津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「戒め、赦し、心を合わせる」(マタイ18:15-20)
マタイ18章15-20節、2014年9月28日、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)、エゼキエル書33章7-9節、ローマの信徒への手紙12章19-13章10節、讃美唱119/4(詩編119編25-32節)
 
マタイによる福音書18章15-20節

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」



説教「戒め、赦し、心を合わせ」(マタイ18:15-20)

今日の第1の朗読のエゼキエル書の記事には、「あなたは悪人に、その道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のために死んでも、私は、その血の責任をあなたに問う」という神の、エゼキエルに対する厳しい命令とも受け止められる言葉が記されています。
悪人が罪から立ち帰るように、預言者は戒める責任を負わされているという点で、今日の福音の記事につながっています。
 次に第2の朗読は、このところ、ローマの信徒への手紙が通読されていますが、パウロは、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさいとあり、悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と奨めており、復讐心から、行動するのではなく、愛し合うことから、生活を整えて行くようにと奨めています。
さらに、今日の讃美唱、詩編119編25節から32節のうちの27節には、詩人が神に向かって「あなたの命令に従う道を見分けさせて下さい」と願う言葉があります。
さて、今日の福音はマタイ福音書18章15節から20節の短い個所ですが、マタイ18章は、弟子たちが、だれが、天の国では一番偉いのですかと質問したのに対して、主イエスが教えを、説いたもので、教会内で小さい者、それは劣った者や弱い者を直接には意味しますが、ここでは、主イエスの弟子一般、私たちの仲間一人一人をも指しており、18章全体にわたって、教会生活について述べた講話となっています。
先週の18章1節から14節では、これらの小さい者たちのうちの一人でも、滅びることは、あなた方の天の父のご意志ではないと、終わっており、山にいる、ある意味では教会にいる99匹の羊をおいても、迷い出た1匹の羊を捜しに行く羊飼いに、天の父をたとえています。
また、今日の福音の続き、来週のマタイ18章21節から35節では、ペトロが、兄弟が私へと罪を犯す者を、何回まで赦せばいいのかとのペトロの質問に対して、7の70倍まで、無限に赦しなさいと、教えられ、天の国のたとえとして、1万タラントン、借金のある家来を赦した王である人と、100デナリオン、借りのあった仲間を赦さなかった家来の譬えが、続いて、私たちが神から、この上ない赦しを受けた者であり、その私たちが、仲間に対していかにあるべきかが問われています。
そして、それに対して、その間に置かれた今日の個所は、教会の戒規あるいは、懲戒に関する主イエスの御言葉であります。この中で、先だってのマタイ福音書16章18節と同じく、「教会」という言葉が出て来ます。4つの福音書の中では、この2か所にしか、教会という言葉は出て来ないので、今日の箇所は、生前のイエスが語った言葉でなくて、後の時代になって、主イエスの言葉としてマタイ福音書の編集者によって書き加えられたものではないかという疑問があります。
しかし、主イエスがお生まれになったときに、「この方はインマヌエルの方、神が共におられる方」と呼ばれており、「この子は民を罪から救う」と約束されており、また、マタイ福音書の終わりでも、復活の主が、弟子たちに対し、「私はあなた方と終わりまで、共にいる」と宣言されて、終わっています。
