津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私どもが神に立ち帰るために」(マタイ9:9-13)
マタイ9:9-13、2014年6月29日、聖霊降臨後第3主日(典礼色―緑―)、ホセア書5:15-6:6、ローマの信徒への手紙5:6-11、
 
マタイによる福音書9:9-13

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」




説教「私どもが、神に立ち帰るために」(マタイ9:9-13)
  
今日の説教題を、「私どもが神に立ち帰るために」としておきました。私たち、ルーテル教会では、毎週のように、旧約聖書と使徒書と、そして、福音書から福音の記事から日課が与えられています。そして、殆ど52回、福音の個所から説教がなされます。そして、これはまことに恵まれていることであります。
教派によっては、牧師が、あるいは、役員会と相談して、毎週の説教の聖書個所を決めるのです。そのような教会の牧師は大変だと思います。しかし、また、そのような教会にもそこにしかない良さもあるでしょう。たとえば、福音書も、始めから、欠かすことなく終わりまで通読するといった場合の恵みも代え難いものがあるでしょう。
 しかし、また、私たちの教会では、朗読個所は3年サイクルで決まっていますので、3年前には同じ箇所での説教を聞くことになります。ですから、そこは、毎日の聖書日課、たとえば、ルーテルで出しています家庭礼拝のための聖書日課等を用いて、出来る限り、旧約聖書にも、親しみ、あるいは、「聖書を学び祈る会」や「英語で聖書を読む会」等にも出て、聖書を旧約聖書の初めから、新約聖書の終わりまで、隈なく親しむようにしたいものであります。
 ちなみに、津田沼教会では、現在は水曜日に、新約聖書の通読を、使徒言行録から始めて、ヨハネの黙示録まで一通り終わり、つい最近から、ヨハネ福音書に戻って、そこから通読をし始め、また、「英語で聖書を読む会」では、旧約聖書をエレミヤ書やルツ記を終わって、現在、ヨブ記に入ったところであります。また、今日は、内海先生を通して、毎月、日曜日に1回ずつ「フィリピ書を読む」を開始しまして、今日はその2回目に入るところであります。
 いろいろな方法で、皆さんにそれぞれふさわしい聖書に親しむ機会をもっていって頂きたいと思います。
 さて、今日の第1朗読は、ホセア書の預言の言葉でありました。今日の主イエスが引用なさった6章6節の言葉が含まれています。私、すなわち、神が喜ぶのは、いけにえよりも愛、不変の確固たる愛であり、あなた方が神を知ることであって、焼き尽くすささげものではないとホセア書では既に預言されているのです。
 また、第2朗読は、ローマ書の5章の6-11節のパウロの言葉であります。わたしたちが神に敵対していた時にも、神はキリストを十字架の死につけて、私たちの罪を赦し、和解してくださったというのであります。
 そして、マタイ福音書では、マタイ福音書記者自身が、主イエスによって、弟子へと召された出来事が淡々と、簡潔に、明瞭に記されています。マタイでは、罪の赦しの権威を持つ主イエスの奇跡のわざの出来事の次に、この記事が置かれています。
