津田沼教会 牧師のメッセージ
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「終りの時の生き方」(ルカ21:5-19)
ルカ21:5-19、2013・11・24、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)、イザヤ書52:1‐6節、コリントの信徒への手紙一15:54-58

ルカによる福音書21:5-19
 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」



説教「終わりの時の生き方」(ルカ21:5-19)

今日は、1年の教会暦の最終の主日であります。終わりの時、終末の時、言い換えれば「主の日」の私たちの生き方を覚えるべき時であります。主イエスは、ある者たちが、エルサレム神殿の見事な石や、奉納されたささげ物について語っているときに、これらの石の上に1つも石も、崩されて残らない日々が来るであろうと言われました。
人々は、エルサレム神殿が崩壊する時が来るとすれば、それは、世の終わりの時であると思っていました。そして、そんな日は、まだまだ来ないと思っていました。それは、まだ修復中でしたし、紀元後70年についにローマ軍によって包囲され陥落したときも、その修復は続いていた、そんな壮大な、見事な神殿であったからです。
主イエスの時代、ユダヤ黙示思想が、ゆきわたっていましたが、それは、人の子が栄光のうちに、雲に乗ってやって来られるというもので、主イエスが説いたところの「人の子が、十字架の死を遂げる」というものではありませんでした。主イエスの答えに対して、彼らは質問します、それは、つい前に出て来る金持ちや敵対者たち、ユダヤ指導層をも含めた群衆であったかもしれませんが、それは、いつそのことが起き、そのときどんな徴があるのですかという言わば抽象的な、表面的なものにすぎませんでした。
しかし、彼らに対して、主が、これ以下は、特にルカの時代の弟子たちに向かって答えられたものであります。主は、まず、私の名を名乗って、私がそれ、メシアであるという者や、時が近づいたという者がやってくるが、あなた方は戸惑わされてはならない、彼らの後について行ってはならないと言われます。そして、あなた方は、戦争どもや暴動どもについて聞くときにおののかされるな。なぜなら、それらのことどもは成るに決まっているが、終わり、すなわち世の終わりはすぐには来ないからであると言っています。
そして、彼は彼らに語っておられました。民が民に向かって、国が国に向かって起き上がるであろう。大きな地震どもや、場所によっては、飢饉どもや疫病どもが、あるであろう。恐ろしい前兆どもや、天からは大きな徴があるであろう、と言われましたが、これらのすべてのことどもの前に、迫害があることを示されました。
彼らはあなた方に手を置き、迫害し、牢や会堂どもへと、あなた方を引き渡し、私の名のために、王や総督たちに向かって連れて行く。しかし、それはあなた方でもって証しへと導くであろう。それゆえ、あなた方の心において、防御することを前もって準備しないように、決めなさい。なぜなら、私が、あなた方のすべての敵対する者たちが抵抗も反論もできない口と知恵を与えるであろうからと言われるのであります。
そして、あなた方の両親によっても、兄弟たちによっても、身内によっても、また、友人たちによっても、あなた方は、裏切られる、すなわち、渡されるであろう。そして、あなた方は、私の名の故に、すべての者たちによって憎まれる者たちとなるであろう。そして、あなた方の髪の毛1本も、失われることはない。あなた方の忍耐によって、すなわち、神のもとにとどまることによって、また、この世にとどまることによって、あなた方の魂をかち取れとお命じになったのであります。私たちは、終末に向かって生きる時、今ここで、日常の一つ一つの行いや事がらにおいて、精一杯に関わりをもって生きる時、神と主イエスにすべてを託して生きる時、仕合せな道を歩むことができるのであります。終わりの時を生きるとは、神の保護に、全面的に身をゆだねて生きることであります。エルサレムの崩壊において、世の終わりが来ると当時のユダヤ人たちは考えていましたが、終末とは、主イエスによってもたらされた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの招きに応えて生きる事です。
1年の教会暦、神の保護のもとに導かれた数々の恵みを思い起こしながら、主イエスを証しすることに必然的に伴う迫害をも改めて覚悟し、身を引き締めながら、来たるべき新しい時、アドベントの時を心静かに待ちましょう。アーメン。




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2013/11/24(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「復活するにふさわしいとされた人々」(ルカ20:27-40)
ルカ20:27-40、2013・11・17、聖霊降臨後第26主日(典礼色―緑―)、マラキ書3:19-20、ユダの手紙17-25

ルカによる福音書20:27-40
 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。


説教「復活するにふさわしいとされた人々」(ルカ20:27-40)
 