ですから、今日の個所も、少なくとも、復活の主イエスが、弟子たちと共にいて、マタイ福音書の教会で生きるその時代に生きる教会員に対して、今も共におられる方の言葉として自ら保証してくださっている言葉であるということは言えるのであります。
主イエスは、まず、あなたの兄弟が、あなたに対して罪を犯したなら、出て行って、彼と二人だけのところで、「戒めなさい」と、言います。これは、光にさらすとか、明るみに出すとも訳すことができる言葉です。まずは、二人だけのところで、愛をもって、自分に対して罪を犯した兄弟を正しなさいというのです。これは、考えてみますと、私たちにとって一番難しく、勇気を必要とする主イエスの促しの言葉であります。
そして、もし彼が聞き入れたなら、あなたは、彼を獲得したことになる。すなわち、神の国へと、いわば、迷い出ていた兄弟を、教会との交わりへと回復したことになるというのです。
これは、簡単なようで、実際には、私たちにはなかなかできない、罪を私に犯した兄弟への対応のあり方であります。自分のうらみとか、怒りから、そうするのではなく、愛情をもって、兄弟の罪を話し合うことが、このイエスの促しには、前提とされているからです。
さて、もし、それでも、彼が聞き入れられなかったなら、あなたは一人ないし二人を伴いなさい、すべての事柄は、二人ないし3人の証言によって確立されるためであると、第二段としては、申命記などにある裏付けによって、次に取られるべきふるまいが記されています。その過程で、同行した者により、よい知恵が出されたり、罪を犯した兄弟も、考え直して納得することも、起こりうるからであります。
第3に、それでも、聞き入れない場合には、あなたは教会に申し出なさい。しかしそれでも、兄弟が聞き入れなければ、その時には、その兄弟を異邦人あるいは徴税人ででもあるかのように、扱いなさいと言います。すなわち、こうして始めて、教会の交わりの外にある者として、教会員としての交わりを絶つことも認められると、言うのです。
そして、以上の手続きを踏むことが許され、場合によっては、その兄弟の除名まで認められる裏付けとして、教会員の一人一人に向けて、すなわち、教会に向かって、主は以下のように保証され、その根拠を、主は述べられます。
すなわち、はっきり、私は言っておくが、あなた方が地上でつなぐことは、天でもつながれてあり、あなた方が地上で解くことは、天でも解かれてある。私たちが、教会で、禁じたり、赦したりすることが、神のもとでも、同じように認められる。私たちの決定が神の決定でもあると言われるのです。そして、それはまた、教会共同体においては、主イエスへと信じる小さい者が一人も滅びることがないためであります。教会における「小さい者」が躓くようなことを防ぐためであるというようなはっきりとした理由が必要なのです。
そして、更に主は、私たちの決定を保証して、こう言われます。
あなた方のうちの二人が、この地上で「心を合わせる」ならば、これは、シンフォニーという、「音を合わせる」という言葉ですが、二人がすべての問題について同じ思いで願うならば、彼らに、天の父から、それはその通りに実現するだろうと約束されます。
そして、最後に、「なぜならば」、二人ないし三人が、私の名に向かって、集まるところには、私もそこにいるからであると言われ、主イエスが、これらの手続きに従って、罪を犯した兄弟を、正しくいさめることを、教会員である私どもに、委託しておられるのであります。それは、あくまでも、主イエスへと信じる小さい者たちが、教会にあって守られ、教会から離れることなく生かされていくためであります。
私に対して、罪を犯した兄弟を回復し、また、小さい者たちの命が守られるために、私たちは、時に応じて、兄弟をいさめ、その罪を明るみに出す責任もお互いに担っているのであります。
主の体である教会のメンバー、一人一人が、主イエスにとって、何ものにもまして尊い存在であることを、私たちは今一度かみしめたいと思います。