 これは、カファルナウムの近くの関所にあった収税所、あるいは、収税局のそばを、主イエスがお通りになったときの出来事であります。主イエスは、そこを通り過ぎようとしていたとき、徴税人マタイが収税所で座っているのを御覧になります。そして、最初の4人の漁師を招いた時のように、簡潔に、私に従いなさいと主イエスが呼びかけると、彼は立ち上がり、ついて行ったとだけ、書かれています。マタイの驚き、喜び、そしてその胸中はいかがだったでしょうか。
初代教会で、最初の500年間は、最初に書かれた福音書は、マタイ福音書だと堅く信じられていたのであります。それほど、大きな影響力を持つマタイ福音書の記者にまでなっていったのであります。
今日の個所も、マタイらしく、非常に整った文体で書かれています。
  そして、マタイは、自分への主イエスの招き、自分自身の召命のことそれ自体は、9節の1節だけで簡潔に記しています。そして、その家、おそらくマタイの家でありますが、そこで、イエスとその弟子たちは食事のために横になっています。そして、さらに、徴税人たちや、罪人たちも大勢、食べために横になっているという出来事が起こったのでした。
 それに対して、ファリサイ派の者どもは、彼の弟子たちに、何の故に、徴税人や罪人と共に、あなた方の先生は食事をしているのかと質問するのであります。ユダヤ人たちは、異邦人とは食事を共にしない実情でありました。
 また、異邦人とも交わり、貪欲な利益を得ていた徴税人や罪人たちと、好んで親しみ合う主イエスをいぶかしく、腹立たしく、彼らは不審に思ったのです。
 ところが、それを聞いたイエスは、言われます。医者が必要なのは、健康な人ではなく、病人であると。それは、当時の格言のようなものだったでしょう。そして、彼らに向かって、あなた方は行って、以下の聖書の言葉が、何なのか、学んで来なさいと、マタイにしかない文をここに挿入しています。それは、私が望むのは、憐れみであって、いけにえではないとのホセア書6章6節の預言の言葉でした。細かい法令遵守が、そして、それによって自分を誇ることが重要なのではなく、神を信じ、神に目を向け、犠牲をささげる以上に、へりくだった心、不法や悪の縄目を解くことが、まず、何よりも大切なのです。
 そして最後に、なぜなら、私が来たのは正しい人、あるいは義人を、弟子として招くためではなく、かええって、罪人を招くためだからであると、主は答えられたのであります。
 マタイは、このあと、12弟子の召命のところでも、徴税人マタイと、他の福音書にはない言い方をしています。
 そして、マタイは、それまで、さげすまれ、暗く生きていたでありましょうが、12弟子の一人とされて、この後の人生を、主イエスに導かれながら、歩み、このマタイ福音書をも、記す者へと大きく変えられたのであります。
 しかし、これは、私たちの姿でもあります。教会は、罪赦されて、義とされた者、罪人の集まりであります。マタイ福音書と共に歩むことが出来るこの1年を心から喜びたいと思います。
 それでは、ファリサイ派の人々は、この招きから除外されているのでしょうか。いや、そんなことはありません。すべての人が、主イエスの招きに与るように、今日の出来事を通して示されているのです。1週間、1週間、どれだけ多くの困難や試練にさらされていることでしょう。
 しかし、それだからこそ、私たちは毎週あえて礼拝に集い、言葉と思いと行いによって、主のみ前に犯した罪を懺悔しつつ、再び希望に満ちた、次の1週間へと派遣されていくのです。
今日の福音書の記事は、私たちの出発点であり、絶えず神に立ち帰りつつ、信仰の旅路をそれぞれの人生の最後まで歩ませて頂きたいと思うのです。アーメン。


