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津田沼教会 牧師のメッセージ
「まず神殿から清める」(ヨハネ2:13-22)
ヨハネ2:13-22、2013・10・27、宗教改革主日(典礼色―赤―)、列王記下22:8-20、ガラテヤの信徒への手紙5:1-6

ヨハネによる福音書2:13-22
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



説教「まず神殿から清める」(ヨハネ2:13-22)
 
 皆さん、宗教改革主日を迎え、おめでとうございます。宗教改革の始まりとされるのは、1517年ですから、まもなく2017年には、宗教改革500年記念を迎えることになります。
 日本福音ルーテル教会の機関紙である「るうてる」10月号にも報じられていましたように、日本でも、日本福音ルーテル教会とローマ・カトリック教会が宗教改革500年祭を共同で祝うために、着々と対話が始まっています。
 言うまでもなく、マルティン・ルターが1517年10月31日、すなわち全聖徒の日である11月1日の礼拝に備えて、その前日に、ヴィッテンブルクの城教会の門扉に95カ条の提題を張り付け、いわゆる免罪符、正確には贖宥券と言いますが、それの販売等に反対したことが、意外な反響を呼び、全ヨーロッパに宗教改革の波が押し寄せて行くことになったのであります。
さて、宗教改革主日に、今日の福音の個所として、ヨハネ福音書2章13節から22節が与えられているのは、なぜでしょうか。しばらく、御一緒に考えてみましょう。
ところで、私たちが毎週日曜日に読まれます、そして、慣れ親しんでいます通常の3年サイクルの福音記事は、ローマ・カトリック教会のペリコペーに準じています。福音書記事以外の旧約聖書からの第1朗読と、使徒書からの第2朗読も、同じ場合、あるいは、重なっている場合が多いのです。
しかし、ルーテル教会では、今日の宗教改革主日の福音は、あえて、ここの記事が3年に一度、与えられているのであります。旧約聖書の個所も、使徒書の個所も、宗教改革にふさわしい記事が選ばれているのであります。ローマ・カトリック教会では、おそらく、特に宗教改革主日としては、今日私たちが与えられているようなペリコペーは用いられていないでしょう。
さて、今日の福音の記事には、主イエスが、公生涯の始まりの時になされたみ業と語られたみ言葉が記されています。
主はご自分の体でもって、しかも霊とまこととをもって、諸国の民が主イエスを、また、主イエスを遣わした父なる神を礼拝する日が来ると言われました。それに対して、ユダヤ人たちは、その時までに、46年もかかって、修復中であった目の前のエルサレム神殿が、将来崩壊され、もはや、エルサレムの神殿での犠牲礼拝がなくなることを預言した主イエスの言葉が信じられなかったのであります。
神殿での礼拝、また、教会での礼拝も形をもつことを、人間は求めます。宗教改革が起こった当時、カトリック教会は、聖ペトロ大聖堂等を修復するため、免罪符、贖宥券を発行し、それを民衆たちは買うことによって、自分の父母や、祖父母、先祖たちの霊も救われると平気で説いていたのであります。
それに対して、マルティン・ルターは聖書にはどこにもそのような事柄、保証は何も示されていないということから、先ほど言いましたように、95ケ条の提題を1517年10月31日に住んでいた町、ヴィッテンブルクの城教会の門扉に張り付けたのであります。
そして、それまでに、ルターは長い修道僧としての修養や聖書の研究を重ねたあげく果てに、「人は信仰のみによって、義とされ、救われる」ということを、ローマの信徒への手紙1章17節などを根拠として、ついに救い、すなわち福音を発見するに至っていたのであります。
旧約聖書に記されている律法によって、たとえば、モーセが主なる神から、シナイ山で与えられた十戒を通して、人間はそれを読むとき、良心が驚愕させられ、根底から恐怖させられます。しかし、福音の約束と福音の実現によって、人は初めて、慰めを得、平安を与えられることを聖書、すなわち、旧約聖書と新約聖書を通して、ルターは発見したのであります。
現代の私たちもまた、宗教改革者たちと共に、今日の、主イエスがなさった激しい宮清めのふるまいを通して、主イエスが、まことの礼拝の道を、私たちのために開いてくださったことを信じることができるのであります。
 私たちの教会もまた、今日の記事で主イエスが、腐敗した、犠牲と礼拝をささげる形となりさがっていたエルサレム神殿をまず清めることから、その公生涯をお始めに成ったように、絶えず、礼拝の形を整えていくと共に、その内実を豊かにしていく、すなわち、霊とまことをもって礼拝する教会になるよう、今日の主イエスのふるまいを通して、教えられているのであります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
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2013/10/27(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「格闘的祈り」(ルカ18:1-8)内海望牧師
ルカ福音書18:1-8、2013・10・20、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)、創世記32:23-31、テモテへの手紙二3:14-4:5

