津田沼教会 牧師のメッセージ
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「疑いに沈むのを助け出す主のみ手」(マタイ14:22-33)
マタイ14:22-33、2014年8月31日、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)、列王記19:1-21、ローマの信徒への手紙11章13~24節、讃美唱130/1(詩編130編1~6節)
 
マタイによる福音書14章22節~33節

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



説教「疑いに沈むのを助け出す主のみ手」(マタイ14:22-33)

 今日の日課、旧約聖書の朗読は、列王記上の19章全体が与えられていました。エリヤがホレブ山、シナイ山に向かい、静かな、神のささやく声を聞いて、元気を出し、イスラエルに戻って来て、エリシャを弟子、あるいは跡継ぎに選ぶという記事です。今日の主イエスが山に祈りに登り、湖上を歩く出来事と弟子ペトロの水上歩行との対比があると思います。
第二の朗読は、ローマ書11:13-24で、こちらの方は、通読していますから、福音の記事とぴったりは合わないですけれども、異邦人に救いが宣べ伝えられるけれども、あなた方は、接ぎ木された枝であるから、根であるユダヤ人に対して誇ってはならないというパウロの言葉でした。
讃美唱は、詩編130/1、130:1-6ですが、深い淵の底から、あなたを呼びますで始まり、福音の記事の、沈みかけたペトロの「主よ、助けて下さい」に通じるものだと思います。是非、皆さんも、次週の聖書個所と共に、週報に載せ始めましたので、讃美唱まで、事前に読んで来ていただきたいと思います。
 さて、今日の福音、マタイ福音書14:22-33は、先週の出来事、5000人への供食の奇跡物語に続く奇跡物語、あるいは、主の顕現物語です。
 広島市近くの土砂災害が報じられていますが、現代の日本でも大きな犠牲をもたらす大水の脅威を、私たちは改めて思い起こされます。
 さて、今日の福音は、そして、すぐに、イエスは、弟子たちを、強いて舟に乗せ、向こう岸に、先に進ませ、ご自分は群衆どもを解散させ、その後、一人で祈るために山へ上られたと始まっています。
 洗礼者ヨハネの死を知らされ、ご自分の今後の十字架へ向かっての道行きを天の父と向かい合って確かめ合い、交流して過ごした夕方以降であったでしょう。あるいは、弟子たちに御自分がだれであるかを、教えるための祈りの時でもあったかもしれません。
 弟子たちの舟は、既に何スタディオンも、ガリラヤ湖に出ていましたが、波に悩まされていました。マタイは、それは逆風であったからだと、記しています。この舟は、教会をも、表わしており、マタイの教会の人々は、ファリサイ派などの迫害に苦しむ自分たちを、この舟に重ね合わせて思い起こしたでありましょう。
 夜間の第4時、午前3時から6時の夜明け前のときに、主イエスは、海の上を歩き回って、舟の方へとやって来ます。水上歩行、海上歩行は、人間には不可能なことであり、神のみが可能なことだと聖書では考えられていました。そして、海やガリラヤ湖の大水は、邪悪の住まう所、また死と恐怖、病気、不安、得体の知れないものを、彼らにとっては意味していました。逆風に苦しんでいる弟子たちの所へ、海の波を砕くようにして、主イエスは、歩き回り、やって来られるのです。
 ところが、それを見た弟子たちは、うろたえ、恐れから「幻影だ」と言って叫び声をあげます。
 主は、「勇気を出せ、私、私である、恐れるな」と弟子たちを鼓舞するのであります。
 そのとき、ペトロが、主よ、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてあなたに向かってやって来るように、招いて下さいと申し出ます。ヨハネ福音書の21章、終わりの章で主の復活を、ガリラヤ湖で知らされたとき、ペトロが水海に飛び込んだ出来事を思い起こされます。
 ペトロは、弟子たちの代表であり、熱心さで際立った弟子でもあり、このあと、16章16節では、あなたは、生ける神の子メシアですと信仰告白し、主から、あなたの岩の上に教会を立てるとも言われる弟子であります。
 しかし、この12弟子の代表者ペトロは主の受難の時には、大祭司カヤファの屋敷にまで、何とか入って行きますが、女中から誰何されると、主イエスを三度も知らないと言ってしまう弱い弟子でもあります。
 そのペトロが、イエスの言葉、「やって来なさい」との招きに応じて、舟から降りて、イエスに向かって、まっすぐに水の上を歩くことができたのです。
 ところが、強い風を見て、大波の中へと沈み始めます。そして、ただひとえに、「主よ、助けて下さい」と声を発します。主は、すぐに手を差し伸べ、彼をつかんで言います。「なぜ、疑ったのか、何へと疑ったのか、信仰の薄い者よ」と戒められました。
この疑うという言葉は、心が二つの方向に分かれてしまうことを示す言葉です。私たちは、主イエスを救い主と信じる信仰と、それとは、正反対にそのすべてのものの上への主の主権を疑う心と二つの心の間で、右往左往しているのが現実である存在です。
そして、主は、私たちを「信仰の薄い者よ」と呼ばれます。しかし、「不信仰な者よ」とは主はおっしゃらないのです。私たちの信仰は、小さい信仰、からし種のような信仰、殆どないような信仰です。
しかし、主イエスに対する信仰に疑いが生じ、強い風に目を取られて、波間に沈みそうなときにも、私たちは、「主よ、助けて下さい」と願うことが許されている存在です。
 二人が舟に上がると、逆風だった風もやみます。舟の中にいた者たちは、「あなたは、まことに神の子です」と言いつつ、ひれ伏し拝んだのであります。
 マルコの福音書では、「弟子たちは、驚いた。パンの出来事を忘れ、心が鈍くなっていたからである」と、弟子たちの無理解が、記されていますが、マタイの描く弟子たちは、イエスが、だれであるかを、十分とは言えなくても、次第、次第にでも悟っていく弟子たちであります。
 マタイ福音書の最後の章で、復活の主に出会った弟子たちは、一方では疑う弟子たちでもありました。
しかし、主イエスの方は、そのような弟子たちと世の終わりまで共にいると約束されるお方なのです。大波の荒れ狂い、逆風の激しい時、幻影によって惑わされず、死や病気や、暗闇、不安、疑い、葛藤の中にあって、主イエスは、そのような大波を静め、その上を歩き回り、「わたし、わたしである、勇気を出せ、恐れるな」と沈みかかる私たちをその手で握り締め、助け出して下さるのです。私たちの津田沼教会という舟が、この世の荒波の中にあって、また、私たち一人一人がそれぞれ、この世の中で、毎日の生活の中で主イエスの弟子として、日毎に果敢に挑戦していくことを、主イエスは共にいて今も望んでおられるのです。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。




