになった出来事を心から祝いたいと思います。
 皆さまの新しい一年の歩みの上に、神さまの祝福が豊かにありますように!
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2014/11/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「祝福された人生を」(マタイ25:31-46)
マタイ25章31-46節、2014年11月23日、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)、エゼキエル書34章11-16節、23-24節、テサロニケの信徒への手紙一5章1-11節、讃美唱95(詩編95編1-9節)

マタイによる福音書25章31節-46節
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


説教「祝福された人生を」(マタイ25:31-46)
 
今日は、マタイ福音書と共に歩んだ一年間の教会暦の最後の日曜日です。私たち、ルーテル教会では、この日を聖霊降臨後最終主日と言っていますが、カトリック教会では、この年間最後の主日を「王であるキリスト」の主日と読んでいます。
 一年間、マタイの主だった個所を、ペリコペー、聖書日課として与えられていて、日曜日ごとに味わって過ごして来ましたが、今日はその最後の主の日です。
 マタイによる福音書では、五つの大きな、主によってなされた説教が記されていて、今日のテキストは、その五番目のしかもその最後の部分となっています。
 その五つの説教の後には、必ず、「主イエスは、これらの言葉を語り終えられて、どこそこへ移られた」などとなっており、今日の個所のあともそうなっています。
 この五番目の説教の部分は、主イエスの来臨について、終末について語っており、それに備えて目覚めて生きるようにとの譬え話などが、中に含まれています。
 今日の個所は、その中での最後の部分であり、主イエスが来臨される時の、いわゆる最後の審判について語られているみ言葉です。
 主イエスは言われました。人の子が栄光において、すべての天使たちと共に来るとき、彼は王座に座るであろう。そして、すべての民が集められるであろう。そして、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼は、彼らを、自分の右と左により分けるであろう。
 そして、その王は右側の者たちに、言うであろう。「さあ、お出でなさい、祝福された者たち、あなた方は、世界の初めから、父によって用意されているみ国を受け継ぎなさい」と。
 それは、心の貧しい者たち、あるいは、私のために迫害されている人たちは、幸いだ、天の国はその人たちの者である、と言われた主イエスの言葉を、あるいは、柔和な人々は幸いだ、彼らは地を受け継ぐであろう、という主の言葉を思い起こさせます。神の国を、あなた方、右手の者たちは、受け継ぎ、その救いの約束を享受するであろうと言われるのです。
 そして、なぜなら、あなた方は、私が飢えていたのを見て食べさせ、渇いていたのを見て飲ませ、よそ者であったときに集まってくれ、(私の仲間となってくれ)、裸だったときに、着せてくれ、病気だったときに見舞い、獄にいたときにやって来てくれたからだと」。
 その時、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ、いつ、私たちはあなたが飢えておらたのを見て食べさせ、渇いておられたとき飲ませ、よそ者であったとき、やって行き、裸のとき、着せ、病気のとき、獄におられたとき、訪ねましたか」と。彼らは、主に対して、憐れみの行為をしたという意識はまったくありません。
