津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪からみ子により自由とされて」(ヨハネ8:31-36)
ヨハネ福音書8章31-36節、2014年10月26日、宗教改革主日(典礼色―赤―聖餐式)、エレミヤ書31:31-34節、ローマの信徒への手紙3章19-28節、讃美唱46(詩編46編2-12節)
 
ヨハネによる福音書8章31-36節
 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」




説教「罪からみ子により自由とされて」(ヨハネ8:31-36)

私たちは、今日、宗教改革を覚える礼拝に集まっています。そして、一人の兄弟がこの礼拝の中で洗礼を受けることになっています。
さて、言うまでもなく、宗教改革は、1517年10月31日、すなわち、全聖徒の日の礼拝に合わせて、ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に、免罪符あるいは贖宥状に反対して「95カ条の提題」を張り付けたのが、発端となったのです。私たちは、宗教改革500年祭を2017年に控えていますが、改めて、マルティン・ルターが取り戻した信仰の原点であります「信仰のみによって義とされる」との聖書の真理に立ち帰ってみたいと思います。
さて、今日の第1朗読は、エレミヤ書の新しい契約をあなた方の心に記すというエレミヤが受けた主からの預言の言葉でした。かたくなな民であるあなたたちの罪を思い返さず、あなたたちの赦すという主なる神のみ心の預言であります。いわば、新約の預言とも言えましょう。
次に、第2の朗読のローマの信徒への手紙では、律法を私たちは果たすことができず、それは、私たちの罪を思い起こさせ、私たちを絶望させる働きを持つものだが、そこにキリストがお出でになって、この罪なき完全なお方が私たちの罪の償いを果たして下さり、私たちは、律法の行いによるのではなくて、今や信仰の法則によって義とされるにいたったというものでした。
さて、今日与えられている福音は、ヨハネ福音書8章31節から36節の短いくだりであります。ヨハネ福音書は、ユダヤ人たち、特にファリサイ派たちからの迫害の中で、キリストへの信仰を捨てないようにということが意図されて書かれているものであります。
今日の個所も、ユダヤ人たちとの激しいやり取りのなかで、語られた言葉であり、イエスのみ言葉を聞いて、大勢が信じたとあり、それに対して、そのイエスを信じたユダヤたちに向かって、改めて語り出されています。
主は言われます。「私の言葉にあなた方がとどまるならば、あなた方はまことに私の弟子であるだろう」と。そして、「真理はあなた方を自由にするであろう」と続けて言われています。これを、聞いて、彼らは、どうして、あなたは、私たちが自由でないと言われるのですかと、反論し始めます。
そして、「私たちは、アブラハムの子孫、種であるといい、かつて、だれかの奴隷になったことはない」と言い張るのです。ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫であることを、誇りにし、自分たちは救いを約束されていると、ローマ帝国の支配下にあっても信じていました。
しかし、それに対して、イエスは、「私はあなた方によくよく言っておくが、罪を行う者は、罪の奴隷である」と父なる神のもとから遣わされた自分を拒む者を、また、この闇と死の世界にあって隷属している私たちの状態そのものを、罪の奴隷と言われるのであります。
しかし、闇は、光を憎むので、受け入れることができないのであります。主イエスは、この世の闇を照らすまことの光であります。そして、偽りではなく、真理として、この世に来られた方であり、私たちを罪の奴隷から、命と真理へと導くために、父のもとから遣わされ、父の命ずるとおりに、行い、語られるお方であります。
主は、次に、短い譬えを用いて言われました。
「奴隷は、一家の中に永遠にとどまるものではない、子が永遠にとどまる」と。相続人、息子が家を継ぐのであり、それは、旧約聖書においても、しもめハガルとイシマエルが、サラの願いによって、アブラハムとイサクの家から追い出された通りであります。
そして、父なる神のもとから遣わされた息子、独り子イエスが、すなわち「子があなた方を自由にするならば、あなた方は本当に自由な者となるだろう」と、主は言われます。
私たちを、死と暗黒の罪の状態から自由な、命と救いへともたらしてくれるのは、この息子であります。このお方のみ罪なく、まことの光として、この世界に遣わされた方であります。
しかし、かたくななユダヤ人たち、特にファリサイ派の者たちは、イエスを拒みました。なぜなら、彼らは、アブラハムを父として持っていたのではなく、悪魔を父としていたからであり、悪魔は、創世記の始めに出て来る通り、アダムとエバをだましたように、偽り者であり、人殺しであるからです。
私たちは、今日、宗教改革を覚えて、み言葉に耳を傾けています。ルターは、1520年の著作「キリスト者の自由」で、私たちはキリストを信じる信仰のみによって義とされており、すべてのものの上に王であるが、また、すべての人に対して仕える僕であると宣言しています。そして、すべてよい木がよい実を結び、悪い木が悪い実をもたらすように、まず信仰、よい人格を求めねばならないのであり、そこからよい行いも出て来ることを強調しています。
よい行いによって救われようとするのではなく、神から遣わされた独り子キリストを信じる信仰によってのみ、私たちは悪魔を滅ぼすことができると言います。それだけで、私たちは、既に救われているのでありますが、私たちは、その後も、自分の生涯が続く限りは、この世で人々と関りながら生きて行かなければなりません。
そこで、キリスト者は、すべての人に仕える僕であるという矛盾するようなルターのキリスト者の自由の第二の命題が出て来るのです。
そして、そこから、私たちは隣人たちに奉仕し、人々と交わり、助ける小さなキリストとして、一人一人この世に遣わされていくのだと「キリスト者の自由」と喜びを語っています。
今日、これから一人の兄弟の洗礼式が行われますが、私たちは、この兄弟を通して始まる神のみわざに目をとめ、また、自分たちの洗礼をも思い起こし、宗教改革を覚える特別の礼拝の日を教会の新たな歩みの時として、この場から出ていきたいと思います。
アーメン。