人知では測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


スポンサーサイト
2014/09/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「心低く、躓かせず、小さき者と共に」(マタイ18:1-14)
マタイ18章1-14節、2014年9月21日、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書15章15-21節、ローマの信徒への手紙12章9~18節、讃美唱65(詩編65編2~14節)
 
マタイによる福音書18章1節~14節

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」


 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつかずかせるから不幸だ。つかずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つ目になっても命にあずかる方がよい。」

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」




説教「心低く、躓かせず、小さき者と共に」(マタイ18:1-14)

今日の第1朗読、エレミヤ書は、エレミヤがイスラエルの民から迫害される中で、神に訴えたとき、神が私に立ち帰り、軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、私はあなたを私の口とするとの神の約束の言葉です。
 今日の教会生活における弟子たち、相互のあり方と、一脈相通ずる御言葉だと思います。
 第2の朗読は、ローマの信徒への手紙の通読が続いていますが、喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣きなさいとのパウロの奨めの言葉があり、また、あなたがたは、できるならば、すべての人と平和に暮らしなさいと言われていて、今日の福音書の主イエスの教会内での弟子のあり方についての奨めとつながるものとなっています。
 讃美唱も、このひと月前あたりから、次週の予告として週報に載せはじめましたが、今日の詩編65編(2節~14節)も、聖なる神殿に恵みが満ち足りるようにと、詩人は讃美の歌を歌っており、特に最後の14節は、牧場は羊の群れに装われ、谷は麦に覆われていますと、神の民の祝福された姿をを喜び歌っており、教会の本来あるべき姿を指し示しているように思います。
 さて、今日の福音、マタイ福音書18:1-14は、新共同訳が訳し分けているように、三段落に、分けることができるでしょう。 
 最初の段落は、子供という言葉が、鍵言葉となって出て来ます。天の国でだれが一番偉いのでしょうかと、主イエスが既に受難予告を、二度もなさった後に、弟子たちが近づいて来てこの問いかけがなされています。今日の出来事のすぐ前には、カファルナウムで神殿税を、あなたたちの先生は納めないのかと問われ、ペトロが治めますと答え、主イエスもペトロに指示を出して、治めさせていたり、中心的な弟子としての役割を果たしているようです。そういう中で、12弟子たちの中でも、自分たちの中でだれが一番偉いのか、とくに天の国で、イエスの目指しておられる場所で、だれが一番なのかとの問いが自然と起こっていたようです。そしてまた、マタイの教会においても、教会の中で、だれが一番偉いのかが問われていた背景があってこのイエスの講話が、ここにまとめられているのです。
 「その時、」主イエスは、一人の子供を、真ん中に立たせて、この子供のようにならなければ、あなた方は天の国へ入ることはできない。この子供のようになる者が、天の国で一番偉いのだと言われました。
昨日、テレビを見ていましたら、ちょうど1か月前の広島の土砂災害の日に危険を脱して生まれた赤ちゃんのかわいい姿と、赤ちゃんを抱くお母さんのインタビューなどが報じられていました。まだ、生まれて一か月のかわいい赤ちゃんですが、子供という存在は、確かに幼稚園児くらいになりますと子供同士では既に残酷な面も出て来ますが、心低い、謙遜な存在であるということは言えるでありましょう。
生まれたばかりの赤ちゃんを見ていましても、すべてを母の手にゆだねて、安心している、心低い存在だと思いました。
 主イエスは、教会においても、そのように自らを低くし、空しくする弟子こそ、より大きい弟子であると言われます。そして、私の名の故に、そのような一人の子供を受け入れる者もまた、心低い謙遜な者であると、18章5節では語っておられます。世の小さな者、見捨てられたような者に奉仕するのは、私にしてくれたことなのだと主イエスは語られるのです。そのような者たちへの約束が第1の段落では語られています。
 続いて、第2の段落は、「躓かせる」、あるいは、「躓き」という言葉が中心となっています。
主イエスへと信じているこれらの小さい者たちのうちの一人をも、躓かせないようにという教会生活の中での弟子たちへの、また、私たち教会員一人ひとりへの戒め、警告の言葉となっています。世においては躓きが避けられないと言われます。迫害や試練などによって、マタイの教会の人々の中には、イエスへの信仰を捨て、棄教する信仰の弱い人たちや入信して間もない人も大勢いたと思います。
しかし、そのような躓きを決して与えることがないように、主は、警告なさり、さらに、そのためには私たち自身が躓いて、信仰の弱い者たちや主イエスを信じたばかりの人たちが、それを見て信仰を失うようなことがないようにと、教えておられます。
 第3の段落は、あなた方は、私へと信じているこられの小さな者たちの一人をも決して見下げないように気をつけなさいと、始まっており、「小さな者」と共に生きるようにという、本日のテキストの言わば要約の奨めの言葉になっています。
 その小さい者たちの天使たちが、いつも、天におられる私の父の顔を仰ぎ見て、彼らのとりなしをしているからであると言われます。
 そして、あなた方はどう思うかと問われ、99匹と1匹の羊の譬えを語られます。ルカとは違って、ここでは、羊の方から迷い出すのですが、羊飼いは、99匹を山において、1匹を追求して、見つけ出すまで捜し回ります。
私たちが、この社会で考える効率主義とか実績主義ではなくて、イエスの天におられる父は、どこまでも、小さい者の価値を、他の何にもまして大事だと考えられ、イエスへと信じるどんな小さな信者もその信仰をなくし、滅びることは私たちの父のご意志ではないと、私たち教会員一人一人に向かって、主は、教会員相互のあり方、信仰の強い者と弱い者とが、互いに支え合っていくことを教えているのであります。
 特に、教会に向かって、マルコの福音書の書かれた頃より一段と成熟した教会に向かって、書かれたと言われるマタイ福音書らしい主の御教えであります。小さき者を一人も失うことがないように、お互いに今日の主イエスの戒めと励ましを心に留めて、歩みたいものです。
 