ルカによる福音書18:1-8
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」



説教「格闘的祈り」(ルカ18:1-8)内海望牧師

 「祈ること」を許されているということは「恵み」です。「祈り」は、いわば日常生活の中での深呼吸のようなものです。疲れ、気落ちしたとき、祈りによって新鮮な聖霊の空気を胸いっぱいに吸い、新しい力が与えられます。またある時は、感謝の思いが心に満たされ、心安らぐ時があります。
 現代社会では、カウンセリングが盛んですが、そして一定の効果を上げていますが、河合隼雄さんは専門家として「心理療法の根本は祈りではないかと思うことがある」と述懐されています。祈りはカウンセリングを根底で支える深さを持っているのです。

 今日の日課を読むと、イエスさまは「絶えず祈らなければならない」とおっしゃっています。あるいは、マタイ6章では「こう祈りなさい」と命じ、「主の祈り」を教えて下さっているのです。しかし、私たちは、神さまの前に立つことも出来ない罪人です。まして、神さまに祈ることなど到底許されません。事実、預言者イザヤは、神さまの前に立った時、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6:5)と叫びました。ルターも「私は塵や灰であって、罪に満ちていながら、生ける神の前に立っているではないか」と叫び、地に倒れたと言われています。当然の反応だと思います。
 ところが、イエスさまは「祈るべき」あるいは「祈りなさい」とおっしゃって下さるのです。どうしてでしょうか。それは、イエスさまが十字架の贖いにより、神さまと私たちの間に橋をかけて下さったからです。イエスさまが十字架上で命を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真ん中から裂けた(真っ二つに裂けた)と記されています。今まで、「天と地」「神さまと人間」の間にあった垂れ幕がなくなり、神さまと人間とが再びつながったことを示す光景です。
 イエスさまが「祈りの架け橋」となって下さったのです。ですから、わたしたちは、イザヤのように神さまを恐れずに、安心して祈ることができるのです。それどころか、ローマ8:15のパウロの言葉によると「アッバ、父よ」(お父さん!)と親しく呼びかけることさえ許されているのです。「祈り」は、まさに「イエスさまによる恵みの賜物」なのです。どうして恵みを無駄にしてよいでしょうか。だからこそイエスさまは、「絶えず祈れ」とおっしゃるのです。
 ところで、今日の福音書の物語と、第一の朗読である創世記32章の物語とは非常に似通っています。ヤコブがヤボクの渡しで、自分が裏切った兄エサウとようやく再会を果たそうとしたとき、それを阻もうとする神さまの使いと夜明けまで格闘したという物語です。ヤコブはどうしてもエサウに会って謝りたかったのです。私は、ここに祈りの大切な点があると思います。
 「祈り」は単なる祈願ではありません。祈願というのは、自分の願いを神さまにぶっつけるだけの「独り言」です。それは、「当たるも八卦」という無責任な態度でもあります。しかし、この福音書のやもめにしてもヤコブにしても、どうしても願いを聞いてもらわなければならないという真剣さ、そのためには神さま(裁判官)と対決する覚悟があります。「祈り」は、「神さま、どうしても助けて下さい。あなたしか助け手はいません。」という真剣な「対話」なのです。
 やもめの相手は「不正な裁判官」ですから、「正しさ」など求めても無駄なことは分かっています。しかし、彼女にとって助け手はここにしかいないのです。だから、裁判官が取り上げてくれるまでいつまでも願い続けるという覚悟が、このやもめにはあったのです。その真剣さ、執拗さが予想されたので、裁判官も折れるのです。この「聞き届けられるまで祈る」という姿勢は「祈り」にとって大切です。ともすると私たちの祈りには、神さまに祈りながら、他の方法での解決も探るという不誠実さがあります。しかし、「あなたしか助け手はいません」と神さまにしがみついて行くという姿勢こそ大切なのです。これは、神信頼の問題でもあります。「神さま。あなたしかいません!」という叫びです。この格闘的な祈りの極致が、あのイエスさまの十字架上の祈り、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」です。イエスさまは「見捨てられた」と言いながらも、なおも、「あなたしか頼る方はありません」と祈り続けられたのです。これも「対決」といえる姿勢です。だからこそ、最後には「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」と言って、安らかに息を引き取ることがお出来になったのです。