 そのとき、その王は、こう答えるというのです。「はっきり言っておくが、私のこの最も小さい兄弟のうちの一人にしてくれたのは、私にしてくれたことなのである」と。寄る辺なき小さい者、弟子である者、教会のメンバーの一人にした、あなた方の憐れみの行為は、いけにえではなく、憐れみを求めるために来たといわれるイエスが、それは私にした行為なのだと言われます。
 そのとき、この王は、左手の人々にも、言います。「ここから出て行きなさい。呪われた者たちよ、そして、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火へと入れ。なぜなら、あなた方は、私が飢えていたのを見て、食べさせず、渇いていたとき、飲ませず、よそ者だったとき、やって来てくれず、裸のとき着せず、病気だったとき、獄にいたとき訪ねてくれなかったからだ」。
 その時、彼らも答えて言います。「主よ、いつあなたが、飢えており、渇いており、よそ者であり、裸であり、病気であり、獄にいたのを私たちは見て、お世話をしなかったでしょうか」と。彼らは、イエスにはお世話した、ディアコニアのもとのディアコニオーという言葉ですが、奉仕するとか、給仕するという意味ですが、主イエスに対しては自分たちは仕えたと言いたいのであり、そう信じているのです。
 その時、王は、答えて言います。「はっきり言っておくが、この最も小さい者の一人に、あなた方がしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」と。
 主イエスは、最後にこう断言されています。この者たちは、永遠の罰へと出て行き、あの正しい者たちは、永遠の命へと出て行くであろうと。
 今日のこの主イエスの語られた言葉は、世の終わりのときに、人の子、すなわち、御自分が王としてお出でになる時のふるい分け、裁きの言葉でありますが、それは、現在の私たちのこの教会に、主イエスが現臨されていて語られている言葉でもあります。
 私たちが、教会の中で、小さい者、寄る辺のない者に対して、助けの手を差し伸べているだろうか、との問いかけでもあります。
 また、主イエスの言われる「最も小さな私の兄弟たちの一人」に、あるいは「この最も小さな者の一人」とは、もともと教会の弟子たち、イエスの弟子たちのことを指していますが、マタイは、イエスの福音が全世界に宣べ伝えられたのちに、人の子が来る、終わりの日が来ることを考えていましたから、寄る辺のない者たちに、憐れみの行為をしなかったのは、すべて、主イエスにしなかったことになります。
 マタイのイエスは、あなた方の義が、すなわち、神の意志に適ったふるまいが、律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国には入れないと言われます。主よ、主よと言う者が、すべて天の国に入れるのではなく、天の父のご意志を行う者が入れると、言います。
 今日の主イエスの終末についての最後のみ言葉は、私たちが、主イエスのみ言葉への信仰、キリスト信仰を受け入れるのか、それとも拒むのかの問いを、私たちに突きつけるものですが、それはまた、私たちが寄る辺のない者たちへの憐れみのふるまい、よき行いへと私たちを励ますみ言葉でもあります。
「祝福された人生」とは、私たちが、主イエスの言葉を聞いて、受け入れ、目覚めて、それを今、この時、教会の中で、また、私たちの出会う隣人との交わりの中で、行っていく道であり、それは、主イエスのように私たちもまた「小さくなり」「憐れむ者」となり、そしてまた、「小さい者に仕えていく」人生であります。
 