人知では、到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。













2014/09/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスとはだれか」(マタイ16:13-20)
マタイ16章13-20節、2014年9月14日、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)、出エジプト記6章2-8節、ローマの信徒への手紙12章1~8節、讃美唱138(詩編138編1~8節)
 
マタイによる福音書16章13節~20節

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。


説教「イエスとはだれか」(マタイ16:13-20)

今日の第1朗読、出エジプト記は、モーセが、私は主であるというヤハウェの神の声を何度も聞く場面であり、ここから、モーセは、イスラエルの民をエジプトから贖い出すという使命に遣わされて行きます。この同じ神が、新約では、主イエスの十字架と復活を通して、私たちを罪から贖い出すのです。
 続いて、使徒書の今日の朗読、ローマ書の記事は、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ-なさいというパウロの奨めであり、自分を過大に評価せず、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきですと奨めています。私たち、キリストの体である教会の一人ひとりが、罪から贖われた者として、悔い改めにふさわしい生き方をするようにと説いています。
 讃美唱、詩編138編も、詩人は神にほめ歌を歌い、あなたは呼び求める私に答え、魂に力を与え、解き放って下さいましたと感謝をささげ、あるいは、苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、私に命を得させて下さいと願い求める歌となっています。
 さて、今日の福音、マタイ福音書16:13-20は、4:12から始まったガリラヤ宣教以来ずっと問われて来た「イエスとはだれか」の問いが明らかにされるマタイによる福音書前半のいわば頂点と言える記事となっています。
 これまでも、主イエスをダビデの子と呼んで近づいて来たカナンの女のエピソードが、先週も出て来ましたし、窮状に追い込まれていた波と逆風に苦しむ舟の中の者たちが、ガリラヤの湖の上を歩き回り、同じように最初は水上を歩けたペトロと共に舟に上がると、風がやんだのを見て驚き、あなたこそ神の子ですと、ひれ伏し拝むといった出来事は何度かありました。
 そして、私たちも、「イエスとはだれか」という問いを持ちながら、主イエスのみ業とそのお言葉を聞かされて来たのですが、今日、それに対する決定的な答えが、フィリポ・カイザリアの風光明美な落ち着いた場所で、12弟子たちによって、なされるのです。
 今日の前の個所では、ファリサイ派や律法学者たちが、主イエスの教えを理解せず、時のしるしを見分けられず、主イエスによって新しい救いの時代が始まっていることを、認められないでいる出来事が記され、弟子たちに、ファリサイ派どもの教えに気をつけるように諭しています。
 そして、マルコでは、今日のペトロの信仰告白の前に、盲人の目に唾をつけ、盲人をいやす奇跡が記されていますが、マタイはこれを省いています。マタイにとっては、一見、魔術的とも解される奇跡をなさる主イエスは、この場面ではふさわしくないと考えたのでしょう。
 さて、そのガリラヤの地から退かれた、ヘルモン山の麓、泉の湧き出る静かな地域で、改めて、主イエスは弟子たちに質問されます。人間どもは、人の子のことを、誰だと言っているかと。彼らは答えます。ある者たちは、洗礼者ヨハネだと、あるいは、エリヤだとか、エレミヤだとか、かの預言者たちのうちの一人だとか言っていますと。この時代、人々は、終末の時代が近づいているという信仰が強くなっていました。そして、メシアが来る前に、生きたまま天に上げられたエリヤや、エリヤの再来と考えられた洗礼者ヨハネ、イエスと重なる苦難の預言者であったエレミヤや、終末前に先駆者、前触れとして期待されていた預言者の一人として、人々は、主イエスを認めていたのです。
 それに対して、主イエスは、今度は弟子たちに、初めて、直接、ではあなた方は、私を誰だというのかと、ここで質問なさったのです。