 今日の日課の初めに、イエスさまが「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」とおっしゃっていることにも目を留めて下さい。また7節には「彼らをいつまでもほうっておかれるだろうか」という意味が少しあいまいな言葉があります。文語文には「たとえ遅くとも」となっており、シュラッターというドイツの神学者は「たとえどんなに気長に待たせるとしても」と訳しています。つまり、これは「祈りは聞かれた」とすぐに喜ぶようにはならないという意味です。ですから、イエスさまは、このやもめのように「絶えず祈るべき」あるいは「執拗に祈れ」とおっしゃっているのではないでしょうか。「助け手はあなただけです」と神さまに信頼して祈り続けるということが大切なのです。決して「独り言」ではありません。「最近は格闘的祈りが少なくなった」と嘆く神学者がいましたが、確かにそう感じます。
 これは神信頼が少なくなったというしるしではないでしょうか。格闘的祈りには忍耐が要ります。しかし、どこまでも神さまに信頼し、神さまにしがみついて祈り続ける時、私たちは人知を超えた神さまからの平安を与えられるのです。私たちの祈りは「たとえ遅くとも」「どんなに気長に待たせられても」必ず聞き届けられたことを感謝する時が来るのです。それは、「私たちの願いが叶う」ということではないかも知れません。イエスさまは、「パンをほしがっている自分の子供に石を与える親がいるだろうか。まして、あなた方の天の父は、求める者に良い物を下さるに違いない。」とおっしゃっています。祈っている間に、私たちの願いが訂正されることもあるのです。これも重要なことです。たとえ訂正されたとしても、格闘的祈りの後には、私たちは穏やかな心で感謝をもって、天の父が与えて下さる物を良い物として受け取ることが出来るのです。
 ここでルターの言葉を思い出します。それは祈りについて大きな示唆を与えてくれます。「小教理問答書」の「主の祈り」の解説に、「日ごとの糧とは何ですか」という問いにたいして、「たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い召使、信仰深く信頼できる支配者、良い政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです」と書いています。ずいぶん欲深い祈りだと驚きます。御利益信仰ではないかという疑いさえ起こります。しかし、反対から考えると、これは「自分は何も持たない。すべては神さまから与えられるものだ」と言っているのと同じです。祈りは自己放棄なのです。ルターは死の床に、「私は神の乞食だ。これは本当だ」というメモを残しました。自分は何も持っていない、与えられるだけだ、という意味です。
 私たちは、まだ自分は何かを持っていると思っています。神さまに助けを祈り求めず、自分たちの問題を神さまの御手に委ねようとしません。神さまを何かいざという時の保険みたいに考えているのではないでしょうか。それは、傲慢です。ルターは問いかけます。「君たちは食卓のすべてを真剣に祈り求めたか」と。これは、「私を支えてくれるものはあなたしかありません」という格闘的祈りと共通点を持った神信頼に徹した祈りと言えます。
 ですから、8節後半のイエスさまのため息には心打たれます。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。私たちは、真剣に「私に、あなたにすべてを委ねる信仰を与えて下さい」と祈らなければならないのではないでしょうか。そのようにして弟子たちの目を覚まそうとされたのではないでしょうか。
 「気づいた時がもっともよい時だ」という言葉があります。今日、私たちもみ言葉によって気づかされたことを喜び、「私の命も、人生そのものもすべてを与えて下さったことに感謝します。」と祈りましょう。その時、私たちは思いに勝る平安と喜びを受け取ることが出来ます。
2013/10/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「聞かれた信従」(ルカ17:11-19)
ルカ福音書17:11-19、2013・10・13、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)、列王記下5:1-14、テモテへの手紙二2:8-13

ルカによる福音書17:11-19
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」



説教「聞かれた信従」(ルカ17:11-19)

