津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪赦された者として」(ヨハネ20:19-23)
ヨハネ20:19-23、2014年4月27日、復活後第1主日(典礼色―白―)、使徒言行録2:22-32、ペトロの手紙一1:3-9
 
ヨハネによる福音書20:19-23
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


説教「罪赦された者として」(ヨハネ20:19-23)

今日は、第1の朗読では、五旬祭、ペンテコステの時に、約束の聖霊の降臨を受けた12弟子たちを代表して、ペトロが大胆に主イエスの復活を、「私の体も生きるであろう」とイエスについて、ダビデが預言していた旧約聖書の実現として証言しています。
 また、第2の朗読では、ペトロが、神は、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からの復活によって、生き生きとした希望を与えておられ、あなた方は、今しばらく、いろいろな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなた方の信仰はその試練によって本物と証明され、イエス・キリストが現れるとき、称賛と光栄と誉れをもたらすと、信仰を鼓舞し、あなた方は喜びに満ちあふれている、それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからだと励ましています。
 さて、先週は、マタイによる福音書を通して、主イエスの復活の出来事を知らされましたが、今日の福音書は、ヨハネ福音書の20:19-23の短い個所です。そして、今日からは、しばらく、残された復活節の間、ヨハネ福音書を通して、主の復活の喜びを、共にするように聖書日課が与えられています。ある牧師仲間の一人は、復活節に長くヨハネ福音書が読まれるのは疑問だと言われていましたが、そして、過ぎました四旬節にも、ヨハネ福音書がしばらく読まれましたが、そうでもしないと、3年サイクルで共観福音書が順番に読まれる以上、ヨハネ福音書の宝が持ち腐れになるでしょう。
 現在、津田沼教会では水曜日の聖書を学び祈る会でも、ヨハネの黙示録まで、一通り終わって、通読することのなかったヨハネ福音書を初めから学び始めていますので、時間のある方は是非、ご出席ください。
 さて、今日のヨハネ福音書は、イースターの夜に、多分エルサレムの町のどこかで、隠れ家に弟子たちがかたまって、潜んでいたときの出来事です。
 三日前には、主イエスが十字架の処刑を受けるという生々しい記憶で、弟子たちは恐れと絶望にうちひしがれていたことでしょう。彼らは、ユダヤ人たちを恐れて、鍵をいくつもかけて、恐らく、彼らの心の鍵もかけて、縮かむように時を過ごしていたのでしょう。ところが、そこに、あの主イエスがやって来られ、弟子たちの真ん中に立って、「平和が、あなた方にあるように」と声を掛けられたのです。イエスは、ヘブライ語で「シャローム」と語りかけたことでしょう。そして、釘跡の残る手とわき腹をお示しになると、弟子たちは、それを見て喜こぶということが起こったのです。受難前に主イエスが言われていたとおり、あなた方は悲しむが、それは喜びに変えられるということが起こったのです。
 そして、主イエスは、彼らに息を吹きかけて、言われました、「聖霊を受けなさい」と。アダムが、神によってその鼻に息を吹き込まれて、最初の人になったように、弟子たちもこの聖霊によって、新しく創造され、新しく豊かな命に入れられ、罪を清められ、赦されて、また、預言者のような霊が与えられました。そして、再び、「平和があなた方に」と語られた後、「父が私を遣わしたように、私もあなた方を派遣する」と言われた後、弟子たちに不思議な約束の言葉を語られます。「あなた方がある者たちの罪(複数形)を赦したならば、それらは赦されている。あなた方が彼らの罪を赦さないならば、捕まえているならば、それらの罪は赦されないまま、すなわち捕まえられたまま残る」と言い残されたのであります。
 生前の主イエスも、ペトロに対しても、私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天上でも解かれると宣言されたことがあります。
 私たち、復活の主を信じる弟子は、復活の主によって、罪赦された者として、罪の赦しを宣言するように、復活の主イエスによって、遣わされ、その委託を受けています。また、一方では、私たちが赦さない、掴んでいる罪は、赦されないまま残る、掴まれたままであるとも主イエスは言われています。しかし、もちろん、中心は罪の赦しを宣言する方にあるでしょう。復活のキリストの共同体である教会のメンバーは、その死と罪を克服された主によって、互いに赦し合い、和解するようにと、今も復活の主によって、主の日ごとに、洗礼と聖餐の礼拝へと招かれている幸いを、思い起こさせられます。
 そして、その友のために命を与える以上に大きな愛はないと言われ、その通り、十字架への道を歩まれた主イエスの言葉と行いに従って、復活の主を証しする、すなわち、むしろ苦難の道を私たちも、従って歩んでいきたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2014/04/27(日) 21:24:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストにある平和~罪と死からの自由」(マタイ28:1-10)内海望牧師
マタイ28:1-10、2014年4月20日、復活祭(典礼色―白―)、使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4
 
