津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死後の逆転」(ルカ16:19-31)
ルカ福音書16:19-31、2013・09・29、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)、アモス書6:1-7、テモテへの手紙一6:2c-19

ルカによる福音書16:19-31
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」



説教「死後の逆転」(ルカ16:19-31)

生前、悪いものを受けた人が、死後、良いものを受け、逆に、生前良いものを受けた人が、死後、逆転して悪いものを受け取ることになるというエピソードは、当時のエジプトにも知られており、主イエスは、それを念頭に、この「金持ちとラザロ」の譬えを語られたのかもしれない。
貧しい人、ラザロは、その金持ちの門のところで、放り出されており、できれば、その金持ちの食卓から落ちる食物ででも、腹を満たしたかったが、それもならず、それどころか、多分、家の犬どもまでが、やって来て、そのただれたできものをなめていたという哀れな様でありました。
そして、やがて、寿命が尽きて、このラザロは死に、葬儀もなされなかったのかもしれませんが、天使たちによって、アブラハムの懐へと、運び去られたのであります。
一方で、紫の衣や、麻布を着て、ぜいたくに日々楽しんで、ラザロを顧みようともしなかったその金持ちの方も、死んで葬儀がなされ、ところが、気が付いてみると、陰府で炎のうちに、悶え苦しまされているのでありました。
そして、金持ちは、ずっと遠くに、アブラハムとその懐のラザロを見出し、叫ぶのであります。父アブラハムよ、私は、炎の中で悶え苦しんでいます。どうか、ラザロをよこして、その指の先に、水を付け、私の舌を冷やさせてくださいと。ところが、アブラハムは答えます。こちら側と、あなたたちの間には大きな淵、割れ目があり、こちらから、そちらへ行こうと思ってもだれも、それはできないし、あなた方の方からもこちらへやって来ることはできないと。
それで、金持ちは、ならば、私には、5人の兄弟がいるので、ラザロを送って、こんな苦しい目に遭わないように、言ってやらせてくださいと。すると、アブラハムは言います。あなた方には、モーセと預言者たちとがいる。彼らに聞くがよいと。金持ちは言います。いいえ、父アブラハムよ、もし、死人どものうちからだれかが、起き上がったならば、彼らは悔い改めるでしょうと。
アブラハムは言います。もし彼らが、モーセと預言者たちに聞かないなら、たとえ、死人たちから、だれかが、起き上がったとしても、彼らは納得させられはしないであろうと。
これは、主イエスの復活を暗示しているものであります。そして、この物語は、主として、金に執着するファリサイ派たちに向けて、主イエスがお語りになった譬えであります。
エルサレムに、ご自分の命を十字架につけるために、旅をしておられるその途上において、今日の譬えは語られているのであります。
旧約聖書は、ご自分のことについて書かれたものだと、主イエスは、おっしゃられるのでありますが、ファリサイ派の人々は、一向にそれに気が付かないのであります。
しかし、主イエスは、この死後の地位の逆転という譬えを指し示して、警告しながらも、ご自分の死と十字架において、通行不可能であった、陰府、死者の行かねばならない地下の国と天国の間に橋渡しとなられたのであります。
今日出て来る金持ちとはだれのことでしょうか。また、ラザロとは、だれのことを、主イエスは暗示しているのでしょうか。それは、いずれも、私たちのことを、示しているのではないでしょうか。
私たちは、ラザロに無関心な金持ちに似ていないでしょうか。しかし、また、一方では、私たちは、神さまの憐れみに寄り頼まざるを得ないラザロでもあるのではないでしょうか。ルカの描く主イエスは、この世の財貨を、施しなど憐れみのために、用いることを勧め、強く警告しています。自分のために、財貨を独占し、他者を顧みないのではなくて、それを、他者の幸福のためにも用いるべきものであることを、ファリサイ派の人にも、ご自分の弟子たちにも勧めておられるのであります。そのときには、死後の逆転させられる地位にあっても、主イエスが陰府と天国との架け橋となって、互いに行き来することが可能となるのであります。死後の逆転ということが、ありますが、にもかかわらず、私たちは、この世の財貨を正しく用いて、共どもに、天国へ行ける道を既に十字架につかれた主イエスによって、用意されているのであります。祈りましょう。

私たちの財貨を、他者への憐れみのために、用いることができますように。また、私たちは、常に神のみ前にあっては、神の言葉を求める、み言葉に飢えた乞食ラザロであることを覚えさせてください。キリストによって祈ります。アーメン。







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2013/09/29(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「不正な管理人のふるまい」(ルカ16:1-13)
ルカ福音書16:1-13、2013・09・22、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)、コヘレトの言葉8:10-17、テモテへの手紙一2:1-7

ルカによる福音書16:1-13
 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」




説教「不正な管理人のふるまい」(ルカ16:1-13)

