津田沼教会 牧師のメッセージ
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「み子誕生に伴った犠牲」(マタイ2:13-23)
マタイ2:13-23、2013・12・29、降誕後主日(典礼色―白―)、イザヤ書63:7-9、ガラテヤの信徒への手紙4:4-7

マタイによる福音書2:13-23
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。
 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、
 慰めてもらおうともしない、
 子供たちがもういないから。」

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。



説教「み子の誕生に伴なった犠牲」(マタイ2:13-23)

今日、降誕後主日に与えられています福音は、マタイ2:13-23です。今日は、降誕節に属しています。聖家族のエジプトへの脱出という出来事が記されています。これが、どこまで、史実性があるかは、よく分かりません。
しかし、主イエスは、生まれた時から、受難に遭っていたと、マタイは語るのであります。今日の出来事は、3つに分けられますが、こういうものでした。
父ヨセフは、ベツレヘムで、東方の占星術の学者たちの来訪を受け、彼らが立ち去った後、また、夢を見ます。そして、主のみ使いが現わされ、起きて、その子と母を連れて、エジプトへと逃げなさい。ヘロデがその子の命を狙っていると告げられるのです。ヨセフは、お告げに従い、二人を連れてエジプトへと去ったのであります。それは、私は、エジプトからわが子を呼んだという預言、出エジプトの預言が、み子を呼びもどすことにより、実現されることを示しているのであります。
 さて、ヘロデは、学者たち、マギたちが、自分を騙して、立ち去ったことを知り、大いに怒り、学者たちから聞いていた時刻に従って、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子たちを大量虐殺してしまうのであります。これによって、エレミヤの預言が実現したとマタイは記します。
 すなわち、ラマで聞かれた、泣く声、非常な嘆きが。ラケルはもはや、子供たちがいないので、慰められようとはしていなかったというのです。エレミヤ書では、その後に、希望と喜び、すなわち、イスラエルのバビロン捕囚の息子たちがまた戻って来るという慰めが語られているのですが、ここでは、その引用はなされていません。
 さて、3番目の記事は、やはり、夢で天使がヨセフに現わされて、起きて、その子と母を連れてイスラエルの地へと帰りなさい。あなたの命を狙っていた者たちは、みな、死んでしまったというもので、ヨセフはそれに従って、帰って行きました。これによって、第2のモーセ、主イエスによって出エジプトの出来事が成就されたということを、福音書記者マタイは、強調しているのであります。
 ただ、このユダヤでは、ヘロデ王の息子、苛酷なアルケラオが王として支配していたので、ヨセフはそこに入ることを恐れました。で、また、夢でお告げがあったので、ガリラヤへとナザレという町へ退いて、聖家族はそこに定住した。それによって、預言者たちによって言われていたこと、すなわち、彼はナザレ人と呼ばれるという預言が実現したとマタイは、この個所を結んでいるのであります。
 この「ナザレ人」というのは、「ナザライオス」という言葉で意味がよく分からず、昔から研究が進められて来たところであります。
 マルコが記すように単なるナザレの出身の人のみを意味しているのか、あるいは、メシア的意味を有する士師記に出て来るサムソンがナジル人として救いの先駆者であったことが、背景にあるのか、あるいは、イザヤ書のエッサイの若枝からメシアが現れるという言葉に由来しているのか、さらには、そこには、イザヤの説く苦難の僕として、この子は、異邦人のガリラヤ、辺境に住んで、広く異邦人、全世界の人類の罪の贖い手として十字架を担うメシアであることを、既に暗示しているのかもしれません。
 このクリスマスの喜ばしい時に、私たちは、今日、無辜の多数の2歳以下の男の子たちが、主イエスの誕生の時に、暴君ヘロデ王によって大量殺戮されたことを知らされているのであります。ヘロデ大王はますます、神の思いからは離れて行きます。一方、父ヨセフは、夢で天使を通してお告げを受けて、エジプトに逃げ、また、同じように、夢で、その子の命を狙っていた者たちの死を知らされ、モーセを上回るさらなるモーセとして出エジプトを実現し、イスラエルの地へと入って来るのであります。ヘロデとは対照的に神のみ旨にどこまでも従順なヨセフの姿勢を知らされるのであります。
 今日の出来事、特に、無辜の幼い大勢の命が、御自分の誕生の時に、犠牲になったことを、イエスは、後に、母マリアから聞かされたのではないか。そして、彼らの不条理な死について、主イエスは生涯考え続けたのではないかと、亀井勝一郎氏は、その著作の中で記しています。
 喜び祝うべきクリスマスの時に、今日のヘロデ王によってもたらされた嬰児たちの多くの犠牲を私たちは考えなければならないでしょう。そのような犠牲の上に、私たち人類の覆いようもない罪の贖いと赦しが、み子の誕生によって、そして、その十字架の死によって与えられたことを、深く考えたいものであります。アーメン。