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2014/08/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の恵み豊かな食卓」(マタイ14:13-21)内海望牧師
マタイ14:13-21、2014年8月24日、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)、イザヤ書55章1節~5節、ローマの信徒への手紙9章1~5節、讃美唱104(詩編104編24~35節)
 
マタイによる福音書14章13節~21節

 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたたちが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


説教「主の恵み豊かな食卓」(マタイ14:13-21)内海望牧師

 今日の日課は、非常に重苦しい雰囲気で始まります。何故なら、直前に領主ヘロデの結婚の件で忠告したため獄にとらわれていた洗礼者ヨハネが、むごたらしく殺されるという出来事が記されているからです。しかも、それは宴会の即興の形でのおぞましい殺人でした。
 イエスさまは、この報告をお聞きになり、悲しみのうちに人里離れた所にひとり退かれた、と聖書は報告しています。おそらく祈っておられたのでしょう。この世界の闇の深さを悲しむと共に、ご自分がこれから歩もうとする十字架への道も心にかかっていたと思われます。
 そのように考えると、確かに、今日の出来事は、わたしたちに「最後の晩餐」を思い出させます。

 「ひとり人里離れた所」で祈っていらっしゃったイエスさまですが、群衆は決してイエスさまから離れようとはしませんでした。彼らは、「方々の町から歩いて後を追った」と聖書は報告します。「歩いて」という言葉は、群衆の切実な思いを感じさせます。イエスさまは、埃にまみれた足をひきずりながら、病人を支え、必死で歩んでいる群衆をご覧になっ て、深く憐れまれました。「深く憐れみ」という言葉は、9章36節(17頁)の言葉と同じです。以前にも申し上げましたが、この「憐れみ」と訳された言葉は、「はらわたがよじれるような痛み」という意味です。まさに「断腸の思い」を表わす言葉です。群衆が、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれた」状態であったのです。それを見て、イエスさまは、深く憐れまれたのです。
 それにしても、群衆をして、このように、「前へ。一歩でも前へ。決して留まるな。」と歩き続けさせた情熱の根源は何だったのでしょうか。
 ヨーロッパ中世紀は、巡礼の旅が盛んでした。エルサレム巡礼、ローマ巡礼に優るとも劣らない巡礼にサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼があります。パリから出発して、ヨーロッパの最果て、スペインの西南端にある聖ヤコブ教会へと歩み続ける巡礼の旅です。堀田善衛によると、この往復3000キロにもわたる厳しい巡礼の旅に、ヨーロッパ各地から、インド、エティオピアからまで人々が参加し、パリからピレネー山脈を越え、歩み続けたのです。その数は年間80万人から100万人を超える人数であったと言われます。
 これにまつわるいろいろな噂、俗説があります。たとえば、これはレ・コンキスタの一端であったとか、借金取りからの逃亡であったとか等々。しかし、「それにしても、」と堀田善衛は言います。高齢者の巡礼途中での死亡率が60%にも上る旅に、これほどの人々を赴かせる情熱の根源には何があったのだろうか、と問うのです。
 それは、「救い」を求めての旅でした。「救い」の最大のものは、「罪の赦し」でした。あの「免罪符」と同じ力を持つのが、この巡礼でした。また、多くの障がい者、病人などが参加したことが明らかなことから、「癒し」という「救い」を求めて歩き続けた人々も数多くありました。
 今日の日課を読んでいて、この巡礼の旅を思い出しました。今、夕暮近くなるのも忘れて、ひたすらイエスさまを追いかけて歩み続ける群衆の姿に、私たちは、飢え渇くように、救いを求めて歩む人々の姿を見出します。
 「飼い主のいない羊」、つまり、仏教の言う「生・老・病・死」4つの苦しみ、生きる苦しみ、老いの不安、病いの苦しみ、死の恐れ、苦しみに取り囲まれながら、寄る辺を持たず、どこへ向かって歩んでいいのか分からず、不安と恐れの中で生きている人々の姿です。
 そのように考えると、今日の聖書の箇所は、現在のこととして私たちの前に現れて来るのではないでしょうか。
 イエスさまの時代も、中世紀も、そして今日でも、人間の心は同じです。「生老病死」への恐れと不安は人間を苦しめます。現代社会には、カウンセリング、健康食品など、様々な苦しみを癒す手段は溢れていますが、私たちは、心の底では、それらと違った本当の救いを求めているのではないでしょうか。「心の渇き」があるのです。「祈り」と言ってもよいでしょう。「心理療法の根本は祈りではないかとおもうことがある」と心理療法家自身が言っています(河合隼雄)。
