津田沼教会 牧師のメッセージ
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「煩悶は、神にゆだねて」(マタイ6:24-34)
マタイ6:24-34、2014年2月23日、顕現節第8主日(典礼色―緑―)、イザヤ書49:13-18、コリントの信徒への手紙一4:1-13
 
マタイ6:24-34
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」



説教「煩悶を、神にゆだねて」(マタイ6:24-34)

今日の山上の説教の1節は、多くの人々が愛唱個所として、あげる主イエスらしい言葉が続いているテキストであります。
マタイ福音書を書いたマタイという人は、徴税人でありましたが、その名前の意味は、「神の賜物」という意味だと言います。マタイ福音書は、非常に整えられた美しい文章から、成っており、今日の文章もそうであります。
思い悩むなという6:25-34の教えが中心をなしています。けれども、私たちの日課は6:24から始まっています。だれも二人の主人に奴隷となることはできない。一人を愛し、一人を憎み、一人にしがみつき、一人を低く見るからである。あなた方は神とマモン、一見神のような錯覚を与えるこの世の支配力とに兼ね仕えることはできないというのであります。まっすぐに、一心になって神に没頭することが要求されるのであります。
そこから、思い悩むな、食べ物や、飲み物や、衣服について、煩悶するな、という今日の主イエスの言葉が出て来るのであります。思い煩い、煩悶するときというのは、どういうときでありましょうか。そのときは、私の経験では、孤独を思い知らされる時、追い詰められたときでもあるように思われます。
主イエスは言われます。だから、あなた方は、何を食べ、何を飲もうかと、何を着ようかと思い煩うな。空の鳥どもを見よ、彼らは蒔かず、刈り入れもせず、倉に集めもしない。しかし、あなた方の天の父は彼らを養っていて下さる。あなた方は、彼らよりも勝った者ではないか。創世記で人は神にかたどって造られ、空の鳥らをおさめる者として造られました。その鳥どもは、思い煩うことはなく、神がえさを与えておられる。あなた方は、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことが出来ようか。これは、思い煩ったからといって、あなた方は身の丈を1ペキス、すなわち、45センチほども伸ばすことができようかとも訳せます。ユーモアを好んだ主イエスがそう言われた可能性はあります。
「信仰のわずかしかない者たちよ」「信仰の殆どない者たちよ」、と主は弟子たちに向かって、また、集まっていた群衆に向かって、そして、現在の2000年を隔てた私たちに向かっても励まされています。また、そこには、少なからぬ女の人たちもいたのでしょう。
あなた方は野の花をよく観察してみなさい。それらは、懸命に働きもせず、紡ぎもしない。それは、家庭内で働き、紡ぐ女性たちに向けて語られたのかもしれません。
主イエスは言われるのです。しかし、私はあなた方に言っておくが、あの全栄光におけるソロモンでさえ、この花の一つほどにも、着てはいなかった。今日はえていて、明日、炉に投げ込まれる野の草をさえ、あなた方の父はこのように装われるのであれば、まして、あなた方はなおさらではないか。信仰のわずかしかない者たちよ。それゆえ、何を食べ、何を飲み、何を着ようかと煩悶するな。それは、信仰に縁のない者たちのしていることだ。あなた方の天の父はそれらが、あなたがたに必要であることをご存じである。
で、まず、あなた方は神の国と神の義を求めなさいと言われるのです。神の主権が、主イエスと共に現在しているのだから、煩悶しないで、私たちの父である神に、その配慮にゆだねよというのです。
だから、明日のことは思い煩うな。明日は明日自ら思い悩むであろう。一日の苦労は一日で十分であるというのです。自分のありのままのすがたで、神にすべてを委ねて生きる。それは、分かっていてもなかなかできないことですが、神は、その支配とその義を求める者に、よき道を必ず備えてくださいます。それを信じて、この一年も歩んで行きましょう。
アーメン。





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2014/02/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「隣人とは誰か」(マタイ5:38-48)内海望牧師
マタイ5:38-48、2014年2月16日、顕現節第7主日(典礼色―緑―)、レビ記19:17-18、コリントの信徒への手紙一3:10-23
 
マタイ5:38-48
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる者を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