マタイによる福音書28:1-10
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


説教「キリストにある平安~罪と死からの解放~」(マタイ28:1-10)内海望牧師

 燦々と降り注ぐ春の陽光の下、木々は新芽を吹き出し、花々は色とりどりに咲き誇り、復活のいのちの息吹を私たちに感じさせてくれています。このような季節に、私たちは、イエス・キリストの復活の喜びを分かち合うために、今ここに集まっています。
 しかし、今日の聖書によると、最初のイースターの朝は暗い闇に包まれていました。マグダラのマリアともう一人のマリアは、「墓の方を向いて座っていた。」(27:61)と記されています。「墓を見つめていた」ということは「死」を見つめていたということです。イエスさまと出会って、「今度こそ真実の救い主に会えた!」と信じていたのに、結局、罪と死がすべてを無にしてしまった、という事実が二人のマリアの心を深い絶望に陥れたのです。イースターの朝、彼女たちは「墓を見に行った。」と記されています。復活どころか、重い足取りで、死を見つめるために墓に行ったのです。
 「罪と死」、これは人間が最も恐れる事柄です。人は必ず死ぬ。人は傷つけ、傷つけられる人生。それは、私たちを脅かし、不安にさせます。出来れば、見たくない事柄です。そこで、私たちは、嫌なものは、見えない所に隠し、快適な生活のみを追い求めます。罪とか死について深刻に考える必要はない、楽しく過ごそうと逃げるのです。
 しかし、聖金曜日の出来事は、マリアたち、弟子たち全員を自分たちの罪と死に直面させたのです。イエスさまが捕われると、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と聖書は報告します。「皆」という言葉が胸に突き刺さります。一人残らず全員です!更に、イエスさまから、「共に祈ってくれ」と頼まれながら、血の汗を流してゲッセマネで祈るイエスさまを見捨て眠りこけてしまったのが弟子たちです。「たとえ、ご一緒に死ななければならなくなってもあなたのことを知らないなど決して申しません。」と勇ましく言い放ったのに、「そんな人は知らない」と三度まで否定してしまった罪の深さにペトロは泣き伏していました。「私たちが、イエスさまを死に追いやってしまったのだ」という痛みが、否応なしに弟子たちを「罪と死の恐ろしさ」に直面させたのです。今や弟子たちに逃げ場はありません。ローマ6章は「罪が支払う報酬は死である」と語っていますが、弟子たちは皆、「自分が死すべき罪人」であると悟らされたのです。疑いもなく、私たち自身も、弟子たちと同じように、自分の身が危ういとなると、自分の利益、命を優先し、イエスさまを捨てて逃げてしまう罪人です。漱石が「いざという時には親友さえも裏切るのが人間だ」と書いたのは人間の心の真実の姿です。
 この経験は、弟子たちにとって「聖金曜日の雷鳴」とも言うべき出来事でした。弟子たちは皆、罪に死んでしまったと言えましょう。これが、最初のイースターの朝の闇です。
 しかし、この「しかし」を大文字で頭に描いて下さい。しかし、この罪と死の闇を打ち破って、輝かしい光に変える出来事が、墓を見つめて絶望していたマリアたちの眼前で起こったのです。大きな地震が起こり、雪のように白い衣を着た主の天使が稲妻のように輝きの中で、生と死を絶対的に隔てる、あの墓をふさいでいた石を、苦も無く、わきへ転がし、二人のマリアの前に現れたのです。天使は、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。」とマリアに宣言されます。復活されたイエスさまもまた、「恐れるな」とマリアに呼びかけられます。
 そうです。イースター、復活日の挨拶は、「恐れることはない。」という言葉です。この瞬間、暗い闇を破って、復活の光がこの世界全体に射し込んで来たのです。「十字架で苦しみ悶え、罪と死の力に圧倒されていたあの方は、最早ここ墓(死の世界)にはおられない。イエスさまは罪と死の力に勝利し、復活されたのだ。もう君たちは罪と死の力を恐れる必要はない。」と天使は告げるのです。
