津田沼教会 牧師のメッセージ
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「生命への戸口」(ルカ13:22-30)
ルカ福音書13:22-30、2013・08・25、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)、イザヤ書66:18-23、ヘブライ人への手紙12:18-29

ルカによる福音書13:22-30
 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

説教「生命への戸口」(ルカ13:22-30)
 
今日の福音書の日課、ルカ福音書13章22節から30節も、なかなか、厳しい主イエスのお言葉であります。主イエスは、町々、村々に沿って、歩き巡っておられた、教えられながら、旅をしながら、と今日の日課は始まっており、これもまた、ルカ福音書9章51節からルカ福音書19章27節まで続くエルサレムへの主の十字架への旅の途上の出来事であります。主イエスに、ある人、弟子であったか、ユダヤ教の論敵であったか、あるいは場所や日時については記されていません。
そして、当時のユダヤ人たちは、特にファリサイ派の多くは、ユダヤ人のみが救われると信じていました。しかし、さらにその中でも、この質問者は、主よ、救われる者は少ないのでしょうかと主イエスに尋ねたのであります。それに対して、主は、直接には答えず、あなた方は、狭い戸口から入るように、努めなさいとお答えになります。これは、競技場での運動家のように、神経をはりつめなさいという強い言葉であります。なぜなら、多くの人がそこへ入ろうと求めるが、彼らはそれができないだろうからと、言われるのであります。
そして、そこから、家の主人が起き上がって、戸口を閉めるであろう、そして、あなた方は立つことを始めるであろう、そして、こう語りながら、その戸口をノックすることを始めるだろう。主よ、私たちに開けてくださいと。すると主人は答えて、あなた方に言うであろう、あなた方を、あなた方がどこからのものか、私は知らないと。その時、あなた方は立って、語ることを始めるだろう。私たちはあなたのみ前で食べましたし、飲みましたし、あなたは、私たちの大通りでお教えになりましたと。で、彼はこう語りながら、言うだろう、私はあなた方を、あなた方がどこからの者なのか知らない、邪悪を働くすべての者たちよ、私から、引っ込めと。私たちが、仮に主イエスと同時代人であり、面識を持っていたとしても、それで救い、神の国に入れる保証とは決してならないのであります。
そして、主は言われます。そこに、泣く声や歯軋りがあるだろう。あなた方が、神の国において、アブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちを見るときに、そして一方、あなた方が外に放り出されているのを見るときにと。
そして、東から西から、北から、南から、人々がやって来るだろう、そして、神の国において彼らは宴会のために、その食事をふるまわれるために横になるであろうと。そして、主イエスは、そして見よ、先の者たちで後の者たちになるものがおり、後の者たちで先になるものがいるであろうと結ばれるのであります。
私たちは、救われるのかどうかを、思い悩むよりも、狭い戸口から、全神経を集中させて、入るように、日々、努めることが、求められているのであります。
私たちの津田沼教会員の柴田豊さんは、「神さまからの教科書」という自伝的闘病記、あるいは、職場での悩みなどをつづった信仰の回想録とも言うべき本を、数年前に書き、出版されました。その中で、私が最も印象に残っている言葉は、主イエスを信じれば、永遠の生命に与ると聖書が約束しているからには、洗礼を受けないではおれないとすぐに決断して、津田沼教会の信徒になられたという記事です。柴田豊さんは、永遠の生命への戸口を、毅然として叩かれ、入信という形ですぐに応答されたのであります。
古今東西、世界中の多くの人が、そのような体験をして、洗礼に与り、礼拝につながってきました。私たちは、自分が救われているかどうかに、悶着することなく、狭い戸口から入れるように全神経を集中させていきたい。しかし、私たちは、四六時中、救いの戸口に入れるように神経をはりつめることは、現実的には極めて困難なことです。特に今年の8月のように、酷暑が続きますと、いくら、救いの戸口に、神の国の戸口に、永遠の生命への戸口に入ろうと思ってはいても、体が、あるいは、神経が、ついて来ないと痛感させられることもあります。しかし、神さまは、そして、主イエスは、お恵みのみによって、多くの人を救いに与らせることがおできになる方です。そのために、主イエスはこの世界にお出でになられたのであります。 主イエスが、このエルサレムへの十字架の死と復活と、そしてご昇天のためにお出でになられたのは、主に従う一人一人が、救いの戸口、死ではなく、生命への戸口に入るように招かれるためでありました。
