津田沼教会 牧師のメッセージ
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「少しずつキリスト告白へ」(ヨハネ9:13-25)
ヨハネ9:13-25、2014年3月30日、四旬節第4主日(典礼色―紫―)、イザヤ書42:14-21、エフェソの信徒への手紙5:8-14
 
ヨハネ福音書9:13-25
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは、分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表わす者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度、呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」




説教「少しずつキリスト告白へ」(ヨハネ9:13-25)

今日の第一朗読、イザヤ書42章の12節から21節は、40章からは第2イザヤですから、バビロン捕囚からの帰還の約束に入っています。しかし、私のしもべは、どこに行くか分からない者のようである。けれども、私は目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩ませると約束しています。主の僕ほど、目の見えないものがあろうかと嘆かれる一方で、主なる神は、その行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにするとイスラエルを見捨てることはないと強く約束して鼓舞なさるのであります。
今日の第2の朗読も、光と闇に関わる事柄です。エフェソ書5章8節から14節は、あなた方は、光の子として歩みなさいと奨めています。あなた方は、以前は闇であったが、今は主に結ばれて光となっているというのです。
そして、何が主に喜ばれるかを吟味して、実を結ばない暗闇の業に加わらず、それを明るみに出せ、死、罪の状態、行いから、目覚めて生きるようにと、この主の十字架を覚えるのにふさわしいみ言葉が与えられています。
さて、今日の福音、ヨハネ福音書の9章の13節から25節は、もともと盲人で生まれた人が、主イエスに出会って、変えられていく出来事であります。カトリック教会では、このヨハネ福音書9章全体、1節から41節までが日課として、与えられていますが、ルーテル教会はできるだけ簡単で短い個所を与えて、私たち聞く者に単純明快にその日の福音が記憶されるようにしていると思います。
しかし、今日の出来事は、9章全体を一応踏まえておくことが望ましいでしょう。今日のヨハネ福音書9章全体は、罪の問題を主題としていると言えましょう。
そして、この生まれつきの盲人は、ファリサイ派の人々の迫害の中で、次第次第に、イエスをキリストと告白信仰に入れられていくのであります。アウグスチヌスは、この人がシロアムの池、遣わされた者、すなわちキリストの意味の池で顔を洗って目が見えるようになっていくこの人の姿を、洗礼志願者にたとえています。
この盲人に生まれついた人は、最初は、目を開けてもらった恩恵を受けても、イエスを「その方、彼」その後どこにいるのかも知らない状態でした。それが、ファリサイ派との論争や迫害を経て行く中で、「彼は預言者である」と告白し、さらには、「私たちは、彼は神から、来られた方だと思う」となり、ついには、再び主イエスに会って、人の子を信じるかと聞かれ、「はい、主よ信じます」とキリスト告白にまで、深められていくのであります。
今年の復活祭には一人の姉妹が洗礼を受けられ、また、一人の幼児洗礼であった青年が堅信礼に与ります。今日のように、幾度もの変遷を経る中で、次第次第にイエスこそ、キリストであり、祭司長、律法学者たち、長老たちから、十字架につけられて苦しめられ、死んで復活なさった人の子であると信じるように導かれたのであります。
今日のヨハネ福音書9章13節から25節では、ファリサイ派のところに、この盲人は連れて行かれ、問い詰められています。ファリサイ派にも、主を信じる人も多く、その間にはジレンマが生じたと出て来ますが、これは、紀元後85年のユダヤ教徒の18祈願の改定を背景としています。ユダヤ人でキリスト教に改宗した者たちをのろい、会堂から破門し、あるいは追放するようにファリサイ派の人たちが決定していたことが、この盲人の両親が、証言を恐れたことの背景になっています。
ファリサイ派のうちのイエスに反対する者たちは、イエスが安息日を守らないことを重視していました。イエスは律法を守らないから、罪ある人間にすぎないと頑なな立場を崩しませんでした。律法主義でこりかたまり、主イエスはそのようなファリサイ派たちを裁くために来たと言われます。
しかし、私たちは、罪から解かれ、新しいスタートを切ることができる者とされています。過去の病気や大きな失敗がなかったらと悔むことも多い私たちです。
しかし、主イエスが今日の盲人に9章の初めで言われたように、この人の盲目は神の業がこの人に現れるためでした。
私たちも、過去の嘆きにとどまるのではなく、病気や挫折、それをばねにして、人の子に従い、イエスの十字架に従い、イエスこそキリストと少しずつでも証しして行く時として、この受難節を歩んでいきましょう。会堂から追放されても、キリストがそこから逃れの道を備え、助け出してくださるのですから。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2014/03/30(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「渇きをいやされて」(ヨハネ4:5-26)
ヨハネ4:5-26、2014年3月23日、四旬節第3主日(典礼色―紫―)、出エジプト記17:1-7、ローマの信徒への手紙4:17b-25
 