 このイースターの喜びは、罪の赦しと共に与えられるものであることを心に留めましょう。ルカ24章、ヨハネ20章には、復活のイエスさまが弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平安があるように」とおっしゃっています。そして、ご自分の手と足をお見せになったのです。イエスさまが差し出されたその御手、御足には傷跡があったのです。イエスさまは、罪で膨れ上がり、憎み、争いの絶えないこの世界の罪を担って、苦しまれ、血を流し、贖いとなり、私たちに罪の赦しを与えて下さったのです。その傷跡は、私たちを救うための痛みであったのです。
 イエスさまは、罪に死すべき私たちの罪を担い、それ故に傷つけられ、嘲られ、十字架の死にまで歩んで下さったのです。まことに尊い、高価な恵みです。この十字架の血の贖いによる罪の赦しを与えられる時、マリアも弟子たちも、死より復活し、罪赦された罪人として、新しい命に生きる真の平和を得ることが出来たのです。
 この平安が今日、私たちにも与えられます。注意したいのは、これは死からの復活であって、延命術ではありません。イエスさまは、「成し遂げられた」と言って十字架上で息を引き取られた、とヨハネ福音書は語ります。イエスさまの死の苦しみを通して「救いの業」を成し遂げて下さったのです。「もはや、恐れることはない」のです。
 今、ご一緒に歌いました讃美歌97番は、ルターが1542年に作ったコラールです。全体を分かりやすくするため、東京バッハ合唱団の大村恵美子さんの抄訳を少し長いですが、引用します。(7節あります)
 「人間の中には、死に打ち勝てる者はひとりもいない。すべては罪に服しており、死はわれらを打ちのめし、罪と死の領域にとりことする。そのような我らのもとに神の子イエスは身代わりとして来られた。そこで死の権利と力は取り払われ、形骸を残すのみとなった。それはまことに不思議な戦いであった。死と生が格闘し、生が勝利して、死を呑み尽したのである。ここにあるのはまことの『過ぎ越し』の小羊である。それゆえ、罪の夜は消え去り、我らはこの太陽なる主を祝って喜び歌う。イエスこそ生命の糧、その復活をわれらは感謝して祝う。ハレルヤ!」という内容です。各節の終わりに「ハレルヤ」が付きます。
 ルターは、「天使の『恐れることはない。十字架につけられたイエスさまは復活なさったのだ。』という言葉に、「死の死」を見たのです。「死の縄目」はもはや死の残骸にすぎない、罪の夜は過ぎゆき、太陽である復活のイエス・キリストと共にいる喜び、罪赦され、死の棘から解放された喜びを歌おうと私たちを励ますのです。
 私たちは、パウロと共に、「死は勝利に呑み込まれた。死よ、お前の棘はどこにあるのか。」、と、今や力をなくした罪と死に向かって「ハレルヤ!」と勝利の声をあげたいと思います。
 もちろん、今日、私たちがこうしてイースターを祝っても、私たちの世界から問題がな
くなるわけではありません。相変わらず、私たちは生活の様々な思い煩い、子どもの進学、介護のこと、放射能の恐怖、悲しみ、国家間の紛争、政治の愚かさなど、世界は依然として罪と死の暗闇に満ちています。これからも、私たちは信仰弱い信徒にすぎないでしょう。神さまが、私たちの目から涙を拭い取って下さるあの偉大な完成の日、終わりの日まで、私たちの苦しみ、罪と死との戦いは続きます。しかし、私たちには既にイエスさまから、「見よ、私は世の終わりまで、あなた方と共にいる。」という約束が与えられています。復活されたイエスさまが共に歩いて下さるという大きな希望において、私たちは生きて行く勇気を与えられるのです。
 ですから、パウロのように、「私は確信します。死も、命も、天使も、支配する者も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。ハレルヤ!」と罪と死への勝利を高らかに歌おうではありませんか。
 イースターおめでとう!