説教「隣人とは誰か」(マタイ5:38-48)内海望牧師

日課に入る前に、「山上の説教」と呼ばれるマタイ5章から7章の読み方について考えてみます。この箇所は、私自身を含め説教者を長い間苦しめてきたところです。
かつて、この箇所は、「山上の垂訓」と呼ばれ倫理道徳的な意味(理想主義、律法主義)で読まれてきました。多くの文学者も感動して「新しき村」運動なども起こりましたが、結局は人間の現実の前に、挫折しました。また多くの人々がここを読んで「キリスト教は厳しい」と言って聖書から離れて行きました。他方で、「これは努力目標だ」として気楽に考えるクリスチャンもいます。読み飛ばすのです。それではどのように読めばよいのでしょうか。
何より大切なのは、この説教がイエスさまが群衆をご覧になって(愛の眼差しを注がれて)、お話しになったということです。イエスさまが群衆に近づかれたという点が大切です。すなわち、パウロが言うように、イエスさまは神と等しい身分を捨て、自分を無にして、人間に仕える僕とし、慈しみをもって話しかけられていらっしゃる点に目を向けたいと思います。群衆のひとりひとりに新しい命を与えるためには、ご自分の十字架の死さえも覚悟して今、人々に話しかけられていらっしゃるのです。このイエスさまの姿勢を見逃してはいけないと思います。裁きでなく、この説教は福音が語られているのです。
そのように考えると、この「山上の説教」は全く新しい光景を帯びて来るのではないでしょうか。イエスさまは、決して厳しい倫理を押し付けるのではなく、また、群衆を突き放すためでなく、ただひたすらに集まって来た人々のことを思い、彼らを新しい命に生かすために近づかれたのです。
しかし、それにしても、厳しい言葉が並びます。これは私たち人間すべてに求められている生き方です。私たちは、これを無視することはゆるされません。
今日の日課に目を向けてみます。43節以下には「隣人愛」について語っていらっしゃいます。これは、今日の第一の日課であるレビ記からの引用です。このように「隣人愛」という言葉は昔からあったのです。決してキリスト教の専売特許ではありません。
ところが、イエスさまは、ここでずばり「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことが「隣人愛」だとおっしゃるのです。これは、当時人々が「人類愛」と考えていた内容に対する挑戦あるいは批判です。問題は、律法学者がイエスさまに質問したように、「隣人とは誰か」という点にあります(ルカ10章)。
人間は、何でも自分に都合がよいように解釈します。神さまの律法さえ自分勝手に歪めます。当時の律法学者たちは、「隣人」とは「選ばれた民。即ち自分たちユダヤ人」と考えていました。従って、ユダヤ人以外は異邦人であるとして軽蔑し、一切交わりを持ちませんでした。それどころか、敵視していました。このような態度が、ついには、むごたらしい民族間の紛争、殺戮、戦争にまで至ることさえあることは、私たちが現代社会において痛みとして経験しているところです。イエスさまが、レビ記からの引用に際し、律法の内容を「隣人を愛し、敵を憎め」とされたのは実体に即しているといえましょう。恐ろしいことに、当時の人々は「隣人を愛する」という素晴らしい律法を、自分たちに都合がよいように歪め、「差別」「憎しみ」を生み、ついには「殺し合い」を促すようにしてしまっていたのです。イエスさまはこの事態を見抜いていらっしゃるのです。イエスさまが、「敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさい」とおっしゃるのはまさにこの人間の歪曲に対する「否」なのです。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか」と怒りを込めておっしゃるのは当然です。
しかし、私たちも律法学者また当時のユダヤ人を笑うことは出来ません。「人間は全人類を愛することは出来るが、隣りの人を愛することは出来ない」という皮肉な言葉がありますが、まさにそうです。私たちは、身内の人々、隣近所の人々の中に、どうしても愛せない人、いや目も合わせたくない憎らしい人々がいることを告白しなくてはなりません。敵を愛するどころか、右の頬を打たれたら、やり返すことしか考えない人間なのです(38節)。
このようにイエスさまに迫られると、日常生活の様々な場面が心によみがえり、私たちの心は暗澹としてきます。「あんなことを言うべきでなかった」「・・・すべきでなかった」あるいは「ひとこと声をかけるべきだった」など悔恨の情が心に湧き上がって来ます。
繰り返しますが、イエスさまが、「怒りを込めて」と申しました。確かにそうです。イエスさまは、このような人間の現実に怒っておられるのです。神さまの命令である「隣人愛」 をこのように歪めてしまった私たちに対して怒っておられるのです。
私たちは、このイエスさまの怒りにどう対処すればよいのでしょうか。ただうなだれて黙するのみでしょうか。あるいは、多くの人々と共に「そんなに厳しく言われても」と一歩身を引いてしまうのでしょうか。