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2014/06/29(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「み霊のむすぶ実」(マタイ7:15-29)
マタイ7:15-29、2014年6月22日、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)、申命11:18-28、ローマの信徒への手紙1:8-17、
 
マタイによる福音書7:15-29

 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を
こともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。




説教「み霊のむすぶ実」(マタイ7:15-29)

ガラテヤの信徒への手紙の5:22に、「これに対して、霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意・・」というパウロの言葉が記されています。毎週、説教題を1週間前に週報に載せます関係上、説教題も後から考えると、少しまずかったなと思うことがあります。今回がそれでありますが、しかし、さらに考えると、み霊の結ぶ実、すなわち、そのもたらす行いは、私たちを平安にし、喜びと親切と寛容などへと結果的には導くものであり、よい木はよい実、すなわち、よい行いをもたらすことと、結びつく題であると自分を納得させているところであります。
さて、今日から、改めて、聖霊降臨後の季節として、マタイの福音書により、主イエスの語られたみ言葉となさったみわざが、このA年の教会暦の終わりまで、取り出されて読まれることは、大きな喜びとするところであります。マタイは、来週の個所にも出て来ますように、徴税人でありましたが、主イエスに呼ばれて、そのあとに、従って行った人であります。
そして、第一の福音書と長らく考えられましたように、素晴らしい文体と表現に恵まれています。今日の並行記事を、ルカ福音書の記事で、帰って比較していただきたいのであります。その覚えやすく、繰り返しや、シンメトリイと言いましょうか、それらを使った文章は、マタイに特有なものであります。
さて、マタイは、この山上の説教の締めくくりの部分で、偽預言者にあなた方は警戒するようにと呼びかけています。そして、彼らは羊の装いにおいて来るが、その中身は、飢え切った狼であり、あなた方を滅ぼしに来た者だと言われます。そして、その正体は、その実で分かる、すなわち、彼らの行いを見ればわかると言うのであります。
良い木から良い実が生まれ、悪い木から悪い実が生まれる。ルターは、信仰がよい行いのためには不可欠であると言いましたが、ここで、主イエスは、口先だけの信仰ではだめであると言われているのであります。そして、また、ただ、主よ、主よと言う者が皆天の国に入れるのではなく、天におられる父のご意志を行う者だけが、入るのであると言っています。
私たちは、行いによって義とされるのではなく、神の憐れみによって、お恵みによって、罪赦され、救われるのでありますが、み言葉、主イエスの言葉を聞いて行う者のみが、かの日、主の日に、裁きにたえうるのであります。
預言という聖霊のたまわるカリスマ的な熱狂者たちも、天の父のご意志を行う者でなければ、主のみ名によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行い、癒しを行ったとしても、迎え入れられないのであります。
そして、主は、御自分の言葉を聞いて行う者をみな、岩に向かって家を建てた賢い人に譬えられます。雨が降り、川があふれ、風が吹き、彼の家に打ち当たっても、倒れなかった。岩を土台としていたからであると、言われ、イエスの言葉を聞いて行わない者は皆、砂上に家を建てた人に似ていると言われます。そして、嵐のとき、それは倒れ、その倒れ方はひどかったと言われます。群衆は、これらの主の教えに圧倒されていた。彼らの律法学者のようにではなく、御自身の権威において語る者のようだったからと記されています。主イエスの言葉を聞いて行うかどうかで、呪いと祝福に分かれます。主の御言葉に聞きづづけ、行い続け、とどまることは、難しいことですが、私たちに真の平安と喜びをもたらすのであります。主イエスのみ言葉に聞き、真剣にとどまり、み霊のむすぶ実に与っていく者となりたいものです。アーメン。


2014/06/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「いつも、あなた方と共に」(マタイ28:16-20)内海望牧師
マタイ28:16-20、2014年6月15日、三位一体主日(典礼色―白―)、イザヤ書6:1-8、コリントの信徒への手紙二13:11-13
 