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2013/12/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「羊飼いたちへの訪れ」(ルカ2:1-20)
ルカ2:1--20、12・24、降誕祭(前夜)(典礼色―白―)、イザヤ書9:1-6、テトスへの手紙2:11-14


ルカ2:1-20
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝させた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天への大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


説教「羊飼いたちへの訪れ」(ルカ2:1-20)
 
皆さん、クリスマス、おめでとうございます。教会で用いる教会暦の色、典礼色も、教会暦の1年の始まり、すなわち新年であります、今年は12月1日の日曜日から始まったアドベント、待降節の紫から、ご覧の通り、今日の日没より白に変わりました。1日はユダヤ人たちにとっては、創世記にありますように、すなわち天地創造のときに夕べがあり、朝があったとありますように、日没から始まって、次の日の日没までが1日なのです。12月24日、今夕の日没から、明日25日の日没までがクリスマスの第1日目、いわゆるクリスマス、降誕日であり、クリスマスの季節、シーズン、降誕節は、今夕から来年の1月6日(月)の顕現日まで14日間続くのであります。これは、長い歴史の変遷の後、キリスト教の西方教会、東方教会の双方の話し合いを経てこのように守られるようになったものであります。
 さて、今日は、最初のクリスマス、すなわちキリストの礼拝、キリストのミサ、聖餐式の出来事とも言えます日であります。奏での杜に住んでおられる若いお母さんからメールで小2と年長さんの子供がいるのだが、適当なキリスト教のミサはありませんかと問い合わせがありましたので、このクリスマス・イブ礼拝を勧めました。そのキリスト誕生の日の出来事の意味を、皆さんとしばらくご一緒に考えたいと思います。
 今ほど、お読みしましたように、救い主、イエス・キリストの誕生の次第は、ルカ福音書の2章1節から20節までに、非常に簡潔に、そして、ルカの手によって、抑制的に構成されて記されています。すなわち、2章の1節から7節までと、8節から14節まで、そして15節から20節までの3つの部分とその展開に分けられるのであります。
 最初の部分では、ルカは、登場人物のだれにも声を出させていません。そのころに、すなわち、それらの日々において、皇帝アウグストから、全領土に、すなわち、全世界に人口調査をするようにと、勅令、命令が出ていきます。これは、もちろん、ローマ帝国の住民から税を取り立てるためのものでした。そして、それは、シリアの総督がクリニウスであるときのパレスチナでの最初の住民登録でありました。そして、ユダヤの男たちも、おのおのその出身地にそのために向かっていたというのであります。主イエスの父となりますヨセフも、言い名付けのマリアを連れて、ダビデの家とその家族の出である故に、ダビデの町、ベツレヘムへと、北のガリラヤのナザレといの村から、進んでおりましたが、マリアは妊娠していたのであります。
 ところが、そこで、生まれるべき日々が満ちて、マリアは、男の子を、初めての子を、産み、布切れでその子を包み、飼い葉桶の中に寝かせたのであります。宿舎には、彼らのための場所がなかったからであると、ルカは記しております。ヨセフがそれほど裕福でなく、むしろ貧しかったことが窺われます。
 さて、第2の部分は、その時、ベツレヘムの地方の死海に向かってくだった、今でもその場所だと言われる場所が残っている、「羊飼いの野」というあたりで、羊飼いたちが、野宿をし、群れの番を夜通ししていたという場面に移ります。その時、突然、天使が彼らのそばに立ち、そしてまた、彼らの周りを主の栄光が照らし、彼らは、大きな恐れを恐れさせられました。そして、天使はこう言うのであります。恐れることはない、なぜなら、見よ、私は、大きな喜びをあなた方に告げるからである、それは、民全体にとってそうなるものである。すなわち、今日、あなた方に救い主が生まれた。その方こそ、ベツレヘムにおけるキリスト、主である。そして、これが、そのしるしである、すなわち、あなた方は、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを見いだすであろう、と。
