津田沼教会 牧師のメッセージ
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「父、み子、み霊の励まし」(ヨハネ14:15-21)
ヨハネ14:15-21、2014年5月25日、復活後第5主日(典礼色―白―)、使徒言行録17:22-34、ペトロの手紙一3:8-17
 
ヨハネによる福音書14:15-21
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。」


説教「父、み子、み霊に励まされて」(ヨハネ14:15-21)

いよいよ、復活後の主日としては、復活節最後の主日を迎えました。来週の昇天主日の出来事も、復活につながる結論ですので、復活節と言えなくもありませんが、今朝はヨハネ福音書からのテキストによる復活節の最後の日曜日です。今日も、使徒言行録、ペトロの手紙一のいずれの聖書日課も、復活節を祝うのに、ふさわしい記事が読まれました。
第1の朗読使徒言行録17:22-34は、アテネでパウロが復活の救い主イエスを説教している部分です。昨日はT兄のお母さまが亡くなって、浄土真宗大谷派のお通夜に、美咲駅すぐ近くの、ある斎苑に行ってきましたが、和尚さんの説法では、やはり、すべての人が死ぬことを中心に語られ、仏様になられた故人を偲びつつも、人生の短さを説き、この葬儀の時や法事の時などの機会を通して、より良く生きることを説く、仏教としてはかなり長い説教でした。
パウロも、今日の使徒言行録の個所でアテネの町で、苦労して、十字架から死んでよみがえった主イエスの復活の証人としての伝道をしていますが、それは今もなお、同じように、人々に証しするには困難を極めていることに変わりはありません。
 さて、今朝は、先週の続きのヨハネ福音書の福音です。主イエスは、今日の部分の始めと終わりに、私の掟、命令、戒めを守る。私の掟を持ち、守る人は私を愛する者であると繰り返しています。
 主イエスの掟とは、複数形ですけれども、互いに愛し合いなさいということと、主イエスの言葉を守り、せっかく見出した、主の救いの教えから離れないということです。このヨハネ福音書が書かれた当時、ヨハネ共同体は、ファリサイ派からの迫害の中で、主イエスの言葉にとどまろうとして、必死で戦っていました。
 そういう中での聖霊、弁護者、パラクレートスを送るとの告別講話での主イエスの約束であります。
信者たちは、この紀元後90年代、もちろん生前の主イエスは遠い過去の人物となりつつあり、頼りを失い、さびしい状態で頑張っていました。しかし、その中で、今日の主イエスの告別説教を通して、弁護者によって励まされ、復活の主と、父を証しする、この聖霊に励まされて、信仰を守り、復活の証人とされていったのです。
 私たちも、今は、主イエスも天の父も直接には見ることが出来ませんが、今も、2000年来、派遣されてきます聖霊の働きにおって、慰められ、励まされて、主イエスを離れず、兄弟同士として愛し合う主イエスの戒めに従うことができるのです。アーメン。




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2014/05/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「みもとへのみ子の帰還」(ヨハネ14:1-14)
ヨハネ14:1-14、2014年5月18、復活後第4主日(典礼色―白―)、使徒言行録17:1-15、ペトロの手紙一2:4-10
 
ヨハネによる福音書14:1-14

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父ももとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いまから、あなたがたは父を知る。いや、既に
父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


説教「みもとへのみ子の帰還」(ヨハネ14:1-14)

