津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスに従う群れの幸い」(マタイ4:18-25)
マタイ4:18-25、2014年1月26日、顕現節第4主日(典礼色―緑―)、イザヤ書43:10.-13、コリントの信徒への手紙一1:26-31、
 
マタイ4:18-25
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。



説教「主イエスに従う群れの幸い」(マタイ4:18-25)

今日は、津田沼教会の総会の日であります。そして、それにふさわしい福音書の記事が与えられています。マタイ福音書の4章の18節から、25節であります。最初の弟子たちの召命であります。そして、それに続く主イエスの働きの開始と、当時の人々の反響が記されています。
マタイも、マルコも、ルカも、そして、ヨハネ福音書も、いずれも、最初の弟子たちの召命の記事を、それらの福音書の始め近くに、記しています。いったいどの記事が、史実に1番忠実であるのか、それは、分かりません。
しかし、それぞれの福音書記者たちが、それぞれの見方で、微妙に異なる記事を残しているのであります。
今日は、そのうちのマタイ福音書から、聞いていきましょう。先週与えられていた福音書の個所、マタイ福音書4章12節から17節では、主イエスは、ガリラヤにお戻りになって、カファルナウムに定住して、宣教をお始めになりました。その第1声は、「あなた方は、悔い改めよ。なぜなら、天の王国、神の支配が近づいたから」というのです。私たちが努力するから、神の国が近づくのではなく、神の国がそこまで来ているので、私たちは悔い改めることが必要だし、そうすることができるのであります。
さて、それに続く今日の出来事は、こういうものでした。主イエスは、ガリラヤの海に沿って、歩き回っておられた。そのとき、ペトロとその兄弟アンデレが、網を投げているのに、目を留められた。そして、彼らに言います。私のあとについて来なさい。そうすれば、私は、あなた方を、人間どもへの漁師たちにするであろうと。
人間どもへの漁師たちとは、私たちの新共同訳聖書では、人間を取る漁師と訳されています。これを聞いたときの、ペトロたちの驚きはどんなに大きかったことでしょうか。自分たちは、魚を取る漁師を生業としている。ところが、このお方は、私どもを、人間を取る漁師にしようと言われる。
確かに、旧約聖書でも、エレミヤ書などには、「私は、多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」といった人間どもへの裁きを意味する表現が見られます(エレミヤ書16章16節)。
しかし、主イエスの言葉は、人間を裁くために、ペトロたちを召し出すのではありません。人を、神の支配の中へと導き招くための召命であります。私たちは、イエス・キリスト、すなわち、「メシアの証人」へと召されるのであります。
彼らは、すぐに、網をあとに残して、彼に従ったと記されています。
私たちも、自分たちが有能だから、いろいろな賜物に秀でているから、主イエスに従ったのではありません。主イエスによって、選ばれて、すべての他のものを、あとにおいて、従って来た一人一人であります。
また、主は、進んで行かれると、今度は、舟の中で、網を父と共に繕っているヤコブとヨハネに目を留められます。そして、彼らを呼ぶと、その二人の兄弟も、舟や父をあとに残して、すぐに従います。エリヤがエリシャを弟子としたときは、エリシャはまずそれに際して、親にいとまごいを願い出て許されました。しかし、主イエスの弟子たち、彼の証人となる者は、まずは、父を葬りに行かせてください、と言っても、主は、死人のことは、死人たちにまかせておくがよいといって、私たちの即座の随従をお求めになるのであります。
このように、主イエスの弟子たち、主イエスによって、人間どもを神の支配へと導く漁師へと招かれ、それに喜んで従ったのであります。
私たちも、この多難な時代に、人々を、キリストへと、み国の福音、良き知らせへと招くべく、選ばれたことを、この日、もう一度、思い起こしましょう。
そして、主イエスは、ガリラヤ中を、歩き回って、彼らの会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、病気のありとあらゆる種類の患いから、病人を、み国の到来のしるしとして、癒されていました。むやみに、やたらに、主イエスは大勢の人をだれもかも癒されたわけではないのです。
さて、私たちも、その主の働きを広めるべく、選び出された者です。そして、主イエスは悪霊つき、癲癇、中風の者といった当時、解決し難い難病とされていた人たちの中から、み国の福音のしるしとして、そのような人々を、ご自分がメシアであることを示すために、癒されたのであります。
そして、シリヤ中に、その良き聞こえは出て生き、近隣のデカポリス一帯からからも、特に、ユダヤ人たちが多かったでしょうが、異邦人にも救いがあることを示す記事が、マタイの手によって記されています。
「英語で聖書を読む会」に1年以上、来ている方がいますが、そして、今、エレミヤ書を読んでいるのですが、その方は、聖書の教え、そして、キリスト教は、他の宗教を認めない厳しい教えだと新しく来た人の質問に答えて言っておられました。旧約聖書を学んでいますので、やむを得ない面もありますが、私は反論して説得させようとはしませんでした。旧約聖書の底においても、異邦人のための神の救いも含まれていることを、伝えたいところでしたが、やはり、エレミヤ書の神学、あるいは総論をもっと深く研究しておく必要を感じました。
主イエスの教え、そして、全聖書の教えは、異邦人の世界にも、すなわち、全世界の人々の救いを教えるものであることを、本日の後半の個所からも垣間見ることができます。
私たちは、この日本社会へ、キリストの証人として、主イエスに従って行く群れとされているのであります。主イエスの証人となるべく、主イエスによって召し出された、その幸いを、そしてそれは、そのために担わねばならない苦労を超えた喜びであることをを、この津田沼教会の総会礼拝のこの日から、共々に分かち合いながら歩んでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。