私たちは、「悔い改め」という言葉を知っています。これは、「悔恨の情」とは全く違います。
「人生は、悔恨の情の塊だ」と語った作家がいますが、確かにそのように思える時があります。しかし、「悔恨の情」というのは、自分が自分を振り返ってみた時に起こる感情です。自分で自分を反省することですから、それは解決のつかない堂々巡りになり、暗い思い出だけが澱のように残るだけです。
「悔い改め」というのは、神さまの前で自分の姿が明らかにされた時に起こるものです。私たちは徹底的に打ち砕かれます。しかし、自分が自分を振り返る悔恨の情と違って、神さまの前での罪人である自己の発見ですから、私たちはただ、「私は滅ぶべき罪人です。それでも、私を憐れんでください」と神さまに必死に祈り求めるしかありません。そうしなければ、私は滅んでしまうのです。ルターは、『ペトロのように、「主よ、私から離れて下さい」と言うべきでなく、神の憐れみに信頼して祈りの中に飛び込み、「主よ、私はこの通り全くの罪人ですから、私を憐れんでください」と祈るべきだと言い、更に「私たちの心は真実に罪を感じているから、いっそう祈りを通して神に近寄らなければならない」』と私たちを励ましています。まさに、「神さまに抗して神さまに近づく」という姿勢です。これが悔い改めなのです。その時、私たちは、パウロと共に、「聖霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成して下さる」という聖霊の助けも経験することが出来るでしょう(ローマ8章26節)。
まさにその時、私たちは、赦しの神さまがイエスさまを通して、私たちに近づいて下さっているということを知ることが出来るでしょう。イエスさまが僕として、十字架にまで下って、「父よ、彼らをお赦し下さい」と私たちのために祈って下さる十字架のイエスさまに出会うことが出来るのです。「どうしてお前たちは死んでよかろうか」と憐れみに満ちた言葉をかけて下さる神さまの愛を知ることが出来るのです。イエスさまは、私たちを担って「敵を愛せ」という「山上の説教」の道を歩み切って下さった方なのです。
ここで注意したいことがあります。それは、「私たちが悔い改めたから、その報いとして赦された」のではないということです。「罪の認識は功績」ではありません。イエスさまの十字架は、私たちが悔い改めたかどうかと関係なく、すべての人間に与えられた恵みです。
しかし、「神に抗し、神に近づくこと」によって私たちは「愛の神」に出会うことが出来る
のです。
 更に大きな恵みがあります。イエスさまは十字架と死から復活されました。それによって罪と死に対する勝利を収められました。そして、私たちにも新しい命に生きる力を与えて下さるのです。「悔恨の情」は、私たちの心を沈めたままで終わります。しかし、「悔い改め」は私たちに新しい復活の命を生きる喜びへと私たちを導きます。「改め」の意味がここにあります。
 金持ちとラザロのたとえを思い出します。金持ちは、ラザロに何か悪いことをしたわけではありません。彼は自分のことしか考えていなかったので、門前で死にかかっているラザロが見えなかったのです。イエスさまの十字架の死と復活によって新しい命へと召された者には、今まで見えなかった人間の痛みが見えるようになります。イエス・キリストの愛がその力を与えて下さるのです。
 「自分は全人類を愛することができないが、目の前に倒れている人がいるなら見過ごしにすまい、と言う決意で生きている」という飯沼二郎先生の文章が心に残っています。問題は、目の前に倒れている人が見えるかどうかということなのです。その眼を開かせてくれるのが、イエスさまの罪人(敵対する者)をも愛する赦しの愛なのです。私たちは、この愛に捉えられているのです。この事態をパウロは、「キリストの愛、我らに迫れり」「駆り立てる」(コリント二5章14節)と表現しています。イエスさまの愛が、「どうしても愛したい」という情熱を私たちに与えてくれるのです。
 今日からは、うじうじと自分を暗い思いで見つめる生き方から、イエスさまの復活の命に与る者として、喜びのうちに生きて行きましょう。罪と死に打ち勝たれたイエスさまが
共に歩んで下さいます。