 ここでも、シモン・ペトロが、登場して、答えます。「あなたこそは、かのメシア、生ける神の子です」と。偶像の神ではなく、被造物に命を与え、今も生きて働かれておられるる神の、その息子です」と、主の真っ向からの質問に、あのペトロらしく、真っ直ぐに堅実に答えることができたのです。
 主は、喜ばれました。ここからの、主イエスの言葉は、マタイだけが記しているものであり、大きくその真正性や、論争が古来起こって来たみ言葉であります。
 主は、言われます。バルヨナ・シモン、あなたは、幸いだ、あなたにこのことを、啓示させたのは、肉と血、すなわち、はかなく脆い人間性ではなく、天におられる私の父なのだ。
 私も、あなたに言おう、すなたち、あなたは、ペトロである。その岩、ペトラの上に私の教会を建てよう。陰府の門も、それ、教会を打ち負かさないだろうと。
 この教会、エクレシアという言葉は、18:18とここと、福音書の中では、2ケ所しか出て来ません。それで、これは、後になって、付け加えられたもので、主イエスは、こんな言葉は言えなかったのではないかと、疑われたのです。
 旧約聖書では、神の民、主の会衆といった言葉や、思想がありました。主イエスが生前に、御自分の教会を、ペトロ、石という意味ですが、その岩のうえに、建てようとおっしゃることができたのだろうか、昔から疑問がつきまとってきたのです。
 しかし、主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちのシナゴーグの会衆ではなく、メシアとして、御自分の救いの共同体を、ペトロという弟子を通して、また、その信仰の上に、それを土台として建てようと約束なさったのです。
 ローマ・カトリック教会は、この主イエスの言葉をもとに、自分たちは、ペトロを正統に初代教皇として、教皇がその使徒権を承継しているとずっと主張して来ています。しかし、それは、何世紀かたってから3、4世紀頃から主張され出したものでした。
 ペトロは、マタイ福音書では特に傑出した、特別の弟子であります。彼は、主を、受難の時に三度も否認したりする弱さもその後もずっと持っていますが、12弟子の中では、特にこのマタイでは際立った存在です。
 そして、そのペトロは、使徒言行録10、11章までは、異邦人に、百人隊長コルネリウスに最初に主イエスのメシアの共同体の救いを告げ知らせる使徒としての重要な働きを示すことになるのです。その後は、御承知のとおり、パウロが異邦人宣教の柱となります。
 さて、更に続けて、ペトロに言われます。あなたに、私は天の国の鍵を与えよう、あなたが、地上でつなぐものは、天でもつながれてあるだろう。あなたが、地上で解く者は、天でも解かれてあるだろうと。
 ファリサイ派の人々は、律法に関する知識の鍵を閉ざして、人々が天に入るのも、妨げていました。しかし、主イエスは、ペトロに、教えたり、懲戒したりする権威をお与えになりました。
 マタイ18:18では、あなた方が、地上でつなぐものは、天でもつながれてあり、あなた方が地上で解くものは、天上でも解かれてあるだろうと、言われており、ヨハネ20:23では、だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残ると、同じような言葉が弟子たちに対して言われています。
マタイ福音書のここでは、ペトロに天国への鍵が、すなわち聖霊によって、教えたり、懲戒したりする権威が、教会に与えられているのです。
 そして、教会は、教えとしての権威と懲戒権を担って、説教と聖礼典を通して、世に対して、救いと命を伝える重大な使命を与えられているのです。
 そして、そのメンバーである私たち一人一人も、人間としては、ペトロと同じように欠けを持った弱い土の器ではありますが、主イエスによって、主の教会を建てる生きた石の一つとして用いられるのです。
 主は、ペトロの上に私の教会を建てると言われました。そして、陰府の門、地下の死の力、悪の力、サタンの力も、これに打ち勝つことはないと約束されました。
 もはや、死は勝利に呑み込まれているのです。私たちは、ペトロにゆだねられた権威を、メシアの共同体、救いの共同体の一員として、それを共どもに、担う者とされているのです。
主は、そのとき、御自分がメシアであることを誰にも言わないように、命じられました。それは、主イエスが、十字架につく苦しむメシアであることを、弟子たちは、この後、学ばねばならなかったからであります。イエスとはだれか、これは、私たちがそれぞれに与えられている十字架を負いながら、生涯をかけて、問い続けねばならない問いです。しかし、このお方によってこそ、私たちは、教会のうちにあって、陰府の力、死と悪の力から、解き放たれて、魂の真の平安のうちに歩むことができるのです。