今日のルカ福音書16章1節から13節は、私たちの常識では分かりにくい譬えと主イエスのお言葉から成る個所であります。金持ちの擁していたこの管理人は、主人の財産の無駄遣いをし、主人に損害を与えているのであります。そして、この管理人を解職しようとします。
すると、この管理人は、借りのある者たちを次々に呼んで、まず、100バトスのオリーブ油の借りのあるものを50バトスと証文を書き代えらせ、次に、100コロスの小麦の借りのある者を、80コロスと書き代えさせています。そして、それを見た主人は、この不正な管理人が機敏に、自分の危機に対処するのを称賛するのであります。
この「主人」とは、キュリオスというギリシャ語で、「主」イエスがこの管理人をほめたとも訳せます。機敏に危機に対応することを、主イエスは、弟子たちに、私たちに欲されるのであります。
そして、この世の子らは、光の子ら、すなわち、主イエスの弟子たちよりも、この世代、仲間に対して、賢く、思慮分別においてまさってふるまっていると主は言われるのであります。
そして更に、不正の富を用いても、友達を作りなさいと、金が尽きたとき、家に受け入れてくれるようにと。また、彼らと共に、神と天使たちが、永遠の住まいに迎え入れてくれるように友を作りなさいと主は言われます。
これは、貧しい人に施しをすることとも、取れますが、自分の利益に動く私たちが、むしろ主イエスを友とするようにとも考えられるのです。
この世の子らに、負けない機敏さと思慮分別をもって、この世の不正にまみれた財貨、富、マモンをよりよく用いなさいとも言われています。
そして、16章10節から13節の言葉が、主イエスの言葉として付加されています。小事に忠実な者は、大事にも忠実であり、小事に不忠実なものは、大事にも不忠実である。あなた方が、不正な富において不忠実なら、だれが、あなた方に真実なものをまかせようか。他人のものに対して、不忠実なら、だれが、あなた方に、あなた方に属するもの、すなわち天的財を、与えるだろうかと言われます。そして、家のしもべたちは、だれも二人の主人に仕えることはできない。一人を憎み、一人を愛し、一人にしがみつき、一人を見下げるだろうからである。神に仕え、富、マモンに仕えることは、あなた方にはできないと言われます。
現実に生きている私たちは、この世の不正にまみれた富、財貨を用いて、生きていかざるを得ません。しかし、神に仕えるためにこそ、この世の富、マモンをも用いるのであります。
ルカのイエスは、財産、物質を重んじます。私たちは、物質、富を、イエスの友達となるために用いるのであります。この世の不正にまみれた富に、不忠実であるなら、まことのもの、福音の言葉や、私たちにゆだねられているもの、天的な財産を、誰も与え、任してはくれないだろうと言われます。
不正な管理人のふるまいは、私たちには納得できない生き方のように思います。彼の生き方は、悔い改めは見られない生き方としか思われません。
しかし、そのような生き方をも、主イエスは、愛のまなざしで見られています。そしてその危機の対処を、心から、ほめられるのであります。私たち、イエスの弟子たちも、この今日の不正な管理人に負けない者として、確かに私たちは、自分自身の利益を求める者ですが、しかし、そんな私たちをも、主イエスによって愛されている者として、機敏にふるまい、危機を乗り越え、思慮分別を持って、この世の富をも、用いて、天の永遠の住まいに、迎え入れられる弟子として、賢く歩んでいきましょう。主イエスは、この不正な管理人をほめられたように、私たちにも愛のまなざしを注いで、永遠の神に賢く仕えていく者となることを、お望みです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。











2013/09/22(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「失われた者の回復」(ルカ15:1-10)
ルカ福音書15:1-10、2013・09・15、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)、出エジプト記32:7-14、テモテへの手紙一1:12-17