今年は、教会暦のC年で、私たちは、ルカによる福音書と共に歩んで来ました。ルカは、特に9:51以下は、エルサレムに向かう旅で構成されており、気が付きますと、もう今日はエルサレムに入っており、その神殿での論争であります。
私たちも、あと、2回の教会暦の終わりに当たって、本日は、復活に関する論争であります。私たちは、死後、復活するのかどうか、疑問に思うことも、しばしばあります。しかし、今日の主イエスは、そのことについて、はっきりと語っておられます。主イエスがおっしゃったことですから、私たちは、信頼することができると思います。
今日の福音の出来事を思い返してみますと、こういうものでした。いろいろな論争相手が現れる中で、今日は、その時、サドカイ派の人々が近づいて来て、主イエスに質問するのでありますが、彼らは、復活はないと信じ、また、天使も、霊も、存在しないと主張する一派でして、特に重要とユダヤ人たちに考えられてきたモーセ五書を重んじる人々でした。
それに対して、ファリサイ派は、復活も、天使も、霊の存在も肯定している人々でした。サドカイ派のある者たちは、こう質問するのであります。ある人が妻をめとり、子をもうけずに、死にました。彼には、弟たちがいて、次の弟が、その女を妻にし、彼も子をもうけずに、死に、また同じようにして次々とその女を妻としたのですが、7人いた兄弟皆が、子をもうけないで死んでしまい、最後に、その女も死にました。それでは、この女は、復活の時、だれの妻になるのですかと質問したのであります。
重婚はモーセの律法で禁止されていたので、復活があるなら、この女は、7人を夫に持ち、それに反することになるというのであります。それに対して、並行個所では、主イエスは、あなた方は、聖書も知らず、思い違いもはなはだしいと言ってお答えになっていますが、ルカでも、主は、明確に言われます。
この世の子らは、めとったり、とついだりしているが、来たるべき世で、死人たちから復活するのにふさわしいとされた人々は、もはや死ぬことができない、彼らは、天使たちのようになり、復活にあずかる子らとして、神の子たちであるからだと答えられたのであります。
私たちは、この世では、結婚し、子孫を残すために、子をもうけますが、夫婦もこの世でいつかは別れねばならない時がきます。結婚生活は忍耐であると言われた方もいますが、生きている限り、神から与えられた助け手として、相手に限りなく近づき合い、あい助け合って生きる者と神はなさったのであります。
そして、主イエスは、さらに、サドカイ派が復活はないと論拠にしているモーセ五書の出エジプト記3章6節を引用なさったのであります。死人が、復活することについては、モーセも柴の個所で、神は、「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と告げられたと記しているというのであります。アブラハムは、考古学でも実在の人物だと証明されているとのことでありますが、旧約聖書によれば、彼はすべての諸国民の祝福の基となると神によって約束されている人物であります。モーセの時代には、彼らははるか昔に死んでいる人物たちでありますが、主なる神は、「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形ではっきり示されているのであります。
主イエスは、それを引用して、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。なぜなら、すべての人は神によって生きるからであると言われました。人間は神に生きる者として造られているのであります。
土で造られた私たちは、地上からは、みな消えていなくなる存在ですが、神に対して、神に結ばれ、向き合う者として造られているのであります。復活を信じて、罪から悔い改め、アブラハム、イサク、ヤコブのように、神に向かい合って歩み、地上の生涯を神の祝福と恵みのうちに過ごしたいものであります。アーメン。

2013/11/17(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「王となって帰って来る主人」(ルカ19:11-27)
ルカ19:11-27、2013・11・10、聖霊降臨後第25主日(典礼色―緑―)、歴代誌上29:10-13、テサロニケの信徒への手紙二2:13-3:5

ルカによる福音書19:11-27
 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナをもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王となるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」





説教「王となって帰って来る主人」(ルカ19:11-27)

