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津田沼教会 牧師のメッセージ
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「少しずつキリスト告白へ」(ヨハネ9:13-25)
ヨハネ9:13-25、2014年3月30日、四旬節第4主日(典礼色―紫―)、イザヤ書42:14-21、エフェソの信徒への手紙5:8-14
 
ヨハネ福音書9:13-25
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは、分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表わす者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度、呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」




説教「少しずつキリスト告白へ」(ヨハネ9:13-25)

今日の第一朗読、イザヤ書42章の12節から21節は、40章からは第2イザヤですから、バビロン捕囚からの帰還の約束に入っています。しかし、私のしもべは、どこに行くか分からない者のようである。けれども、私は目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩ませると約束しています。主の僕ほど、目の見えないものがあろうかと嘆かれる一方で、主なる神は、その行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにするとイスラエルを見捨てることはないと強く約束して鼓舞なさるのであります。
今日の第2の朗読も、光と闇に関わる事柄です。エフェソ書5章8節から14節は、あなた方は、光の子として歩みなさいと奨めています。あなた方は、以前は闇であったが、今は主に結ばれて光となっているというのです。
そして、何が主に喜ばれるかを吟味して、実を結ばない暗闇の業に加わらず、それを明るみに出せ、死、罪の状態、行いから、目覚めて生きるようにと、この主の十字架を覚えるのにふさわしいみ言葉が与えられています。
さて、今日の福音、ヨハネ福音書の9章の13節から25節は、もともと盲人で生まれた人が、主イエスに出会って、変えられていく出来事であります。カトリック教会では、このヨハネ福音書9章全体、1節から41節までが日課として、与えられていますが、ルーテル教会はできるだけ簡単で短い個所を与えて、私たち聞く者に単純明快にその日の福音が記憶されるようにしていると思います。
しかし、今日の出来事は、9章全体を一応踏まえておくことが望ましいでしょう。今日のヨハネ福音書9章全体は、罪の問題を主題としていると言えましょう。
そして、この生まれつきの盲人は、ファリサイ派の人々の迫害の中で、次第次第に、イエスをキリストと告白信仰に入れられていくのであります。アウグスチヌスは、この人がシロアムの池、遣わされた者、すなわちキリストの意味の池で顔を洗って目が見えるようになっていくこの人の姿を、洗礼志願者にたとえています。
この盲人に生まれついた人は、最初は、目を開けてもらった恩恵を受けても、イエスを「その方、彼」その後どこにいるのかも知らない状態でした。それが、ファリサイ派との論争や迫害を経て行く中で、「彼は預言者である」と告白し、さらには、「私たちは、彼は神から、来られた方だと思う」となり、ついには、再び主イエスに会って、人の子を信じるかと聞かれ、「はい、主よ信じます」とキリスト告白にまで、深められていくのであります。
今年の復活祭には一人の姉妹が洗礼を受けられ、また、一人の幼児洗礼であった青年が堅信礼に与ります。今日のように、幾度もの変遷を経る中で、次第次第にイエスこそ、キリストであり、祭司長、律法学者たち、長老たちから、十字架につけられて苦しめられ、死んで復活なさった人の子であると信じるように導かれたのであります。
今日のヨハネ福音書9章13節から25節では、ファリサイ派のところに、この盲人は連れて行かれ、問い詰められています。ファリサイ派にも、主を信じる人も多く、その間にはジレンマが生じたと出て来ますが、これは、紀元後85年のユダヤ教徒の18祈願の改定を背景としています。ユダヤ人でキリスト教に改宗した者たちをのろい、会堂から破門し、あるいは追放するようにファリサイ派の人たちが決定していたことが、この盲人の両親が、証言を恐れたことの背景になっています。
ファリサイ派のうちのイエスに反対する者たちは、イエスが安息日を守らないことを重視していました。イエスは律法を守らないから、罪ある人間にすぎないと頑なな立場を崩しませんでした。律法主義でこりかたまり、主イエスはそのようなファリサイ派たちを裁くために来たと言われます。
しかし、私たちは、罪から解かれ、新しいスタートを切ることができる者とされています。過去の病気や大きな失敗がなかったらと悔むことも多い私たちです。
しかし、主イエスが今日の盲人に9章の初めで言われたように、この人の盲目は神の業がこの人に現れるためでした。
私たちも、過去の嘆きにとどまるのではなく、病気や挫折、それをばねにして、人の子に従い、イエスの十字架に従い、イエスこそキリストと少しずつでも証しして行く時として、この受難節を歩んでいきましょう。会堂から追放されても、キリストがそこから逃れの道を備え、助け出してくださるのですから。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2014/03/30(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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