今日は、先週に引き続くルカ福音書17章11節から19節が与えられています。ルカ福音書17章11節と末尾の19節は、ルカが、構成し、言わば作文した文章だと考えられます。あとの17章12節から18節が、もとからあったもので、福音書記者ルカが手にした伝承であったと考えられます。
ルカは、改めて、本日の奇跡の出来事が、エルサレムへと、主イエスが進まれる途上において、すなわち、主イエスの十字架をかけて、今日の出来事が起こったと記しているのであります。ルカ17章11節は、「そして、成ったことには、主イエスがエルサレムに進まれることが、そして、彼はサマリアとガリラヤの真ん中を進んでおられた」と書き出されているのであります。
それは、サマリアとガリラヤの中間地帯で、言わば追放されていた10人の「重い皮膚病の者たち」が国境を超えて、共同生活を送っていたと考えられます。そして、そこでは、「重い皮膚病」あるいは「らい病人」「ハンセン病」であったかもしれませんが、彼らは社会から排斥された生活ではなく、差別から解放されて、ユダヤ人も、サマリア人も区別のない生活を、彼ら自身で築いていたということを示しているのかもしれません。
主イエスが、ある村にお入りになるとき、10人の重い皮膚病の人たちがやって来て、遠くに立ち、「イエスよ、師よ、私たちを憐れんでください」と、声を持ちあげます。
主イエスは、それを見て、「あなたたちは祭司たちの所に行って、自分の体を見せなさい」と言われます。
そして、成ったことには、彼らは進んでいくことにおいて、清められたのであります。そして、彼らのうちの一人は、自分が癒されたことを見て、大声と共に、神をほめたたえながら、引き返し、主イエスの足もとにひれ伏し、感謝したのであります。
他の9人も重い皮膚病からは、清められたのであります。けれども、彼らは信仰の目でみて、主イエスのもとに引き返す、すなわち、救いを信じ、改心するまでには至らなかったのであります。
主イエスは、奇跡をなさり、病気を癒されます。それは、天の父なる神を通して、なされるみ業であります。今日の第一朗読で読まれた、列王記下5章のシリアのナアマンの場合には、神の人エリシャのもとに来て、エリシャは、自分の家から出て、会いもせず、ただ「ヨルダン川にて七度、身を清めよ」と伝えるのみでありました。
そして、自分の力ではなく、神の力によって、ナアマンの重い皮膚病は癒されたことを、知っている預言者エリシャはナアマンの贈り物を受け取ることも固辞しました。
主イエスは、エリシャ以上のお方であり、ただ、祭司たちにあなた方の体を見せるようにと言われ、言葉だけで、重い皮膚病を彼らが祭司たちの所に向かっている間に、清めることができたのであります。
しかし、一人の者、サマリア人だけが、自分が癒されたことを見て、信仰の目で神の思いを知り、引き返して来て、主イエスの足もとに、感謝して神を賛美するのであります。 
私たちもまた、このサマリア人ではないでしょうか。資質や功績によるのではなく、神の恵みを知って、信仰の目を開かれ、戻って来た、改心した存在ではないでしょうか。 
主イエスは言われます。「10人が清められたのではないか。あとの9人はどこに。神に栄光を与えるために、引き返して、見出された者は、この外国人の他にいないのか」と。 
私たちは、長い生涯の間には、病気に苦しめられることがあります。また、そうでなくても、詩編の詩人は言いました。私たちの生涯は露のようなもの、長生きしても、70年、80年、私たちは、み前に露のように消え去るのですと。私たちは、老いを迎えると共に、体力や能力も減退し、世界一の長寿国と言われても、その最期は病院の器具に取り囲まれて迎える人が大多数というのが実情であります。
確かに、重い病が癒されることは、主イエスによってなされた不思議なわざであります。私たちも、主イエスによって癒されたいという願いが率直なところ、だれにもあります。
しかし、今日、登場した10人の重い皮膚病が清められることが、より重要なのではなく、それを通して、癒し、救いに至る信仰、神との交わり与えられることがより重要なのであります。信仰の目、心の目が開かれて、罪が赦されて神に感謝をささげるに至ることを、主イエスは何よりも願っておられるのであります。
私は、本日の説教理解にも少し書いておいたのですが、水俣教会でお世話になった御婦人が悪性リンパ腫でなくなられ、今日の午後2時から、告別式があります。私が牧師になって、2年目、結婚して水俣教会に赴任し、4年間の短い信仰のお交わりを与えられました。ご家族では一人で、教会につながっておられましたが、ご家族にとっても、その姉妹の信仰と教会生活は、大きな励みとなり、力となったことでしょう。
私たちも皆、寿命が尽きれば、天に召される土の器に過ぎません。けれども、信仰にある交わりは、決して、死を通しても絶たれるものではないでしょう。信仰、それは、資質とか才能とかによるものではなく、神さまからのお恵みであります。
私たちも、今日引き返して来て、主の足もとに感謝してひれ伏したサマリア人のように、与えられた癒しを信仰の目で見て、主イエスと父なる神に応答する信仰者でありたいと思います。
 