 ルカによる福音書を中心に読んで来ました今年の教会暦C年も、残すところ、今日の記事を含めて3回となりました。ルカによる福音書はエルサレムの神殿での出来事に始まり、エルサレムの神殿で、復活して後、天に帰った主イエスを弟子たちがオリーブ山から戻って、ほめたたえているという記事で終わっています。
 そして、今日の記事は、そのエルサレムでの受難と復活に近いエリコ近辺での主が語った譬えであります。弟子たちとしては、この地上での神の国の実現が、まもなく、いや、今すぐにも、入城するエルサレムで現わされ、ローマ帝国から主イエスが、メシアとしてイスラエルを解放してくださる時が来たとも、期待していたようであります。
 しかし、主イエスは、事態は、そんなこととはまったく異なることを、この譬えを通して、お語りになられたのであります。
 ザアカイにエリコで語りかけられた後、人々が、彼に聞いていたとき、彼は、それに加えて、この譬えを語られたのであります。
 そこには、彼の弟子たち、群衆、また、敵対者たちも含まれていたかもしれません。今日の主イエスの譬えは、マタイ福音書のタラントンの譬えと似ている点もありますが、異なっている点も少なくなく、おそらく別ので伝承であったと考えられます。
 ある高貴な人が、王位を受けるために、遠い国に旅立った、と主イエスは初めます。もちろん、これは、御自身をたとえて言っておられるのであります。
 今日の譬えと同じような歴史的な事実も、歴史家ヨセフスによって、残されています。あのヘロデ大王の長男、アルケラオが、王位を受けるために、遠く、ローマに旅立った。ところが、その国民たちは、彼が自分たちを支配するのを望まず、自治権を主張して、使節団を、あとから送ったというのであります。結局アルケラオは、代官の地位を受けて、帰国し、敵対者たちを一掃しますが、やがて後に失脚したというのであります。この故事を、主イエスは、今日の譬えにお用いになったのかもしれない。
 さて、この高貴な生まれの人は、10人の僕を呼んで、一人に1ムナずつ、与えて、それで、商売をするように、取引をするように命じて、旅に出るのであります。マタイのタラントンの譬えと比較するとそんなに大金ではない。マタイでは3人の人に、5タラントン、2タラントン、1タラントンと預けるのでありますが、こちらでは、等しく1ムナずつ、10人に渡しています。これは、主イエスから、あるいは、神から、私たちが受けている恩恵、恵みを表わしているとも言えましょう。
 さて、その主人が王位を受けて帰って来ると、しもべたちが、どれだけ仕事をしたかをみようと思って呼び付けます。
 すると、第1の者は言います。御主人様、あなたの1ムナは、10ムナを作りだしましたと。すると、主人は、よくやった、よいしもべよ、あなたはごく小さなことに忠実であったから、10の町の支配権を与えようというのであります。
 次に、第2の僕も出て来て、言います。御主人様、あなたの1ムナは5ムナをもうけましたと。すると、主人は、よくやった、あなたは5つの町を支配するであろうと言います。
 ところが、3番目の僕は、出て来て言います。御主人様、あなたの1ムナは、ハンカチに包んで隠しておきました。なぜなら、あなたは、預けないところから、かき集め、蒔かないところからも、刈り取る厳しい方なので、恐ろしかったからですと。主人は、よくない僕だ。あなたの口によってあなたを裁こう、あなたは、私が預けない所からも取り立て、蒔かない所からも刈り取る厳しい者だと知っていたのか。それなら、銀行に預けておくべきであった。そうすれば、私が戻って来たときに、利子と共に、それを受け取れたのに。そう言って、主人は、そばにいる者たちに、この者の1ムナを10ムナ持っている者に与えよと言います。
 彼らは、御主人様、彼は、既に10ムナ持っていますと言うと、主人は、私は言っておくが、持っている者はさらに豊かに与えられるが、持っていない者は、持っている者まで、失うであろうと言うのであります。
 この僕は、主人に不忠実で、主人の帰って来るときまで、主人の命令に従わなかった者であります。主イエスの弟子たちは、主の再臨の時まで、与えられた恩恵に対して働くように主から委任されている者である。目覚めて、恵みに答えることが私たち一人一人に求められているのであります。
 さて、主人は、最後に、こう言います。しかし、私が王になることを望まなかったあの者どもをここに引き出し、私の見ている前で切り殺せと。
 主イエスのなされた譬えとはいうものの、主イエスご自身を譬えた主人の言葉としては、これも、激しいものであります。
 ルカの描く主イエスは、ユダヤ人たちに対して敵対的なイエスであります。主イエスが、公生涯をお始めになって、故郷のナザレで、説教を始められた時も、ナザレの人々は、結局、主イエスを拒んで、崖から落として殺そうとしました。
 ここでも、主イエスは、御自分が、王となって帰って来ることを望まなかったユダヤ人たちに対して、彼らを引き出して、自分の目の前で殺せと言われるのであります。
 主イエスを拒んだエルサレムは、紀元後70年に、ローマ軍によって石の上に一つの石も崩されずに残ったものはなくまるまでに、破壊されます。
 今日の譬えは、主イエスが、まさに、都エルサレムに入城なさろうとする直前に、弟子たちに向けて、あるいは、群衆に向けて、あるいはさらには、敵どもに向けても、今がどのようなときであり、何が起ころうとしているかを、語られたものであります。
 私たち、キリストの弟子としては、主イエスから、無償で一人一人に恵みが与えられ、主イエスは、私たちがそれを用いてみ言葉を宣べ伝え、主イエスから託されたみわざ、また、それぞれの仕事に従順に励み、仕えることが求められています。主イエスのこの世界にお出でになられたその使命を、覚って、主イエスのみ旨に従って、力強く働くことが求められているのであります。
 この1年の教会暦の終わり近くに、私たちは、自分の与えられた使命を再確認し、倦まずたゆまず、それに励むように、主イエスによって、今日の譬え話を通して促されています。私たちの与えられたこの地上での生涯には、やがて終わりの時が来ます。そのことを覚えながら、私たちはそれぞれの与えられた場所で、与えられた任務を精一杯こなしながら、目を覚まして歩んでいきたいものだと思います。アーメン。
2013/11/10(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなた方が私を選んだのではない」(ヨハネ15:1-17)
ヨハネ15:1-17、2013・11・03、2013・11・03、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式)、エゼキエル書37:1-14、ローマの信徒への手紙6:1-11