 すると、突然、なったことには、天のおびただしい軍勢が、この天使と共に現れて、神を賛美しながら、こう語るのであります。「栄光が、いと高きところにおいて、神に。平和が、地の上に、神のご好意を受ける人間どもにある」と。
  このように、第2段落では、救い主誕生の知らせが、局外者、アウトサイダーであった、あるいは、見捨てられた者であった羊飼いたちに最初に知らされるのであります。しかも、その救い主のしるしとは、飼い葉桶に寝かされた布切れにくるまれたか弱い赤ちゃんだというのです。
 天使たちは賛美しました。栄光が、いと高きところにおいて、神にあると。私たちも先ほど、讃美歌「荒れ野の果てに」で同じように「グローリア、インエクセルシス、デオ」と歌いました。そして、また、天使たちは、平和が、真の平安が、地上において、神のご好意を受ける人々にあると断言するのであります。
 それは、ただ単に人間の側での善意の人々に、地上で平安があるというのではなく、み旨に適う人々、神のご好意にあずかる人々、このときの羊飼いたちのような神の側から選ばれた、神さまが喜ばれる人々に、この地上の困窮、悩みの絶えない中にあって、確かに平安と慰めが約束されているという天使たちの宣言の声であります。
 羊飼いたちへのこの良き知らせの訪れのメッセージは、神が、私たちと同じく貧しく、みじめな、しかも最も低い形での人間となって生まれてくださったという告知でありました。布切れにくるまれ、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんが、民全体に与えられる大きな喜びのしるしであることが、羊飼いたちに、この夜、最初に告げられたのであります。
 この救い主、イエス・キリストは、十字架の時に不面目な目にあわれたのみでなく、生まれる時から、そのような不面目な救い主としてお生まれになりました。
 そして最後に、第3段落では、そのような救いの啓示が与えられた羊飼いたちの取った応答とそれに対する人々の反応が記されています。
 天使たちが、彼らから去って行ったとき、羊飼いたちは、お互いに言い合っていました。さあ、私たちはベツレヘムまで行こうではないか、そして、主が知らせて下さった、出来事すなわち、言葉、もとの言葉はレーマという言葉ですが、それは出来事という意味と、言葉という意味と二つあります。それを見ようではないか、確かめようではないかというのであります。救い主誕生の出来事においては、不思議な奇跡らしい奇跡は何ら記されていないのですが、羊飼いたちは、天使のみ告げをその通り、信じるのであります。
 そして、彼らは、エリサベトのもとに急いだマリアと同じように、信じて、急いで出て行って、マリアとヨセフと、飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを探し当てたのであります。
そして、彼らは、自分たちに成った出来事・この子について語られた言葉・レーマを人々に知らせました。しかし、それを聞いたすべての人々は、ただ、羊飼いたちのしゃべったことを不思議に思ったとだけ聖書は記しています。彼らは、信じることができず、ただ驚き怪しむのみでありました。しかし、ただ一人マリアは、これらの成ったすべての出来事・言葉・レーマを熟考しながら、その心の中に蓄えていたとあります。この日成った、クリスマスの出来事・言葉・レーマは、信仰の目を通してしか、信じること、受け入れることのできないものであります。
 羊飼いたちは、彼らがしゃべられた通りに、聞き、また、見たそのすべてのことの上に、神に栄光を帰しながら、また賛美しながら、また、もとの羊飼いの野に引き返したのであります。
 私たちも、同じように、今日の救い主誕生の出来事に思いを巡らしながら、私たちの日常生活の中に、この礼拝から戻って行き、悩み多い私たちの人生の現実と罪の只中に、既に神が入って来られたこと、そしてその独り子が私たちと共に生涯の終わりの日まで共に歩んで下さることを信じて、ここから新しい一年を始めて行きたいものであります。アーメン。