2014/04/20(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「へりくだる王の入城」(マタイ21:1-11)
マタイ21:1-11、2014年4月13日、枝の主日(典礼色―紫―)、ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11
 
マタイによる福音書21:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの山へ行きなさい。するとすぐ、ろばががつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、
 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


説教「へりくだる王の入城」(マタイ21:1-11)
 
今日はいよいよ枝の主日となりました。今日から聖週間、受難週が始まります。長かった四旬節もいよいよ終わりに迫って行きます。
 今日の第1の朗読は、ゼカリヤ書9:9-10であります。終わりの時にメシアが現れるときの預言であります。マタイは、これを福音記者の中ではただ一人、今日のエルサレム入城の記事の中に、少し解釈して、引用しています。それに、イザヤ書62:11も結び付けて引用しているのであります。「エルサレムの娘にあなた方は言え」と。これは、今日の記事の終わりの段落で、エリコから従っていた群衆が、エルサレムの全住人が、「この人はだれなのか」と聞いたときに、「彼は、ガリラヤのナザレ出身の預言者イエスだ」と言っていることによって、実現しているのであります。
マタイは、それに続けて、「見よ、あなたの王があなたのところに来られる。彼は、柔和な方、へりくだる方であって、雌ろばと荷を負う子ろばに乗って」と、自由に解釈して、十字架に進む主イエスにふさわしい預言として受け取っています。ゼカリヤの預言にある勝利をもたらされる方などの言葉を削除して、この王は、柔和な王であり、雌ろばと子ろばに乗って来られる方で、しかも、マタイは「あなたのところに」来られる王であることを強調しているのであります。
 さて、今日の使徒書の朗読は、フィリピ2:6-11でありました。キリストは、神の身分でありながら、そこにとどまることをよしとしないで、人間のかたちを取り、死まで、十字架の死に至るまで、神のみ旨に従われたというのであります。
 私たちは、四旬節の間、この部分にあるキリスト讃歌を、毎週、福音書の前に歌って、十字架の死に至るまで、神に従順に従われた主イエスを思い起こしながら、歩んできたことを、改めて思い起こさせられます。
 さて、今日の福音は、マタイ21:1-11であります。マタイは、マルコ福音書を下敷きにしながらも、不必要なものは短縮して、無駄のない美しい文体に整えているのであります。
 毎年、アドベント第1主日と今日の枝の主日に、2回にわたって1年の教会暦のなかで、今日のエルサレム入城、勝利の入城の記事が読み直されるのであります。今日のこの福音の記事を、もう一度、思い起こしてみましょう。
 そして彼らは、エルサレムへと、オリーブ山のふもとのベトファゲへとやって来たとき、主イエスは、こうお語りになりながら、二人を遣わした」と今日の福音の記事は始まります。「向こうの村へとあなた方は出て行きなさい。」ベトファゲがエルサレムには、より近いのですが、その村とは、ベタニアの可能性もあります。
 「そこに行くと雌ろばとその子ろばがつないでいるのを見出すであろう。それを連れて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、彼らの主が必要を持っていると言いなさい。すると、彼は彼らを遣わすだろう」と、主は送り出します。
そして、先ほどの、引用聖書のゼカリヤ書9:9やその前に付け加えたイザヤ書62:11の預言の言葉が満たされることになったとマタイは、これにおいて旧約聖書が実現したことを強調するのであります。
 そして、二人は、主の言葉に信頼し、従順に出て行って、主が言われたとおりに、それらを連れて来るのであります。弟子たちが、前段の1節から8節までは、中心となって出て来ます。そして、荷を負う子ろば、飼い慣らされていない小さな者、低い者を主イエスはあえてお用いになりになり、軍馬ではなく、雌ろばと子ろばに乗ってお出でになる方であり、十字架につかれる王であり、ご自分が低くされた、へりくだりの王であることを、この入城において、示されるのであります。
 そして、後段のマタイ11:8から11までは、群衆が前面に出て来ます。これは、エルサレムの住民全体とは異なり、主イエスに喝采をあげる、エリコから付き従って来た群衆であります。彼らは、あるいは、その道において、彼らの服を広げ敷き、あるいは木から枝を切って、その道に敷いて、主イエスの前を行く群衆も、後に従う者たちも、喜び叫んでいました。
「ホサナ、ダビデの子に、主のみ名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにおいて、ホサナ」
主イエスが都に入ると、その都全体は、揺すぶられ、こう語るのです。「この人はだれか。」群衆は、「この人こそ、ガリラヤのナザレ出身の預言者イエスだ」と語っていました。この群衆も、この後、主イエスが十字架に付けられるとき、いつしか消え去っています。
 彼らは、主イエスに好意的ではありましたが、そのお方が、十字架につく「へりくだりの王」であり、全エルサレムが不安になったメシアであることは理解していませんでした。
 私たちは、今日この日から、エルサレムにおける主のご受難を覚える聖週間を迎えます。
その方が、どこまでも、父なる神のご意志に従われ、私たちのために苦しみに会うメシアであることを、今日のこのエルサレムへの2匹のろば、雌ろばと子ろばを用いての低くされた王の入城を通して、示されたことを今一度思い起こしながら、この受難週を過ごしていきましょう。アーメン。
 



2014/04/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マルタのキリスト告白」(ヨハネ11:17-53)
ヨハネ11:17-53、2014年4月6日、四旬節第5主日(典礼色―紫―)、エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5
 
