津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなた方の魂に安らぎを」(マタイ11:25-30)
マタイ11:25-30、2014年7月27日、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―)、イザヤ書40:26-31、ローマの信徒への手紙7:15-25
 
マタイによる福音書11:25-30

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」




説教「あなた方の魂に安らぎを」(マタイ11:25-30)

今日、与えられました第1朗読のイザヤ書は、若者も勇者もやがては力衰えるが、主に望みを置く人は、歩いても疲れず、走っても倦まず、鷲のように翼を張って、かけあがるという有名な記事であります。神の言葉に信頼していく人の、終わりまでその信仰は衰えず、駆け抜けることができるという驚くべきイザヤの預言が記されています。
 また、第2朗読のロマ書、ローマの信徒への手紙では、パウロが、私は自分の望むことが実行できないで罪から抜け切れないでいる、で、この罪の奴隷の状態からどうしたらよいものだろうか、しかし、私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します、今や罪から解き放たれている、自由の身となっていると、一見矛盾したような逆説の真理、逆転している現在を告げる信仰告白の文章が出ているのです。
 それに、続いて、今日の福音は、マタイ福音書の要約とも言われる記事、11章25節から30節であります。
 主イエスは、マタイ5~7章の山上の説教でみ言葉を説き、そのあと、8、9章で10の奇跡を行い、次に12弟子たちを、ガリラヤの町々、村々へ派遣するにあたって、励ましと前もっての警告、心の準備を弟子たちに、言い含めるみ言葉が続いていたのであります。
 主イエス自身も、そのあと、周りのベトサイダや、コラジン、また、御自分の町であるカファルナウムで宣教したことが、今日の福音記事のすぐ前に記されているのでありますが、その町々は、天の国、神のご支配が接近しているにもかかわらず、福音を信ぜず、悔い改めなかったことで、その町々を激しく叱責されているのであります。
 今日の主イエスのみ言葉は、まさにその時において、主は、御自分を遣わした父なる神に向かって、賛美と感謝の祈りをささげ、また、すべての疲れ切っている者たちや、重荷を負ってる者たちに、招きの言葉を、語られているのであります。
 この、一見、悲嘆すべき出来事の直後に、主は、こう祈り始められました。「天と地の主である父よ、あなたをほめたたえます。あなたはそれらを、知恵ある者や知者たちに、啓示なさらず、それらを幼子、すなわち、無学で、小さな者たちに、イエスの12弟子たちに啓かにされましたと」。
「それら」というのは、主イエスのメッセージ全体を指しているとも言えますが、あるいは、端的に言えば「主イエスと共に始まっている天の国、神の支配が始まっているという救いの出来事、福音」を指しています。
それらの良き知らせを、カファルナウムの町の人々や、特にユダヤ教の指導たち、特にファリサイ派や律法学者たちは信じようとはしなかったのです。