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2014/01/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「暗闇に座す者に光が」(マタイ4:12-17)
マタイ4:12-17、2014年1月19日、顕現節第3主日(典礼色―緑―)、アモス書3:1-8、コリントの信徒への手紙一1:10-17、
 
マタイ4:12-17
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
  異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



説教「暗闇に座す者にのぼる光」(マタイ4:12-17)
 
 顕現節、それは、神の子、主イエス・キリストが、この世に顕われたことを覚える教会暦の季節であります。今日のところでは、主イエスが、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、すなわち、神の御計画のもと、ヘロデ・アンティパスの手へと引き渡された後、主イエスがガリラヤに退かれて、先駆者ヨハネのあとを継ぎ、神の国の接近にともなう第一声をあげるという場面展開を記しているのが、今日の福音書の個所であります。
 主は、育った故郷ナザレを去って、ルカ福音書では、故郷で迫害にあって、カファルナウムと言う湖岸の港町に、定住なさるのであります。
 ガリラヤ一帯は、ヘロデ・アンティパスの領域でもありました。しかしまだ、宣教の始めの頃は、身の危険を覚えるようなことはない場所であったのでありましょう。
 そして、それは、旧約聖書によっても、メシア、神の救いの光が、ガリラヤの地にのぼることが、今日の福音の中にも、引用されていると、マタイは断言します。
 それは、イザヤ書の記事にあります。8章の23節から9章の1節です。
「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの地、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイザヤは預言しています。
 マタイは、ユダヤ民族が選ばれた神の民であり、旧約聖書が、イエス・キリストによって成就されたという立場が強い福音書記者でありますが、イザヤ書のここに、異邦人にも救いの光が、ガリラヤの地、海沿いの地に、のぼると書いているではないかと、異邦人の多かったガリラヤから、メシアが現れることは、神の御計画であったことを、今日の記事において、はっきりとその読者たちに伝えたかったのではないでしょうか。
 「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者の上に」光が射し込んだとあるのを、マタイは、「闇の中に座している者たち」「死と陰の地にうずくまっている者たちに」光、すなわち、メシアの到来による救いがもたらされると、解釈して引用しているのです。
 カン・サンジュン氏は、熊本出身の方で、今年の4月から聖学院大学の学長をつとめるとキリスト新聞に載っていましたが、最近の著作に「心」というのがあります。夏目漱石の小説「心」にちなんだ作品です。ある男子大学生が、ある意味では、主人公で、その親友のあまりにも若すぎる、病に冒されての不条理な死に直面して、カン先生とメールのやり取りが始まる。2011年3月11日の東日本大震災の災害、原子力発電所の事故も背景となり、今の若者たち、大学生の恋や、新鮮なものの見方が、作者カン先生の鋭い感性を通して描かれ、現代日本を生きている人々の実態に、鋭いメスを入れて展開されていきます。
 若くして亡くなった親友の短い人生は、無意味だったのか。それを、ご自分の息子さんの自死に遭遇し、生きる意味について洞察されたカン先生の深い苦しみと共に、考察されています。
 現在の日本社会はどこに向かって進んでいるのでしょうか。人の命は、短くても、それぞれに尊い価値があることを知らされます。
 今日の「暗闇に座す者たちに光が」のぼったというのは、私たちの現実ではないでしょうか。キリスト・イエスがいなければ、私たちの人生は、方向を見失って、暗闇の中にうずくまって、絶望するしかない空しい人生となってしまうのではないでしょうか。
 長い世界の歴史の流れの中にあっては、私たちの人生はたとえ長寿をまっとうできたとしても、1瞬のものにしか過ぎません。
 罪の中でうずくまるしかない空しいものではないでしょうか。しかし、聖書を貫く創造主なる神は、そのような私たちをそのまま見捨ててはおかれませんでした。異邦人のガリラヤと言われた海沿いの地、カファルナウムに主イエスが第一声をあげて、私たちに神の支配が近づいていることを、宣言されるのであります。
 私たちももう一度、この闇に座り込んでいる私たちの現実生活の中へと、主イエスが、神のもとから派遣されて、光となって下さっていることを思い起こし、希望と喜びの人生へと、新たな一歩を踏み出していきましょう。アーメン。