 イエスさまは、私たちのすべての「渇き」を思いやることの出来る方でした。イエスさまご自身、私たち人間が経験する不安、痛み、苦しみすべてを経験された方なのです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を救う力のある方に、祈りと願いをささげ」と「ヘブライ人への手紙のゲッセマネ」と呼ばれる5章7節(406頁)は報告しています。ですから、罪は犯されませんでしたが、罪と死の恐ろしさを思いやることが出来る方です。この箇所でも、イエスさまが、群衆に対して先ずなさったことは病人を癒すことでした(14節)。「肉体より心の健康が大切だ」など理屈はおっしゃらずに、そこに「渇き」があるなら、そこに真っ直ぐに近づき、一杯の水を与えて下さる方なのです。
 イエスさまがここで何をなさったかは書いてありませんが、当然、神の国の福音を説教されたことでしょう。寄る辺を持たず、死と罪への恐れと不安に生きている人々に、どこに向かって生きればよいか示されたのです。良い羊飼いとして、人生に方向性を与えて下さったのです。群衆は、時のたつのも忘れて一心に聞き入っていました。あっという間に夕暮れになりました。
 弟子たちは、イエスさまの説教を聞くよりも、また群衆の空腹のことよりも、自分たちの食べ物の心配をしていました。それが、15節の弟子たちの言葉によく表れています。群衆のことを心配しているように見えますが、決してそうではありません。
 弟子たちの提案に対するイエスさまの、「行かせることはない」というみ言葉は、弟子たちに対する厳しい戒めです。「群衆が空腹だと同情するなら、手を貸してやりなさい。」とおっしゃるのです。「友人は忠告は山のように玄関においていくが、誰も手を貸してくれない」という格言がありますが、弟子たちの態度はまさにそのような姿でした。
 イエスさまは「飢え」の苦しみも経験された方です。その苦しみも分かっていらっしゃる方なのです。ですから、「われらの日毎の糧を今日も与えたまえ。」と祈れと命じて下さる方です。
 イエスさまの命令に対する弟子たちの答えは典型的でした。「パン五つと魚二匹しかありません。」「しかありません」という言葉を、私たちは免罪符のように使います。そして、結局は、今、目の前にいる苦しむ人を見過ごしにするのです。確かに、「隣人にかかわる」というのは厄介なことです。そもそも隣人そのものが厄介な存在です。自分が隣人として選んだのでもないし、縁もゆかりもない他人です。適当に付き合うぐらいがせいぜいです。
 しかし、イエスさまは縁もゆかりもない群衆の隣人になって下さったのです。賓客として食卓に招いて下さったのです。このように、イエスさまは私たちがどのような人間であっても、私たちを賓客として招いて下さる方なのです。「すべての人が食べて満腹した」とあります。これは、単に空腹が満たされたということでなく、自分たちを賓客として招いて下さったイエスさまの愛の豊かさを感じた「満腹」であったことでしょう。この、出来事は単なる奇跡物語ではありません。イエスさまが、群衆の隣人となり、寄り添って下さったことがポイントではないでしょうか。
 更に、18節後半に、「取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」という言葉に注意してください。これは、聖餐式の式文そのものです。イエスさまは、ここでご自分の体と血を与えて私たちの罪を赦し、新しい命を与えて下さったのです。
 初めに、今日の聖書の箇所はイエスさまの受難と、最後の晩餐を思い出させると申し上げました。イエスさまは、いざという時イエスさまを「知らない」と言ったペトロ、イエスさま逮捕の手引きをしたユダを含む12弟子全員と最後の晩餐の食事をなさった方です。裏切りと、ご自分の死を知りながら、最後まで弟子たちを愛し続け、罪の赦しと、死への勝利を与えて下さった方なのです。
 今日の出来事は、単に5000人の群衆が満腹したということではなく、恵みに恵みが加えられた、豊かな「愛の食卓」「救いの食卓」が供えられたという出来事であったのです。
 そして、何よりも嬉しいことに、イエスさまは今も私たちを、深い憐れみの思いをもって、この恵みの食卓に招いて下さっているのです。主の食卓に馳せ参じ、新しい命に生きる喜びを分かち合いましょう。
2014/08/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「より分けられる天の国」(マタイ13:44-52)
マタイ13:44-52、2014年8月17日、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)、列王記上3:4-15、ローマの信徒への手紙8:31-39、讃美唱119/10(詩編119:121-128)
 
マタイによる福音書13:44-52
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」





説教「より分けられる天の国」(マタイ13:44-52)