ルカによる福音書15:1-10
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」



説教「失われた者の回復」(ルカ15:1-10)
先週、徳善義和先生が説教奉仕に来てくださいまして、ルカは、どうも偶数で、物語を書き進めており、それに対して、マルコは、奇数で書いているように思われると言われました。
私も、それが、当たっているかなと、今日の福音書ルカ15章1節から10節までを読んで素直に同感させられるのであります。
今日のルカ福音書の15章は、1節から32節までを読むと、3つの譬えが出て来るのでありますが、今日の日課である15章1節から10節は、対句のように2つの譬えが与えられているのにたして、15章の11節から32節の有名な放蕩息子の譬えがそれに付加されたものであります。
放蕩息子の譬えは、今年度の教会暦で取り上げられていますので、今日は、短い、ルカ福音書の15章の1節から10節が、主日の福音として別個に選ばれているのであります。
その前半の部分は、マタイによる福音書にも出て来ますが、そこでは、一人の小さな兄弟をも、躓かせないように、滅ぼさないようにしなさいとの意味合いで、99匹に対する1匹をもないがしろにしない羊飼いの譬えが出て来るのに対して、本日の譬えでは、ファリサイ派や律法学者の人々が、なぜ、主イエスは、徴税人や罪人たちと食事をまで共にするのかと不平を鳴らしたのに対して、主イエスは、ルカ福音書15章の「失われた者の回復」というテーマの譬えをここに、記録しているのであります。
始めの譬えは、羊飼い、すなわち、男の人が、1匹の見失った羊を捜すために、99匹を野原に残して、方々を捜し回り、やっとの思いで、見失っていたその1匹の羊を探し当て、戻って来て友人たちや近所の人々を招き寄せて、一緒に喜んでくれ、見失っていた羊を探し当てたからと言って、パーティを催すのであります。そして、主が言われるには、悔い改めを必要としない99匹の上によりも、悔い改めた1匹の上に、天には大きな喜びがあると言われるのであります。
また、次のたとえを対句のように、主は、ファリサイ派たちに向かって、語るのであります。10ドラクメを持っていた一家の主婦、それは、結婚の時にその女性が頭に付けて持ってきた大事なものであったとも言われますが、そのうちの1ドラクメを家の中で見失ってしまった。ユダヤの家は、簡素な粘土造りの、窓もないような一室だけのような、造りだとも言われます。見失った、大事な1ドラクメの銀貨、それは、今で言えば、一日の労賃として、1万円位に相当したものであったかもしれませんが、彼女にとって、大切な物であったに違いありません。
その主婦は、家の薄暗い中をともし火を付けて、箒で掃き、くまなく探し求めたのであります。そして、見つけると、女友達や近所の女たちを集めて、私と一緒に喜んで下さい。無くしていた1ドラクメを見つけましたからと言うであろう、と主は、ファリサイ人たちに、語り諭したのであります。
この譬え話も、ルカ福音書9章51節から始まる、エルサレムへの旅の途上で語られた譬え話であることを、私たちは、忘れてはなりません。
主イエスが、ご自分の命をかけて、この後に待っているエルサレムでの十字架の死を代価として、この譬えを敵対者たちに面と向かって語っておられるのであります。
私は、失われた100匹の中の1匹の羊、また、見失った10ドラクメの中の1ドラクメでありました。私は、京都で学生時代を長く過ごし、苦学しておりましたが、絶望の淵に落ち込みました。そのころ、求道中であったルーテル京都教会に行っていましたが、他にも浄土真宗の新派の親鸞会などにも交わりを持っていました。
しかし、闇のどん底に陥った時初めて、求道していた京都教会の人たちのことが、頭に浮かび、そして、主イエスしか、私を抱き留め、迎え入れてくれる方は、他にこの地上にいないのだということが、肌で分かったのであります。それは、理屈で分かることではありません。事実なのです。
見失われた者、罪人を、ご自身の十字架の死による贖いを通して救うために神の独り子、主イエスはこの世にこられた、唯一の方であります。そして、主を送られた父なる神は、罪人を見捨てたり、軽視したりするお方ではありません。それが、聖書の一貫して説いている神の愛であります。
私たちは、様々な形で、教会の門をくぐり、求道者となり、そして、洗礼を受け、あるいは、クリスチャンの家に生まれた人も、やがて、堅信礼を受けて、主イエスを救い主と受け入れたのであります。
この日本の社会の中で、特に現代において、この主イエスと聖書の信仰を証しし、キリストへと人々を導いていくことは、非常に困難なことであります。いろいろの疑惑や不信の念にすら襲われることがあるでしょう。しかし、主イエスは、そのような私たちをよくご存じで、しかも、先に回復された者として、私たちの周囲の人々、身内や、友人や、職場の同僚や、地域の人々、人生の中で出会うわずかな、限られた人々でありましょうけれども、その人々に、今日与えられている、私たち人間が、自分の持ち物、所有としての存在であり、自分に立ち帰って生きることを求めておられる父なる神のご意志を伝えることをゆだねられている一人一人であることを、改めて確認して、新たな信仰生活を歩み出していきましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
2013/09/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主に従う」(ルカ14:25-33)徳善義和牧師
ルカ福音書14:25-33、2013・09・08、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)、申命記29:1-8、フィレモンへの手紙1-25節