2014/02/16(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスと共に生きる」(マタイ5:21-37)
マタイ5:21-37、2014年2月9日、顕現節第6主日(典礼色―緑―)、申命記30:15-20、コリントの信徒への手紙一2:6-13
 
マタイ5:21-37
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手が
あなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」




説教「主イエスと共に生きる」(マタイ5:21-37)
今日のマタイの記事は、十戒等の命令に対する主イエスの反対命題とも言うべき言葉からなっています。
あなた方は、聞いている。すなわち、昔の人々にこう言われていうことを。すなわち、あなたは、殺してはならないと。しかし、私はあなた方に言う、兄弟に対して怒る者は、裁きの責めを負う。
兄弟に「うすのろ」とののしる者は、最高法院における責めを負う。また、「馬鹿」という者は、火のゲーナ、すなわち、地獄への責めを負うと。
兄弟に怒りを抱くことから、殺すことも生まれてくることは、アダムとエバの長男カインが兄弟アベルをねたみ、怒ってあげくのはて殺してしまったことから、私たちは、十分にうかがい知ることができます。殺すことに至る怒りという根本原因をなくしてしまわないことには、真の解決にならないのです。
次に、主は、あなた方は、姦淫するなと言われている。しかし、私は言うが、女の人を彼女を欲望することに向かって見る者は、既に心の中で彼女と姦淫したのである。あなたの右の目が躓かせるなら、えぐり出して、投じなさい。体の一部を失って、全身が火のゲーナに出て行かない方があなたにとって益である。もし、あなたの右手があなたを躓かせるなら、切り取って、捨ててしまいなさい。体の一部を失って、全身がゲーナへと入らないことがあなたにとって益である、と主は言われています。新共同訳は、他人の妻をみだらな思いで見る者はと訳していますが、原文は女の人をとなっています。
そうすると、これは、男性にとって不可能な要求のように思われますが、イエスは、そこまで十戒を徹底させ、捕らえられた姦淫の現場の女の例のように、当時、ないがしろにされていた女性の立場を平等にとりもどし、主イエスは、根本的に、男女間の正しいあり方に解決の道を開かれたのです。
また、こう言われている。すなわち、妻を離縁する者は離縁状を渡せと。しかし、私は言う、不身持ちの理由以外で、妻を離縁する者は、妻に姦通を行わせるのであり、その女と結婚する者も、姦通の罪を犯すのであると。現在、私は、ニュウヨークで精神科医として活躍されているある先生のワークショップを、インターネットを通して、セッションを受けています。人類の10人のうち9人は、結婚するそうです。しかし、アメリカでは、離婚率が高くなっています。離婚した人の離婚率はさらに高くなります。
日本でも離婚は増えていますが、日本では家庭内離婚も多いとのことです。その先生は、インターネットを通じて、夫婦ないしは、親しいパートナーの二人と先生の3者で親近関係をよくすることを優先して、その後に自己と達成・仕事面の人生の三脚を改善するという心理療法を開発されています。
夫婦は、神との関係のようにどこまでもお互いに近づくことができるし、そうすべき関係にあります。夫婦もいずれかの死によって、終わりが来るし、その時には別れねばなりません。しかし、親近関係を改善・突破しながら、夫婦関係をよくし、あるいは、鬱や境界性人格障害といった症状を治療するというわけです。主イエスの時代、離婚は男の都合で簡単になされていました。それに対して、イエスは、根本的は離婚に対する神の思い、解決策を差し出されたのです。パウロも、自分が信者である場合、不信者の去って行くのは、認めても、相手がそうでなければ、離婚しないようにと勧めています。
最後に、あなた方は聞いている、偽って誓うなと、誓ったことは必ず果たせと。しかし、私は言う、まったくあなたは、誓ってはならない。天において、すなわち、天的世界でも、地においても、エルサレムへとも、あるいはあなたの頭に向けても誓ってはならないと言われるのです。
誓うことをしなくても、すむような誠実で、偽りのないまことのふるまい・生活ができるなら、偽って誓うこともなくなります。このように、主イエスは、預言者と律法を成就し、ファリサイ派や律法学者にまさる義のふるまい、正しい神との関係を実現し、神の国、神の愛にふさわしい生き方、主イエスと共に生きる生き方を、私たちに具体的に教えてくれているのであります。その道をご一緒に歩んで行きましょう。アーメン。