今日の第1の朗読は、列王記上のソロモンの知恵と言われる部分でした。この僕に、民を正しく裁くために聞き分ける心をお与えくださいと夢の中で祈ったのです。それは、今日の福音書の天の国のことを学んだ学者の姿にもつながるものでしょう。
また、第2の朗読は、私たちはこのところ、ロマ書を通読していますが、今日の部分はどんな被造物も、キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないというパウロの言葉でした。これも天の国、神の支配を知った者の一途な生き方という点で、今日の福音書にふさわしいみ言葉ではないでしょうか。
最近、お気づきの方は、週報の次週の予告に、讃美唱を載せているのに気付かれたことでしょう。これも、教会手帳には載っていますので、気づかれた方もいるでしょうが、今日は、詩編119編の121-128で、私は、金にまさり、純金にまさって、あなたの戒めを愛しますといった詩人の心の底からの叫びが記されています。
さて、今日の福音書は、先週の個所に続くものです。マタイ福音書13章は、主イエスが譬えを用いて説教された記事がまとめられています。そして、聞き手が変化していきます。
初めは、主イエスは、群衆に語りかけられています。そして、先週の個所であった毒麦の譬え、からし種の譬え、パン種の譬えは、新共同訳聖書では訳されていませんが、いずれも「彼らに」譬えを話されたとなっています。
そして、今日の部分は、弟子たちが、家に入って、毒麦の譬えについての説明を聞いた後に続いていますから、弟子たちに向けて書かれていることになります。群衆も、聞くべき耳をもって聞く者は、主イエスの弟子となることができるし、天の国の奥義、秘密を知ることができることを、マタイは読者に示しているのです。
さて、今日の個所で、主イエスは、まず、こう言われました。天の国は、以下の事情に似ている。宝が畑に隠されている、それをある人が見つけた後、喜んで出て行った、そして、自分の持ち物を、全部売り払って、その畑を買うのであると。
この人は、たまたま、期せずして、思わぬ宝を畑の中で見つけ、それをそのままにして、出て行き、自分の持てる限りの財産を犠牲にして、畑を買い、もちろん、その中にあった宝を手中におさめたというのです。これは、不道徳なことでしょうか、あるいは、当時の社会にあって、法律違反であったのでしょうか、それには、触れていません。しかし、主イエスは、天の国、神の支配に与るとは、この人の場合に似ていると言われます。主イエスは、私のためにその命を失う者は、それを得、自分の命を求める者はそれを失うと言われました。
また、天の国は、高価な真珠どもを捜し求めている真珠商人の事情に似ていると言われました。彼は、特別に高価な1個の真珠を見出すと、出て行き、自分の持っているものをすべて売った、そしてそれを買ったのであると。この場合は、彼は、最初から熱心に捜し求めている点が、少し違いますし、真珠の卸売商人で第1の場合よりも裕福であったかもしれませんが、それでも、自分の持ち物を全部売ってまでして、その特別の真珠を買っているのであり、それを得るためには、必死の努力をしている点では同じと言えます。天の国に与るとは、そのように、私たちが全人格をもって臨まねばならないことを、教えています。
第3に、主イエスは、天の国は、引き網、底引き網、あるいは地引き網の次の事情に似ていると言われます。すなわちそれは、海へと投じられ、すべての種類から集めた。そして、それが満ちると、人々は岸へと引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは外へ、彼らは投じたというのです。
そして、主は続け、世の終わりにもそのようになるだろう、天使たちがやって来て、正しいものたちの真っただ中から、悪い者たちを、より分け、火のかまどへと投げ込むだろう、そして、そこには、泣く声や歯ぎしりする音があるだろうと、言われるのです。
天の国は、このように、あらゆる種類の者たちがその網に集められ、満ちると、引き上げられるのにたとえられます。神の支配というのは、本来、人間の努力によって、獲得されるものではなく、神の側からやって来て、実現していくものです。
私たちは、今は、投げられた網に何が掛っているかを問わず、漁師たちのように引き寄せることに励むことが求められているのです。終わりのときには、天使たちが来て、正しい者たちの真ん中から、悪い者たちをえり分け、火の炉へと投じると主イエスは、ここでも約束なさっているのです。
そして、主は、弟子たちにあなた方は、これらのことがすべて分かったかと聞かれますと、彼らは「はい」と言いました。すると、主は、天の国でもって弟子とされた学者は、一家の主人に似ている、すなわち、彼は新しいものどもと、古いものどもとを、彼の倉から投げ出すのであると、言われたのです。
多くの注解書は、この学者とは、たとえば、マタイ福音書の記者マタイ自身のような一部の、教会の中で教える教師、いわば教会の律法学者に限ると言っています。
しかし、マタイ13章が示しているように、マタイの譬えを聞いている群衆は、弟子へと変えられる可能性を持っています。
天の国に対して弟子とされた学者とは、天の国の譬えを聞いて理解する私たち、弟子たち一人一人と言えるのではないでしょうか。
天の国のことを学んだ私たちは、主イエスの新しい教えと、旧約の律法、預言者などを自在にこなすことができると、主イエスは私たちを励まし、神の支配のうちに、主イエスの弟子として歩むように、すべての人たちを招いておられるのです。
世の終わりに、正しい者と悪い者とをより分けられるとの主の約束に信頼して、私たちはすべての人を教会に招く業にいそしみたいものであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。




2014/08/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
証言「神様の御計画」(飯村 憲兄)
2014年8月10日
証 「神様のご計画」 飯村 憲

1. 初めに
 本日は信徒礼拝ということになり、教会員から証をすることになり、私が行うことになりました。皆さんの前で証をするのは2回目で、最初は松原先生が牧師をされていた中山教会で行ったことを覚えています。本日は自己紹介も兼ねて、私の歩んできた人生の一部についてお話したいと思います。証の時間は25分と聞いておりますが、ワープロで原稿を作ったところ、私の原稿は大体7700文字でした。一般的には一分間に300~350文字位で原稿が読めるみたいです。単純に計算すると20~25分位です。