ヨハネによる福音書15:1-17
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


説教「あなたがたが私を選んだのではない」(ヨハネ15:1-17)

 今日は、全聖徒主日です。今日の第1の朗読、エゼキエル書37章1節から14節は枯れた骨の復活を預言しており、召天者を覚える礼拝にふさわしい記事だとすぐに思わされます。
 しかし、今日の福音の記事として、ヨハネ福音書15章1節から17節が与えられているのは、なぜかは、すぐには分かりません。どうして、この個所が、あえて、この全聖徒主日に与えられているのか、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 この個所は、いわゆる告別説教と言われている記事、14章から17章に含まれています。
そして、「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と始まっています。イスラエルの民は、昔から、ぶどうの木と譬えられてきました。
 それに対して、主イエスは、ご自分こそ、真実の、純正なぶどうの木と言われ、父なる神は、手入れをなさる農夫であると言われたのです。そして、弟子たちには、あなた方はその枝であり、私につながっていなければ、とどまっていなければ、自分からは何もできないとおっしゃられた。
 キリストを離れては私たちは何もできないことを、毎日の生活の中でいやというほど体験させられるのが、クリスチャンではないでしょうか。しかし、主イエスは、主イエスの語りかけられるそのみ言葉によって、私たちは既に清くされていると言われる。
 全聖徒を今日は、記念していますが、生きている私たちも含めて、全聖徒とは、キリストによって選ばれて、既にみ言葉によって清くされた者たちであります。
 私たちは、自分でキリストを選んだと考えがちですが、実は、主イエスの方が私たちを先に選んで下さったのであります。しかも、主イエスは、私たちを御自分の友と呼んで下さる。
 自分で、主イエスを選んだと考えている人は、それが、自分の利益にはならないと判断するや否や、主イエスを離れ、捨て去ることになるでしょう。
 主は言われます。その友どものために、自分の命・魂を捨てること、あるいは、原文のそのままの意味を訳せば、自分の命をその友どものために、置くこと、それ以上の大きな愛をだれも持っている人はいない、と言われたのであります。もちろん、これは、主イエスが御自分の命を私たち、イエスの友どものために捨て、差し出し、おいて下さることを意味しています。
 そして、主イエスは、新しい掟を、私たちに与えられた。それは、私たちがお互いに愛し合えということでありました。
 私たちが、主イエスを選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは、私たちが互いに愛し合うため、そして、私たちが出て行って、より多くの実を結ぶために、選んで下さったのであります。
 津田沼教会では、生前に洗礼に与り、あるいは、堅信礼に与った兄弟姉妹のみならず、そこまでには至らなかった御家族、たとえば、私たちの洗礼には至らなかった両親、あるいは伴侶をも、遺影を持参して、年に2回の召天者記念礼拝を、このところ守っております。それは、主イエスの愛は、信じるには至らなかった者をも、救うほどに大きいからであります。一方で、信仰に入れられている私たちは、主によって選ばれた者として、主から、離れずに、この地上の生涯を、出て行って良き実を結ぶ者として、残された人生を歩んでいく、正しく、自分の生と死について考える時としたいのであります。アーメン。
2013/11/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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