2013/12/24(火) 19:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マリアの賛歌」(ルカ1:46-55)
ルカ1:46-55、2013・12・22、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)、サムエル記上2:1-10、ローマの信徒への手紙2:17-29

ルカによる福音書1:46-55
 そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも
  目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
  わたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、
  わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」


説教「マリアの賛歌」(ルカ1:46-55)

 今日は、待降節第4主日を迎え、同時に、津田沼教会では、クリスマスを一足早く祝う日曜日をも兼ねています。
 アドベント・クランツの灯火も、すべてともされ、そして、明後日の24日のイブ礼拝の夜から、教会暦の正式な意味でのクリスマス、降誕節のシーズンが、その日没の時から、来年の1月6日(月)の顕現日まで続くのであります。
 主イエスのご降誕を待ち望む、あるいは、終末の時に再びお出でになる主イエスの再臨を、悔い改めながら待ち望むべき待降節を私たちは、ここまで、教会暦の始まりであった12月1日の日曜日から、過ごしてまいりました。
 さて、今日与えられている福音は、マリアの賛歌と呼ばれ、あるいは、その書き出しのラテン語の聖書から、マグニフィカートととも呼ばれて親しまれてきた個所であります。
 このマリアの歌った賛歌は、先ほど教会讃美歌14番でも歌いましたように、古来、何度も変えられながら、作詞作曲されながら、歌い続けて来られた教会の大切な宝のような聖書の部分をなしており、言わば、旧約聖書、新約聖書、全聖書の要約とも言っていいような、マリアの力強い信仰を言い表わした言葉から成っています。
 最初の部分は、マリア個人に対して、救い主である神がなさった大いなるみ業を、マリアが受け入れ、信じて、告白したものであり、後半は、更により一般的に、私たち教会に属する者に関わる言葉から成っています。
 マリアは、み子の受胎告知を受けたとき、戸惑いながらも、ついには、主よ、私はあなたのはしためです、お言葉どおり、この身に成りますようにと、神のみ使いのお告げを受け入れたのです。
 そして、ユダヤの山里に、親戚のエリサベトを急いで訪ね、み使いのお告げを確認するためにやって来たのであります。
 そして、エリサベトの祝福を受けて、その応答として、歌い語ったのがこのマグニフィカートであります。マグニフィカートとは、私は、(主なる神を)拡大するという意味であります。こんなに勇壮な歌を、14、5歳であったであろう田舎娘のマリアが本当に歌うことができたのだろうか、と疑問も起こります。そして、これは、エリサベトが言ったとなっているラテン語写本もあるくらいです。
 確かに第1朗読で読まれたサムエル記上のハンナの祈りから取られている言葉や部分が少なくありません。しかし、これは、ハンナの祈りをはるかに超えている歌であります。
 わが魂は、主をあがめ、拡大する。私の魂は、救い主である神を喜び、踊る。すなわち、全身全霊で、神をほめたたえるというのであります。
 なぜなら、自分のような低い者に目を留めてくださったからと、マリアは歌います。世々の人々は、私を祝福された者だと言うでしょうと、自分自身に働きかけて下さった神をほめたたえ、私はあがめると断言するのです。
 そして、後半では、より広く、一般的に、新しいイスラエル、新しいアブラハムである私たち教会について預言して歌うのです。
 神は低き者を高く上げ、高ぶる者、心の思いの傲慢な者をその高き座から引きづり降ろされる。空腹な者を良きもので満腹にさせ、富める者を、空しい手のまま追い払われると歌います。終末的な歌であります。そのとき、低き者は高くされ、高い者は低くされると、マリアは、み子の受胎を受けて、エリサベトに応答して、語るのであります。
 その時から、2000年経った現代、技術や知恵は大いに進歩しました。しかし、その中で私たちはかえって、さまざまな人間破壊や自然破壊に直面しています。
 クリスマスを前にして、私たちは、マリアの歌によって、救い主の誕生をどのように祝うのか、新しいイスラエルとしての教会に対して、父なる神は慈しみをとこしえに、忘れられないとマリアは歌います。
  神のみ旨にかなった教会であるように、私たちは、御子の誕生を迎え待つ者として、目を見開きたいものであります。アーメン。