ヨハネ福音書4:5-26
 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


説教「渇きをいやされて」(ヨハネ4:5-26)

四旬節の第3主日の今日は、マタイ福音書からいったん離れて、本日を含めて3回、枝の主日に入るまで、ヨハネ福音書から、福音が与えられています。
今日の第1の朗読は、出エジプト記17章1節から7節でした。それは、出エジプトの荒れ野の40年間の間の出来事で、水に渇いたイスラエルの民がマサ(試し)とメリバ(争い)において、モーセに対してつぶやき、また、主がおられるのか、試みた出来事でした。
また、第2の朗読のロマ書4章17b-25は、アブラハムが死者に命を与える神を信じたという信仰を取り出し、私たちが主イエスを死者の中から復活させたと信じるならば、だれでも、その信仰によって義と認められる、また、主イエスは私たちの罪のために死に、義とされるために復活されたと言っています。
では、どうして、本日の福音、ヨハネ4:5-26が、この四旬節にふさわしい福音として与えられているのでしょうか。ちなみに、次週はヨハネ福音書から主イエスの奇跡によって生まれつきの盲人が視力を得るという記事が与えられ、その次は、同じくヨハネ福音書から、ラザロの復活をめぐる、それに伴う長い記事が与えられています。
さて、今日の出来事では、一人のサマリアの女性、シカルの女の人が、ユダヤ人の主イエスに出会い、次第次第に心が解かれていき、主イエスをついにはメシア、キリストと呼ばれる方として信じるに至る出会い、対話が記されています。
 今も、世界ではロシアとウクライナが主権を争い、また、日本も日韓関係で冷え切った政府間となっています。主イエスの時代も、ユダヤ人とサマリア人とがもともと同じイスラエル人であったにもかかわらず、同じ食事の容器は互いに用いないという犬猿の仲になっていました。しかし、主イエスは、神の計画に従って、このサマリアを通って、ガリラヤへと帰って行くこと、そしてこの女性と出会うことになると神によって定められていたのです。
 シカルというヤコブがヨセフに与えた場所の近くに主イエスは、お出でになり、旅の疲れから、ヤコブの井戸の上の方に座っておられました。時は、正午頃、シカルから、サマリア人の女性が水をくみにやってきます。普通、女たちが水をくみに来るのは朝夕のことでした。しかし、弟子たちは町に出ており、暑い盛りの正午頃やって来たことにより、主イエスとの出会いが起こったのです。
主は、いきなり出会ったときに、「私に飲むことを与えなさい」と言われます。女の人は、なぜ、ユダヤ人の男であるあなたが、サマリア人の女である私に飲ませてくださいと言われるのかと答えます。
逃げ出したりせず、この女性は強い性格の持ち主であったことが窺がえます。主は、「あなたが神の賜物、神の救いを知っていて、水を飲ませて下さいと言った者がだれであるかを、知っていたら、自分からあなたは要求し、そして彼はあなたに生きている水を与えたであろうに」と言われます。
女は、「主よ、この井戸は深いのです、そしてあなたはくむ物をお持ちでないのに、どこから生きた水をくむのですか」と、次第に心を開いていきます。主は、「この井戸から水をのむ者は、また、渇く、しかし、私が与える水からのむ者は永遠に渇かず、その者の内で永遠の命へとあふれる水の泉が成るであろう」と言われました。そして、彼女は、「私がここにまたくみに来なくていいように、その水を下さい」と言うのであります。
 そして、主はその対話が深まって行ったピークの時に、いきなり、「あなたの夫を行って呼んで来なさい」と話を変えられます。女は、「私は夫を持っていません」と答えると主は、「あなたは正しく答えた、あなたは5人の夫を持っていたが、今あなたが持っているのは、夫ではない」と言われます。女は、「主よ、あなたはあの預言者だとお見受けします」と答えます。
 そして、父なる神への礼拝の問題へと心を移していきます。「私たちの父祖は、この丘、ゲリジム山で礼拝したが、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムであると言っています」と。主は、「あなた方は、知っていないものを礼拝している」と、あるいはその女の5人の夫、すなわちサマリア人たちが5つの偶像崇拝をしていたことを、主イエスは暗示していたでしょう、「しかし、私たちは知っているもの、神を礼拝している、救いは、ユダヤ人から来るからだ」と答えられ、「もはやこの場所でもなく、エルサレム神殿においてでもなく、父を霊と真実において礼拝すべき時が来る、いや今既に来ている」と言われます。私たちの礼拝は、霊と真理においてなされるものでなければならない、なぜなら、神は霊だからだと教えられるのであります。毎週の私たちの礼拝がそのような熱心なものになっているでしょうか。受難節の時、主イエスが十字架の死とその後の復活の勝利によって、霊とまことにおける礼拝を与えて下さったことを覚えたいものです。
女は、「私は、メシアと呼ばれる方が来て、すべてのことを私たちに知らせてくださることは、存じています」と言うと、主は、「私である、あなたにしゃべっている者がそれである」とご自分が、約束されたメシアであることを、稀なことにも、この敵対していたサマリアの-女性に証しされたのであります。
 この四旬節のとき、主イエスは十字架の死と復活において、罪人の私たちのために、お出でになられました。そして、その方は、身体的のみならず、魂においても永遠に渇くことのない命の水を与えて下さいます。もはや、渇くことのない命のみ言葉を、今日、私たちにも差し出してくださいます。
 四旬節のわが身の罪を思い起こすべき時でありますが、この良き訪れ、福音の喜びを隣人に届ける時でもありましょう。この後、この女の人がサマリアの村人たちのところに言って、宣べ伝えたように、私たちも罪の嘆き、魂の渇きをいやされて、今度は人々のなかへ、主イエスの十字架と復活の救いをのべつたえる者として遣わされて行きましょう。アーメン。