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2014/10/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「み国にふさわしい実を結ぶ新しい民」(マタイ21:33-44)
マタイ21章33-44節、2014年10月19日、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―聖餐式)、イザヤ書5章1-7節、フィリピの信徒への手紙2章12-18節、讃美唱80(詩編80編8-16節)
 
マタイによる福音書21章33-44節
 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものとしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にはこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」




説教「み国にふさわしい実を結ぶ新しい民」(マタイ21:33-44)
  
マタイ福音書と共に歩んで来た3年サイクルのA年の教会暦も、あと1カ月ほどとなりました。今日の福音書の譬え話は、既に主イエスがエルサレムに入城なさってからのものであります。
 さて、今日の第1の朗読、イザヤ書5:1-7は、今日の主イエスのなさった譬えのもとになっている、神の民イスラエルをぶどう畑に譬えたイザヤの預言であります。神は、このぶどう畑を手をかけて世話したのに、実ったのは酸いぶどうの実であったと言われます。そして、神は、このぶどう畑のために、私がしなかったことがあるかと言われ、このぶどう畑を荒らされるのにまかせる、すなわち、私の民イスラエルを見捨てると預言されているのであります。
 第2の朗読、フィリピ書2:12-18では、使徒パウロが、自分の立てたフィリピの教会の人々に、いつも従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさいと励ましています。そして、何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい、そうすれば、よこしまな曲がった時代の中で、神の子として、命の言葉をしっかり保てるでしょうと述べて、自分の労苦も無駄でなかったとキリストの日に誇れるでしょうとフィリピの人々に信仰に固く立ち、礼拝に集い、たとえパウロの血が注がれるとしても、パウロと共に喜ぶように勧めています。
 それに続く今日の福音は、マタイ21:28-22:14の3つの譬えの2番目のものであり、ここでは、一家の主人のその息子が送られ、殺される点が際立っています。主イエスは、ここで、以下のように譬えを語られました。
 ある一家の主人が、ぶどう園を作り、垣でおおい、ぶどう酒の搾り桶を掘り、真ん中に見張り櫓を建て、農夫たちに貸して、旅に出た。そして、その収穫の季節が近づいた時、その収穫、果実を受け取ろうと、僕たちを送ったのであります。
 しかし、その小作人たちは、ある者を袋だたきにし、ある者を殺し、ある者を石打ちにして殺した。さらに、主人は、より多くの僕たちを送ったが、小作人たちは同様にふるまった。それで、主人は、自分の息子なら、敬ってくれると確信し、送るのですが、小作人たちは、これを見て、これは、跡取りだ、これを殺して相続財産を我々が持とうと言って、ぶどう園の外に追い出して、殺した。それでは、ぶどう園の主人は、僕たちをどうするだろうかと、主イエスは語られたのであります。
 これは、主イエスが語ったのではなくて、後の教会がそう言わせたのだろうと考える人もいます。しかし、主イエスは、御自分の受難と死について、これまでにも、何度もはっきりと予告し、自分がどのような死を遂げるか知っておられました。今日のこの譬えを、生前の主イエスがこのように語ったということは、十分考えられるのであります。
 彼らは彼に語ります。主人は、悪い小作人どもをひどい目にあわし、殺すだろう、そして季節ごとに果実を治める他の小作人たちに貸すだろうと。
 すると、主イエスは彼らに語ります。あなた方は、まだ、この聖書の言葉を呼んだことがないのか、すなわち、家を建てる者たちの捨てた石、それが、隅の親石になった、それは、主から成ったことで、我々の目には不思議に見えるとの詩編118編の言葉を引用するのであります。
 そして、だから、言っておくが、神の国は、あなた方から取り去られ、それにふさわしい実を結ぶ新しい民に与えられようと断言します。そして、その石に向かって落ちる者は、こなごなになり、その石がだれかに向かって落ちれば、それは、その人を打ち砕くであると言われるのであります。
 この息子は、救われる者にとっては救いの石であり、ユダヤ人の指導者たちにとっては、躓きの石なのであります。
 ユダヤ教の指導者たちは、神の遣わした息子イエスを、山師、偽医者としか見ませんでした。主イエスは、イスラエルのもとに遣わされましたが、イスラエルは、彼を拒みました。それで、新しい実を結ぶ民、すなわち教会に神の国は与えられると言われるのです。それは、ユダヤ人と異邦人からなる、神の国と神の義を求め、義という実を結ぶ新たな神の民であります。
 その、主イエスが預言されている新たな民とは、私たち教会の一人一人であります。ファリサイ派にまさる義のふるまいが、私たち一人一人に求められているのであります。私たち、一人一人の信仰は、まことに弱いものでありますが、尊い神の独り子の十字架の死を通して、私たちは、この新しい民の一員へ招き入れられているのであります。救いを、この世界へ宣べ伝える器として、よき実を結ぶ者とされたいものです。アーメン。