人知では、到底、測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。



 






2014/09/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「この私にも恵みのパン屑を!」(マタイ15:21-28)
マタイ15:21-28、2014年9月7日、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―聖餐式)、イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11章25~36節、讃美唱67(詩編67編2~8節)
 
マタイによる福音書15章21節~28節

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。


説教「この私にも恵みのパン屑を!」(マタイ15:21-28)

今日の第1朗読のイザヤ書は、「私の家はすべての民の祈りの家と呼ばれる」と異邦人にも救いが及ぶ日が来ることを預言しています。
 第2の朗読のローマの信徒への手紙も、イスラエル人が、あなた方のために神に敵対しているが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されているとパウロは述べています。
 週報の次週の予告に載せています讃美唱も、今日のところは、詩編67:2-8となっていて、すべての民があなたに感謝をささげますようにという歌になっています。
 さて、今日は、マタイ15:21-28が福音として与えられています。マタイの福音書の主だった出来事や、主のなさった天の国のたとえなどが、このところ、章を追って読み進められています。
先週の湖の上を歩くイエスとペトロの出来事の後に、今日の福音が与えられています。先週の福音と今日の福音の間には、食物規定の汚れに関することや、人間を汚すものが、人間の内側から起こることなどを、主イエスは教えておられます。ユダヤ人と異邦人の関係の問題があることを予告しているかのようです。
 さて、湖の上での奇跡あと、辿り着いたそのゲネサレトの地から、あるいは、本拠地とされていたカファルナウム辺りから、主イエスは、そこを出て、ティルスとシドンの地域へとやって来ます。あるいは、そこへと、主イエスは引っ込まれた、退かれたとも訳せます。
 今日の記事も、マルコ7:24-30に、マタイは依拠して書いているのですが、マタイらしく非常に整えられた文体で書かれており、それを聞いたマタイの教会の人たちは、一度聞けば忘れないような鮮明な印象を受けたことでしょう。
 マタイは、始めから、終わりまで、すぐ対話形式でこの出来事を記し始めます。見よ、カナンの女の人が、その地方から出て来て、イエスにこう語りながら叫んだ。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。私の娘が、ひどく悪霊にとりつかれています」と。
 ところが、主は、言葉をひとことも返されません。いつもの主とは違っています。
弟子たちが、たまりかねて、近づいて来て、彼女を追い払って下さい、あとから、叫び続けていますからと、言います。
 この弟子たちとは、マタイの教会のユダヤ人キリスト者たちが、異邦人に対して抱いていた感情を現わしていたでしょう。
 マルコでは、ティロス・フェニキアの生まれのギリシャ人となっていますが、マタイではカナンの女となっていて、イスラエル人たちの定住する前の先住民たちを思い起こされます。また、アウグスチヌスの時代にも、フェニキアから移って来ていたカルタゴの農民たちは、自分たちをカナン人と名乗っていたとの記録もあります。いずれにしても、ユダヤ人たちから見て、この女性は異教の民でありました。しかし、彼女は、主イエスをイスラエルのメシアであることを認めた呼び方で呼んでいます。