マタイによる福音書28:16-20

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


説教「いつも、あなた方と共に」(マタイ28:16-20)内海望牧師

 マタイは、イエスさまが私たちに近づいて来られる場面で、福音書を閉じています。これは素晴らしいことではありませんか。マタイは降誕の出来事を「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という言葉で始めていますが(1章23節)マタイ福音書全体を通して、このインマヌエルという言葉が鳴り響いているのです。イエスさまは、最後まで私たちに近づき、共にいて語りかけて下さる方なのです。この「語りかける」という言葉が大切です。神さまは、創世記の最初から「語りかける方」です。「語りかける」ということは「心を通い合わせる」ということを目的としています。つまり、「愛し合う」ということこそ、神さまにかたどって創られた人間の特徴なのです。神さまから与えられた最大の恩恵なのです。
 その恵みを、傲り高ぶった人間が失ってしまったのが、バベルの塔です。バベルの塔は、人間が自分の技術に己惚れ、神の場所を簒奪しようと建築し始めたのです。結果はお互い言葉が通じ合わなくなり、混乱のうちに挫折するのです。それ以来、人間の世界は「心を通い合わせる力」を失い、世界は自我と自我、利己と利己のせめぎあいの場所となってしまいました。
 このような世界を、もう一度新たに建て直したのが、聖霊降臨の出来事です。聖霊が注がれた時、全世界から集まっている人々が、弟子たちの説教を、夫々の生まれ故郷の言葉のように理解することが出来たのです。それが、新しいイスラエルの民、教会の誕生になったのです。言葉が違っても、心を通い合わせることが出来るようになったのです。
 それでは、今、ここで「語りかけられている弟子たち」はどうであったでしょうか。「疑う者もいた」という言葉が心に刺さります。弟子たちの間に、「不信仰」は最後まで残っていたのです。しかし、私たちは弟子たちを責めることは出来ません。私たちも決して信仰深いとは言えません。どちらかというと自分の利益を先に考え、行動し、神さまのことは忘れてしまうような存在です。「私は罪人です。不信仰な私を助けて下さい。」と告白しないでは一時も生きていけないような不安定な脆い信仰しか持ち合わせていません。
 それでも、イエスさまは、そのような弟子たち、そして、私たちに近づき、語りかけて下さる方なのです。イエスさまは、まさに、そのような不信仰な罪人を贖うために、十字架に死に、罪の赦しを与え、復活によって新しい命を与えて下さる方なのです。素晴らしい、しかし、まことに高価な、大きな恵みです。
 御利益信仰というのは、「私の願い」を叶えて下さる方を拝む信仰ですが、イエスさまは、私たちの小さな願いをはるかに超えた大きな恵みを無償で与えて下さる方なのです。そのために自分のいのちさえも投げ出して下さる方なのです。「そのために」と言いましたが、「私のために」と言い換えたほうが良い言葉です。「疑う弟子たち」は「イエスさまは、他ならぬこの私を救うために命を捨てて下さった」という事実を知った時、どのように感じたでしょうか。パウロは、「キリストの愛、われらに迫れり」(コリント二5:14)と叫んで、その喜びを表わしています。その愛に押し出されて、どうしても、このキリストの愛を人々に伝えたいと立ち上がったのです。ペンテコステの朝、何者をも恐れず、堂々と説教したペトロも同じ心であったことは間違いありません。イエスさまの恵みは、私たち人間の小さな願い(打算)を吹き飛ばし、新しいいのちの息吹を与える大きなものなのです。私たちは、イエスさまの恵みを自分の小さな願い(打算)にすり替え、矮小化してしまっているのではないでしょうか。
 恵みはここにとどまりません。更に、イエスさまは、私たちが「疑う者」「弱い信仰しか持てない者であることは良くご承知です。しかし、それでも、私たちに近づき、使命を与え、「愛の器」として用いようとして下さるのです。