 主は続けて祈られます。「父よ、すべてのものは、私にゆだねられています。そうです、父よ、このように、あなたのご好意は、あなたの御前に成りましたと。そして、御子を完全に知る方は、父以外にだれもおらず、父を知る者も、御子と御子がその者に顕わすのを欲する者以外にはだれもいません」と。
 主イエスは、このように無学な、取るに足らない者を弟子として選んで、宣教させるという愚かとも見える方法で、救いを宣べ伝えるのです。それは、2000年経った今も言えることです。主は大伝道者を用いて神の国を広げるのでは必ずしもありません。
 最近も暑中見舞いの返礼が、私のところにも返って来ていますが、神学校の先生たちも、神学教育に尽力し、また、教会の牧会にも関わっておられる先生もおられますが、育て上げる神学生たちを一人一人磨いて、現場へと、牧師としての按手を受けて出て行くまで、コツコツと、働き人を育てる方法しかないのです。それが、神さまの取る福音の種蒔きのやり方なのです。
 それから、主は、派遣から帰って来ていたであろう12弟子たちを中心に言われたのです。「すべての疲れている者たち、重荷を負っている者たちは、私に向かってやって来なさい、そうすれば、私が休ませるであろう」と。そして、繰り返して言います。
 「あなた方に向かって、私の軛をあなた方は担いなさい、そして、私から学びなさい、そうすれば、あなた方はあなた方の魂に安らぎを見出すであろう。なぜなら、私の軛は負いやすく、その荷は軽いからである」と。
 当時のユダヤ教の細かい律法規定の遵守のできない人々が大勢いました。ファリサイ派のラビたち、指導者たちは、モーセ律法の厳しい、守ることのできない規則で、民衆をしばり、特に罪人たち、徴税人や遊女たちを救いからもれていると裁いていました。
 主イエスは、そのようなすべての人に向かって、「私のところに来なさい。私の軛は負いやすく、その荷は軽いからである」と、又、「あなた方は私のもとに来て、魂に、真にあなたがたの存在全体に安らぎ、安息を見出すように」と、招かれたのです。
 そして、その招きは、この言葉が語られてから2000年経った、現在の私たちにも、差し出されています。
今日の主日の祈りにもありますように、主イエスの軛こそ、「平和の源」であり、私たちは、主イエスと共に、その軛を負って、人々に福音の喜びへと招く働き人となることができるのです。
 それは、安易な、楽な生き方を意味するものでは、決してありません。私たちの行為は、ファリサイ派にまさった正しい、生き方でなければなりません。主イエスは、「私は律法をないがしろにするために来たのではなく、かえって、律法を、旧約聖書を完成するために来たのであり、あなた方の義、そして行いは、ファリサイ派の義にまさったものでなければならない」と言われました。
 すべての疲れ果てている人、重荷を負っている人を、私は休ませるであろう、そして、あなた方に向かって、私の軛を負いなさい、そうすれば、あなた方は、あなた方の魂に安らぎ、休みを見出すであろうと言われていますが、それは、主イエスの軛を共に負い、その荷を共に担うということであります。
 マタイ福音書のイエスは、私たちが主イエスの教えを聞いて行う者になるようにと今も招いておられます。そして、それは主イエスと共に歩むとき、決して難しいもの、不可能を強いるものではないと諭しています。主の招きに従って、魂の安らぎを見出しつつ、柔和で心の謙遜なお方から学びつつ、今週も新たな歩みを、この礼拝から始めて行きましょう。アーメン。
 