 マタイの教会のユダヤ人キリスト者の弟子たちは、異邦人に対してなお、偏見をもって見ていたのでしょう。
 イエスは、何も言葉を答えられないのですが、この女性は、なおも、ついて来ます。主イエスは、私はイスラエルの家の失われた羊ども以外には遣わされていない、とお答えになります。これは、御自分に向かって言われた言葉とも考えられます。女の人は、主よ、私を助けて下さい、と今度はひれ伏し懇願します。
 それに対しても、主は、子供たちのパンを取って、小犬に投げてやるのは良くないと自問自答するように、答えられます。そのとき、この女性は、そうです、主よ、そして、思いますに、小犬たちも、その主人たちの食卓から落ちるパン屑は食べるのですと答えたのです。
異邦人である自分が、救いの順番、席次としては、イスラエル人たちに及ばないことを、彼女は認めたうえで、しかし、自分もまた、その救い、恵みを受けることができるとの堅忍不抜の信頼をもって、主イエスに訴えたのです。
 それを見て、主は、御婦人よ、あなたの信仰は大きいなあ、あなたの欲するとおりになるようにと、ついに、この女性の懇願に応えたのです。その時から、彼女の娘は癒されます。その病気が癒されたのは、信仰の奇跡に対する報いのようなものです。
 主イエスの生前の間は、このような例外的な場合、あの百人隊長の信仰の場合をのぞけば、その宣教は、もっぱら神の民イスラエルの家の失われた羊たちであるユダヤ人たちに対するものでありました。そして、主イエスの復活後に、弟子たちは始めてすべての民を弟子とするように、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けるようにと、委託されて異邦人宣教へと派遣されていくのです。
 戦後の日本の神学者に、滝沢克己という人がいます。彼は、バルトから信頼され、後に洗礼も受けますが、キリストのみ名によらなくても、インマヌエルの神を信じることは可能であるというような立場を表明しています。
 今日のカナンのこの女の人は、主よ、ダビデの子よ、憐れんで下さいとは、言っていますが、主が十字架と復活を経てメシアとなることは知らなかったでしょう。しかし、イスラエルをまず救い、そして、異邦人たちをも、その恵みに招き入れる神を、堅実にどこまでも信頼するその信仰によって、救われたのです。
 私たちも、この女性と同じように、その堅実な、忍耐強く諦めない信仰を与えられたいと思います。今日は、幸いに、この後、聖餐式がありますが、今日の女性を思い起こしつつ、恵みのパン屑、しかし、ユダヤ人キリスト者たちとまったく同じ豊かな、満ち足りる主イエスの体と血に共に招かれたいと思います。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

9月生まれの兄弟姉妹のために祈ります。
恵み深い天の父なる神さま。
秋がようやく訪れようとしています。この実り豊かな秋の訪れの月に、この地上に生を受けた兄弟姉妹の上に、あなたの豊かな祝福がありますように。
生涯が、御言葉の光によって、導かれ、希望と平安のうちに歩ませて下さい。それぞれが、キリストの体である教会の枝として、聖礼典によって、信仰が強められ、信徒の交わりのうちに、それぞれが残された人生を、充実して過ごさせて下さい。そのご家庭をも顧みて下さい。新しい日々をあなたにゆだねつつ、お一人お一人がその使命を果たすことができるように守って下さい。
      キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2014/09/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。