2014/03/23(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「贖いによる救いの計画」(マタイ20:17-28)
マタイ20:17-28、2014年3月16日、四旬節第2主日(典礼色―紫―)、創世記12:1-8、ローマの信徒への手紙4:1-12
 
マタイ福音書20:17-28
 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」




説教「贖いによる救いの計画」(マタイ20:17-28)

先週の月曜日には、東京教会で東地域の教師研修会があり、引退教職の石田順郎牧師が講演なさいました。先生はこの程、「神の元気を取り次ぐ教会」という説教集などから成る、言わば先生の遺言とも言えるような本をリトン社から、出版されました。
その講演の中で、先生は、ルーテル教会では、教会暦に従った聖書日課が、毎週与えられており、自分の人生を振り返ってみるに、ただ、ただ恵みのみだ、感謝のみだとルーテル教会のすばらしさを説いておられました。
 確かに、私たちも毎週味わっていますように、日曜日には、それぞれ、聖書日課が与えられ、今日も創世記のアブラハムへの主なる神の祝福すなわち、イスラエルの民の救いの計画の始まり、また、ローマ書の信仰によって義とされるという個所が与えられています。
それら伝統的なものは、大体は、ローマ・カトリック教会の日課に従っていますが、ところどころでは、ルーテル独自の日課である場合もあります。
マルティン・ルターは、カトリック教会の伝統のうちで生かせるものは、なるべく生かそうとしましたが、それが、今のルーテル教会にも続いていると思います。
さて、今日は、四旬節第2主日として、マタイ20:17-28に飛んでいます。先週のマタイ4章の荒れ野での3つの誘惑の記事に続いて、今日は、主イエスの第3回受難予告および復活予告が与えられています。これは、共観福音書にそろって出て来るものですが、マタイは、独自に構成しています。
 主イエスは、エルサレムへと上っていかれとき、12弟子を道の途中で、連れ出し、彼らだけに言われるのであります。
見よ、私たちは、エルサレムへと上って行く。人の子は、律法学者たちや祭司長たちに渡され、彼らは、彼に死を宣告するだろう。そして、彼らは、異邦人に引き渡すであろう、それは、彼ら、異邦人が彼をあざけり、鞭打ち、十字架につけるためであり、そして、人の子は、三日目に起き上がらされるであろうと予告なさってのであります。
十字架におかかりになるのが、神の救いの計画であり、み子、そして、苦難に遭われる人の子の道、すなわちイザヤ書の42章に出て来る低く、十字架の死に至るまでみ旨に従われる苦難のしもべの道を主は、黙々と歩まれるのであります。
 ところが、まさに「その時」ゼベダイの子らの母が進み出て、ひれ伏し、何かを願おうとするのです。マタイは、12弟子の中でも内弟子のヤコブとヨハネ兄弟の尊厳を傷つけまいとして、その子らの母に進み出させたのでしょう。
主が何を求めているのかと聞かれると、サロメはあなたのみ国において、息子らの一人をあなたの右に、一人を左にと願い出たのであります。あなたのみ国、すなわち、よりによって、教会において、自分たちの栄光の席を求めるのであります。
主は、二人に、あなた方は私が飲む杯を飲むことができるかと言われます。二人は、その苦難を十分に理解しないまま、できますと答えます。旧約聖書において、杯は神の怒りや裁きや報復を意味しました。主イエスは、後に、ゲッセマネの祈りで、父なる神に、私の杯を過ぎ去らせて下さいと祈りますが、そこでは、文字通り、自分に迫っている十字架上の死を意味していました。
さて、ヤコブは、ヘロデの手にかかって、殉教し、ヨハネも伝説では苦難を受けますが、この時には、それらのことはまだ何も分かってはいなかったでしょう。
しかし、主は、み国において私の右、左に、だれがつくかは、父によって備えられた者にのみ与えられることだと言われます。
 他の10人はこれを聞いて立腹しますが、主は言われます。あなた方が承知している通り、異邦人の世界、すなわち、特にローマ帝国においては、大きい者たちが彼らを支配し、権力者たちが、彼らの上に圧政を強いているが、あなた方の間ではそうであってはならない。むしろ、大きく成りたい者は、あなた方のディアコノスとなり、第1になることを欲する者は、あなた方の僕となりなさい、と言われるのであります。
 教会でも、地位を巡っての争いがあり、牧師仲間でも自分の優劣を巡っての競争があります。しかし、教会では、仕える者が、あなた方の内で大きい者であり、しもべとなる者が、第1であり、先の者と、主イエスによって、示されているのであります。
 そして、最後に、ちょうどそれは、人の子、私が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの者たちの代わりに、その命を与えるためであるのと同じようにと、主イエスは言われているのであります。
 苦難の僕が、多くの者たち、それは、すべての者たちを意味するのですが、その者たちのために、その命を身代金として与えるという思想は、既にイザヤ書53章に預言されています。
 この四旬節の第2の主日に、私たちは、十字架におかかりになる主ご自身の第3予告を福音として与えられているのであります。
 主イエスの十字架への道行きを覚えながら、また、父なる神の深い贖いによる救いの計画に思いをはせながら、この受難節をご一緒に歩んでまいりましょう。アーメン。

2014/03/16(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の言葉に守られて」(マタイ4:1-11)
マタイ4:1-11、2014年3月9日、四旬節第1主日(典礼色―紫―)、創2:15-17、3:1-7、ローマの信徒への手紙3:21-31
 