2. 幼少期
 私は昭和25年5月3日に茨城県土浦市で生まれました。父は25歳、母は20歳でした。憲法記念日に生まれたので、名前は憲と名付けられました。戦争が終わったのが昭和20年8月15日でしたので、当時は戦後の復興も進んでおり、戦災の跡はあまり見ませんでしたが、米兵が乗ったジープよく見ました。父は戦後満州からの引揚者で満州では満州鉄道に勤務しておりました。戦後、満鉄の職員を国策で国鉄において雇用する方針もあり、父は国鉄職員に採用され、常磐線の土浦駅の電信掛として勤務しておりました。父は筑波山の麓の上菅間出身で叔父達と叔母は現在のつくば市に住んでいました。母は鹿児島出身でした。兄弟は3人で姉(3歳上)、妹(6歳下)です。私が育った頃には食べ物も不足することはなく、食糧事情は良くなっていました。私が生まれ育った場所は、戦前の霞ヶ浦にあった予科練の兵隊用の宿舎を戦後一般市民用に転用したもので、トイレ、炊事場は共同で薄暗く、風呂は無く、部屋は8畳一間でした。かすかに覚えているのは隣近所の夫婦がしょっちゅう夫婦喧嘩をするので怖かったことを覚えています。当時の生活は私の年代より年上の方々はご存じと思いますが。各家庭での電気製品はラジオのみでした。テレビ、冷蔵庫、洗濯機なんかありません。洗濯はタライで手洗い、生鮮食料品は保存が効かないので毎日買い物に行くか、保存が効く食料を食べていたと思います。母が言うには、父の国鉄の月給では月の半分でなくなってしまうので、父は泊勤務の明け休みにアルバイト的な仕事をしたり、後の半月はつけで食糧を購入したり、田舎からお米や食料をもらったりしていました。国鉄というところは国鉄一家と言われる不思議な組織で、土浦駅の片隅に物資部というものがあり、鉄道の仕事には全然関係ないのですが、職員家族向けに倉庫を改造した店舗があり、米、味噌、醤油、石炭等の日常生活に必要な物品はそこで現金なしでも、ほとんど手に入れることができました。当然そこの店員というか、担当者も国鉄職員でした。当時はどこの家庭も同じようなギリギリの状況だったと思います。私が幼稚園や小学生の頃、夏休み、冬休み、春休みの殆どをつくばの叔母の家に厄介になっていましたが、今考えると私の食費分の費用を浮かせることが主目的だったのかもしれません。私が4歳の時に、土浦市が市民の住宅不足解消の一環として、一戸建ての賃貸住宅、今風に言うと2Kを新築し、市民に貸し出す抽選が市役所で行われることになり、申込をしていた父と私で自転車に乗って一緒に抽選会場に行って、何も分からずに私が抽選箱を回したところ偶然にも当たったのです。競争率は20倍位あったと後から聞かされました。薄暗くて怖くて古いアパートを出て、新しい一戸建ての家(6畳二間、台所、お風呂、庭)に住めることがうれしかったのを覚えています。幼稚園、小学校、中学校2年生まで、その家で育ちました。その後、かなりの年月を経て土地と家屋は払下げになり、現在はその地に家を建て替えて父と母が暮らしております。現在父は89歳、母は84歳で、父は5年前に大病を患いましたが、二人で今のところ元気にしております。

3. 中学から高校&大学
 父は農家の5人兄弟の末っ子で学歴はありませんでしたが、一生を駅職員で終わりたくなかったようで、昇進試験を受けて、土浦駅勤務から水戸鉄道管理局に転勤しており、土浦から水戸まで毎日通勤しておりました。当時は電車の本数も少なく、父の通勤も大変なので、水戸の国鉄宿舎に引越することになり、中学3年から土浦4中から市立水戸2中に転校しました。土浦4中にそのままいれば、中学の成績の実績から県立土浦一高に進学していたと思います。土浦一高はつくばの研究学園都市ができてからは、東大の進学数等では水戸一高を逆転しています。水戸では当時の進学高は県立では水戸一高、水戸二高(女子高)、日立一高、緑岡高校位で、落ちた人は滑り止めの私立の茨城高校に進学するのが常でした。私は転校生だったので、水戸の状況を全然知らずで、今考えると水戸一高は少し敷居が高かったと思います。案の定、高校受験は失敗して滑り止めで合格していた茨城高校に進学することになりました。当時の茨城高校はほとんどの生徒が第一志望の水戸一高を落ちた者が入ってくるので、敗者の群れというか不思議な集団でした。水戸一高は水戸駅の近くで茨城高校は水戸の外れと場所が離れており、通学で一高生と会うことはあまりないのですが、それでも一高生に会うのが嫌で、高校には裏道ばかり通って通学していました。2年生頃になってこんな卑屈なことではいけないと考え直し、将来に向けてまた頑張ろうという気持ちになりました。茨城高校の先生方は人生の先輩として尊敬できる先生方がたくさんおられて、その影響もあったと思います。特に一番尊敬できる先生が白戸先生でした。質素な物理学校出の数学の先生でお住まいは日立市でしたので、学生と同じように毎日電車で通われて、水戸駅から茨城高校までの距離3.2kmを雨の日でも晴れの日でも、行も帰りも早足で30分位、腰弁で通われていました。白戸先生はエコ先生で当時から照明のスイッチをオフにしまくっていました。3年位前に亡くなられましたが、元気な時は同窓会にも来られて卒業生の活躍に目を細めておられました。現在の茨城高校は男女共学になり、中高一貫教育の進学校になっており、我々のころの滑り止めの高校の時の進学状況とは比べ物にならないようになっています。
 私は中学生のころから将来はエンジニアになりたいと思っていました。高校2年生の頃は国立大学の1期校は東北大学の様な地方の有名大学、2期校は地元の茨城大学、私立では早稲田大学理工学部、慶応大学工学部、上智大学理工学部なら入っても良いかなと漠然と考えておりました。今、考えると無謀な話で、茨城高校からは現役と浪人も含めて、東北大学には毎年1~2人、茨城大学には10人位、早稲田や慶応には2~3人、上智大学には2~3年に1人程度の進学率でした。当時の高校生は現役で合格できるのは30%、70%は一年浪人以上の様な状況で、進学指導も模擬試験等の偏差値は無視で、学生が受けたいようにさせてくれました。先生も現役では無理で、一年位予備校で勉強すれば希望の大学に合格できるかも位に安易に考えていたと思います。同級生も現役の時は、無謀に私立では早稲田、慶応等の超一流校にチャレンジして皆討死していました。現在の進路指導は偏差値等で受験時に志望校を決められてしまいますのでチャレンジ精神が昔より薄れているような気がします。時代の趨勢でしょうか?
私の現役の大学受験の年、昭和44年は大学紛争が激化して、東大と東京教育大(現在の筑波大)の入試は中止になりました。早稲田も当時学費値上げ反対闘争で4年間一度も試験が無く、すべてレポートだったと高校の同級生で早稲田の商学部に入った友人が言ってました。私の受験には入試の中止のことは関係ありませんでしたが、当然失敗で、夢打ち破れて、浪人生活をすることになりました。ただし、高校受験の失敗の時とは違って、友人達もほとんど浪人なので、それ程落ち込みませんでした。かわいそうだったのは、土浦一高や水戸一高で東大法学部を目指していた優秀な受験生達で、浪人するか一橋大学法学部に受験先を変更して進学していました。私は、父と母にお願いして、東京の予備校に通わせてもらい、水戸2中から水戸一高卒の友人と茨高卒の友人と東京の予備校に通うことになりました。1年間予備校で勉強した甲斐もあり、国立大学には合格できませんでしたが、私立の第一志望の上智大学理工学部機械工学科に合格できました。入学試験は完璧にできたと思ってましたが合格の自信はありませんでした。上智の理工と慶応の工学部がその年度、同じ試験日だったので、優秀な人は慶応に行ってくれたのかも知れません。上智大学理工学部機械科の入学生は現役10%(ほとんど推薦)、1年浪人70%、2年浪人以上20%位でした。上智大学では機械工学(自動制御)と体育会の硬式テニスに打ち込みました。上智大学はイエズス会が運営する大学でカトリックの総合大学でした。宗教の授業は特になく、人間学が唯一の授業で日本人の神父が授業をしました。上智では大学院修士課程まで行かせてもらいました。上智大学では市川教授と田村教授に出会うことができ、市川先生には制御工学の理論の実際や理論体系の美しさを教えていただきました。市川先生はもうなくなられましたが卒業後もおつきあいさせていただきましたし、田村先生とは住居が近くでもあり、今でもテニスを一緒にしたりして、今でもおつきあいさせていただいております。今年の5月末に、上智大学卒業後40年の祝会(パール祝)があり家内と二人で一緒に行ってきました。卒業後50年には金祝がありますのでそれまでは二人とも元気にしていたいと思っています。