2014/01/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスが洗礼をお受けになる」(マタイ3:13-17)
マタイ3:13-17、2014・01・12、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38
 
マタイ3:13-17
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。




説教「主イエスが洗礼をお受けになる」(マタイ3:13-17)

今日は、「主の洗礼日」の礼拝です。より強いお方である主イエスが洗礼を、その先駆者、洗礼者ヨハネから、お受けになったという事実は、3つの共観福音書が、また、ヨハネ福音書も暗に伝えていることであります。そして、それぞれの福音書において、その同じ出来事が、微妙な相違を示しながら、記されているのであります。
私たちは、今年は、マタイ福音書から、主として、その福音を聞くことが、与えられています。マタイ福音書の伝える「主イエスの洗礼」の出来事を、重点的にしばらくご一緒に考えたいと思います。
今日与えられているマタイ福音書の記事は、マタイ福音書3章13節から、17節までであります。今日の記事は、その時、主イエスはガリラヤから、ヨハネによって洗礼を受けるためにヨルダン川の彼のもとへと到来する、という言葉で始まっています。既に私たちは、主イエスがガリラヤのナザレでお育ちになったことを聞かされています。
そして、マタイは、特に、主イエスが、既に集まって来ていた群衆たちと同じように、洗礼者ヨハネから、洗礼を受ける目的で、ヨルダン川の岸辺にやって来られたと、まず、明記しているのであります。
洗礼者ヨハネは、自分は悔い改めの洗礼を授けているが、私より後に来られる、私よりもはるかに強いお方が、火と聖霊によって洗礼をお授けになると、本日の記事の前の部分で宣言しています。
それなのに、なぜ、その主イエスが、洗礼者ヨハネのもとに来て、彼によって洗礼をお受けになったのか、お受けにならなければならなかったのか。それは、当時のマタイの教会の人々にとって、また、マタイ福音書の読者たちにとって、見逃すことのできない大きな問いとなっていたのであります。
洗礼者ヨハネは、主イエスに、次のように語りながら、何とか彼が洗礼を受けるのを回避させようと試みていたのであります。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべき必要を持っています。そして、あなたが私に向かってやって来られるのですか。」
主イエスは、それに対して、こうお答えになるのであります。「今は、あなたは許してほしい。なぜなら、このようにすべての義が、私たちに成就するのは、適切なことだから」と。この「義」という言葉は、マタイ福音書では非常に重要な鍵言葉であります。また、主イエスの言われる「私たち」がだれを意味するのかも考えられなければなりません。神の義なのか、人間の「義」なのか。「私たち」というのは、主イエスとヨハネのことなのか、それとも、そこに一緒に集まっていた群衆をも含むのか。「義」という言葉は、神との間での義という場合、救いとか、主イエスに対する信仰を意味します。義のために迫害される人々は幸いであると言われる場合などであります。人の間での「義」という場合は、憐れみや施しを意味したりもします。
ここでは、「私たち」というのは、一緒に集まっていた人々をも含み、また、「義」、正しいことというのは、人間の神に対する従順なふるまいと考えられるのであります。主イエスは、私たち、共に集まって来ている民衆の身になって、「すべての義を成就する」すなわち、徹底的に神の意志に従順な人間の側のふるまいをなさることを、ヨハネから洗礼をお受けになることを通して、実現なさろうとしたのであります。
「そこで、彼は、彼を許した」、とあります。
主イエスは、ヨハネから、洗礼をお受けになり、すぐ、水から上がられると、見よ、天が開かれ、神の霊が、鳩のように降るのを、そして、御自分に向かってやって来るのを御覧になります。