喜ばしい復活節も、終わり近くになりました。主の復活を祝うこの時に、ヨハネ福音書14:1-14が与えられています。これは、13:30から17章まで、さらには、18:3まで続く告別説教と言われている部分の1節です。
13:30でユダが出て行った夜、そして、ユダがユダヤ人たちを連れ、松明をかざしてやって来る夜、18:3によって、はさまれた、11弟子たちに語りかける家の中での光にあふれた、しかし、外は闇の、イエスの講話、説教からなっています。
ヨハネ福音書14章1節から6節は、葬儀においてもよく読まれるテキストです。
 父のみもとへのみ子の帰還にかかわる主イエスの説教です。主は、「あなた方は心騒がすな、父なる神を信じ、また、私を信じなさい」と弟子たちに語りかけます。
ゲッセマネの祈りにおいては、御自分も、苦い杯を飲む時が近づき、心騒ぐ時を経ていました。弟子たちもその主のあとに従って苦難の道を行く時がすぐ後に迫っています。
それに先立って、主イエスは、弟子たちに、前もって、心騒がすなと用意をさせているのです。
 「私は、あなた方のために場所を用意しに行く」と言われ、み国、父のもとには多くの住む場所がある。そうでなければ、私が行って戻って来ると言っただろうか。場所を用意したら、必ずあなた方のところに戻って来ると言われました。
 そして、「あなた方は、私がどこへ行くのか、その道を知っている」と言われました。しかし、あの疑い深いディドモ、二重性という意味のあだ名を持っていた、信仰の強さと鈍さを同時に併せ持っていた、トマスは、「主よ、あなたがどこへいくのか私たちには分かりません。どうして、それを知ることができましょうか」、と尋ねます。
 主は、「私は、道であり、真理であり、命であると言われ、私を通ってでなければ、父のみもとに行くことはできない」と言われました。真理であり、命である主イエスという道を通ってでなければ、その十字架と復活と高挙・昇天の道を通ってでなければ、救いに達することはできないと言われるのです。
 私たちはよく、富士山に登るにも多くの道があると言ったりします。しかし、主イエスは、御自分をこの世界に遣わした父なる神のみもとに行く道は、私を通してしか、他にはないと断言されます。
 次に、フィリポは、「主よ、御父を示して下さい。そうすれば満足します」と要求します。主は、「こんなに長い間、あなたは、私と共にいるのに、父が分からないのか。私を見た者は、御父を見たのだ」と、諭されます。
 「あなたは、私が父におり、父が私において、おられることを信じないのか」と問われるのです。
そして、「私がしゃべっているのは、自分からではなく、父が私においておられて語っておられるのだ」と言われます。そして、「よくよく言っておくが、私へと信じる者は、私が行っているわざを行うであろう、いや、それらよりももっと大きなわざを行うであろう、なぜなら、私が父に向かって進むからである。あなた方が私の名において、要求することは、何でも私がなすであろう、それによって、父が栄光をお受けになるためである」と、言われ、「何か、私の名において、あなた方が私に要求するならば、私がそれをなすであろう」と、約束しておられます。
 私たち、後に残される弟子たちが、主イエスにあって一つとなることを、主イエスは求めておられます。主が父のみもとへと出発なさる今日の日の御言葉を、思い起こしながら、復活節を歩んでいきましょう。アーメン。
2014/05/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私は良い羊飼い」(ヨハネ10:1-16)
ヨハネ10:1-16、2014年5月11日、復活後第3主日(典礼色―白―)、使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25
 
ヨハネによる福音書10:1-16
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」





説教「私は良い羊飼い」(ヨハネ10:1-16)

今日の第1の朗読は、ステファノたち、7人が食事の世話をする者として、12使徒たち以外に選ばれ、ステファノは特に不思議なわざとしるしを行っていたということが記されています。既にその者たちは、復活の主を、力強く証しする者に変えられていたと言えましょう。
 次に第2の朗読では、召し使いたちに、キリストは、あなた方のために、苦しみを受け、その足跡に続くように、模範を残されたと言い、あなた方は羊のように迷っていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのですと、キリストに倣う生き方を進めています。
 そして、教会手帳を見ますと、讃美唱は、もちろん、詩編23編です。主はわが牧者で、緑の憩いの地に伴なわれるというふうに、口語訳聖書は訳していました。
 さて、今日の福音、ヨハネ福音書10:1-16は、「私は良い羊飼い」と言う主の言葉が中心にある「たとえ」とその展開の言葉です。なぜ、復活節にここが読まれるのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 これは、この前の文を読むと、ファリサイ派たちに向けて、主イエスが言われた言葉であることがわかります。
 このヨハネ福音書ができあがったのは、紀元後90年代と考えられています。ファリサイ派が、キリスト教徒を迫害している中で、書かれたのです。
 私たちは、現在では、そのような迫害はなくなっていますが、それに代わるこの世の中の無理解の中で、私たち、教会は今なお戦っています。
 主イエスは、ヨハネ共同体に対して、当時このみ言葉で、一人一人を力づけたように、私たちの現代の教会をも励まし、良い羊飼いである主イエスに、今も同じように、その声を見分けてついて来るように、招いています。
 主イエスの御声でない、ファリサイ派に代わる、私たちを戸惑わせる多くの声が存在しています。
 その中で、主イエスは、「私は羊の門」であると、言われ、また、「私こそ羊の良い羊飼いである」と、真偽を見抜いて、主イエスの御声を聞き分けて、従って来るように招いておられます。
 そのお方は、羊である私たち、キリストの群れを、ご自分の命を差し出して導かれ、守っておられます。当時のファリサイ派に変わる、私たちをキリストから引き離そうとする、大きな力が現代も働いています。主イエスの御言葉、それは聖書であります。創世記からヨハネの黙示録に及ぶまことの言葉から離れずに、歩んでまいりましょう。アーメン。