4. 社会人生活
 卒業後は、三菱スペースソフトウエアという会社に就職しました。1976年は第二次オイルショックの影響で就職事情が悪くて、大手の会社には就職できませんでした。たまたま、卒業年度の12月頃、新聞広告を見ていたら中途採用の募集があり、新卒でも応募してよいかと問い合わせたところ受験させてくれました。入社後聞いたところによると結構な競争率だったそうです。三菱スペースソフトウエアという会社は私にとってすごく恵まれていました。当時、宇宙開発事業団が種子島から打ち上げていたNロケットの誘導制御系を担当していた会社でした。ロケットの誘導制御の勉強もできましたし、英語の論文も読めたし、最先端のコンピュータの勉強もできました。大学院を終了してもその延長で勉強していて給料がいただけるような感じでした。卒業後1年で同じ大学院(彼女はドイツ文学専攻)で学んでいた大坪直子さんと結婚することになり、直子さんが通っていたルーテル中山教会に時々行くようになり、結婚式の司式は松原先生にお願いし、1977年の3月12日にルーテル市ヶ谷センターで結婚式を挙げました。松原先生の牧師館は中山教会のすぐ隣にあり、牧師館と言っても平屋の古い家でした。ある日、結婚式の司式のお願いに伺った時に、先生のお宅に二人で通していただき、その時に畳の間から雑草が生えていたのを覚えています。奥様の悦子先生がそのままにしていたのは、今考えると何らかの意図があってそうしていたのかもしれません。結婚後、私達は東京の町田に新築の賃貸住宅を借り住みました。当時の私の給料が10万3千円で、賃貸住宅の家賃が4万3千円位だったと思います。当時の学卒の初任給は8万3千円位だったと思います。生活費の不足分は家内が英語の家庭教師をしたりして補填してくれました。1980年の3月12日には長男新が生まれ、1982年6月16日には次男光が生まれました。私は8年5か月勤務した三菱スペースソフトウエアを退職し、バーズ情報科学研究所に5年半勤務し、1990年に日本酸素(現大陽日酸)に転職して2010年まで20年間勤務した会社を60歳で定年退職しました。日本酸素では文部科学省の核融合科学研究所のビックプロジェクトに低温制御システムの開発で1994年から2008年まで14年間参画することができ、また自社プラントの制御装置の開発等、制御技術者として第一線で活躍できました。日本酸素は100年を超える歴史のある会社でしたが、不思議な会社で会社として必要な人材は中途採用でも管理職で採用してくれました。最近、新聞紙上に記事が載ってましたが、三菱化学のグループ企業になるようです。もともと芙蓉グループに属していましたが、三菱化学のグループ企業としてこれから生きていくようです。