 もう一度、本日のテキストの内容に丁寧に返りますと、ルカ福音書13章25章から27節では、そこから、一家の主人が起き上がり、戸を閉めるであろう。そして、あなた方は、立って、ノックすることを、そして、こう語ることを始めるだろう、主よ、私たちに開けてくださいと。その時、一家の主人は、私はあなた方を、知らない、あなた方がどこからの者であるかを、と言うだろう。そして、あなた方は、言うであろう。私たちは、あなたの前で食べましたし、飲みましたし、あなたは、私たちの大通りでお教えになりましたと。
 これは、主イエスの同時代のユダヤ人たちに向かっても言われているかもしれませんが、当時の主イエスに同行している主イエスの弟子たちに、さらには、それから、2000年近くを過ぎました現代の私たちキリスト者に向かっても、語っていると受け取ることができます。 狭い、救いの戸口の家の中、すなわち神の国への戸口を開け閉めなさるのは、主イエスご自身なのであります。そして、私たちが、聖書を通して、主イエスの教えを知り、主イエスへの面識があり、信じて洗礼を受けているということだけでは、救いの保証にはならないし、主よ、主よ、あなたのみ名によって、私たちは奇跡を行い、あなたのみ名によって預言し、あなたのみ名によって、悪霊を追い出したと言っても、み心を行わないならば、主は、私はあなた方を知らない、あなた方がどこからの者なのかを知らない、邪悪の働き人たちは皆、私から引っ込めと言われるのであります。 そして、泣く声や、歯ぎしりの音があるであろう、アブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが神の国の中にいるのを、あなた方が見るときに、そして一方、あなた方が、外に追い出されているのを見るときに、と主は言われます。イスラエルの族長たちやすべての預言者たちは、神の国を信じ、主イエスが終末の時にお出でになられることを信じ、この時を預言しているのであります。 
宗教改革者たちは、聖書のみ、恵みのみ、信仰のみを旗印として、当時のローマ・カトリック教会の逸脱した信仰理解に異を唱えました。行為によって、人間の功績によって、あるいは聖人の功徳によって、民衆は救われると当時のカトリック教会は教えるようになっていたのです。そして、免罪符、贖宥券によって、自分たちの亡くなった両親や祖父母も救われ、天国へと引き上げられると、本気で当時の教会は、民衆に教え、それから得る利益でローマの大聖堂の修復等に当てていたのであります。宗教改革者たちは、それに対抗して、聖書のみ、恵みのみ、信仰のみを前面に押し出しました。
ルターの言葉とされている、たとえ、明日が地球の最後の日であったとしても、私は今日りんごの木を植えるという言葉は、本日の狭い、終末の時に多くの人が入ろうとしても、入ることができない神の国への戸口を、あらゆる神経を張りつめて入ろうと努める生き方を示しています。
そして、東西南北、四方から、多くの国民がやって来て、神の国の宴会の食事の席につくだろう、そして、見よ、最初の者たちになるであろう終わりの者たちがおり、終わりになるであろう最初の者たちがいるであろうと主は、私たちの信仰歴やその長さに安住することなく、日々新たに、生命への狭い戸口から入るように招かれておられ、戸口が主イエスによって閉められる前に、恵みによって、永遠の生命に与るように、現在の信仰生活を改革するようにと、私たちを励ましておられるのであります。そして、その救いは、主イエスのエルサレムへの十字架の旅において既に約束されているのであります。
 今日、与えられているみ言葉から、新しい生活へと押し出されていきましょう。
                               アーメン。
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2013/08/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「真の平和への道」(ルカ12:49-53)
ルカ福音書12:49-53、2013・08・18、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書23:23-29、ヘブライ人への手紙12:1-13