マタイ4:1-11
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


説教「神の言葉に守られて」(マタイ4:1-12)
今日与えられている福音は、マタイ福音書4章1節から11節です。私たちは、先週の聖灰水曜日の礼拝の時から、四旬節、受難節を迎えています。聖卓の色は、紫色に変わっています。これは、悔い改めを表わす色であり、また、主イエスが十字架にかかったとき着せられた緋色の衣の色でもあり、また、主イエスのその十字架上の血潮を表わす色でもあります。
 私たちは、分かっていながら、罪を繰り返し犯します。私も、受難節に入る前の大切なときにも、人に言えないような罪を犯し、倒れてしまいました。
しかし、私たちは、日曜日には、この受難節の時も、神の福音を聞くために、教会に集められ、洗礼と聖餐を思い起こし、説教を聞くように、喜びの知らせが与えられているのです。
 今日は、主が、洗礼を受け、「これは私の愛する子」とのの父なる神よりの声がし、聖霊がくだったあと、それに続く出来事であります。
 「その時」、と今日の記事は始まります。その霊が、彼を荒れ野へと導き上り、40日40夜、彼は断食していたのです。この40という数字は、出エジプトのイスラエルの民が、荒れ野で過ごした40年を象徴しています。
 聖なる民は、しかし、荒れ野の試みで、ことごとく、敗北して罪を犯していくのです。しかし、主イエスはどうでしょうか。
 40日がたったとき、悪魔がやって来て、誘惑します。あなたは神の子なのだから、この石に命じてパンになれと言いなさいと。
主イエスは、必ず、神の御言葉、旧約聖書の言葉を用いて、悪魔を退け、打ち勝つことができたのであります。
 第1の誘惑、試みに対しては、主イエスは、申命記の言葉を取り出します。人は、パンだけの上に生きないであろう、そうではなく、神の口から出るすべての言葉の上に生きるであろう存在であると、まず引用されます。
 3つの誘惑、試み、いずれに対しても、申命記の言葉によって、悪魔に打ち勝っていかれるのです。出エジプトの民、神の子とも呼ばれるイスラエルの民は、荒れ野での40年間、試練に遭い、試みに負け、敗北してしまいます。
 私たちは、今始まっている日曜日を除く40日間の受難節の間、同じように、言わば、この世の荒れ野での試みに遭います。旧約のイスラエルの民は、つぶやき、敗北してしまいますが、新約の神の子、主イエスは、悪魔の誘惑に打ち勝ち、ことごとく勝利して行かれるのであります。生活手段としてのパンに、荒れ野の石どもを変えることによってではなく、神のあらゆるみ言葉を通して、我々は生きるべきものであるとの申命記の言葉によって、主イエスは第1の誘惑から守られて歩まれるのであります。
 私たちも、主イエスに学び従いながら、神の言葉に守られて、受難節を過ごしていきたいものであります。
 さて、第2の誘惑で、悪魔、ディアボロスは、主イエスを聖なる都に連れて行きます。そして、彼をその神殿の頂上に立たせて、言うのであります。あなたは神の子なのだから、その身を下に投じなさい。なぜなら、こう書かれているからである。彼、神がその天使たちに命じるであろう、彼らがその手であなたを持ちあげる、あなたは、足を石に打ちつけることはないであろうと。
 今度は、悪魔も詩編91編の言葉、メシアへの神の加護について記された言葉を、賢しらに指し示してくるのです。主イエスは、さらに、主なる神を試してはならないとも書いてあると申命記の言葉を用いて、悪魔の誘惑を退けます。人々があっと驚くような魔術的なしるしを用いるのは、真のメシアの取るべき道ではないことを、主イエスは教えています。