2013/12/22(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「それでも、神はわれらと共に」(マタイ1:18-23)内海望牧師
マタイ1:18-23、2013・12・15、待降節第3主日(典礼色―紫―)、イザヤ書7:10-14、ローマの信徒への手紙1:1-7

マタイによる福音書1:18-23
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。



説教「それでも、神はわれらと共に」(マタイ1:18-23)内海望牧師
 今、ヨセフは深い苦悩のうちにありました。正しい人として神さまの律法に反することは出来ませんでした。それで、マリアと別れようとしていたのです。しかし、同時にマリアを愛する者として、マリアを窮地に追い詰めることはどうしてもできませんでした。正しさと愛の狭間にあって悩みに悩んでいたのです。「ひそかに」という言葉は、「事実を隠そう」などという姑息な考えではありません。何とかマリアを「さらし者にしないで」という苦悩に満ちた愛の決断であったのです。
 ところが、神さまのみ使いが、「マリアを受け入れなさい」という神さまの命令を伝えた時、ヨセフは、すべての思い煩いを捨てて、神さまの命令に従ったのです。「マリアの胎の子が聖霊によって宿った」という奇跡が本当かどうかなど、くどくど全く考えないほど、まっすぐにみ言葉に身を投げたのです。これは決して、けいそつな信仰ではありません。ヨセフは深く考える人でした。だから、悩みも深かったのです。しかし、ヨセフは受け入れたのです。「神信頼」とは、このように自分を捨てて、み言葉に跳躍(ジャンプ)するということなのです。これは身命を賭けての決断だと思います。
 私たちはヨセフのようにみ言葉に向かって跳躍できるでしょうか。
 実は、聖書には、イエスさまの来臨を喜ばない人々が数多く出て来ます。ヘロデ王はイエスさまの虐殺を命じました。ファリサイ派の人々、律法の専門家、祭司、民の長老などは、イエスさまの殺害を計画しています。悪霊は真っ先に神の子イエスさまの出現に悲鳴をあげています。それほどイエスさまの誕生に対する抵抗は強かったのです。
 彼らは、どうして反抗したのでしょうか。それは、イエスさまが地上に来られることによって自分たちの正体が明らかになるからです。イエスさまのみ言葉、その生き方の一つ一つが、彼らの偽善を暴露していくからです。人を裁きながら、自分を高めようとする生き方が、イエスさまの存在によって明らかになっていくからです。
 私たちは、クリスマスを喜びのうちに迎えようとしています。それは、ほとんど年中行事のようになっています。しかし、ヨセフのように、あるいはファリサイ派の人々のように、今、現実にイエスさまを今ここに迎える時、私たちの心はどのように動くのでしょうか。
 私たちは、無意識のうちに自分たちをファリサイ派の人々、律法学者、祭司長ではないと思い込んでいます。むしろ、彼らを批判する側に自分がいると考えているのです。しかし、本当に、私たちに彼らを批判する資格があるでしょうか。
 ある作家が、「今度イエスさまが来られたら、私たちは、以前のように迫害しないで心から大切にする」という人に対して、「いや、今度も君たちはイエスさまを十字架につけるだろう」と語っています。確かにそうであるかもしれません。今、私たちの傍らに、心から痛める人に心を寄せ、自分を殺そうとする者のために、心から執り成しの祈りをするような方がいらっしゃるなら、私たちも、あの悪霊のように逃げ出すか、あるいはイエスさまを追い出す人々の群れにつながってしまうでしょう。私たちは多くのことを隠して生きているのです。光であるイエスさまによって、それが全部明らかになるのです。恐ろしいことです。イエスさまがいては迷惑なのです。