 







2014/10/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)内海望牧師
マタイ20章1-16節、2014年10月12日、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)、イザヤ書55章6-9節、フィリピの信徒への手紙1章12-30節、讃美唱27(詩編27編1-9節)
 
マタイによる福音書20章1-16節

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者来た者まで、順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」



説教「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)内海望牧師

 今日の福音書の日課を読んだ人は、一様に戸惑いの表情を浮かべるに違いありません。「わからない」というのが率直な感想でしょう。ある人は「不公平だ」と言って怒り出すかもしれません。私たちの生きて行く根拠が揺さぶられる思いをするに違いありません。朝早くから、まる一日、11時間、暑い中を辛抱して働いた人と、たった1時間しか働かなかった人との報酬が同額だというのは、この世の秩序を乱すものとしか思えません。聖書は、時として私たちを唖然とさせ、真正面から私たち人間の現実をゆさぶって来ることもあるのです。生涯聖書を読み続けた小河国夫さんの遺稿集のタイトルは、「襲いかかる聖書」でした。
 分かるような気がします。
 先ずこのたとえで、主人から声をかけられた人々は皆、その呼びかけに従ったという点は大切です。誰ひとり断らなかったのです。皆、正しいスタートをしたのです。
 加えて、もう一つ注意して頂きたい点があります。それは、この箇所の直前に、ペトロがイエスさまに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるでしょうか。」と質問しています。(19:27)今日のたとえは、ペトロたち、弟子たちに対する答えでもあったのです。
 ペトロが「何もかも捨てて従った」ということは事実でした。4章をみると、イエスさまの呼びかけに対して、ペトロは、「すぐに、(生活の基盤である)網を捨てて、」イエスさまに従ったと書かれています。称賛すべき決断でした。同時に、ペトロは、すべてを捨てても構わないほど救われて天国に入ることを渇望していたと言えましょう。最近、疫病が人間の歴史に大きな影響を与えたということが分かって来ました。古代から、人々はいつも疫病で死ぬことを恐れ、死と隣り合わせに生きていたのです。呪われた死ほど恐ろしいものはなかったのです。どうしても天国に安らぎたいというのは現実的な願い、祈りであったのです。それが、ペトロたちを決断させたのです。しかし、その努力を無意味にするかのようなこのたとえを聞いて、ペトロもあの最初に招かれた労働者と同じような怒りを覚えたことは容易に想像されます。
 最初の労働者の反応は、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれているたとえの兄息子の怒りと同じだったでしょう。老いた父親を捨て、放蕩三昧な生活をつづけた挙句、尾羽打ち枯らして帰って来た弟。その弟のために父親が喜びの宴を張ると聞いて、兄は激しく怒り、家に入ろうともしなかったのです。
 私たちも、朝早くから働いている労働者が、「最後に来たこの連中は1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするのですか」と主人に食って掛かるのも当然のように感じられます。聖書が真正面から、私たちの現実にぶつかって来るというのはこの事実を指します。
 私は、ここでルターを思い浮かべます。ルターもペトロと同じ出発をしました。エルフルト大学法学士という前途洋々たる生の基盤を捨て、父親の烈しい怒りにも逆らって、修道士となりました。彼を駆り立てたのは、何よりも、「救われることの確かさ」を得たいという願い、祈りでした。神さまの裁きを受けて永遠の滅びに決せられるかもしれないという不安、恐怖が、何とか「私は確かに救われた」「天国が与えられた」という証拠を求めさせたのです。ペストが猛威を振るっていた中世ヨーロッパの時代でしたから、ペトロ以上に呪われた死への恐れは深かったでしょう。ルターは、救われるためには、神さまから命ぜられる善い業を行い、それを積み重ねることによって得られると信じて修道院に入ったのです。それほどの決心をしたのですから、修道院でのルターの努力は、それこそ血のにじむようなものでした。しかし、徹夜の祈りも、ざんげも、罪の償いのために課せられた苦行も何の役にも立たないことを思い知らされたのです。罪から逃れられない自分の発見でした。