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。










2014/11/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「用意のできていた五人のおとめ」(マタイ25:1-13)
マタイ25章1-13節、2014年11月16日、聖霊降臨後第23主日(典礼色―緑―聖餐式)
ホセア書11章1-9節、テサロニケの信徒への手紙一3章7-13節、讃美唱90/2(詩編90編13-17節)

マタイによる福音書25章1節-13節
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


説教「用意のできていた五人のおとめ」(マタイ25:1-13)

マタイ福音書と共に歩んできたこの一年、A年の教会暦も残すところ、今日を含めて、2回だけとなりました。すぐれた文体、覚えやすい、美しい表現で、印象深い、天の国の譬えなどを、豊かに与えられてきましたが、今日の10人のおとめの譬えも、イエスさまらしい譬えであり、また、マタイらしい印象的な物語となっています。
一年の教会暦の終わりを迎えており、第1朗読のホセア書も、私はお前、イスラエルの民を見捨て得ないと、神の私どもに対する愛を語っており、神はどこまでも赦される方であり、私たちがそれに答えて、神に立ち帰ることを、神は求めておられることが示されています。
また、第2朗読も、私たちが、主の再臨に備えて、主にしっかりと結ばれているように、パウロは勧めています。特に初期のパウロは、主の再臨が自分の生きている間に実現すると信じていました。
さて、今日の福音の譬えも、主イエスは、既にエルサレムに入られて、御自身の十字架と復活を前にオリーブ山に座って語られた物語であります。
天の国は、以下の花婿を迎えに出て行った10人のおとめの事情に、譬えられると言われます。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火と共に、油を取って行かなかった。賢いおともたちは、ともし火、ランプと共に、容器に油を取っていったというのです。
具体的な情景は定かではありません。当時の婚宴の事情を、主イエスは用いられていることでしょう。
ところが、花婿が来るのが、遅れて、皆眠気を催します、そして、10人とも、眠りこんでいたのであります。そして、夜中に、叫ぶ声が起こり、花婿だ、あなた方は迎えに出ていきなさいと、呼び起こされ、おとめたちは、ともし火の用意、手入れをします。
しかし、愚かなおとめたちのともし火は、消えかかっていました。彼女たちは、賢いおとめたちに、油を譲ってくださいと言いますが、賢いおとめたちは、あなた方と私たち両方に十分はないでしょう。それより、村に出て行って、売る者たちから、自分の分を買い求めなさいと言います。
これは、愚かなおとめたちは、信仰を持っていなかったことが譬えられています。一方、賢い者たちは、信仰を持っていたことを表わしているでしょう。そして、信仰は与えることも貸すこともできないものです。私たちは、そのことをよく知っています。
さて、5人が出て行ったときに、入れ替わりに花婿はやって来て、賢い5人と宴席に入り、戸が閉められます。
後に、油を買い求めた残りの5人も戻って来て、主よ、主よ、私たちも入れてくださいと、頼みますが、花婿は、はっきり言っておくがお前たちを知らないと言われるのです。主イエスは、この譬えを、以上のように言って、それゆえ、あなた方は、目覚めておれ、その日、その時がいつなのかあなた方は知らないのだからと言われるのです。
私たちは、目覚めた歩みを、今も、主によって求められています。弟子たちは、主の再臨のときは近いと信じていました。しかし、それが今もおくれていますが、私たちは、いつ死ぬか、また、いつ主が再び来られるか、知り得ません。今できるかぎりの備えをして、あとは、今日のおとめたちのように眠るときは眠るしかないのです。
教会暦の一年の終わりのこの季節ですが、改めて、一人一人、救いと信仰を求めて励み出すときとしましょう。
アーメン。