2014/05/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「見ないでも信じる私たち」(ヨハネ20:24-31)
ヨハネ20:24-29、2014年5月4日、復活後第2主日(典礼色―白―)、使徒言行録2:36-47、ペトロの手紙一1:17-21
 
ヨハネによる福音書20:24-29
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸はみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。




説教「見ないでも信じる私たち」(ヨハネ20:24-31)

 今日の第1の朗読、使徒言行録2:36-47は、ペンテコステの出来事、聖霊降臨の日において、ペトロが主の死と復活の出来事を、旧約聖書の預言の成就として、大胆に証言し、その日のうちに、3000人もの人々が洗礼を受けた事実を記しています。そして、彼らは、相互の交わり、コイノニアを深め、パン裂きに集まり、すべての物を共有していたと、既に教会が誕生していたことを知らせています。
 また、第2の朗読、ペトロの手紙一1:17-21は、あなた方は先祖伝来の空しい生活から、金銀によってではなく、キリストの尊い血によって贖われたと諭し、この地上に仮住まいする間、人それぞれの行いに応じて、公平に裁かれる方、父を畏れて生活すべきですと説き、死者の中からキリストを復活させた神にあなた方の信仰と希望とはかかっていると励ましています。
 そして、今日は先週に続くヨハネ福音書20:24から20:29が、福音として与えられていますが、私は、変更テキストとして20章の終りまで、すなわち、30、31節までを選ばせていただきました。
 これら、3つの聖書日課は、それぞれ復活節を祝うのにふさわしい記事であると思います。
さて、今日の福音、ヨハネ20:24-31について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
これは、先週に続く記事です。先週は、私どもは、月曜日から木曜日まで、2年に一度の全国教師会と全国総会が、新大久保駅近くにあります百年記念東京教会で開催されました。1985年頃には、185名ほどいた牧師の数も、現在では88名ほどに半減しています。
 懐かしい顔に久しぶりに出会い、私個人としても殆ど20年ぶりに挨拶を交わしたりする人もいて、月日のたつのの速いことを改めて感じさせられましたが、同じ信仰に立つ兄弟姉妹として、信仰が強められ、新たな決意を秘めて帰って来ました。
 さて、今日のヨハネ福音書は、この後に、21章が残されていますが、これは後代の付加、加筆だと一般に考えられています。
 ですから、今日、お読みした部分は、ヨハネ福音書の結論の記事なのです。先週は、イースターの日の夕方の出来事でありました。主イエスがユダヤ人たちを恐れて、戸にみな鍵がかかっているときに、それを超えて、弟子たちのところへやって来られ、その真中に立って「平和があなた方にあるように」と語りかけたのであります。
 その主に出会ったことを、その時なぜかいなかったディドモと呼ばれるトマスに、彼らは語るのですが、トマスは言います。「私は、彼の両手の釘跡を見なければ、そして、そこに指を入れてみなければ、また、そのわき腹の傷跡に手をあててみなければ、決して信じない」と。
 そして、8日後に、すなわち、週の初めの日に弟子たちが家の内側におり、やはり戸にみな鍵をかけており、今度はトマスも一緒にいたときに、イエスがそれを通り越して、やって来られます。
復活の主は、私たちが捜すのではなく、その先にご自分の方から私たちのところにやって来て下さいます。鍵をかけた戸を通り越して、しかも、十字架の傷を残したまま、復活の体で、そして、イースターの夕方と同じく弟子たちの真ん中に立ち、「平和があなた方に」と語り始めます。主の日の礼拝の真ん中に、聖餐式の真ん中にこの主がお立ちになります。