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2014/07/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「弟子として目覚めて生きよう」(マタイ10:34-42)
マタイ10:34-42、2014年7月20日、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書28:5-9、ローマの信徒への手紙6:15-23、
 
マタイによる福音書10:34-42

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、
 娘を母に、
 嫁をしゅうとめに。
 こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


説教「弟子として、目覚めて生きよう」(マタイ10:34-42)

 私たちは、12使徒が宣教へと、主イエスによって派遣されるに際しての、きめの細かい主イエスの配慮に満ちたお言葉を、聞かされています。
 ややもすると、今回だけの主イエスの言葉として、見失いがちなのですが、これは、先にありました、12弟子たちへの命令と励まし、警告と注意のお言葉として、続いている演説の一節なのです。
 そして、それは、ただ12人だけに、2000年ほど前に語られた言葉ではなく、福音記者マタイの教会で読み続けられ、ファリサイ派からの迫害の中で、信徒たち、弟子たちに読み継がれ、そして、現代の私たちも、環境こそは大きく違っていますけれど、私たちの生活の場で、3年に一度、読みなおされ、説教されている、今なお、力と慰めに満ちた、主イエスのお言葉なのです。
 今日のこの福音記事をめぐって、それを、もう一度、思い起こしながら、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 主は、今日の個所で、始めに、「あなた方は、私が平和を、この地上に投ずるために来たのだと、考えないように」と、そうではなくて、むしろ意外な言葉ですが、剣を投ずるために来たのだと、言われます。メシアである主イエスの到来によって、分裂が引き起こされると言うのです。争いが起こり、不和や騒ぎが、しかも親しいはずの家族の中で起こるというのです。
 クリスマスの時、主イエスの誕生の時には、天使たちが歌い、「地には、み心に適う人間どもに平和があるように」と合唱したのではなかったでしょうか。
 そして、また、先週の、主イエスの12弟子派遣に際しての命令、指示においては、行く先々の町や村に入ったら、これこそと思えるような家を調べ、その家に入って、挨拶するように、その家の人が、平和に価すれば、その平和は、その家にとどまるであろうと、主は約束なさったのではないでしょうか。
 しかし、真の平和が与えられる前に、主イエスのメッセージを、受け入れる人と、受け入れない人とに、必ず分断され、分裂がもたらされるのです。ルカによる福音書の主イエスが誕生して間もないときに、エルサレムの神殿に両親に抱かれて宮詣でをしたときに、出会ったシメオンは、神をほめたたえると同時に、この子によって、多くの人が倒れたり、立ち上がったりすることになると預言したのでした。
 その通りに、主は、ここで、ミカ書7:6を引用して、人は父にはむかい、娘はその母にはむかい、嫁は、そのしゅうとめにはむかう、その人の敵は、その人の家の者たちであろうと、前もって、12使徒に、心備えをさせるのであります。
 私たち、この主のお言葉が語られてから、2000年近くなりますが、特に日本では、今なお、家族ぐるみで主イエスを信じるキリスト者が少ない現状の中で、主イエスのお言葉どおり、主イエスの弟子となるかどうかをめぐって、対立、分裂が、家族の中で起こっていない方が、珍しいのではないでしょうか。主はそれも御存じで、これらの言葉を語られたのであります。
 そして、さらに、「私よりも、私を超えて、父母を愛する者は、私にふさわしくない。私以上に、息子、娘を愛する者も、私にふさわしくない」と、厳しいお言葉を語られます。
 そして、「自分の十字架を負って、私について来ない者も、私にふさわしくない」と言われます。家族への親愛の情を否定しているわけでは決してありません。主イエスと共に到来している、神の国、神の支配に身をゆだねて、それをないがしろにすることなく、神の福音を宣べ伝えることが、何にもまして、真剣に求められ、第一とされねばならないというのです。
 そして、「自分の命を見出そうとする者は、それを失い、私のために、その命を失う者は、かえって、それを見出す」と言われます。
 私たちは、いろいろなものを欲しがりますが、あれもこれもは得られない者であり、あれかこれかを選びとらねばならない者です。
 今日の「主日の祈り」にありましたように、なにものにもまさる喜びを、私たちは求めなければならない。そのためには、主イエスの弟子として、十字架を担いながら、主イエスの後に従って行くことが、必要なのです。
 そして、そこにこそ、十字架を担う苦しみも伴ないますが、それ以上に、大きな喜びを、主は約束なさっているのであります。
 今、私どもの津田沼教会は、会堂建築のときの本教会からの借入金の返済に行き詰っていますが、これらの困難も、私たちが主イエスの弟子として、十字架を担い、主イエスの足跡にみんなで従って行くときに、必ず解決が与えられるのであります。
 そして、最後の文章は、慰めに満ちた主イエスの約束の言葉であります。
 「あなた方を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私を遣わされた者を受け入れるのである」と言われ、私たちのメッセージを受け入れる者は、実は神の使信、主イエスの使信を受け入れるのだと言われ、キリスト教の預言者を、預言者の名へと、すなわち預言者という理由で受け入れる者は、彼の報い、報酬を受けとり、正しい者を正しい者の名のゆえに、正しい者という理由で受け入れる者は、その報いを受けると言われ、これらの小さい者たち、12弟子たちに、冷たいものの一杯でも飲ませてくれる者は、彼の報いを失うことは決してないと約束されるのであります。
 私たちを、冷たい水の一杯でももてなしてくれ、また、私たちの使信、良き知らせ、福音を、水一杯だけでも飲ませてくれ、受け入れる者までも、あたしたちと同じ、大きな祝福を、キリストが、また、キリストを遣わした父なる神が約束してくれています。
 私たちは、これらの言葉にはげまされながら、主イエスの弟子として、常に目覚めて、主のご用に当たっていきましょう。アーメン。





2014/07/20(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストを証しする生涯」(マタイ10:16-33)
マタイ10:16-33、2014年7月13日、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書20:7-13、ローマの信徒への手紙6:1-11
 
マタイによる福音書10:16-33

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときには、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼベルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリアオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。なたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表わす者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」






説教「キリストを証しする生涯」(マタイ10:16-33)