2014/11/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「聖書全てに及ぶ教え」(マタイ22:34-40)
マタイ22章34-40節、2014年11月9日、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)
申命記26章16-19節、テサロニケの信徒への手紙一1章1-10節、讃美唱1(詩編1-6節)

マタイによる福音書22章34節-40節
 
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」





説教「聖書全てに及ぶ教え」(マタイ22:34-40)

週報に次週の説教題をのせる必要もあり、説教の1週間前には、私は福音書の原文を読みまして、そこから説教題と讃美歌を決めることにしています。
今日の題は、そこから、私は1週間前には「全聖書がかかっている教え」というふうに付けておきました。しかし、家内がそれを見て、意味がわからないと言い、自分も、今日のこの聖書の個所を読んでみて、よく分からないだろうと思いました。
それで家内は「聖書のすべてに及ぶ教え」と改めて、墨で説教題を早々と直して書いてくれたのですが、教会の掲示板の前を通る一般の市民、地域の方が、説教題を見て分かるように、ということから、毎週説教題は苦労している訳であります。
しかし、私が直接言いたかったことは、今日、マタイの福音書に出て来ました主イエスの宣言なさった終わりの言葉、「この二つの掟において、かの全律法と預言者たちは、懸っている」という言葉を、説教題で表わしたかったのであります。
さて、私たちは、マタイ福音書と共に一年歩んで来ましたが、三年サイクルのA年の教会暦ももう終わり近くなりました。
今日のみ言葉も、主イエスが、最後にエルサレムに入って、論敵たちと論争する中で語られる言葉であります。主イエスが、復活論争でサドカイ派の者たちを沈黙させたことを、聞いたファリサイ派が、一つどころに集まるのであります。
メシアに向かって、この世の王たち、権力者たちが反抗し、集まる者たちの姿が示されています。
そして、その中の一人、律法の専門家が、イエスを試みるために、質問するのであります。「先生、律法の中で、どの掟、命令が大きいのですか」、と問うて来るのであります。 
私たちにとっては、聖書と言えば、旧約聖書と新約聖書ですが、イエスの時代には、旧約聖書だけが聖書でした。その中でも、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、いわゆう創、出、レビ、民、申命記として、旧約聖書の最初に出てくるもので、モーセ五書として、古くはモーセによって書かれたと信じられ、特に大切にされ、いわゆる律法として重んじられていました。
「その中で、どの命令が大きいのですか、すなわち最も重要なのですか」と、この律法の専門家、律法学者は問うて来たのです。
私たちは、人生で色々な体験をして、聖書こそ、まことの道であると気づかされ、他には自分の頼るべき道はないと痛感させられて、教会に通うようになり、また、洗礼をも決心するに至るのですが、何がその聖書の中で、しかも特に律法の中で大事な戒めなのかと、改めて考えさせられます。
それに対して、イエスは、こう断言なさるのであります。
「あなたの主なる神を、あなたのその心の全体において、あなたのその魂の全体において、あなたのその思いの全体において、愛しなさい。これが、もっとも重要な、そして、第一の掟である。第二も、それと同等に、重要である。すなわち、あなた自身を、のようにあなたの隣人を愛しなさい。この二つの掟において、かの全律法とかの預言者たちは、懸っている、基づいている」と。
このもとの文の「この二つの掟において懸っている」という言葉は、主イエスが「十字架に懸かる」というときにも使われる言葉です。主イエスの十字架に懸かる愛を通して、神への愛と隣人への愛は、初めて完成されました。
私たちは、本来、自分を愛するように、自分の隣人、すなわち「自分のそばにいる人」を愛することはできない、自分本位の者であります。
しかし、その私たちのために、愛をまっとうし、そして、ついには、十字架の死を通して、私たちが、イエスのように、隣人を愛し、さらには、敵のためにも祈ることができる者へと変えて下さったことを、私たちは、「この二つに、全聖書は懸っている」と言われる主イエスのこのみ言葉を通して想起させられるのであります。
主イエスは、律法学者が、律法の中でどの掟が一番重要なのかと問うたのに対して、律法のみでなく、「律法と預言者たち」、すなわち、詩編や諸諸も含めて旧約聖書全体が、その権威を、この二つの愛の命令から由来し、与えられていると宣言なさったのです。
イエスは、私たち罪人にとっては、守り難い、旧約の教えである「律法や預言者たち」を廃止するためではなく、それを完成するために私は来たと言われます。
そして、私たちは、最初にも言いましたように、この後、十字架に懸られる主イエスの愛を通して、神を愛し隣人を愛する者に、すべての人を、神に似せて造られた兄弟として愛する者へと変えられます。
そして、この旧約聖書の二つの命令、教えは、別の表現で言いかえれば、箴言3章6節の次の言葉で表わされるでしょう。
「常に主を覚えてあなたの道を歩け、そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにして下さる。」
私たちは、現実には、自分のように、他人を、ましては、敵対するものを、愛することができないことを、思い知らされています。
しかし、主は、心のすべて、たましいのすべて、思いのすべてを尽くして、私たちの全人格をかけて、主なる神を愛するように、行動するように働きかけておられます。
神を愛することは、二心ではできません。
そして、あなたの神を愛することは、あなたの隣人を愛することに等しいと、私たちが毎日のふるまいや、言動の中で精一杯の行動を取るように招いておられます。
そして、マタイのイエスさまは、何よりも、私たちの義、正しいふるまいを求められるお方です。
私たちの義が、ファリサイ派や律法学者の義にまさっていなければ、天の国に入ることはできないと主は言われます。
マタイの福音書と共に歩んで来ました一年間も、そろそろ終わろうとしています。多くの、豊かな天の国のたとえや、み言葉、なさったみ業と共に歩んで来ました。そして、マタイ福音書の弟子たちは、主イエスの教えを理解することができる弟子たちであります。
私たちも、主イエスの言われる教えを悟って悔い改めながら、新しい人生を、共々に重荷も担い合いつつ、神に罪赦された者として、互いに認め合い、赦し合い、その絆を大切にしながら、歩んで行きましょう。アーメン。