ルカによる福音書14:25-33
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」



説教「主に従う」(ルカ14:25~33)徳善義和牧師

 年を取ってきたから気になるかもしれないけど、こんなコマーシャルがあるんですね。数字忘れましたが、7と8だったと思いますね。たぶん、男は7の倍数、女は8の倍数であぶないという、あるいは統計的にも言うことができるのではないかなあと思いながら、まあ、でも、そんなものはねえ、まあ、何てことないわ、たかをくくっているんですが、でもその数字というのは考えてみるとおもしろいですねえ。私たちはこのところずうとルカ福音書を読んできたんです。去年マルコでした。
 ルカ福音書を読んできて、まあ、私はいろんなことを大変だ、大変だと苦しみながらやる方ではないんです。楽しんでやる方。ですから何かおもしろいこと発見しないかな。毎年マルコの年はマルコの年、マタイの年はマタイの年、ルカの年はルカの年、楽しんでこう読んで、あの考えてみているんです。今年はルカの福音書で説教することをしばしば、あの牧師していませんから毎週じゃないんですけど、しばしばしています。それ以外にあの日本キリスト教団が出している説教準備の雑誌があるんですが、年に4回出る雑誌があります。それがルカ福音書を連載していますので、私は毎号に一段落ずつ割り当てが来るとその個所を、あのいわゆる説教黙想という説教の前の準備をしていると、中の前のまあ平たくいうと与えられた聖書の個所を読みながらああでもない、こうでもないという、いろいろ考える、そういう原稿を原稿を書いているんですね。一回分が8千字なんですね。最初のうちなどはルカ福音書の2章の20節が当たったことがありました。たった1節ですよ。「イエス、幼子イエスと名付けた。」あの1節ですね。8千字書く。あの聖書の言葉を、何回繰り返したら8千字になるかと思うんですけど割り当ては8千字ですから書かなきゃなりませんね。書きました。それこそ、ああでもない、こうでもない。いろんなことを考えながら書いていくわけですが、ふと気が付いた。さっきの7の倍数、8の倍数じゃないんですけど、マルコは奇数ですね。3とか5とかそういう奇数で出てくるんです。3で出てくるでしょう。あのだれだかのいやしをすると中で間に別の話が入って来るなんていうのは、これ、3なんですよ、サンドイッチ型と僕は呼ぶんですが、サンドイッチ、そのサンドイッチがおもしろいんですよ。ねえ、サンドイッチは。そう黙想に書くんですよ。サンドイッチはパンがおいしいほうがいいか、具がおいしい方がいいか。どっちもおいしくないといけないんですね。今はコンビニで売っているパンが、サンドイッチがおいしくなっているそうですが、何か特別の食パン使って、そして、具にもこだわっておいしいサンドイッチを作って売ってる。まあそうなら、1度買ってみようかな、そういう気にもなったりするんですけど。サンドイッチ。
 この3つ話が、両側のつづきの話がよその話にはさまっているての、これ味わうの大変ですね。
 マルコの最初の所に、5つヤダヤ教の指導者たちとイエスの対立の話が出て来ます。5つですよ、奇数ですね。それで行くと、ルカは偶数何ですね。どうも偶数らしいですね。読んでみて。別に私は統計とってみるわけじゃないんですけど、平たくいうとルカ福音書は正、反で、正反、正、反で展開しているようですから、まあいろいろなところで、正、反の形で出てくるので、それで読めばいいわけです。イエスさまが、自分の受難の予告をなさった。日課にもありましたね。そしたらば、その後で、弟子たちがだれが一番偉いかと論争している。これ、正、反、ですよ。2つのくっついた話なんですね、ルカでは。これでこの、正、反で考えるのはなかなか面白い。対句で考えるのもおもしろいんですね。さて、8月の最後の日曜日でした。狭い戸口というあのルカ福音書の今日私たちが読んでいる所からだと1つ前になるんですかねえ。1ページ戻したところに出てくるあの個所で、市ヶ谷教会では神学生が説教しました。神学校の1年生なんです。まあ神学校1年生の人が、礼拝で説教をするというのはまだ早くて難しかろうかなというふうにも思いましたが。もう30過ぎの年配の社会人の経験のあるような、あのう、神学生なんですが、その礼拝が終わって、市ヶ谷は2階の集会室に上がって昼食会がありますね。
 そうすると、すぐに僕の所に飛んでくるんですね、手帳持ってるんですよ。「先生、今日の私の説教について何かお言葉がありますか。」「そうね、今日は説教の批評をするつもりで、今日は聞いてなかったけど、でもね、あの個所で気が付いたことを、あのお、言ってみましょうかね。説教黙想で、つまりああでもない、こうでもないと考えるとき、こんなことを考えておいたら説教をするときに、役に立つんじゃないの。」というアドバイスをしました。真面目な好青年ですから、さっそくノートを開いて私の言うのをノートに書いているんですね。私は先ず、第一に並行記事を読むこと、並行記事というのは聖書学的な言い方なんですが、ルカで書いてあるのは。マタイやマルコで書いてあるかどうか、書いてあればどういうふうに同じで、どう違うか、その似たような箇所を、ようく比べて読んでみる。これは、我々、こうやって比べて読んでみればいいんですが、学生用には便利な本があってですね、左側のページにはギリシャ語で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ギリシャ語で4つの欄がでてる。それだけで1冊の本になって出版されてるんですが、ご丁寧に今度は日本語のたぶん新共同訳と思いますが、新共同訳で右側のページに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、だあーと書いてありますから、そういう本を買っとけば、一遍で、ぱっと、その個所を開けば、読めるようになってるんです。ですから、あれ、買いなさいね。高くても買いなさいね。