この受洗の場所、ヨルダン川は、昔、ヨシュアが、出エジプトの時、イスラエルの民が約束の地イスラエルに入るときに、奇跡的にその水が堰止められて、民が渡ることができた場所でありました。また、天が開かれるというのは、エゼキエルがバビロンのユーフラテス川で見た啓示でもありました。そして、神の霊が鳩のように降り、御自分の方にやって来るとは、創世記の天地創造のときに、神の霊が水の面を漂っていたという記述を思い起こさせます。また、鳩は、聖霊を表わすと共に、イスラエルの民の象徴でもありました。
主イエスの洗礼の時、まず、目に見える形で、主イエスに起こったことを記し、それから、耳に聞こえる形で起こったことを、マタイは、次のように記しています。
そして、見よ、天からこう語る声があった、すなわち、「これは、私の子、愛する者、彼を私は喜んでいる」と。この天からの啓示の言葉は、主の変貌のときの言葉と殆ど同じであります。
マタイは、客観的に、天からの声をそこにいたヨハネと、民衆に聞かれた言葉として、「あなたは」ではなく、「これは」「彼を」と記しています。
この天からの言葉は、イザヤ書42章1節の言葉、「彼は、私の愛する僕、私は彼を支え、私は彼を喜びとする」という主の僕についての言葉と、詩編2編7節の「あなたは、私の子、私は今日あなたを産んだ」という言葉が合わさった言葉であります。
主イエスは、苦難の僕であり、苦しむメシアであります。また、彼は、御自分の子であることを、神は、この主イエスの洗礼の時に、天から啓示なさったのであります。
主イエスの公生涯の始まりのときに、これらの出来事が起こったのであります。私たちは、折しも、2014年の始まりの時に、この主イエスの洗礼の出来事を読んで、これからの1年間の歩みを始めようとしています。
私たちも、主イエスの洗礼をお受けになった出来事を、思い起こしますときに、自分たちがそれぞれに受けた洗礼の出来事を思い出させられるものであります。しかし、それは、パウロも言うように、主イエスの死に与る洗礼であります。
私たちと、特に日本の社会、風土を考え合わせますときに、周囲の人々とを区別する1つの大きなメルクマールは、洗礼を受けているか否かであります。
先日も、「英語で聖書を読む会」に通い始めた方が、先生はどうして洗礼を受けたのですか、御家庭がクリスチャンの家庭なのですか、と素朴な、そしてもっともな質問を帰りがけになさいました。
洗礼は、決して私たちクリスチャンの特権というようなものではありません。主イエスが、洗礼をお受けになったのは、「私たちに、すべての義が成就する」ためでありました。洗礼を受けて、私たちは、それぞれの十字架を担い、主イエスのあとについて行くように招かれた者であります。
それは、「キリストの死に与る」ものであり、私たちは、洗礼を受けることにより、それぞれに与えられている人生の重荷を生涯引き受けていくのであります。しかし、そこにしかない、変えることのできない大きな喜びと慰めをも体験している者であります。
それを、周囲の大多数のまだ洗礼を受けていない人々に伝えるために、主イエスが、マタイ福音書の終わりにおいて言われているように、私たちは全世界に、この日本での周囲の私たちの家庭や友人たち、社会の中へと遣わされているのであります。
この1年間、津田沼教会の歩みが、今日の日の出来事である主イエスの洗礼に従って行く歩みとなりますように、この1年の初めに心から祈る者であります。アーメン。

人知では測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。




2014/01/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マギたちの到来」(マタイ2:1-12)
マタイ2:1-12、イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12、2014・01・05、顕現主日(典礼色―白―聖餐式)
 
マタイ2:1-12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

説教「マギたちの到来」(マタイ2:1-12)