今日は、聖霊降臨後第5主日でありますが、私たちはその聖書日課に従って、同時にここ数年、年に2回、持っています召天者記念礼拝をも兼ねて、あえて聖霊降臨後第5主日の福音日課を今日の福音として聞いたのであります。
幸いに、今日の福音の記事は、先に天へと召された、信仰の先輩や、また、直接にキリストを、自分の罪からの救い主とまでは、告白するには、至らなかった、実の親ですとか、伴侶をも、覚えて、礼拝に与っているのであります。
最近も、信徒に関わりのある方が、二人ほど天に召され、一人はある信徒・兄弟のお母さまであり、熱心な浄土真宗の信徒であり、今日は偶然にも石川県の墓地まで納骨に一日の日帰りで向かっているのであります。そして、そのご遺影だけは、教会に与って一緒に礼拝しているのであります。
もう一人は信徒の方の御主人であり、自分の最後の時は、「いつくしみふかき」をオルガンで演奏して見送ってほしいとの遺言があって、その通りにそうなさいました。
そして、津田沼教会で家族葬で静かな葬儀をとりおこなったのであります。身近な人の死は、大きな心の傷を、残された者に残します。私の経験からは、少なくとも、一二年は、それが続くのではないかと思います。
さて、私たちは、教会で故人のありし日を礼拝を通して偲ぶのでありますが、それは同時に、残された私たちに与えられている有限の命について、思い巡らし、悔いのない人生を送るように、思いを新たにする時でもあります。
今日の福音に思いを巡らしてみましょう。これは、先週の12弟子派遣の続きの、主イエスの、弟子たちを派遣するにあたっての命令、迫害の予告、あるいは、前もっての弟子として御あり方、さらには主イエスの約束の言葉であります。
マタイの福音書を生みだした教会は、ここに記されているように、非常な迫害の中にあったでありましょう。
あなた方は、鳩のように混じり気のない純粋さ、素直さを持ち、また、それと同時に蛇のように、賢く慎重な者になりなさいと、まず、言われています。それは、地方総督や王たちの前で、キリストについて証しをし、弁明しなければならない、迫害の時代が待っていることを予測しています。その時、何をどう言おうかと心配するな。必要な言葉を語らせるのは、天の父の霊であると主は言われます。
あなた方の髪の毛1本まで、数えられている。二羽の雀は、1アサリオンで売られているではないか。しかし、その一羽の雀も、父の許しなくしては、地に落ちることはないとも、言われます。
また、闇で私が語ることを、屋上で告げ広めよとも言われます。そして、人々を恐れるな。むしろ、肉体も霊も地獄で滅ぼすことのできる方、父なる神を恐れよと言われています。
そして、人間どもの前で、私を告白する者を、私も父の前で、告白しよう。逆に、人間どもの前で私を知らないという者を、私も、父の前で知らないと言おうと約束されています。
主イエスは、創世記の初めに、神がいつの日か、人間の犯した罪から、再び人間を救い出すためにエバに約束された種、待たれた子孫、すえでありました。
そのキリストを、私たちは信じ、また、人々にも証しする務めを与えられています。ここに、私たちが記念している、先立たれた、信仰の先輩、また、親しい肉親の生涯を思い起こしながら、残された私たちは、この聖書に約束されたキリストを、人々に紹介する生涯へと押し出されていきましょう。
恐れることはない。闇の中で示された真実は、覆われたままでいることはできない。主イエスという真実の救いは、やがて明らかになる。
屋上で、私があなた方に語った言葉を告げ広めよと、主イエスの言葉は、今も私たちを、励まし、再び、この世の中へと、私たちを遣わしてくれます。
天上で父なる神と主イエス・キリストと共に安らいでいる信仰の先輩たち、また、私どもを励まし、応援してくれた父や母や、夫、妻、それらの親しい故人を思い起こしながら、残された生涯を、キリストこそ、私どもの救いと証しする生涯を、ここから再び新たに踏み出しましょう。アーメン。
2014/07/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「今はよき訪れのとき」(マタイ9:35-10:15)
マタイ9:35-10:15、2014年7月6日、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―聖餐式)、出エジプト19:1-8a、ローマの信徒への手紙5:12-15
 
マタイによる福音書9:35-10:15

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次の通りである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落しなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」






説教「今はよき訪れのとき」(マタイ9:35-10:15)