ルカによる福音書12:49-53
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」




説教「真の平和への道」(ルカ12:49-53)

 私たちは、日曜日に、このところ、厳しい主イエスの言葉をルカ福音書から聞かされています。先週は、「ある愚かな金持ち」の譬えでありました。来週は、救いへの戸口は狭く、あらゆる神経を用いて、そこから、救いへと入るようにという奨めであります。
 そして、本日は、普段の、私たちがイメージする主イエスの言葉とは一見、思われないような厳しいみ言葉、お言葉であります。
 主イエスは、言われます。火をこの地に向かって投じるために、私は来たと。そして、それが、燃え上っていたらと、私はどんなにか、願っていることかと。火は、いろいろな働きをします。かびが生じたものを火を通して消毒します。旧約聖書のレビ記に重い皮膚病の患者の衣服や革製品にかびが生えている場合に火で焼き捨てるとあります。(13章)
 また、火は、災害や、神の裁きを示す場合もあります。創世記のソドム、ゴモラの堕落した町を主なる神が硫黄の火を降らせて滅ぼした事例などが思い起こされます(18章)。
 また、火は金属を精錬するために用いられます。本日の第一の朗読、エレミヤ書(23:23-29)では、主なる神は、わたしの言葉は火に似ていないか、岩を打ち砕く槌のようではないか、と言われています。しかし、さらには、主イエスが言われる火とは、聖霊だとも、言えなくはないでしょう。洗礼者ヨハネは、その方は聖霊と火で洗礼をお授けになると預言しました。いずれにしても、本日の記事もルカ福音書9章51節から、始まっている十字架の待つエルサレムへの旅の途上で語られる厳しく激しい言葉であります。
 さらに、主イエスは、私は、受けねばならない洗礼を持っている、しかし、それが達成されるまで、私はどんなにか悩まされることかと言われます。火に対して今度は、水であります。水は、詩編で出て来ます大水のように、災害、あるいは苦難を示します。主イエスは、エルサレムで十字架につき、血の洗礼を受けることを暗示しておられるのであります。
 主は、さらに、あなた方は、私がこの地において、平和を与えるために来たと思うのか、いや、そうではなく、かえって、分裂である、不一致、衝突であると言われるのであります。主イエスが生まれた時、天使たちは、この地において、み心に適う人に平和があるようにと、歌ったのではなかったでしょうか。主イエスは、平和の君と呼ばれると預言されていた(イザヤ9章5節)のではないでしょうか。
 主イエスによって、分裂、不和、衝突が、実際起きるのでしょうか。主イエスが生まれて、40日たち、初めて両親に連れられて、神殿に上って行ったとき、シメオンは、この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められていると預言しました。主イエスは、この言葉をよく理解されていたのであります。
 私が来たのは、言っておくが、平和を与えるためではない、かえって分裂だと、主イエスによって起きることになる対立を、主イエスは、あらかじめ、弟子たちに警告し、備えさせたのであります。
 主は言われます。なぜなら、今から後、一つの家において5人いれば、3人は2人の上に、2人は3人の上に対立して分かれるであろうからと。そして、父は息子の上に、息子は父の上に分裂されるであろう、母は、娘に向かって、娘は母に向かって、しゅうとめは、彼女のその嫁に向かって、嫁はそのしゅうとめに向かってと言われているのであります。
 これは、一家5人が考えられています。父、母、息子にその嫁と、まだ独身と思われます娘であります。男同士よりも女同士の方が対立が激しくなる。そして、殊に、しゅうともと嫁との関係は、最も難しい人間関係だと現代でも言われている通りであります。
 しかし、それ以上に、ルカは、そして、主イエスは、ミカ書7章の6節を引用しているのであります。そこには「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう」とあり、さらに、「人の敵はその家の者だ。」とまで、ミカは記しているのであります。
 主イエスは、ミカ書のこの預言を、御自分の到来によって起こることだと、今日断言なさっておられます。
 このお盆、皆さま、どのようにお過ごしでしたでしょうか。私も、8月10日の土曜日から、14日の水曜日まで松山の母の下に帰省してきました。10日は、久しぶりに高校の同窓会、みんな阿部首相と同じく59歳になっていきますが、80名ほどの同窓生が集まりました。同級生は何とか、顔と名前が一致しましたが、他のクラスのかなりは、顔も名前もなかなか思い出せません。
 そして、宇和島から山に入ったさびれた町に放置されている私たちが育った家の草刈りに行ってくれた福知山に住む兄の夫婦と甥の一人と、兄の車で松山の母のアパート、マンションに夜遅く帰って来ました。兄だけが一緒に残り、父の墓参りなどに行ったりしました。そして、日曜日は、あまり、気の進まない兄にも勧めて、母と我が家の3人と計5人で松山ルーテル教会に礼拝に行ってきました。
 日頃、兄には週報等を一生懸命送って、聖書やキリスト教のことを伝道していますが、なかなか思うようには行きません。しかし、尊敬する62歳になった兄は、日曜日の大河ドラマだけは、熱心に見ています。「八重の桜」は、幅広く明治維新の頃の時代背景が取り入れられており、兄はひどく気に入っているようです。
 しかし、兄にしても、妹たちにしても、また、形ばかりの洗礼を施した母にしても、罪を赦していただけるのは主イエスしかないということは、なかなか伝え難いのであります。しかし、今日の主イエスは、そのことを既に御存命の時から予告しておられるのであります。一つの家の中で、2人は3人に対立し、3人は2人に対立させられるであろうとの主のお言葉は、まぎれもない現実を預言したものであります。私たちは、そのことを前もって、警告を受け、驚かないように備えるために、主イエスは、今日の厳しいお言葉を述べられているのであります。
 そんな中でも希望を持ち続けて、主イエスを説き証ししていく苦労と共に喜びを、主イエスは約束して下さっているのであります。その先にこそ、「真の平和への道」がきっと待っているのであります。
 