 マタイが、この福音書を書いた時代は、熱心党が暗躍していた時代でもありました。しかし、マタイの教会の人々は、この第2の誘惑に主イエスが対処なさったように、熱心党の過激な運動によって、奇跡を行うメシアを期待する道には随従しなかったのであります。 
 第3に、また、彼を悪魔は非常に高い山に連れて行きます。そこには、主イエスをモーセと対比するマタイ福音書の主題がありましょう。モーセは、約束の地を見渡すネボ山に立たされ、はるかカナンの地を仰ぎ見たのですが、主イエスは、全世界の王国とその繁栄を見せられます。
 そして、悪魔は、今度はあなたがひれ伏し拝むなら、これらすべてをあなたに与えようと、命令ではなくて、甘い約束を出して来るのであります。
 「その時」主イエスは、彼にお語りになるのであります。退け、サタン、ただ神を拝み、神のみに仕えよと書いてあると、サタンへの命令と共に、ここでも申命記を引用して、サタンの試みを打ち砕かれるのであります。
 後に、ペトロが、フィリポ・カイザリアで「あなたは、生ける神の子、キリストです」と信仰告白しますが、それに続いて、主イエスが御自分の十字架の死と復活を予告なさった時、ペトロが、主イエスを脇に連れて行って、そんなことがあってはなりませんと言ったとき、主イエスは、ペトロに「サタン、私の後ろに引き下がれ」と叱りつける場面が出て来ます。
 この第3の誘惑でも、サタンが、主イエスに父なる神以外の神々や偶像崇拝に導く、すなわち自分をひれ伏し拝むならという誘惑に対して、主イエスは、徹頭徹尾、申命記を引用してサタンの誘惑を撃退しておられるのであります。
 出エジプトの民は、40年の荒れ野の旅において、偶像崇拝に陥ってしまい、主なる神への信頼とその配剤への従順からそれてしまいました。
 しかし、主イエスは、サタンの誘惑であった政治的世界支配の理想に自らをまかせることなく、十字架の贖いによる人類の救いの道、父なる神のご意志とご計画にあくまでも従順に従われました。
 「その時」悪魔は、彼を離れるのである、そして、見よ、天使たちがやって来た、そして、彼に仕えていたと、あります。天使たちが主イエスの食事の準備をし、また、助け、力づけていたのであります。
 主イエスは、宣教をお始めになる前に、サタンの誘惑に打ち勝ち、また、これから、始まる宣教の中で、サタンの試練に出会って行くのでありますが、私たちのこれからの受難節の歩みに先立って、悪魔の試みに既に勝利されているのであります。
 現代の荒れ野の誘惑とは、何でありましょうか。東日本大震災から3年たとうとしています。その先の見えない復興の問題、故郷に帰れない人々や解決の見込みがつかない問題などもそうであるでしょう。
 しかし、私たちの罪と死と闇の問題を、主イエスは、既に「荒れ野の40日」の誘惑を通して既に解決して勝利なさり、敗北した旧約のイスラエルの民とは違って、父なる神への信頼と従順をまっとうして、私たちの歩むべき道を備えていてくださいます。
 私たちもまた、主イエスに従って、神の口から出るすべての言葉に守られて、この四旬節の時を、主イエスの十字架の道に従って歩みたいと思います。アーメン。
2014/03/09(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天からの啓示」(マタイ17:1-9)
マタイ17:1-9、2014年3月2日、変容主日(典礼色―白―聖餐式)、出エジプト記34:29-35、ペトロの手紙二1:16-19
 