「今はよき訪れのとき」と説教題をつけました。なぜ、今日の福音の記事から、「今がよき訪れのとき」なのか、今日の福音からしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
それにしても、もう7月に入り、あっという間に半年間が過ぎて行きました。私は、今年は例年になく慌ただしく、ここまで過ごしてきました。しかし、イエスも言われたように、必要なものは、意外と多くはなく、いや一つであるとまで、イエスは、ベタニアの姉妹、マルタに語ったのでありました。
さて、今日の福音は、山上の説教や、主イエスのなさった癒しのわざが、今日の部分の前にあり、それにつながる4章23節には、今日の出だしの文章と同じような要約文で始まっています。
いよいよ、主イエスが弟子たちに、天の国が近づいたこと、すなわち、み国の福音をガリラヤの町々、村々を巡り歩いて、多くの群衆に伝え、また、あらゆる病気や患いを癒されながら、また、悪霊を追い払いながら、そして、彼らの会堂で教えながら、宣教しておられたのであります。
しかし、主イエスは、群衆が、羊飼いのいない羊どものように、疲れ果て、横に倒れ伏しているのを、御覧になって、はらわたが疼く思いになられます。私どもが、主イエスから離れて、悲惨な状況になるのを、主イエスは、人事ではなく憐れまれるお方です。
主イエスは、弟子たちに、収穫は多いが働き人が少ない。収穫の主に願って、働き人を主が送ってくれるように願いなさいと、ここで語られました。現在の私たちのルーテル教会でも、み国の福音を宣べ伝えるため、特に牧師となって、献身する神学生が少ないのは、主イエスの時代と同じ状況が続いています。
さて、イエスは、12弟子たちを集め、彼らに汚れた霊を追い出す権能、あるいはあらゆる病気や患いを癒す権能を与えられ、宣教に送り出そうとします。その12使徒には、筆頭に、シモン・ペトロが挙げられ、最後には主イエスを裏切ったイスカリオテのユダが記され、その間には、「徴税人」マタイも含まれています。
そして、12弟子たちの派遣にあたって、彼らを指導する場面となっています。彼らに、異邦人の道に行ってはならない、また、サマリア人の町に入ってはならないと言われ、むしろ、イスラエルの家の失われた羊どものところに行きなさいと言われます。
ところで、主イエスの時代は、決して恵まれているとは言えず、イスラエル史においてももっとも悲惨な、希望を持てない時代であったと言います。しかし、そのような中でこそ、主イエスは、御自分の使命を発揮なさり、み国の福音を告げ知らせ、天の国が近づいたと、12弟子たちにもそのみ言葉を託して、派遣なさろうとしておられるのです。なぜ12人だったかと言うと、それは、イスラエルの12部族から来ています。新しい神の民、新しいイスラエルがここに誕生しているのです。そして、それは、現代の私たち、現代の教会にまで、受け継がれて来ているのです。
主イエスは、なぜ異邦人の道へと行くな、サマリア人の町へと入るな。むしろ、失われているイスラエルの羊のもとへ出て行きなさいと言われたのでしょうか。生前の主イエスは、イスラエルへの宣教を説かれ、復活後の主イエスによって、初めて世界宣教、異邦人宣教が説かれるようになったのでしょうか。
歴史的経緯は、確かめようがありませんが、いずれにしても、主イエスは、自分たちに与えられている場所は、まず、イスラエルにおいてであり、自分たちに与えられた特定の場所で、そこに、天の国は近づいたこと、神の支配が既に始まっていることを、伝えるように促しておられるのではないでしょうか。たとえば、今の私にとっては、ここ、津田沼教会が自分にとって宣教すべく与えられているその優先場所であります。
さて、弟子たちは、主イエスから、悪霊を追い払い、病気を癒す権能をゆだねられて、宣教へと遣わされていきます。そして、神の福音、良き知らせ、すなわち神の支配が、既に今、ここで、現在しており、その絶望的な状況にあった、選民イスラエルの家の失われた羊どものところに、良き知らせ、神の助力が、主イエスを通して来ていることを伝えるべく、12弟子たちが遣わされて行きます。
そしてまた、この津田沼教会に属する私たちも、牧師も信徒もその同じ権能、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気を癒す権能を与えられて、この世へと遣わされています。そして、主イエスと同じわざを行う権能を与えられている。死者をも起き上がらせ、病人たちを癒し、重い皮膚病の者たちをきよめ、悪霊どもを追い払いなさいと、主イエスは命じられます。そのような奇跡を行う力は、今の私たちには、考えにくいですが、その趣旨は、現代の私たちにも、理解できます。そして、主は、ぜいたくではなく、生活と宣教に必要不可欠は生活手段は、神によって与えられる。それで、行く先々で、泊まる家を見つけ、平和があなたと共にありますようにと挨拶し、そこを拠点に神のよき訪れを告げ知らせなさいと、命じておられます。
マタイでは、食糧を入れるナップサックも、杖も履物までも持って行かないようにと、まるで、不可能なところまで、徹底して放棄するようにと、一段と厳しい命令となっています。
それだけ、ぜいたくや、物質的豊かさに対して、警戒するように、マタイのイエスの言葉は、徹底されています。そして、よく調べて、その行く先々の町や村で、ふさわしい人を捜し、その家に、その町から出ていくときまで、とどまるように、主は命じられます。その家に入るとき、家の人に挨拶しなさい。その人が挨拶にふさわしければ、その平和は、その家にとどまるが、ふさわしくなければ、その平和は、あなた方に帰って来る。だから、そのときには、出ていくとき、足の裏の塵を拭い去って、裁きのふるまいを示しなさい。その町よりも、終わりの日には、ソドムやゴモラの方がまだ耐え忍び易いであろうと、主イエスは明言されているのです。
「今はよき訪れのとき」であり、神の支配は、今、ここで、私たち津田沼教会のメンバーと共に、既に存在しています。この喜びを、周囲の人々にも告げ広めてまいりましょう。
2014/07/06(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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