 それは、常に自己本位、自己中心に傾く自己の発見でした。「祈る時でさえ、自分の利益を考えている自分」の発見です。神さまより自分を大切にする、「自己を神とする」、拭ってもぬぐっても、消すことの出来ない自己絶対化です。罪の深淵を見たとも言えます。「私の罪、私の罪!」と胸をたたき、絶望に陥ってしまったのが修道士ルターでした。パウロの、「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・・私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。」というパウロの絶望の叫びと同じ呻きをルターもあげたのです。(ローマ7章18節以下。)
 しかし、まさにその時、つまり、救いを自分の努力で獲得しようという人間の計画が崩れ落ち、無となった時、ルターは、イエス・キリストの十字架の愛に出会ったのです。死すべき罪人である私に、私の外側から差し伸べられている救いの御手に気づいたのです。「私の力で救いを獲得する」という道に絶望した時、罪人を赦すためにご自分の命を捨てられたイエス・キリストの御手に出会ったのです。ここにおいて、死ではなく、永遠の命への道が開けたのです。ルターは、この喜びを、「戸は私に開かれた。私は天国そのものに入った。全聖書も私に対して別の姿を示した。」と語っています。私たちを戸惑わせ、襲いかかって来るような聖書ではなく、福音の喜びに満ちた聖書が見えたのです。
 これが、最後の者にも憐れみ深く、思いやりに(「気前の良さ」の意味)満ちた手を差し伸べるイエスさまの愛なのです。「最後の者」という言葉には切迫感があります。当時の時間の数え方によると、午後5時は、11時です。12時が終わりの時です。従って、まさに天国の戸が閉まる直前、滅びに陥る直前、と考えることも出来るでしょう。この聖書から取って、英語の熟語では「11番目の時間」は土壇場で」「きわどい時」を意味します。ルターが「戸が開かれた」という時、この最後の者である滅ぶべき罪人である自分も救われた、「間に合ってよかった」というなにものにも変えられない安心感、救いの確かさを味わったことでしょう。
 ルターと、最初の労働者、ペトロ、兄弟子との違いはどこから来るのでしょうか。
 最初の者は、自分の行った業を数え上げ、それを積み上げ、それに対する報酬を求めることに夢中になっていて、真実の自分から目を逸らせていたのです。あるいは、本当の自分自身との出会いを恐れ、神さまからも、そして自分自身にも罪人である自己を隠し、自分の行いで自己を飾り立て、善い業が少ない者を下に見ながら、(軽蔑しながら)生きていたとも言えましょう。私たちの心の奥底にも、確かにこの暗い思いが潜んでいるのを否定できません。
 既に述べたように、最初の労働者も、ペトロも、ルターも主人の呼びかけ大きな犠牲を払って従ったのです。正しく出発をしたのです。しかし、最初の労働者、ペトロには自分たちが、実は、危機的な最後の者であることに気付かなかったのです。先週のたとえで言えば1万タラントン赦してもらったことに気づかなかったのです。いや、その借金にすら気づかなかったでしょう。そして、最後の者より高く払えと口から泡を飛ばして主人に詰め寄る人間になってしまったのです。
 大胆に罪を認め、大胆に悔い改める力が必要です。「大胆に」と言うのは、自分の本当の姿を見たくないのが人間の本性ですから、「私は罪人です。赦して下さい。」と悔い改めるには勇気がいるのです。
 ルターは、「偽者でなく、本物の罪人になりなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。そして本物の恵みを受けなさい!」と手紙で若い同僚のメランヒトンに励ましています。目を逸らさずに大胆に罪人であることを告白する時、本物の恵みが見えて来るのです。これは確かです。これこそ、きわどい所に立った最後の者であると自覚したルターが経験した福音の発見だったのです。
 私たちも、大胆に自分のすべての罪を告白した時、「この最後の者にも憐れみを与えたいのだ」というイエスさまのみ言葉を、今日、私たちに与えられた喜びのニュース、福音として聞くことが出来るでしょう。共に、このみ言葉を大胆に信頼しましょう。たとえ、私たちが、最初の労働者であろうと、ペトロであろうと、兄息子であろうと、今、本物の罪人として、本物の恵みを信じる時、取り成しと、赦しの恵みが与えられるのです。