 あるスイス人牧師は、今日の聖書の箇所の黙想のための文章に、「私たちがそもそも良心を持っている限り、そしてそれが明確な良心であって眠った良心でない限り、<神、我に逆らって>であるのは間違いない。」と書いてあるのを読んで心刺される思いをしたことがあります。
 待降節の典礼色を、悔い改めを表わす紫に設定したのは洞察であると思います。普段、私たちの良心は眠っているのかもしれません。ダビデ王も、預言者ナタンから、「その男はあなただ」と指摘されるまで、自分の犯した罪に気づきませんでした。これは、罪を負った人間の悲しい性です。ですから、私たちは待降節を悔い改めの時として持つのです。
 今日の福音書で、ヨセフは天使から、「ダビデの子ヨセフと呼びかけられています。これはダビデのすえから救い主が生まれる」(イザヤ書11章、ミカ5:1)という預言に基づいている言葉でしょう。事実、今日の日課の前には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」と題して長い系図が書かれています。これは罪人の系図と呼んでもよいものです。部下を殺害し、その妻を奪ったダビデを初め多くの罪人が書かれています。女性も4人含まれています。
 しかし、その4人も罪深い結婚によって息子を産んだタマル、ヨシュアを助けた遊女ラハブ、義母ナオミに忠実なモアブ人ルツ、ダビデに夫を殺されたバト・シェバ、皆、何らかの形で、罪と労苦を背負っている人々の歴史です。今日、「み言葉の歌」として有名なルターの作詞、作曲の讃美歌300を選んだ理由は、まさにここにあります。これは詩編130編そのままです。短い詩ですから、全文を読んでみましょう。(973ページ)。
 イエスさまを本気で迎える時、私たちは自分たちがいかに深い淵に落ち込んでいるかを知らされます。<神、我らに逆らって>ということは、「我、神に逆らって生きる>ということの自覚です。イエスさまの系図は、まさにそのように深き淵に落ち込み、そこから救いを求める私たちと共にイエスさまは生きて下さるということを示しているのです。ここに、今日与えられた福音があります。このような罪人の呻きを共に苦しみ、執り成して下さる方がイエスさまなのです。
 私たちは、哀れなファリサイ人かもしれません。自分の努力では、洗っても洗っても決して白くならない心の持ち主かもしれません。それでも天使はなお、「インマヌエル(神はわれらと共におられる)」と告げてくれるのです。私は説教題に「それでも」とつけざるを得ませんでした。しかし、これに優る喜びはありません。私たちは、深い淵から救い出されたのです。このことを共に感謝しましょう。
 マタイは福音書を「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」という復活のイエスさまの言葉で結んでいます。イエスさまによって、私たちは神さまとの結びつきを回復したのです。「世の終わりまで、いつも」という約束のみ言葉を信じてクリスマスの時に向かって歩みましょう。
2013/12/15(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「心を神に向けよう」(マタイ3:1-12)
マタイ3:1-12、2013・12・08、待降節第2主日(典礼色―紫―)、イザヤ書11:1-10、ローマの信徒への手紙15:4-13