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。




2013/10/13(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスの弟子としてのあり方」(ルカ17:1-10)
ルカ福音書17:1-10、2013・10・06、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―聖餐式)、ハバクク書2:1-4、テモテへの手紙二1:3-14

ルカによる福音書17:1-10
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
 



説教「イエスの弟子としてのあり方」(ルカ17:1-10)

私たちは、自分に罪を一日に七度も、犯す兄弟に対して、赦すことは、私たちの、本能、自然のままでは出来ないものであります。今日の主イエスの言葉は、私たちの本性、自然に挑むものであるように思われます。
しかし、最後の譬えにあるように、私たちは、神によって僕として立てられている者であります。私は、自分に危害を加える兄弟を、それも、一日に七度も、自分に対して攻撃して来る、罪を犯す者を赦すことはできないと思いました。
しかし、父なるは、全能の力をもって、私たちを赦し、どこまでも赦されるお方である。そして、私たちは、その赦しに受け入れられて、教会でも、兄弟の交わり、主にある交わりに招かれている者であることを、今日の主イエスの弟子たちに対する、また、特に、教会の指導者たちに対する、エルサレムに向かい、十字架に向かう主が教えておられます。人を、イエスの信仰から、落とし、主イエスを信じなくさせる罪よりも大きいものはないと、主は言われます。これを語ったとき、裏切るユダを直接には思い起こさせられますが、それに限らず、私たちを、イエスへの信仰から引き離す罪の大きさを語られるのであります。そして、よくよくあなた方も、注意しなさいと警告なさっておられるのです。
そして、使徒たちは、自分たちが、つまづきの罪からときはなたれ、自分に罪を犯す者を、無限に赦せと言われる時、それはとても、不可能だと感じ、自分たちの信仰を増し加えさせてくださいと願うのでありますが、主は、からし種一粒ほどの信仰があれば、それはできる。桑の木に、海に根をおろせと言えば、それらは服従すると言われるのであります。信仰が小さいとか、少ないとかいう問題ではなくて、信仰があるかないかだと主は断言されるのであります。
そして、私たちは、喜んで神に仕える僕とされているのだから、なすべきこと、主イエス、あるいは神の命令に従うのは、当然のこととして、喜んで従うのだと言われるのであります。
兄弟が罪を犯したら、とがめ、戒めなさいと言われる。喜んで、無限に、兄弟が、自分に対して幾度も犯す罪を、喜んで赦すことができるようになると、主は、ご自分の十字架死と命にかけて教えられるのでありますが、このときの弟子たちは、まだまだ、分からなかったと思います。
今日のみ教えを聞いている私たちも同じだと思います。しかし、父なる神に従い命令を行い、恩義があることを、僕は喜んで果たす者となるというのです。
 そして、そのなすべきことを果たしたならば、自分は、なすべきことをしたにすぎない不束な僕、無価値な僕にすぎない者ですと言いなさいと主は、私たちに命じておられます。
 もう、あんな兄弟は放っておこうと、やけっぱちになることがある私ですが、自分も主イエスを本当には知らない時、主イエスによって赦され、抱きとめられた者であることを想い起こし、今もなお、主は、自分を限りなく赦して下さっていることに今一度思いをいたし、七度、一日に私に罪を犯しても、七度、悔い改めて来るなら、実際には、なかなか、悔い改めてはくれないと感じるのですが、自分が神さまによって、大きな罪を赦された者であることを思い起こして、兄弟として、受け入れる。そのために、過分なことまではできないとしても、その兄弟のためにも心から祈り、悔い改めてくれることを、願い求める僕に、再び、されたいと心から思う者であります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2013/10/06(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)