 ルターはこんなことを言っています。「神さまの本質は、我々から何かを取ることではなく、良きものを与えたもうということである。」、だから「恵みの父なる神は、我々が感謝しなくても驚きたまわない。ますます我々のために尽くし、すべての善を我々になしたもう。たとえ、私たちが現在、どんな罪人であろうとも、私たちに恵みを豊かに与え続けてくれるのが神さまの愛だ」というのです。
 少々、甘えすぎにも思えますが、きわどい時を生きる最後の者として、私たちも、神さまの前に、偽者の罪人でなく、本物の罪人として、正直に立ち、日々大胆に悔い改め、もっと大胆に、日々与えられる赦しの恵みを感謝し、本物の平安を得、喜びと希望に満ちた日々を歩んで行こうではありませんか。


2014/10/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「罪赦された者として生きる」(マタイ18:21-35)
マタイ18章21-35節、2014年10月5日、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―聖餐式)、創世記50章15-21節、ローマの信徒への手紙14章1-18節、讃美唱103(詩編103編1-13節)
 
マタイによる福音書18章21-35節

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


説教「罪赦された者として生きる」(マタイ18:21-35)
 
今日の第1朗読の創世記の記事は、エジプトに売られたヨセフが、父ヤコブなき後、不安になって遣いを寄こした兄たちを、改めて赦すという記事であります。それも、神がなさったことであり、神は兄たちの行った悪を善に変えられたとして、エジプトでファラオを助ける大臣になったヨセフは、飢饉で頼って来た兄たちを、心から赦し、あなたたちとあなたたちの子供を今後養うと約束しています。限りない赦しという点で今日の福音のテーマとつながっています。
 第2の朗読、ローマ書14章のパウロの言葉も、信仰の弱い人を受け入れなさいと、始まっており、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか、侮るのですかとあり、もう互いに裁き合わないようにしようと言っており、自分のしもべ仲間を赦さない福音書の主イエスの譬えと関連するものとなっています。
 さらに今日の讃美唱、詩編103編1-13節も、主はお前の罪を赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出して下さると歌っています。
 さて、今日の福音は、マタイ18章21節から35節までであります。このところ、今日まで3回にわたって、18章が読まれてきました。18章は、教会内の生活、共同体生活に関わるものであります。
 マタイ福音書は、最初の福音書、マルコの福音書の弟子たちとは、違って、主イエスの教えを正しく理解することのできる弟子たちが描かれています。また、マタイの弟子たちは信仰がない、驚いてばかりいるようなマルコ福音書の弟子たちではなくて、信仰の薄い弟子たち、すなわち、信仰は持っており、ただ、その信仰が小さい弟子たちであります。それで、マタイ18章の始めでも、弟子たちは、イエスのところに来て、天の国では、だれが一番大きな弟子なのかと質問しています。
 主イエスは、天の国では、子供のように心を低くする者が一番偉いし、そのような者にならなければ、天の国には入れないと戒めています。そして、私へと信じる小さい者を躓かさないように、軽んじないようにと、厳しく警告しておられるのであります。
 さて、マタイ18章は教会内での生活、私たち弟子の相互のあり方を扱っています。そこでは、だれも、自分を絶対化することはできないのであります。そして、それはマタイの教会から、2000年経った私たちの教会においても同じことが言えます。
 先週のところでは、罪を犯した兄弟を訓戒し、どうしても聞かない場合には、教会に申し付け、それでも、駄目な場合に、その兄弟を異邦人か、徴税人のようにみなして、教会から除外しなさいとまでありましたが、そこでもだれも、自分を絶対化することは認められていないのです。