 それでは、イエスさまが私たちに与えて下さる使命とはどのようなものでしょうかそれは、「すべての民を私の弟子としなさい。」というものです。これは、キリスト教を全世界に広めなさい」ということでしょうか。断じて違います。「恵み」を、私たちの理解できる小さな打算にしてしまうと同じように、私たちは、「伝道」という言葉も矮小化してしまい、イエスさまの大きな愛の心を見失うことがあります。「何人受洗者がでたか」とか「礼拝出席者が何人増えたか」など。それらが無意味であるとは言いません。一つづつ積み重ねて行くことは大切です。しかし、問題は、いつの間にか、そのようなことばかりを問題として、イエスさまが与えて下さった恵みまで小さくしてしまう点にあります。
 イエスさまが、「すべての民を私の弟子としなさい。」とおっしゃる時、それは、『「地の果てまでも」「最後の一人に至るまで」、私の愛は伝えられねばならない。』ということなのです。イエスさまの十字架と復活によって、人間の最後の敵である罪と死は滅ぼされたのだ、だから、共に新しい命に生きよう、と最後の一人にまで呼びかけよという意味なのです。この他に、目的はありません。ひたすらに、言葉と行いによってイエスさまの愛を伝えることです。
 しかし、「洗礼を授け」とあるのはどうしてでしょうか。洗礼の意味を考えてみましょう。「洗礼とは、古い罪人が溺死し、新しい命が与えられる出来事」です。純粋に「恵みの賜物」です。「信者獲得の手段」などではありません。これによって弱い私たちがイエス・キリストの愛にしっかりと結び付けられるのです。私たちに生ける命の水を与えてくれる力なのです。「この賜物を携えて、私の愛を伝えなさい。」とイエスさまは弟子たちを送り出そうとしているのです。イエスさまは、私たち罪人をも、このように大きな使命のために用いるとおっしゃっているのです。
 しかし、イエスさまの言葉はここで終わりません。更に、「(見よ、)わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる。」と約束を与えて下さるのです。送り出すだけで、「あとは君たちで頑張れ」とおっしゃるのではありません。「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。」(ヨハネ福音書14章18節)と約束して下さったイエスさまは、その約束を必ず守って下さる方です。インマヌエルがここにも出てきます。これに優る平安があるでしょうか。
 私たちの信仰など小さいものです。つかず離れずのような頼りないものです。しかし、私たちの信仰がどんなに頼りないものであっても、イエスさまは、私たちをあてにしてこの大きな使命を果たすために、送り出して下さるのです。だからこそ、「世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる。」と明言して下さるのです。これは、「あなた方の間に聖霊を残しておく」という意味です。あのペンテコステの朝に、弟子たちに注がれた聖霊は、今も教会に注がれているのです。このことを信じる時、私たちはあらゆる不安や絶望から
解放されます。この世界にはいまだにバベルの混乱が満ちているように見えます。しかし、私たちは断固として、「インマヌエル」の事実を信じましょう。新しい時、救いの時は既に始まっているのです。
 19世紀終わりから20世紀中葉まで活躍したシュニーヴィントという聖書学者がいます。その注解書は、時を経た今でも色あせず用いられています。彼が死の床で語った言葉が残されています。それは、「私はもう祈ることが出来ない。苦痛があまりにも烈しい。しかし、私は、いつも私のために祈りたもう方にしがみつく。」というものです。自分が祈ることすらできない全く無力の中にあることを知りつつ、キリストが共にいて、自分のために祈り続けて下さるという恩恵に身を委ねてその生涯を終わったのです。
 私たちの人生があとどれだけ残されているのか誰も分かりません。しかし、「いつも、共にいる」と約束して下さったイエスさまによってあてにされている一人であることを信じ、与えられた日々をイエスさまの愛を伝えるために生きて行きましょう。真剣に、しかし、「共にいて下さるイエスさま」によって平安を与えられた者として、軽やかに。「最後の一人にまで」。その力を、聖霊は必ず与えてくれます。その時、私たちは確信をもって、「アーメン。私を遣わして下さい。」とイザヤと共に答えることが出来ます。
2014/06/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「変えられた弟子たち」(使徒言行録2:1-21)
ヨエル書3:1-5、使徒言行録2:1-21、ヨハネ福音書7:37-39、2014年6月8日、聖霊降臨祭(典礼色―赤―聖餐式)
 