ヨハネ福音書11:17-53
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアがこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わあつぃの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。


説教「マルタのキリスト告白」(ヨハネ11:17-53)

いよいよ、四旬節も終わりに迫って来ました。世の中も、めまぐるしく移り変わって行きます。この主の十字架を思うべき悔い改めの時にも、そして、おのおのの洗礼を思い起こすべきときにも、しばしば、悪魔の誘惑に遭い、倒れこんでしまう弱い自分を感じさせられます。
しかし、私たちは、この時にも、日曜日には主の日として、主の御言葉、福音のもとに集まられますこと、また、聖餐に与れますことを、心より嬉しく思います。特に牧師は、いかように苦しいことがありましても、日曜日には、御言葉との格闘があり、神の言葉を取り次ぐ幸いを与えられていることを感謝させられます。
 さて、今日の第1の朗読は、エゼキエル書から与えられています。正しい人もその正しさに頼って悪を犯すならば、死ななければならない。また、悪人も立ち帰って、悔い改め正しい行いに帰るならば、罪に定められることはないというのであります(エゼキエル33章10節-16節)。
また、第2の朗読は、ロマ書5章1節-5節でありました。信仰によって義とされている私たちにも、苦難があり、それは、忍耐を生みだし、忍耐は、練達を生みだす。そして、聖霊によって、練達は希望を生みだすというのであります。
さて、今日の福音は、ヨハネ11章17節から53節といつになく長い日課が与えられています。ラザロの復活といいましょうか、むしろ、蘇生、生き返りでありますが、共観福音書にはない奇跡の出来事、しかも、ヨハネ福音書においては、最後の奇跡として記されているのであります。そして、これが、きっかけになって、ヨハネ福音書では、主イエスが十字架に導かれるという出来事となっているのであります。
病気のラザロが死にます。しかし、それは、神の栄光があらわれるためであると聖書は記します。主イエスが、ベタニアの近くに来たとき、ラザロが死んで既に四日もたっていました。主イエスを迎えに来たマルタは、あなたがここにいらしてくださったら、ラザロは死ななかったでしょうに、と言いますが、しかし、今でもあなたが神にお願いになることはなんでも、神はその通りにして下さると信じていますと、言うと、主は、私は復活であり、命である、私へと信じる者は死んでも生きる。もはや、決して死ぬことはないとまで、言われ、このことを信じるかと尋ねられたマルタは、はい、信じました、あなたは、メシア、神の子、世に来られるべきその方であると告白するのであります。
そして、死んだラザロの墓へ行き、嘆いている者、ユダヤ人たちを見て心に憤りを覚え、自らを揺すぶられ、興奮して、泣かれ、石をどけなさい、と命じられ、ラザロよ、出て来なさいと大声をあげます。すると、死人は、包帯を巻かれたまま、顔の覆いをつけたまま、出て来ます。主イエスは、それに先立って墓の石をとりのけよと言われ、死人は墓からそのまま出て来ます。
私たちの心の闇、妬みや、憎しみもとりのけられ、新しい光が私たちの罪と闇を照らしだします。これが、主イエスの十字架の死による罪の赦し、贖いです。この出来事を通して、主イエスは世に広がる教会の民を一つになさるために、死ぬことになっていたのであります。
その年の大祭司であったカヤファは、そのことを自分からではなく、預言して言っていたのであります。あなた方は、一人の人がその国民のために代わって死ぬ方が益であるとは考えないのかと。そして、知らずに預言していたこのカヤファの言葉は、全世界に散らばっている教会の新しい民を、主イエスの十字架の死が一つに集めることになることを預言していたのであります。
今日のこの四旬節第5主日のラザロの死からの起き上がりという奇跡は、主イエスが死者に命を与えることによって、御自分の命を失うことになる逆説を教えるものであります。
そしてこの日、私たちは、死と命を隔てている墓から出て来るように、主イエスによって呼ばれている者であります。私たちは何度も何度も罪に陥りやすく、み言葉から離れやすい弱い者であります。けれども、墓の外には、主イエスが待っておられ、そのような私たちを自由にして出て行くようにすると主は約束されているのであります。
主イエスはこのあと、十字架に上がることによって、神の栄光を現されます。ご自身の肉体を十字架にかけることによって、私たちの罪の贖いをなしとげられ、世に来たるべき神の子、メシアであることを示されたのであります。四旬節の残りの日々も、この主イエスの受難と死と復活を仰ぎ見ながら、マルタと共に、この方こそ罪から解き放つキリストと告白する者となさせていただきましょう。アーメン。
2014/04/06(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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