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2013/08/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「明日への備え」(ルカ12:13-21)宇野正徳牧師
コヘレトの言葉2:18-26、コロサイの信徒への手紙3:5-17、ルカによる福音書12:13-21、2013・08・11、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書12:13-21
  群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


説教「明日への備え」(ルカ12:13-21)宇野正徳牧師
1. はじめに
 今日の福音書は、一見、遺産相続の問題を扱っているように見えますが、イエスは、この相続問題を通じて人間の奥深くに眠る罪の問題を扱っています。
 主イエスのもとに遺産相続に不満を持つ人がやってきて「わたしにも遺産を分けてくれるよう兄弟に言ってください」と公平な調停を願い出たのですが、それに対してイエスは、その問題には触れず、人が生きるために何が大切かを説かれたのです。
 遺産相続問題は、洋の東西を問わずどこにでも見られます。普段は、仲のよい兄弟(姉妹)であっても、相続問題になりますとお互いに目の色を変えてその相続権を主張し合い骨肉の争いとなります。近年では、相続遺産は、単に財産の相続のみか、家督権や屋号を巡るトラブルなどに及び裁判沙汰となり親しい家族関係を引き裂くのです。その問題の根は、人間のもっとも奥深いところにある「罪」であり、人間を変え、人格や人柄までも変えてしまうのです。
 そこでイエスは、遺産相続の調停を願い出た者に、人間の心に潜む「罪の問題」について話されました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。人は、有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである。」(12:15)と。
 「貪欲」とは、「欲深く物を欲しがること」、「物に執着して飽くことを知らない欲」です。そうした思いが人を罪の虜とし、人間性を変え、正常な人間関係を保つことができなくするのです。
 ルターは、この貪欲(むさぼり)についてこう述べています。
 「思うにわれわれの生まれつきとして、だれも他人が自分と同じように、また自分以上に所有することを好まない傾向がある。また他人がどうなろうとかまわないだけで自分だけができるだけたくさん持ちたいという思いがある」(小教理問答書「十戒」の解説)。自分は特別であり他人と同じように見られたくない、人よりも多く持つことに喜びを感じることが「欲深く物を欲しがる」人間の性です。