5. 定年後の生活
 会社は雇用延長制度を使わずに60歳定年退職しました。
仕事の方は妹が経営する小さい会社の役員に就任し情報関係のサポートを行っています。また、同時に千葉大学工学部人工システム専攻(博士課程後期)に進学しました。進学の動機は技術者として今までの開発したシステムの集大成として論文としてまとめたいと考えたからです。入学後、千葉大学工学部建築学科が主体的に行っていたSolar Decathlon Europe 2012に参画することになり、ソーラ発電関係の電気システム関係を担当し、2012年8月末から10月初めまで40日間、ソーラハウスの建築、競技会、解体等でスペインマドリッドに行ってきました。Solar Decathlon Europeとは一次審査を通った世界の20大学がスペインマドッリドの王宮の近くの公園に実際に決められたルールに従い、実際にソーラハウスを10日間で建築し、審査が640点、計測による得点が360点の合計1000点で得点を競うものです。日本から初めて競技会に参加したこともあり、成績は15位/20チームで惨敗でした。優勝チームはフランスのチームでした。敗因は審査資料の準備不足とエネルギ関係で思うように得点を取れなかったことでした。原因はソーラの発電システムが現地で一部正常に作動しなかったことでした。大学内で再チャレンジするか再検討したところ、もう一度2年後にフランス・ベルサイユで行われるSolar Decathlon Europe 2014に参加することに決定し、体制の再構築や建築する住宅の設計思想などの準備を進めて、つい最近ですが、2014年6月30日~7月11日まで競技会が行われました。千葉大の取り組みはNHKのニュース等でもちょっと取り上げられましたが、最終日の2日前までは暫定首位でしたが、EUの大学チームに追い上げられて最終結果は11位に終わりましたが、部門賞(3位までトロフィと表彰される)として建築とエネルギ部門で2位、建築&エンジニアリング部門で3位の成績を収めることができました。優勝はイタリア、2位はフランスでした。トップとの差は70点/1000点満点でしたが、今後分析することになると思いますがかなり善戦したと思います。千葉大は体制的(国立大学なので資金集めが容易では無いなど)にちょっと弱いところがありますが、東大、早稲田、慶応ならOB会の資金支援もかなり見込めますし優勝は無理にしてもかなり良い成績を出せるのではないかと思います。東大と芝浦工大の先生がベルサイユまで競技会を見学に来ていましたのでその気はあるのではないかと思います。是非、今後日本の大学でもチャレンジしてもらいたいと思います。
 博士課程での研究の方は、Home Energy Management Systemの開発をテーマにしています。私の将来の夢は、再生可能エネルギの比率を高めて、原子力発電所が無くてもエネルギ供給が可能となるエネルギ体制を作り上げることです。ソーラパネルのコストダウンが進み、蓄電池として利用可能な電気自動車が低コストで供給されるようになれば充分可能であると考えております。現在のソーラパネルは40万/kW位ですので、5kWのソーラパネルなら200万円の先行投資が必要ですが、屋根に載せれば電気代は売電買電でほぼゼロになります。また、ソーラ発電が増えると系統連系上電圧上昇等の問題が発生しますので、住宅用蓄電池や電気自動車の普及が必須となります。私の予測ではソーラパネルと電気自動車のコストダウンも進みますので、近い将来原子力発電が賄っていた30%程度のエネルギであれば再生可能エネルギで補えると思います。また、2年後には電力の自由化が行われますので、
関東では東京電力のみの電力供給体制でしたが複数のエネルギ供給会社から選択できるようになりますので、確実にコストダウンができるように変わっていくと思います。
現在、千葉大大学院の博士課程の内規で博士号を取得するには、英語の査読付き論文を1篇と和文の査読付き論文を一遍提出することが必須条件で、英語の論文は承認され、これから和文の査読付き論文を提出後、博士論文を作成することになりますので、博士課程は今年9月末日で満期退学しますが、論文作成にもう少し時間がかかる予定です。
 もう一つの重要な仕事が高等専門学校の非常勤講師です。本年度は都立産業技術高等専門学校(旧都立航空高等専門学校)で「メカトロニクス」と「制御工学」を教えております。高等専門学校は中学卒業後入学する5年制の学校です。国公立がほとんどですが、私立も少しあります。卒業すると短大卒業の資格が得られます。優秀な学生は4年生の大学の3年に編入します。約半分位が進学希望のようです。私が担当しているのは5年生なので大学では2年生に相当します。週に2科目で金曜日の朝8時40分から11時55分まで20歳位の学生に教えています。授業の準備やら試験問題作成、レポートの課題作成、採点等4月~8月、10月~2月位の間、少々忙しくしております。メカトロニクスは会社で学んだことを役立てていますし、制御工学は上智大学および大学院で学んだことをベースに学生に教えております。

6. 終わりに
 私のこれまでの人生の歩みの一部について長々とお話してきましたが、誕生、受験、進学、就職、結婚、転職、定年、大学院進学、高専の非常勤講師等、すべての事が神様のご計画に思われてなりません。私たちは皆神様のご計画の上で生かされているにすぎないことが分かります。もし、父と母に出会いが無ければ、私は生まれていません。地元の大学に進学していれば今の家内との出会いもありませんし、新も光も生まれていません。松原先生にお会いしなければ中山教会、津田沼教会にも通うことはなかったでしょう。また、私は会社員の時に人間関係で悩むことがあり、31歳の時に洗礼を受けました。洗礼を受けてから悩み事は、すべて神様に祈ることにしたらすごく楽になりました。
 津田沼教会では教会員の減少や、教会の財政の諸問題で教会の中がぎくしゃくしておりますが、この様な状況を神様はお望みでしょうか?これも神様が私達に与えてくださった試練なのではないでしょうか?教会員一同できる限りのことはすべきですが、すべて神様のご計画なのですから、祈りつつ、ゆだねたらいかがでしょうか?教会員同士で仲たがいしたりすることを神様がお望みでしょうか?是非、皆様もう一度考えて見てください。
  最後にお祈りをします。本日は信徒礼拝で証をすることができて感謝申し上げます。私の事を支えてくれた家内、今は亡き義父と義母、父や母、兄弟、会社でわたくしの事を支えてくれた人達に感謝いたします。また、神様、私にいろいろな試練やご計画を与えていただき深く感謝申し上げます。貴方が私に与えてくださったタレントをすべて発揮できているかわかりませんが、これからもあなたの教えに添えるように努力したいと思います。この祈りをイエスキリストの御名によりお捧げいたします。

アーメン。

2014/08/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「世界平和が訪れる日」(ミカ書4:1-5)
ミカ書4:1-5、2014・08・03、平和の主日、エフェソの信徒への手紙2:13-18、ヨハネ福音書15:9-12、讃美唱(イザヤ書2:2~5)
 
ミカ書4:1-5

終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうに木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。



説教「世界平和が訪れる日」(ミカ書4:1-5)