2014/11/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「祝福されているあなた方」(マタイ5:1-12)
マタイ5章1-12節、2014年11月2日、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式―)、イザヤ書26章1-13節、ヨハネの黙示録21章22-27節、讃美唱(34/1、詩編34編2-9節)

マタイによる福音書5:1~12

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

   
説教「祝福されているあなた方」(マタイ5:1-12)
 
今日は全聖徒主日です。津田沼教会では、一年に二度、召天者記念礼拝をしています。全聖徒の日が11月1日ですが、津田沼教会ではバザーが11月3日にありますので、全聖徒主日には十分にもてなしができないこともあり、二度設けているわけですが、本来は今日が正式の全聖徒を覚える日であります。
さて、ここで言います聖徒とは、いわゆる聖人君子といった意味ではなく、自分が罪深い者であることを自覚し、み言葉によって歩むしかないと悔い改め、聖書によって、また、教会につながって生きたすべての信徒を指しています。
 私たちの教会ではさらに、信徒の両親や子供、伴侶などで、生前には主イエスを、罪からの贖い主として公に表明し、洗礼にまでは至らなかった方々をも、その生前の交わりを感謝し、その生涯を思い起こしながら、また、残された私たちの命について改めて深く考えるために、その遺影を持ち寄って礼拝するときとしています。
 さて、今日の第1の朗読、イザヤ書26章では、イザヤは、バビロン捕囚後の城壁の再建を預言していますが、その中で神に従う人の道は平らですと主なる神に対する信頼と感謝を語っています。
 また、第2の朗読のヨハネの黙示録21章の個所では、記者はもはや都の中に神殿を見なかったと記し、全能者である神と小羊とが神殿だからと言い、キリストの体が神殿となると預言された主イエスの言葉が思い起こされます。また、全世界の民が都にやって来るが、小羊の命の書に名が書いてある者だけが中へ入れると、私たちを目覚めさせ、清い生き方へと招くみ言葉となっています。
 さて、今日の福音は、マタイ福音書5章1節から12節です。これは、山上の説教と呼ばれる5章から7章の始まりの部分となっています。ガリラヤ周辺の方々から集まった群衆を癒した後、彼ら、群衆を見ながら、主イエスは山に登って、座ると弟子たちが近づいて来たので、主は口を開いて、この説教を語り始めるのです。
「幸いなのは、以下の者たちだよ、なぜなら、・・だからである」という美しい文体となっており、その幸いな者たち、あるいは祝福された者たちが8つ、ないし9つ出て来るので、8つの幸いとか9つの至福とか言われます。
 主イエスを信じて、生涯を終えた人とは、まさに、今日の主イエスの語られる8つの幸い、9つの幸いで言われている人たちではないかと思います。
 最初に、「心の貧しい人たちは幸いである、天の国は彼らのものである」と出て来ます。この心の貧しい人たちとは、もとの文では「霊でもって物乞いをする人たち」であり、次の悲しんでいる人たちも、柔和な人たちも、同じように、窮状の中で、神に頼るしかない、他に手段を持たない人たちであります。
旧約聖書の詩編の中でも、貧しい人が神に訴え、その願いが聞かれることが記されており、貧しい者たちとは、聖書では言い換えると敬虔な人たちでもあります。
 貧しい人、踏みにじられている人、圧迫されている者たちに、主イエスがお出でになられ、この言葉を語られている時、今や、天の国、神の支配が既にあなた方のものであると、主イエスは約束され、宣言されているのです。
 祝福されているのは、嘆き悲しんでいる者たちだよ、なぜなら、彼らは神によって慰められるだろうから。祝福されているのは、柔和な者たち、すなわち、心砕かれた、窮状にある者たち、なぜなら、彼ら、あるいは、あなた方は、地を受け継ぐ、新しい世界を受け継ぐだろうから。
また、義に飢え渇く者たち、自分の力ではファリサイ派にまさる義を行えないと、嘆いている者たちは、神によって満ち足らせられるであろうと主イエスは励ましています。
 後半へ移ると、憐れみ深い者たち、あるいは、平和をもたらす人たちは、それまでの者たちよりは、能動的な態度を示していますが、彼らは、神によって憐れまれ、あるいは、神の子たちと呼ばれようと約束されています。
しかし、彼らも、自分の達成や才能によってではなく、恵みによって、そのような者なのです。
 心の清い者たちは、祝福されている、なぜなら、彼らは神を見るであろうと言われています。神を見た者は死ぬると旧約聖書では信じられていました。しかし、主イエスは、心の内側から、清められた者たちは、神を見いだすであろうと約束されます。
 そして、祝福されているのは、義のために迫害されている者たちだよ、「なぜなら、天の国は彼らのものだから」と、同じ言葉で再び囲んでいます。
 最後の8福、9福は、「あなた方」と変わります。そして、彼らが私のために、あなた方を非難し、迫害しあなた方に対してあらゆる悪口を、嘘をつきながら言うとき、幸いだというのです。そして、喜べ、大いに喜べと言われ、なぜなら、天におけるあなた方の報いは大きいからと、言われ、なぜなら、そのようにあなた方の前の預言者たちに対しても、彼らは迫害したからだと言われるのです。
 主イエスのゆえに、あるいは、義のために、ののしられ、迫害されることが、主イエスの弟子たち、あるいは、マタイの教会の人たちには随伴していました。そして、それは現代に至っても、キリスト者にとって、形こそ違え、同じことが言えるでしょう。
 今日覚えているすべての聖徒の人たちは、今日イエスが語られる一つ一つの言葉によって励まされ、希望を見出していった人たちであります。そして、今生かされている私たちも、同じように、私たちを窮状から救ってくれる神により頼みつつ生きるしかないことを知らされている者であり、主イエスによって、「あなた方は幸いだ、祝福されている」と招かれている一人一人であります。私たちは弱く罪深い者ですが、先人たちの生涯を思い起こしながら、日々励まされつつ、聖書のみ言葉によって歩んで行く幸いを共々に確認したいと思います。アーメン。
2014/11/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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