つまんない本買わないでね、ああいう基礎的な本を買うといいね。それで似たような箇所を比べて読んでみるといいんだよ。そうすると、どこが、同じで、どこが違うか、わかって、違うところが味噌だね。そう言った。つまり、ルカ福音書では狭い戸口の所が書いてあるけど、マタイの方は、これマタイにしかないんですから、狭い戸口と広い戸口と2つ書いてある。マタイは狭い戸口、広い戸口、2つに関心があったけど、ルカは狭い戸口しか関心がなかった。対句になってないんです、ルカでは。かわりに、ルカではその戸口が開いているか、閉待っているかが問題になっている。この対句をね、考える。これを考えるのよ。これが一つ。並行記事を読んでみて、そこでルカは対句、だから、対句を考える。先の人、後の人、これ対句ですね、やっぱり。じゃ、先の人と後の人ってのは一体、マタイで出てくるときと、ルカで出てくるときと、どう違うんだろうか、この対句を考えてみる。対句が隠れているときもある。隠れた対句をさがすのが大事だ。ルカではこの狭い戸口の所を読んで行くと、イエスは町や村を巡って教えながら、「エルサレムに向かって進んでおられた。」また、出て来た。「エルサレムへと向かって進んで行かれた」という。これに、ルカはひどく関心を持っているんです。
 もちろん、マタイ福音書も、ルカ福音書も、エルサレムに行かないとイエスさまは十字架と復活、ないんですから、エルサレムに行くってこと書いてるんだけど、ルカは念入りに書いてまして、ルカの福音書では9章から19章まで10章にわたってエルサレムへの旅の記録と呼ばれる大段落がある。そこでイエスさまは弟子を教育する教えと不思議な働きをしていらっしゃるんです。みんな「エルサレムへ」と言っているんだけれど、その雰囲気が違う。みんな書いてんです。マタイも、マルコも、ルカも、「エルサレムへ」。どこで
違いが出てくるか。エルサレムの後、どこへ行くのか。読んでみるといいね。これが違いなんです。対句の違い。対句を考えないといけない。
 マルコは、エルサレムへ行って十字架と復活があったら、弟子たちに、復活のイエスがガリラヤに行ったらそこで会えるとおっしゃる。「ガリラヤへ」なんです。これが特徴ですね。ガリラヤの素朴な民衆にこそ、神さまの愛の教えは、福音の教えは、本当に活きていくのだ、だからイエスさまはガリラヤの庶民の中から12弟子を選んで、その人たちをお育てになったんです。そしてガリラヤから世界に出て行く。マタイは、エルサレム教団ですから、エルサレムの神殿に集まる古いユダヤ教の人たちではなくて、本当に神の教えを聞くことのできる、新しいエルサレムの、新しいイスラエルの民が、神の福音を聞き、そして、宣べ伝えるのだ。エルサレムに関心がある。ルカは使徒言行録第2巻があるんですから、エルサレム「から」に関心があるんですね。たえずこれに気を付けてもらわないといけない。「エルサレムに行った」というだけではだめ。エルサレム「から」、全世界に出て行く。それで読んでみると、先の人、後の人っていうのは、マタイや他の所で似たような所が出てくれば「先の人」ってのは、早くから、イエスの来る前から、旧約の律法の教えにかなって、神の教えに従って生きているんだと思っていた人たち、「後の人」イエスの教えを聞いて、これまではわかんなかったんだけど、受け止めた人たちってことになるんです。
 ルカの福音書だったら、「先の人」ってのは、イエスがエルサレムに行く「まで」の人、「後の人」ったら、エルサレムに行ってから先の人、使徒言行録の人の所に出て来る人たち。つまり、異邦人ですよ。先の人、ユダヤ人、後の人異邦人であって、各々に主の言葉を、主の福音を、聞く人。全然、展望が違う。
 前置きが長くなったんですが、さてそうすると、今日私たちに与えられているこの難しい聖書の個所は、弟子の条件と付いているこの個所は、どう私たちは理解したらいいんでしょうか。私はここでもって、エルサレム「へ」、エルサレム「から」というのは、有効だと思ってるんです。この対句で、はさんで読んでみないといけないなと思っているんですね。
 エルサレムへ行く途上のイエスさまのなさることを見ていた弟子たち、何もわかっちゃいない。エルサレムの教えを、いわばエルサレムに行く途上で聞くイエスさまの教えのもと、なーんにもわかってはいない。我々、その角度で読んでいくともうもどかしい気がするんです。
 このルカ福音書を読んでいると何も分からない弟子たち。でも少しもこりずにイエスさまは、それでもその弟子たちに、お話しになっている。で、この個所を、マタイに並行記事が出てくるんですが、「父、母、妻、子ども、兄弟姉妹、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないならば、私の弟子であることはできない。」驚くべきことはですね、これはかなわん。これが翻訳の難しいところですけど、「憎む」っていうのは、あるいはちょっと訳しすぎかもしれない。「憎む」てのは「少なく愛する。」これはギリシャ語よりも、むしろ、その背後にあるヘブライ語の考え方からみてみると、辞書なんかにそういうのが出てきます。
 「選ばない」とか「軽視する」とか、つまり、第一番に考えないってことです。とりわけ、ルカのこのくだりでは、「自分の命」てのが付け加わったですね。「自分の魂」でもいいんですよ。どう訳しても、「命」と「魂」は同じギリシャ語の単語ですが。思い出して下さい。ルカの12章にあったあの金持ちの譬え話。これ、「自分」でしたね、あの人の問題点は。自分の作物が一杯取れた。いや自分の作物なんです。今年は気候もよく、あったかいし、涼しい朝、適当な雨、これ神さまの恵みだと。これ、詩編の考え方でいくとそうなんですが、そう思うんじゃなくて、そんなことすっかり忘れて、自分一人で働いて作ったと思って、自分の作物って。「自分」がでて来るんです、あすこでは。あの譬え話の中にはね。自分の倉を建て替えて、自分の魂にこう言おう。自分第1なんですよ。で、ルカはこれを問題にしている。言い換えるならば、私はちょうど、マルチン・ルターがね、人間の罪の姿というのは、結局のところ、すべてのことにおいて、自分の利益を追求するんだと、断言をした。そういうふうに、ローマ書のあるところで注解しているんです。そういうところがあるんです。