日本福音ルーテル教会では、8月の第1日曜日を平和の主日として、毎年、今日読まれました、ミカ書、エフェソの信徒への手紙、そして、ヨハネ福音書からのみ言葉が読まれ、一年に一度ですが、世界平和について思いを巡らします。
そして、私はほとんど、毎年、旧約聖書から、ミカ書の今日の部分4章1節から5節までを通して、多分、一年中でここだけではないかと思いますが、平和の主日にはここから説教をさせていただいています。それほど、旧約聖書では、最も有名な記事の一つであります。ご存じのとおり、それは、イザヤ書の2章にも殆ど同じ記事がありますが、アメリカの国連本部の壁に刻まれている聖句であります。「彼らは剣を打ち返して、鋤とし、槍を打ち返して鎌とする、もはや、国は国に向かって剣をあげない」という御言葉であります。
この言葉が、今から2千数100年も前に、ミカ書の中に、記されているのであります。これは、驚嘆すべきことであります。ミカとイザヤの二人の内、どちらの記した言葉なのか、説が分かれていますが、おそらく共通の伝承に基づいているのでありましょう。
しかも、ミカ書では、そのすぐ前には、イスラエル、エルサレムの指導者たちが、賄賂を受けたり、暴虐な政治、あるいは、邪悪な祭司たちのことが、あらわに暴露され、真実の礼拝がなされていないと嘆かれ、批判されているのであります。また、周囲の国々の暴虐や圧政、イスラエルの国への圧迫や侵入が記されているのです。
その中にあって、このミカ書4章1節から5節は、それまでとは、まったく違った終末の日々における世界平和の実現が預言されているのであります。終わりの日々にこうなると。すなわち、主の山は、つまり、エルサレムは、すべての山々よりも、高く上げられ、据えられる。800メートル位の標高のイスラエルの丘が、世界中のどんな山よりも高く上げられ、据えられる。そして、諸国の民は、そこに向かって、流れ来たると、言うのです。我々は主からその道を学ぼう。我々は、主の山へ行こう、なぜなら、主の教えは、エルサレムから、主の言葉は、シオンから出て来るからと、万軍の主の口が告げられたからだと。我々は、主、ヤハウェの道から学ぼう。
そして、あの有名な預言が続くのです。もはや、国は国に向かって、剣をあげず、彼らは、剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して、鎌とする。彼らは、もはや、戦うことを学ばないと。戦争の道具が、農業の道具へと変えられるというのです。
そして、主の民である人は、自分のぶどうの木の下に、あるいは、いちじくの木の下に座って、喜びを満喫するというのです。小作人として搾取される労働ではなく、ささやかながらも、祖先から受け継いだ自分の土地で、平和と憩いを満喫している、当時の農民たちにとって、理想的な人生を与えられているのであります。なぜなら、万軍の主の口がそのように語ったからだ、と。
そして、最後に、おのおのの諸国民は、おのおのの神の名によって歩む。しかし、私たちは、私たちの神、主の名によって、永遠から永遠に歩むと、歌っているのであります。
そのような世界平和は、それから、二千数100年を経った現在、いまだに実現していません。それは、終末的は神の支配したもう終わりの時まで、実現不可能として、現実世界の中では、今は理想郷として諦めるべきなのでしょうか。
決して、そうではありません。今日の第2朗読のエフェソ書や今日の福音、ヨハネによる福音書にありましたように、私たちの中に巣食う敵意や、誤解や、偏見、キリストが私たちを愛してくれたように、人が人を互いに愛し合うことができない罪から、戦争も生まれてくるものです。
私たちが互いに赦し合い、お互いの相違を認め合い、家庭に、職場に平和を実現することから始めましょう。それは、教会の中においても、同じことが言えます。
そして、ミカ書の記している世界平和の実現のために、今日の主日の祈りにあるように、世界の指導者たちが、主なる神の英知によって導かれるように祈り求めて行きましょう。
日本の国は、周囲を海に囲まれ、戦後69年、平和憲法のもとにあって、直接には戦争を起こさないで、平和を保って来ました。イスラエルのような国は聖書の書かれた時代から、四方を周りの国と接し、ミカ書の時代も、今も戦争や紛争に翻弄されてきました。しかし、今はさらに世界が複雑化し、他国の戦争にも巻き込まれやすく、昨今も集団的自衛権を巡って、日本国内外が、さらに世界が暗雲に包まれようとしています。
このような中で、私たちは、キリストが、剣を取る者は剣で倒れると言って、剣をおさめさせ、十字架の死を選びとられたことを知っています。
また、主イエスが平和を実現する人たちは幸いであると言われたことをよく知っています。彼らは神の子と呼ばれるであろうとマタイは山上の説教の始めに記されているのです。

私たちの教会の本棚に、一冊の、エルサレムの近くに住んでいた、15歳まで生きて、平和を熱望していたユダヤ人の、バット・ヘン・シャハクという少女の日記が本になったものが保管されています。最後は、テル・アビブに友だちと遊びに行って、アラブの少年の自爆テロによって短い生涯を終えました。何と15歳の誕生日の日の出来事だったと言います。しかし、彼女は、エルサレムの都に、ユダヤ人と、イスラム教徒と、キリスト教徒が一緒になって、混在しながらも住んでいるのは、すばらしい。しかし、どうして、アラブ人とイスラエル人は争いをやめないのか。世界平和が永久に来ないだろうか。しかし私は、その日が来ることを信じているし、心からそれを願っているとこの15歳の中学生は、熱望していました。
私たち日本人も、8月6日と9日、原爆の落とされた日、世界平和について祈りを合わせます。宗教の違いを超え、民族の違い、また、信条やそれぞれの生き方を、認め合って、互いに尊敬し合い、キリストの平和を、シャローム、完全さ、調和の状態を、今日から、私たちも、もう一度新たに祈り求めて行きましょう。


















2014/08/03(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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