2014/02/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「良い行い」(マタイ5:13-16)
マタイ5:13-16、2014年2月2日、顕現節第5主日(典礼色―緑―聖餐式)、イザヤ書58:1-10、コリントの信徒への手紙一2:1-5
 


マタイによる福音書5章13節~16節
 
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」




説教「良き行い」(マタイ5:13-16)

主イエスは、あなた方は、地の塩、世の光であると言われています。このあなた方というのは、キリストの招きに従って、迫害にあうことをも辞せず、キリストの証人として応じ、歩んでいる小さな群れである弟子たち、私たちすべてのキリスト者を指しています。
主は、あなた方は、いつか地の塩になるであろうとか、世の光になるであろうとか、言ってはおられず、今の状態のままで、あなた方は既に、地の塩であり、世の光であると断言されています。私たちの努力や功績によってではなく、主イエスによって、既にそのような存在として私たちは、この世界に置かれているのであります。
地の塩、世の光というのも、考えてみれば不思議な言葉です。それは、この地上世界の人々にとっての塩であり、また、光であるという意味です。
塩は、香辛料としての働きがあります。「あの人は、味のある牧師だ」などと表現する場合もあります。食塩は、自分自身を溶け込ませ、自分を媒介として、自分自身はなくして食材に風味をそえるのです。料理においては、必要不可欠なものであります。また、塩は防腐剤としてとか、保存の役目とか、イスラエルでは神との契約に用いられたりもしました。
地の塩である私たちが、その塩味をなくしたら、塩気をなくしたなら、これは、塩が馬鹿になるという言葉ですが、そうなったら、人々によって、外に放りだされ、投げ捨てられて、踏みにじられる以外に何の役にたとうか、と主は言われます。地の塩の働きを、私たちが、なくしてしまい、世の人々の希望となり、光となることをやめてしまったなら、私たちの存在価値は何もなくなってしまう、人々から捨てられるだけだと、主は、私たちがその本来の塩気をなくしては、もともこもなくなると、ここでは私たちを脅かすことすらなさっています。
塩化ナトリウムとしての塩は、本来、塩気をなくすることはないとのことですが、死海で取れ、売り買いされた当時の食塩、岩塩は、湿気を多分に含むことによって外界物と混じり合い、使い物にならなくなることがよくあったということです。
私たちは、主のみ言葉から、離れるとき、人々から、無用の長物とされることを、体験的に知っています。
また、主イエスは、あなた方は、世の光である。山の上にある町は、隠されていることができないとも言われました。ナザレも、エルサレムも、山の上に造られた町で、周りから知られずにいることはできない構造になっていました。この世界にあって、弟子たちは、それと同じように、人々から隠されていることはできない者たちであると、主イエスは明言されます。
そして、あなた方の光を人々の前に輝かしなさいと言われます。しかし、私たち自身が、光の源なのではなく、異邦人のガリラヤに昇った光であるキリストの光を私たちが受けて、その私たちの光が、人間どもの前に、輝やきなさいと主は言われるのであります。人々がともし火を、つけて、すぐに、升の下に置いて、消すようなことはせず、燭台へと置いて、家の中のものすべてを照らすようにすると、主は言われます。
あなた方は、この世界へと出て行って、愛の奉仕をし、また、神の国、神の愛を宣べ伝えることを通して、そのすべての民を弟子とするように努めなさい、と言われ、私たちが、まことの光である主イエスの証人であることを人々に知らしめよと言われるのです。
このようにして、あなた方の光が人々の前で輝きなさいと主は言われます。そして、それは、あなた方の立派な行いを見て、人々が、ついには天にいますあなた方の父に栄光を帰するようになるためであると言われます。主イエスは、私たち、主イエスによって、選ばれ、招かれた、小さな群れである弟子たち一人一人の良い行い、立派な生活を通して、その光の出所がどこから来ているのかを、人々が知るようになるためであると言われるのであります。
主イエスは、塩が、その本来の役割を失ったり、光がその本来の働きを、果たさなければ意味がないように、キリスト者もその本来の使命を忘れれば、無意味な存在になることを教えられました。そして、この個所の後に、キリスト者の良き行いとして、私たちが取るべきふるまい、律法学者やファリサイ派にまさる私たちの義なる行為、あり方を説いていかれるのであります。アーメン。


2014/02/02(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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