マタイ17:1-9
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。



説教「天からの啓示」(マタイ17:1-9)
  
今日、私たちに与えられている福音は、マタイ福音書17章1節から9節までの短い個所です。山上での主の変容、あるいは変貌と言われる出来事が記されています。今日は、顕現節の最終主日でもあり、今週の水曜日、3月5日から、主日をのぞく40日間の四旬節、受難節に入ります。
 そういう変わり目の大切な日曜日に、この出来事が福音個所として与えられているのです。今日の出来事は、その前後に主の受難予告を持っています。また、フィリポ・カイザリアでのペトロのしたキリスト告白、「あなたは、神の子キリストです」を直前に持っています。
 おそらくその日から、6日目に主は、ペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネを連れていく、そして、彼らだけを高い山へともたらすと、今日の記事は始まっています。
 そして、マタイだけが、記していることですが、主の顔は太陽のように輝いたとあります。それは、主の復活の予表を記そうとしているのでしょう。そして、彼の服は、光のようにまばゆくなったとあります。
 今日の第1朗読も、第2朗読も、今日の福音記事と同じように、超越的な出来事を記しています。聖書、そして、キリスト教は超越的な宗教だと言われますが、今日の日課の3つの記事は、そのことを如実に示しています。今日の出エジプト記のモーセも、シナイ山で十戒が与えられたとき、その顔が光っていました。
 また、ペトロの手紙二の朗読された個所も、ペトロたちが聞いた天からの声について証言しています。私たちのこの世界ではありえないような出来事が記されているのです。
 ペトロたちが、見ると、モーセとエリヤが、主イエスと会話していました。天的人物と主イエスが交わっているのです。ペトロは、答えて言います。主よ、ここにいるのはすばらしいことです。もし、あなたがお望みでしたら、あなたに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ、仮小屋を私は作りましょうと。
 すると、輝く雲が、彼らを覆い、その中から、声がします。これは、私の子、愛する者、私はこれを大いに喜んでいる。彼に、あなた方は聞けと。
 弟子たちは、これを聞いたとき、顔を伏せ、ひれ伏し、非常に恐れます。しかし、主イエスは近寄って、彼らに触れ、言われます。起き上がりなさい、恐れることはないと。彼らがその眼をあげると、イエスだけ以外にはだれも見なかった、とあります。
 そして、彼らが山をおりていくとき、イエスは言われます。あなた方が、見たことを、人の子が死人の中から起き上がらせられるまで、だれにも言ってはいけないと。
 主イエスは、十字架と苦難の道を歩む人の子として、従順に神のご意志に従われます。私たちも、近寄って来られ、いつも私たちと共にいてくださる主イエスにのみ、聞き従い、それぞれが自分の十字架を負い、苦難を担う道に従わなければなりません。
 主イエスは、高い山をくだって、私たちの悩み多いこの世におりてきてくださるお方なのです。
今週から、始まる四旬節、この主イエスにのみ、聞き従って歩んで行きましょう。十字架と復活の道を示される主にのみ、信頼していきましょう。今日の特別の祈りにありましたように、この日の出来事を通して、神さまは、私たちを神の子として、迎えることを示されました。悩み多いこの世にあって、主イエスのみ声のみに従って歩んでいきましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

 

2014/03/02(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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