今日の福音は、かのイエスは、ヘロデ大王のみ代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったと始まっています。そのイエスと定冠詞がついているのであります。
それは、なぜかというと、1章にありましたように、罪から救うインマヌエル、神が共におられるとも呼ばれることになるキリスト、メシアであるそのイエスを指しているのであります。
そして、そのとき、東方から、マギたち、原文はマゴス、複数形マゴイという言葉ですが、新共同訳では占星術の学者たちと訳されています。古来、3人の博士たちとも言われて来ました。そのマギたち、あるいは、魔術師たちと訳されることもある言葉ですが、彼らが、エルサレムに到来して言うのであります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにいますか。私たちは、その方の星の昇るのを見たので、拝みに来た、ひれ伏しに来た。あるいは、敬意を表しに来たのですと。
「ヘロデ大王はそれを聞いてうろたえた、おびえた、そして、全エルサレムと共に」と記されています。彼らは、その当時の繁栄に安んじている政治家や宗教的指導者たちを中心とする人々でした。
占星術、あるいは、星占い、あるいは天文学は、その時代、地中海世界や中近東、メソポタミアで盛んでありました。皇帝アウグスツスの生まれる時に、星の異変、出現があったことなどが歴史書に記録されています。
しかし、博士たち、ないしはマギたちが東方からはるばる来たのは、民数記に書かれていますように、「ヤコブの星が輝き昇る」とバラムによって預言されている。その星に導かれてきたのであります。そのみ言葉は、メシアがやがてイスラエルの中から現れることを預言したものだと考えられています。そのメシアの預言に従ってやって来たと考えられるのであります。
さて、この世の王であるヘロデは、まず、律法学者などを集めて、どこにメシアが生まれることになっているのか、知ろうとします。彼らは、ミカ書、サムエル記などを引いて、ユダヤのベツレヘムで、メシアは生まれ、それは、ユダの君たちの中でいと小さき者ではなく、そこから指導者が出て来て、彼が私の民イスラエルを牧する者となろうとあるからと答えます。しかし、彼らは、それを知識として教えるだけで、自ら動き出そうとはしません。
そして、今度はヘロデ大王は、ひそかに、マギたちを呼びだし、その方の星、主の星がが昇った時を確かめようとします。そして、それを確かめたうえで、マギたちを送り出し、正確に捜しあてて、見つかったら、私に報告してくれ、私もやって行ってひれ伏す、すなわち、拝もうと言います。
彼らは、それを聞き流して出ていくと、不思議なことに、それまで見えなくなっていたその星、その方の星が前を行き、その子の家の真上で止まります。彼らは非常に大きな喜びを喜んだとあります。
その星は、救い主の家の真上まで導いてくれた、すなわち、彼らは、救い主にたどりついたので、大いなる喜びにあふれたのであります。
彼らは家に入ると、その子とその子の母マリアを見いだし、ひざまずいて、触れ伏し拝みます。そして、彼らの宝箱から、金、乳香、没薬を贈り物としてささげます。これは、魔術師の呪文を書くのに用いた没薬など、その商売のためのものであったとも言われます。 もし、そうだとすると、彼らは、それらいわば、商売道具を放棄し、神の支配にいきようと、それらを贈り物としてささげて、夢でヘロデのもとに帰るなとのお告げを受けて、別の道を通って、すなわち、新たな生き方、救い主メシアに会って、今までの全生涯を変えられて、自分の国に立ち去ったということになります。
マタイは、福音書の中でもユダヤ思想の選民意識の強い福音記者だと言われています。
しかし、マタイは、最後の方にある譬えでも、主イエスの右に集められる羊とは、いと小さき者に仕えたものたちであることを記しています。
このお正月、私たちは、キリスト教と他の宗教、仏教や神道などと交わることが多い時期です。ともすると、キリスト教の優位を持ちだして、他の宗教を軽んじがちになりがちですが、しかしマタイは、その福音書において、終わり近くの受難の時に異邦人の兵士が、主イエスを、この人こそまことの人だったというのみならず、今日の福音書のはじめから、
主イエスは、異邦人の救い主でもあることを示しています。
 私たちは聖書を手にして、聖霊に導かれながら、この一年を歩みたいものです。
私たちも、聖書に約束されているメシアをひれ伏し拝み、今一度ここから、今日から生涯を変えられて歩む者とされたいと思います。この一年の始め、今日は、この後、二人の若者の堅信式もありますが、このマギたちによって、御子が伏し拝まれ、彼らの生涯が新しく始まったことを思い、主イエスの星の導きに従って、私たちも、残された人生を、新たにみ子と共に歩みたいものです。アーメン。
2014/01/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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