使徒言行録2:1-21

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話ををしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フィリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者たちもいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
 終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
  下では、地に徴を示そう。
  血と火と立ちこめる煙が、それだ。
  主の偉大な輝かしい日が来る前に、
  太陽は暗くなり、受世の
  月は血のように赤くなる。
  主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」




説教「変えられた弟子たち」(使徒言行録2:1-21)

皆さん、今日は、聖霊降臨祭、ペンテコステ、おめでとうございます。約束されていた復活の主イエスの聖霊降臨を、弟子たちは従順に信じて、エルサレムの都の一角でひとつどころにとどまっていたのであります。彼らはもはや、主イエスとの離別を悲しむことなく、喜びに満ちて、エルサレムの神殿の境内で、神をほめたたえ、約束されたものの来る時を信じて、一つ所に、心を合わせて祈りながら、待っていたのであります。
時は、過ぎ越しの祭りから、数えて50日目(ペンテコステ)、五旬祭、あるいは七週の祭りとも言われていた時で、大麦の初穂をささげる収穫感謝の祭りであると共に、この祭りは、出エジプトの民が、シナイ山で律法を授与されたことを想起するものでもあり、この時、ユダヤ人たちにとっては、出エジプト記の19章と20章が朗読され、十戒がモーセを通して、神から与えられる一連の記事が読まれる時でもありました。ユダヤ人たちにとっては、自分たちが、神の民であり、イスラエルの民であることを確認する大事な時でもありました。
そして、地中海近辺の離散のユダヤ人たちだけではなく、はるかのユーフラテスの東、メディアや、アラムからも、また、カスピ海や黒海近辺からも、また、エジプトや主イエスの十字架を担わされたキレネ人シモンのように、キレネ近辺からも、また、広い意味でのユダヤ、すなわちシリアをも含む場所からも、あるいは、クレタ島やアラビアの内陸からも、ユダヤ人のみならず、ユダヤ教への改宗者たちも、後に十に使徒たちが目指したローマからの滞在者なども既に来ていて、都エルサレムに溢れていたのであります。
その時に、約束されていた聖霊が弟子たちの上についにくだったのです。天から、暴力的な風がもたらすような音が成り、弟子たちのいた家中を満たしたのであります。
ここでの家とは、エルサレムの神殿の境内を表わしているのかもしれません。この祭りのため都に滞在していた大勢がその音に驚いて、やって来ますと、弟子たち、120人であったでしょうか、それ以上のガリラヤからの主イエスに従って過ぎ越しの祭り以来、都にとどまっていた大勢であったでしょうか。彼らは、炎のような舌の形をした聖霊が一人一人の頭の上にとどまり、現地に集まっていた、その異国の地から来た人々に分かる、それぞれの母国語で、神の大いなるみわざ、素晴らしさを、み霊が語らせるままに語っていたのであります。こういうことは、実際に起こり得ることなのでしょうか。
この記事、使徒言行録の2章1節から21節までは、他には見られないほど、異なる写本、これを異読と言いますが、それが多いのです。ルカが苦心して、この出来事を、私たちに何とかして、残したいという願望の結果でもあるでしょう。
集まって来た人々は、正気を失い、これはいったい何なのかと言って、困惑してしまいます。ある者たちは、甘い新酒に酔っているだけだとあざ笑いました。
そのとき、ペトロが11人と共に立って、声を張り上げ、聞いてもらいたいことがある、どうか、私の言葉に耳を貸して頂きたいと声を張り上げます。
今は、朝の9時だから、彼らは酒に酔っているのではない。これは預言者ヨエルによって預言されていたことなのだと、本日の第1朗読を取り上げます。しかし、それとは多少の食い違いがあります。
終わりの日々に、神は言われる、こうなるだろうと、ルカは、改め、あるいは付け加えています。終わりの日が、この聖霊降臨の出来事を通して、既に始まったと、ルカは言いたいのであります。
そして、わたしの霊から、すべての肉、すべての人に向かって私は注ごう。そして、あなた方の息子、娘は預言し、あなた方の若者は幻を見、老人たちは夢を見るであろう。さらに、私の僕や、はしためもさえに向かっても、それらの日々に私の霊から、私は注ごう、すると、彼らも預言するであろうと。
そして、上では異変が起こり、地でも、しるしが見られる。太陽は闇に変えられ、月は血のようになり、地では血と火と煙の蒸気を私は見させよう。主の日、大いなる、注目すべき日が来る前に。しかし、私を呼び求める者は皆、救われるであろうと、あのペトロは、カモの裁きではなく、神の約束、救いが、この日成就したと大胆に宣言する者へと変えられているのであります。ヨエルの預言は、十字架の主イエスの死によって、実現され、あのとき、太陽は隠れ、満月も色を変えたでありましょう。そして、主の約束通り、この日聖霊はくだり、ガリラヤから来た弟子たちは、神の約束、十字架につき、復活し、昇天した主イエスに対して、聖霊をこの日、神が弟子たちに注がれたことを、大胆に証しし、聖霊に満たされて、主イエスこそキリストだと説教する者へと変えられているのであります。
神を畏れ敬い、礼拝する新しいイスラエルの民、すなわち、教会がここに誕生したのであります。あの主イエスの十字架につかられるとき、おじ惑い、逃げ回っていた弟子たちが、ついに新しい人間として創り変えられ、キリストの平和を伝える器へと、この日を境に変えられたのであります。
そして、主イエスの十字架と復活と昇天によって、人類に与えられた救い、この不義の時代から救われ、新しい命を主によって与えられたことを、それぞれの国から来たユダヤ人たちに、また、ユダヤ教への改宗者たちにその生まれ故郷の母国語で大胆に証言するのです。
そして、彼らはここから、この後の記事ではパン裂き、聖餐(感謝)を守り、愛餐を分かち合い、交わりと奉仕に生きるキリスト教共同体へとつながっているのであります。私たちは、今日の記事に見る2000年前の弟子たちと同じく、聖霊に導かれて礼拝をしています。そして、これから同じ聖餐に与り、主の体とその尊い血のもとに一つとされて、ここから新しい1週間の命へともう一度押し出され、生かされていきましょう。アーメン。
2014/06/08(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天に上げられるキリストの祝福を身に受けて」(ルカ24:44-53)
ルカ24:44-53、2014年6月1日、昇天主日(典礼色―白―聖餐式)、使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23
 
ルカによる福音書24:44-53
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。




説教「天に上げられるキリストの祝福を身に受けて」(ルカ24:44-53)