 「あらゆることにおいて利益を追求する心」これが人間の罪なんです。その罪を持って生きているならば、私の弟子であることはできない。「弟子である」とこう訳されてありますけど、「弟子になる」と訳する人もいますね。弟子になることはできない。「であること」を「なること」ですから、「なること」はできないんだ。自分の十字架ってのは「自分の苦労」じゃないんですよ。自分が負うべき、イエスさまが十字架を負われたように、他者の重荷を、自分が負うべき十字架として負うという、その姿勢になって、私について来るのでなければ弟子でありえない。2つの譬え話をして、つまり世の中のことに関しては、計算して自分の利益になるかならないかってことをたえず考えて、最後まで計算をして、計算ずくで、結論を出してやっていくだろう。ただ建てるものを建てる時もそうだろう。戦をする時もそうだろう。できそうになかったら、途中で計画を改めるはずだ。だから、お前たちも世の中を生きていくときにはそうしろって言っているんじゃないんですね。
 人間は自分のことに関しては、そうやって一生懸命やるもんだ。自分がかわいいからだ。だけど、神に従っていくためにすべてを投げ出してこれに、神さまに従うというところにならなければ、私の弟子になることはできないんだ。聞いている群衆。群衆にと言っているけれど、もちろん弟子たちも一緒に聞いている訳です。
 歩きながらイエスさまはお話しになった。一番周りを取り囲んでいるのは弟子たちです。大きな声でお話しになっても、間近で聞いているのは弟子たちですから。・・反応なしですね。いや、ぐうの音も出ない。私たちもそりゃすっぱり聞いたらぐうの音も出ません。いやこりゃまいった。
 世の中のことにしたって、計算ずくと言われたって、私たちは自分のこともなかなか終わりまで計算ずくでしっかり読み通しですることはとてもできないでいる。あたふた、あたふたとその日の暮らしをしているようなものなのに、神さまの前にそれをすっかり捨てて、ついてこいと言われても、とてもできそうにありません。これを聞いたときの弟子たちの姿はそうです。エルサレムの途上でこれを聞きました。十字架と復活にあいました。赦されてからからの弟子たちの途上は始まります。変えられていきます。ルカはどうしても、使徒言行録という第2巻の出来事を書きたかったんですね。書かねばならなかったと私は思います。今年はあちらこちらの教会で説教しますから、勧めているんですが、来年はぜひ皆さん、このルカ福音書を日曜日に聞いた後は、来年は聖書研究で、あるいは、聖書の輪読でもいいから、使徒言行録をお読みなさい。わかってくる弟子たち、最後は自分の身を投げ出す、弟子たちの姿があるんです。今日の旧約聖書のあの、モーセの言葉を聞きましたよね。あなたたちはあの様子を見た、不思議な様子を見た、その時はわからなかった。しかし今日はあなたがたはわかった。見ること聞いてることがそのまますぱーっと我々にわかるわけがないんです。しかし、わかる時が来る。
 いつわかるか。それは私たち自身にも、わかりません。祈って待つ以外にないんですね。信仰は一生ものだと思います。そう思っていたら、昨日私は、ある牧師から一通のメールをもらいました。「先生、うれしいご報告です。私も嬉しくなって先生にぜひこのメールを書きたいと思ったから書いています。ここのところ私の教会で、一か月ほど、毎週日曜日に一生懸命礼拝に出て来る中年過ぎの男性がいるので、この間の日曜日には、声をかけてみました。」そうしたら、その方がこう言ったそうです。「私は20歳過ぎの時に、静岡のあるルーテル教会で洗礼を受けました。しかしそれから後、しばらくたって、仕事が忙しくなって、25年間、もうずっと教会にはご無沙汰していました。実はこの間」これで私にメールが来たんです。「徳善先生の岩波新書のマルチン・ルターを読んだ。あっこれだった、20歳の時、20歳過ぎて洗礼を受けた時の私の気持ちはこれだった。この神さまの言葉で一生を生きようと、決意した、と思ったことに気づきました。そこで、私はインターネットで一番近いルーテル教会を調べて、この間からこの教会の礼拝に毎週、通って来てるんです。」
うれしい話ではないですか。静岡の教会でこの人を洗礼に導いて、洗礼をした、宣教師の先生か、日本人の牧師か知りませんが、その方の思いを越えている、私があんなちっちゃなペラペラの本を書いて、その思いを越えている。神さまのなさることはすばらしい。私はその牧師にメールの返事を出す前に、コンピューターの前で、しばらく、その、話を聞いただけの中年過ぎた男性のためにハレルヤという思いを心の中に抱きながらお祈りをしました。
 使徒たちにとっても、一生ものだったんです。あれも愛したい、これも大事だ、最後は自分の命こそ、持ち物も大事だけど自分の命こそ大事だという、自己欲に固まる私たちなのに、その話を聞いても、弟子たちもわからなかったのに、その弟子たちは変えられて、殉教者にまでなっていく、そのようなことは今も、私たちの中で起こる、いや、私たちの中で起こるとこう言っているのではなくて、今も私の中で起こる。これはハレルヤでなくて何でしょうか。神さま有難うございますということでなくて、何でしょうか。そのような者に私たちは、変えられている、いく。神さまこそがその時をご存じだ。信仰の歩みは一生ものである。そういう脈絡で「エルサレムへ」そして、「エルサレムから」という対句の文脈のただ中で私は、今日の日課を、私たち一人一人のことと思って考えてみたんですが、私たちひとりひとりのことでなくていいかもしれない。そのある教会にやってきた、その中年の男性の方ひとりの方に起こりつつあること、そのこととしておぼえて感謝してよいのかもしれない。そのように私たちは神さまの恵みによって変えられていく、その恵みにあずかりたいとお祈りをしたいと思います。