 今日の個所、マタイ18章21節から35節は、そのことを、改めて私たちに自覚させ、思い起こさせてくれます。
 ここでも、ペトロが12弟子を代表して質問します。「主よ、兄弟が何度も私へと罪を犯した場合、幾度赦せばよいのでしょうか、7回でしょうか」、と。当時は、三度か、四度、赦せば足りるとラビたちは考えていました。ペトロはそれに対して、7回という完全数を持ち出して尋ねたのですが、主は、「私は7回とは言わない、7の70倍までである」と答えられます。これは、創世記4章の、「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」が背景にあります。神が、レメクの命の保護のためには、無限の復讐をして守ると言われたのに対して、主イエスは、あなたの兄弟の罪をどこまでも限りなく赦すようにと言われます。
 そして、主イエスは、天の国は、以下の王である人の事情に、たとえられると語られました。すなわち、その王は、自分の僕たち、家臣たちと清算を始めたと。それは、王と地方総督か、大地主と相当富裕な農業労働者が考えられていたかもしれません。
 ところが、1万タラントンもの負債が発覚したある家臣、しもべが、連れ出されてきて、主人は、そのしもべに、自分も、妻も子も、財産も売って、返済するように、命じます。家臣・しもべは、「辛抱して下さい、すべて返しますから」とひれ伏しながら、跪いていました。1タラントンは、6000デナリオン、その1万倍ですから、今の日本円にすれば何億円、何兆円にもなります。主人は、そのしもべを見て、腸がうずく思いとなって彼を許し、その借金を帳消しにし、免じてやりました。
ところが、彼は自由の身となって出て行くと、100デナリオン、貸しのあるしもべ仲間に出会い、捕まえ、喉を絞めて、「あなたの借りを返せ」と迫ります。彼は、「待ってくれ、返すから」と言いましたが、その無慈悲な家臣は聞こうとせず、借金を返すまでと、牢に投じます。
 これを見ていたその僕仲間たちは、起こった出来事に心を痛め、あるいは、怒りを覚えてとも訳せる原文ですが、事の一切を主人に明らかにします。
主人は、怒って、彼を呼び出し、お前が願ったので、憐れみ、借金を帳消しにしてやったのではないか、だから、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったかと、言って、借金を返すまでと獄吏、拷問吏に引き渡します。
 そして、主イエスは「あなた方も、めいめいが、心からその兄弟を赦さないなら、私の天の父も同じようになさるだろう」と、弟子たちに警告しているのであります。
 神は、私たちが御前において返すことのできない大きな罪を帳消しにして赦して下さいました。私どもは、それを洗礼において確認し、表明した者であります。しかし、その恵みに生きることを忘れて、兄弟の罪を赦さず、裁くとき、さすがの神も、その恵みを取り消され、私たちが、父なる神との絆に生きるために戻って来るまでと、この苛酷な獄吏に引き渡し、赦されないのであります。
 マタイ福音書のイエスは、天の父が完全であるように、私たちも完全であることを要求され、「私たちに借りのある人を赦したので、私たちの借りをも赦してくださるようにと」祈るよう、教えられ、私たちの義、ふるまいが律法学者の義にまさるものでなければ、天の国に入ることはできないと断言されるのであります。-
私たちが、教会内で、兄弟に対して、天の父によって罪赦された者として、赦しに生きるように願われ、私たちが自分を絶対化してはならないことを教えられるのであります。父なる神から、罪を帳消しにされた者であることを、思い起こし、兄弟をどこまでも赦し、同じ父の赦しの絆の中で生かされる者とされたいと思います。アーメン。


2014/10/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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