皆さん、今日は主イエスの昇天を祝う主日です。先日の5月29日の木曜日が昇天日でありました。主の復活から40日目です。
そして、来週の主日が50日目、すなわちペンテコステ、聖霊降臨祭です。私たちは、今年は4月20日の日曜日が、復活祭、イースターで、その日から、主のご復活を祝って来ました。
しかし、今日は、復活の主の地上での最後の日です。それにもかかわらず、今日の弟子たちは、大きな喜びと共に、主イエスと別れて、ベタニアの山から、エルサレム神殿の境内へと、戻って来て、「絶えず」、これは文字通りには「すべてのことを通して」と訳せるのですが、弟子たちは、そのようにして「神をほめたたえていた」と、ルカ福音書は、終わっているのです。
そして、その同じ記者ルカによる第2巻の使徒言行録へとつながっているのです。この不思議な福音書の結末がどうして、起こったのか、しばらくご一緒に考えてみましょう。 
ルカ福音書は、エルサレム神殿の中での祭司ザカリアの出来事から始まっています。それは、ザカリアのその時の恐れと不信仰から、始まっています。
そして、ルカ福音書は、9章51節から、エルサレムの十字架に向かっての、そして、主の復活と昇天に向かっての「旅の出来事」として記されています。
弟子たちは、この9章51節以来、主の受難、死と復活について主から聞かされていましたが、実際にどういうことなのか、主の十字架の時までとうとう分かりませんでした。
しかし、復活の主に、エマオで二人が気づき、エルサレムに引き返します。そして、主は、ペトロにも現れたことを知らされています。
そして、今日の記事の直前では、「弟子たちの真ん中に」、三度目に主が現れ、お立ちになります。主は、「生前に言っていた私の言葉は成就しなければならなかった」と、言われ、「モーセの五書、預言者たち、そして、詩編は、すべて私について記されたものである」と言われ、「その通り、メシアである私は苦しめられ、死人の中からよみがえり、あなた方のところに現れているのだ」と言われ、あなた方は私の証人になり、エルサレムから始めて、「その名によってすべての民に、罪の赦しにいたる悔い改めが、告げ広められている」と書かれていることを、彼らに言われたのです。
文字通りに訳すと「彼のその名の上に罪どもの赦しへの悔い改めが告げ広められている」というのは、神さまが主体となって既に罪の赦しを聖書の中で宣言しておられるということです。
それは、悔い改めが既に告げ知らされていることを、弟子たちが宣べ伝えるのです。イエスの名によって、そのことをも宣べ伝えるというのは、既に神によって罪が赦されていることから来る悔い改めを弟子たちが、証人となって、伝えて行くのです。神がイエスの受難、復活をもとに、悔い改めを呼びかけておられるのです。
イザヤ書44章21、22節にこうあります。
「思い起こせ、ヤコブよ、
 イスラエルよ、あなたはわたしの僕。
わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。
イスラエルよ、わたしを忘れてなならない。
わたしはあなたの背きを雲のように、
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」
私たちが、悔い改めたから、罪が赦されるというのではなく、神によって、その憐れみによって、私たちの罪が先に赦されていることを、イスラエルの民だけでなく、ルカの主イエスは、全世界の民に告げ広める、主イエスの復活の証人に、私たちは、既になされていることを告げるのであります。
そして、旧約聖書が、キリストである主イエスについて約束し、預言されているものであることを、復活の主は、弟子たちの心の目を開いて、理解させたのであります。
こうして、イスラエルの民だけでなく、全世界の民に、エルサレムから始めて、復活のイエスの証人として、私たちも立てられているのです。こんな私がとも思いますが、主は私たちをも、いや、この私たちをこそ、ぜひとも必要とすると、保証してくださっています。
そして、主は、弟子たちをベタニアの方まで連れて行き、両手をあげて祝福されます。それは、十字架の傷跡の残る主が、天へと上げられながら、天と地をつなぐ祝福となるのであります。
私たちの悲しみも喜びも、この主が受け入れ、祝福して下さるのです。礼拝の終わりに牧師が祝福しますが、これは、この時の復活の主の祝福なのです。祝祷と言う言葉もありますが、主イエスの側からの祝福その者であります。
弟子たちは、この別れが、悲しみではなく、全人類への祝福によって、父の右の座にお着きになるものであり、今からは、この主と父が、地上の残される私たちに、聖霊を遣わして、私たちを慰め、励ますことを知って、弟子たちは、復活の主を礼拝し、ひれ伏して、大喜びの内に、エルサレムに戻って、従順に約束されたもの、すなわち聖霊が降るのを待ち、神をほめたたえていたのであります。主の「祝福」も、私たちの、神に対する「ほめたたえ」も同じ言葉であり、「ほめる」とか、「良く言う」という意味であります。
私たちもこの日の復活の主によって祝福され、喜びも悲しみも、主にゆだねて、聖書を悟らされ、「神をあらゆることを通して、ほめたたえながら」、この礼拝の場から、新しい人生へと、ここから出て行きましょう。アーメン。


2014/06/01(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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