お祈りします。

 天の父なる神さま、私たちにあなたの豊かな恵みが変わることなく、与えられ、注がれていることをおぼえて感謝をいたします。そのことに思いと言葉と心のすべてをあげてお答えすることをまことに乏しい弱い私たちですけれども、あなたの恵みは尽きることがありません。どうか、私たちが、すべてのものにまさってあなたを愛する思いをあなたから、いただき、深めていくことができるように私たちの生涯の信仰の歩みをあなたが、導いてくださいますように、お願いをいたします。感謝をして、主のみ名によって祈ります。
アーメン。
2013/09/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「へりくだりなさい」(ルカ14:7-14)
ルカ福音書14:7-14、2013・09・01、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―聖餐式)、エレミヤ書9:22-23、ヘブライ人への手紙13:1-8

ルカによる福音書14:7-14
 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる人は低くされ、へりくだる者は高められる。また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


 説教「へりくだりなさい」(ルカ14:7-14)

今日の福音書(ルカ14:7-14)も、エルサレムへの旅の途上の出来事として記されています。主イエスは、安息日に、ファリサイ派の議員によって食事へと招かれ、人々が栄誉ある場所を競って、求めているのに気付かれ、譬えを語って、彼ら客たちに向かって、言われていたのであります。
もしあなたが、婚宴へと招かれたなら、栄誉ある場所に横にならないように、そうでないと、あなたより地位のある人も呼ばれていて、家の主人役の人がやって来て、この人に場所を与えてくださいというかもしれない。そのとき、あなたは、恥と共に、終わりの場所へとさがるであろうというのであります。なぜなら、その栄誉ある場所と、終わりの場所の間は既に他の客によって占められているからであります。
主は言われます。あなたは、婚宴へと招かれたなら、終わりの場所に行って横になりなさい。そうすれば、家の主人がやって来て、友よ、もっと高い場所へとお進みくださいと言うであろう。その時あなたに、あなたと一緒に食事の席についていたすべての人の前に、栄光があるであろう、と主は言われます。そして、なぜなら、すべて、己を持ちあげる人は、神のよって低くされ、己を低くする人は、持ち上げられるであろうから、と言われます。これらは、譬えと言われていますように、単なる人生の処世訓を教えたものではなく、神の国に招かれている私たちへの生き方、神の前でのへりくだりを示したものであります。
私たちは、この主イエスの言葉があるために、教会の礼拝でもなかなか、会堂の前の方に座らないといった傾向もあるのかもしれません。しかし、礼拝で、信徒の方が、前の方の席に座って、牧師の説教を熱心に聞いてくださることは、牧師にとっては、この上ない励みになるのであり、力づけられることであります。
私が、20年前、按手を受けて、牧師となりましたときに、牧師として熊本市にあります神水教会に赴任していく前に、母教会の京都教会から招かれまして、説教をさせていただきました。
拙い説教でありましたけれども、私が、その6年前、神学生となって上京する時にも、門出の祝いをして送り出して下さったあるご夫婦が、説教壇の一番前の席に座って、私の説教を傾聴して下さったことに、私は非常な励ましを受けたことを思い出すのであります。
 この末席につくようにとの主イエスの譬えは、そうすれば、あなたを招いてくれた人が来て、友よ、もっと上へとお進みくださいと言われ、共に食事の席に呼ばれた人々すべての前で、その時、あなたは、面目を施すことになる、すなわち、あなたに栄光があるであろうと主は言われているのであります。神の前で、へりくだるということが、大事なのであります。主イエスは、自分の栄光を求めるのではなく、十字架と復活を遂げるために、エルサレムへの道を歩み出しておられる、その途上で語られている。しかし、その時の弟子たちには、十分理解することができなかったお言葉であったのであります。