マタイによる福音書3:1-12
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰の革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」


説教「心を神に向けよう」(マタイ3:1-12)
 
私は、本日の待降節第2主日の福音説教の題を「心を神に向けよう」と付けました。それは、単なる自分の内側に向かっての反省、内省といったものではなく、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ」と言ったのは、天のおられる神の意志に、心を向け、全身全霊で来たるべき天の国、-マタイは、神を畏れて天の国と、神の国のことを言い換えたのですが、神の支配に、身をゆだねることを、主イエスの来臨に先駆けて、荒れ野で第一声をあげたからです。
旧約聖書では、終わりの巻となっているマラキ書に、終わりの日にあの預言者エリヤが再来すると預言されています。久しく出なかった預言者、しかも旧約最後の最大の預言者として、洗礼者ヨハネが、水で悔い改めの洗礼を人々に授けながら、荒れ野に登場したのです。
私たちは、特にこの待降節の時、キリストが王として来られるのを待ち望む時として、紫の典礼色を用い、これは、また、私たちが神に心を向けるべき悔い改めの色をも表しています。
私たちはどのように立派な人も、また信仰深い敬虔な人も、ルターも言いましたように、死ぬ時まで、日ごとに罪を犯し、神に背く存在であり続けます。ですから、洗礼は人生でただ一回きりのものでありますが、待望節には、必ず、この洗礼者ヨハネの声に耳を傾ける時として、教会暦の1年の初めに、この個所を読むのであります。
洗礼者ヨハネは、御承知の通り、主イエスの誕生の半年前に、老年のエリサベトから生まれた、主イエスとは親戚の人です。そのヨハネが、公に世に現れるまで現れるまで、荒れ野にいたと聖書は記していますが、「そのころ」すなわち、「その日々において」、終末のときにおいて、荒れ野に道をまっすぐにせよ、主のおいでになる道筋を整えよと、イザヤ書の預言の言葉を引用して、人々の前に現れたのであります。
そして、ユダヤ近辺からは続々と、洗礼者ヨハネのもとに水で悔い改めの洗礼に与るために人々が来ていました。人々は、あるいは、この人が、来たるべきメシアではないかとさえ感じていたほどでありました。
しかし、ヨハネは、私はその方ではないと公然と宣言し、自分のすぐ後に、私よりもはるかに力あるお方がお出でになり、私はその方の靴を脱がせてあげるにも値しない存在だと告げるのであります。そして、ファリサイ派やその他の偽善者たちに対して、神の怒りの裁きから、あなた方は逃れられないと警告し、悔い改めにふさわしい実を結べと迫ったのであります。そして、私は水で悔い改めの洗礼を宣べ伝えているが、その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになり、収穫の時に、脱穀場でよき実、穀物は倉に納め、もみ殻は、火で焼き払われると、まことの洗礼を受け入れるようにと人々を招いたのであります。
私たちは、イエスのみ名によって、洗礼を受けた者、あるいはそれに、招かれている者たちの集まりであります。
ところで、色々な方々が、教会には電話をかけてきて、相談ごとをしてきたり、悩みを打ち明ける方もおられます。その方々も含めて、ヨハネは、主イエスによる聖霊による洗礼、すなわち、救いの洗礼と、火による洗礼、すなわち、裁きによる洗礼を、今こそ待ち望み、それに備えるようにと、2000年経った今日もなお、この世の荒れ野において、呼ばわっているのであります。
み子のお誕生を真に喜び迎える備えをする時であり、また、再臨の日にまことの王として来られる主イエスを、身をただしながら、心を静めて待とうではありませんか。
アーメン。


2013/12/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「救いの主がお出でになる」(マタイ21:1-11)
マタイ21:1-11、2013・12・01、待降節第1主日(典礼色―紫―聖餐式)、イザヤ書2:1-5、ローマの信徒への手紙13:11-14

マタイによる福音書21:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いノベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、
 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。






説教「救いの主がお出でになる」(マタイ21:1-11)