恐れと疑いに捕われている私たちのところに、あるいは自信の欠如や心騒いでいる私たちの現実の中に、この世が与えることのできない真の平安を、復活の主はもたらして下さいます。
そして、トマスに言われるのです。「あなたの指を私の手の釘跡に、あなたの手を私のわき腹へと伸ばしなさい」と。そして「不信仰な者にならないで、信じる者になりなさい」と。
 トマスは、もともと熱心な弟子でありましたが、しかし、どこか鈍い性格の弟子であり、また、先の見通しを悲観的に、最悪に受け取ってしまうような、そういう二重性を抱えた弟子でありましたが、そのような個別的な一人物のもとに、ちょうどマグダラのマリアに復活の朝、墓から引き返すときに主が御自身を現わされたように、1週間後に、再び、復活の主ご自身から、やって来られたのであります。トマスは、私たちに似た、疑い深い、そしてその意味では親しさ、近さを覚える弟子であります。
 トマスは応えて、「私の主、私の神」と信仰告白をいたします。復活のイエスは、「主の主、王の王」なのであります。これは、ヨハネ福音書の、あのプロローグから始まった荘厳な「言(ことば)は、神であった」から続いて来た、「イエスはだれなのか」という問いへのピークを成す絶頂、頂点を示す言葉であります。私たちは、この方以外に、すなわち十字架と復活と高挙・昇天の、死から命へと神が栄光を顕わされた方以外に自分の主とし、わが神としてはならないのであります。この方こそが、全聖書が指し示して来た、私たちに永遠の命をもたらす方なのです。
 主は言われます。「あなたは私を見たから、信じたが、見ないで信じた者たちは幸いである。」私たちは、見ないで信じる弟子であり、主によって幸いな者と呼ばれている者なのです。
 ヨハネ福音書記者は、このトマスのエピソードでもって、本書の書かれた目的を記して、この聖書を語り終えています。そして、最後に彼はこう言います。「多くの他のしるしを、イエスは彼の弟子たちの前で行ったが、それらはこの聖書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子、メシアであると信じるためであり、あなた方がそう信じて、彼の名において命を持つようになるためである」と。
 ヨハネの黙示録も、ヨハネ福音書も、紀元後90年代以後に、特にヨハネ福音書はユダヤ人たち、殊にファリサイ派からの迫害の高まる中で、信者たちが、この主から離れないために、そして、死の絶望と罪の暗黒から救い出され、希望を持って歩み続けるために書かれた聖書であります。
 復活の主イエスは、今もなお、私たちと共にいて下さいます。世の初めからおられた方が、肉となってこの地に宿られ、苦しまれ、人の子となって、恵みと真理に満ち、十字架と復活、昇天を通して神の栄光を顕わされました。主イエスの十字架の死が、栄光だとは、復活の主にまみえるまで、とうてい、弟子たちは信じれませんでした。
「十字架の主は復活された」。それは、信じる者にとって希望の原点です。自分は、他の命によって生かされている。それを忘れるとき、私たちは傲慢になります。また、自分は、他の命を生かしている。それを忘れるとき、私たちは希望を失います。私たちもまた、主のために苦しむ道をも、兄弟を愛し、仕える道をも喜んで歩みたいと思います。5月の連休の中、近所の人々は体を休め、あるいは、家族の団欒を楽しんでいますがこの津田沼の地にも、復活の主の与えたもうまことの命と主の賜る平安を、そして罪からの贖いを、告げ広めるために、「見ないで信じる者は幸い」との復活の主のお言葉と共に出て行きましょう。
 
人知ではとうてい、測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2014/05/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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