さて、主は、自分を招いてくれた人にも言います。あなたが、昼食や夕食に、客を招くときには、あなたの友人たち、あなたの兄弟たち、あなたの身うちの者たち、そして金持ちの隣人たちを呼び集めないように。そのときには、彼らがあなたに返礼として呼び返すであろうからである。むしろ、貧しい人、物乞いたちや、体の不自由な者たちや、足の不自由な者たち、目の不自由な者たちを、呼びなさいと。なぜなら、彼らはお返しする資力を持たないし、あるいは、体力や能力を持たないからであります。主は、言われました。そして、そのとき、あなたは、祝福されている、なぜなら、彼らはあなたに返すべきものをもたないからであり、義人たちの復活において、あなたにそれは返されるであろうからだと主は教えられたのであります。これは、私たちの信仰生活に当てはまることであります。本日は聖餐式がありますが、私たちは神に返礼するものはなく、私たちの礼拝によって、自らを低くし、ただ一方的な恵みにより頼むしかないのであります。
私たちが、宴会をし、人々を呼び寄せるとき、私たちは、友人や、兄弟や、身内や、金持ちの隣人を招くのが普通であります。その場合には、返礼を期待するところがあるし、金持ちの隣人を呼ぶ場合には、それ自体、栄誉なことであったのであります。
しかし、この後段の食事に招いてくれた人に語った主イエスの言葉も、エルサレムに向かう主イエスの言葉として受け止めなければならない言葉であります。
主は、そのときには、あなたは祝福されている、なぜなら、正しい者たちの復活の時に、あなたはお返しされ、神によって報われるであろうからと、言われています。
この貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の不自由な人とはだれでしょうか。それは、神の前にあっては、私たち自身ではないでしょうか。自分の功績や力によって、神の食事の席にふさわしい者では、私たちは決してありません。主イエスの恵みによってのみ、私たちは、主イエスの食事を共に味わう者とされるのです。主イエスは、私たちを、ご自分の手を開いて、私たちを食事の席に招いてくださる。そして、その両方の手のひらには、十字架の跡が印されているのであります。
旧約聖書のサムエル記下には、足の不自由な者や、目の見えない者が、神殿の食事の席に与ることができないとされたことが記されています。
しかし、主イエスは、そのような神の食事の席から、排除されていた人々こそ、正しい人たちの復活の時に、すなわち、終末の時に、逆転されて、食事の席に招かれるようになると言われる。
また、現代で想い起こすならば、この主イエスが言われる、宴会の席に呼び寄せるべき人々とは、失業者の人たちや、さまざまな障害を負って苦しんでいる人たち、孤独に孤立して生きている人たち等々が考えられるのではないでしょうか。
そういう人たちこそ、礼拝に、聖餐式に与ることを必要としている。そういう人たちに私たちは、礼拝に招くことをしてみてはどうでしょうか。主イエスの無償の愛、一方的な恵みに値するのは、そのような人々ではないでしょうか。あるいは、私たち自身がそうではないでしょうか。
友人、兄弟、身内、金持ちの隣人を宴会に招くときには、お返しされる、あるいは、栄誉を見返りとして持つという下心が私たちにはあります。
しかし、神さまとの関係では、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の不自由な人、そういうお返しのできない人たちこそ、宴会に招くにふさわしい人たちである。
お返しを求めないで、ただ、終末の時の正しい人の復活の時に、神によって報われる、そのような生き方をしなさいと、主イエスは、この難しい二つの話しを通して、弟子たちに、そして、今を生きる私たちにも求めておられるのではないでしょうか。
食事会に招かれたら、末席に着く。宴会に客を呼ぶときには、そのお返しのできない人々を招く。それは、神の前に絶えず「へりくだる人」としてあり続け、また、見返りを期待しないで、終わりの日に神から与えられる報いに価する「へりくだる生き方」を求めて生きなさいという、エルサレムに向かう途上の主イエスの厳しい教えであります。
弟子たちは、その時、主イエスの教えが分からなかった。現代の私たちにも、なかなか、意味不明瞭な譬えであり、教えであります。
主イエスのエルサレムへの旅に、日ごとに、自分の十字架を背負いながら、また、自分自身をさえ、憎んで、すなわち、より少なく愛して、主イエスのみ言葉を学びつつ、私たちもまた、このエルサレムへの旅に、主イエスのあとに従っていく者でありたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2013/09/01(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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