 アドベント、待降節になりました。新しい教会暦の新年に入りました。本日からは、教会暦A年で、主たる福音書として、マタイによる福音書が読まれます。私たちのルーテル教会の教会暦では、共観福音書、マタイ、マルコ、ルカが3年サイクルで主たる福音として順番に、A年、B年、C年として読まれます。これは、ローマ・カトリック教会の伝統に従っています。
 しかし、ルーテル教会では、1年の教会暦の初めである今日、待降節第1主日と、受難週に入る枝の主日に、エルサレム入城の記事が二度にわたって読まれるのであります。それほどに、愛読されてきたエルサレム入城の記事であります。
 今年は、マタイ福音書21章1節から11節に従って、この入城の出来事に思いを馳せたいと思います。言うまでもなく、教会暦の初めである今日は、紫の聖卓の布からも分かりますように、王として再び来られるメシア、主イエスを待ち望むために、この個所を読むのであり、受難節、四旬節の最後の週、受難週に入る場合に、再びここを読むのは、文字通り、十字架におつきになるための主イエスのエルサレム入城を思い起こすためであります。
 さて、今日のこの福音の記事を思い起こしてみましょう。主イエスの一行は、ベトファゲへと、オリーブ山の麓へとやって来ます。そして、主イエスは、二人の弟子を遣わして、言われるのであります。向こうの村へと行きなさい。そうすれば、雌ろばと子ろばがつないであるのをあなた方は見出すだろう。あなた方は、それらをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、何か言ったら、それらの主が必要を持っておられますと、言いなさい。彼は、すぐに、それらを遣わすだろう、と。
  それは、ゼカリヤ書9章の9節、ないしは10節の預言が実現するためでありました。そこには、こう記されています。エルサレムの娘よ、喜び踊れ、シオンの娘よ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところにお出でになる。彼は、柔和な方で雌ろばの子、子ろばに乗って、と。そして、10節には、彼により、平和がもたらされ、彼の支配は、海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶと、預言されているのであります。
 しかし、さらにマタイは、この子ろばは、荷を負うろばの子と書いており、それに乗って来られる王は十字架につく苦難のメシアであることを示しているのであります。そして、彼が、高ぶらない、謙った、悩まされる方であることをゼカリヤ書は預言しており、それが、この時、成就するのであります。
二人の弟子たちは、主イエスが言われたとおりにし、雌ろばと子ろばを連れて来て、それらの上に彼らの服をしくと、彼はそれらの上にお乗りになったのであります。
そして、夥しい群衆も、その道に、自分たちの服を広げ、あるいは、他の者たちは木の枝を切って来て、広げていたのであります。そして、前を行く者も、後ろに従う者も、ダビデの子にホサナ、主のみ名によって来る方に祝福があるように、いと高きところにおいて、ホサナと歓呼の声をあげていたのであります。
 エルサレムの人たちは、一体、これはどういう人だと言って騒ぎ立ちました。これは、うろたえた、とも訳される言葉であります。一緒にやって来ていた群衆たちは、この方は、ガリラヤ出身の預言者イエスだと、言っていたというのであります。
 マタイ福音書は、特に、旧約聖書が主イエスによって、実現したことを強調する福音書であります。主イエスは、ゼカリヤ書の預言を知っていたでありましょう。このマタイ福音書21章1節から11節においては、1節から7節までは、弟子たちのふるまいが記されています。そして、8節から11節までは、主イエスと共に進む群衆の反応が記されています。そして、両段落に旧約聖書からの、引用があることは、マタイの意図を知る上で重要であります。
 マタイにとっては、雌ろばと、子ろばに乗って、イエスがエルサレムに来たという事実が重要だったのであります。そして、マタイは、ゼカリヤ書の言葉を微妙に変えています。シオンの娘よ、大いに喜べを、シオンの娘にあなた方は言いなさいとし、彼は、勝利を与えられる者を省略し、彼はろばの子に乗って来るを、彼は荷を負う子ろばに乗って来るにしています。
 これらは、ろばに乗る王から、栄光の像を取り去るためでありました。栄光の王としてではなく、その姿は、人々が予想するような勝利の王ではなく、謙った柔和な方として、この救いの主はお出でになられるのであります。
 そして、群衆もまた、主イエスを預言者と見て、まことの救い主であることが理解できなかったことを示しています。
 彼らの理解は浅く、苦しむメシア、まことの救い主であることを理解できなかったのであります。
 マタイは、荷を負う子ろばに乗ってこられるまことの王、まことの平和をもたらす王、旧約聖書をも超えた救いの主がお出でになることを、私たちに示しているのであります。
 私たちは、この教会暦の初めに、第2のアドベント、すなわち、再臨の主イエスを待ち望みます。そして、2000年前に救い主としてマリアのもとにお生まれになったみ子イエスを、クリスマスに、すなわち、第1のアドベント、到来として、祝うのであります。
 まことの王である救いの主が、再臨の日に、柔和で謙った悩みを担った方として、来られることを、この一年の教会暦の初めに、待ち望みましょう。アーメン。

2013/12/01(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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