2.「愚かな金持ちのたとえ」
 イエスは、そのような貪欲に執着する人間の姿を今日の日課の「愚かな金持ちのたとえ」を通して話されました。
 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちはあまりの豊作に驚き、収穫のすべてをしまい込もうとそれまであった倉を壊し、すべての作物をそこに納められる大きな倉を建て替えたのです。そして、自らに、『これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来た。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう』と、悠々閑々の生活ができることを喜んだのです。
 しかし、イエスは、財産を貯めること以外に何か大切なことはないのかと、あえて「自分が用意したものは、いったい誰のものになるのか」と質したのです。金持ちがいかにたくさんの財産(豊かな作物)を持ち、それを一生の宝として寄り頼み安楽な生活を送ることができたとしても「自分が用意したものは、誰のものになるか」と、永らえられる命の長さ(寿命)と財の管理状態との関係を説いたのです。最後まで生き残れるのはどちらか。
 イエスは、「人は有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできない」と。いかにたくさんの物(蓄えた物)を持っていたとしても、それから先何年も働かずに生きて行ける保証はどこにあるでしょうか。

 今日の第一日課のコヘレトには、人間が労苦して貯めたものがどうなるかについてこう記しています。
 「太陽の下でしたこの苦労の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、だれが知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまたむなしい。太陽の下でした苦労してきたことのすべてに、わたしの心は絶望して言った。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ」(コヘレト2:18-21)。
 労苦して産み出した物、一生をかけていろいろと努力してきたことが報われるとは限らない、それが現実だと言えます。

3.明日への備えについて
 所で、この金持ちは、大きな勘違いをしています。それは自分が貯めた財産で一生、楽に暮らして行けると信じたことです。曰く、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来た。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもうと」。
 将来を考えた時に、財産の蓄えが十分あるから、それが生命の保証のしるしになると言えるでしょうか。
 わたしたちは、あの東日本大震災以来、「明日への備え」ということに敏感になりました。大きな地震や津波がいつ襲ってきても大丈夫のように万全の備えをしています。スーパー等に行きますと必ずそこには「防災グッズ専用コーナー」があり、震災に備えての諸々の用具、器具が並べられています。「防災セット」には(水、非常食、缶詰、着替え、防災ズキン、携帯ラジオ、充電器、懐中電灯などが詰め込まれ)、被災に遭っても数日間は、生き長らえる道具で、これさえあれば「明日、何が起こっても大丈夫だ」と信じています。
 しかし、防災に備えることだけが明日への備えと言えるでしょうか。明日の生活のこと、老後のこと、病気や傷害を負ったときのこと、不慮の事故に遭ったときのこと、自身の身に何かが起こったときのこと、それに備えてどんな用意をしているでしょうか。
 わたしたちはそれに備えて相応の準備をしています。生命保険に、年金に、介護保険に、後期高齢者医療保険に入っていますので。今は国民が皆「明日に備えての保険」に入っていますので安心です。
 しかし、「明日に備える」というのは、単に防災の準備や体や老後に備える保険に入ることではありません。大切なことは、わたしたちの日々の生活を支えてくださる神や行く末のための祈りです。
 初代教会の神学者アウグスチヌスは、自らの生涯を振り返り、「わたしの心は、真の神に出会うまでは本当の平安はない」と告白しています。若い頃は、いろいろなことに目を奪われ、惑わされ、心が散々に乱れる、求めても与えられない不満。思い悩んだ時に、真の神に出会い、心の平安を得たというのです。どんなに多くの宝や喜びがあっても、真の神に出会うまでは本当の平安はないと言えます。

 わたしたちの日々の生活を通してイエスは、「まず神の国と神の義を求めなさい」と言いました。思い悩み、思い煩いの多い生活から神を仰ぐことです。「愚かな金持ちのたとえ」の後に、イエスは「思い悩むな」の話を入れています。
 「だから言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。鳥のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も、倉も持たない。だが神は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちだれかが思い悩んだからと言って寿命をわずかに延ばすことができようか(中略)。
 野の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きも紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように 装ってくださる(中略)。ただ、神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:22-32)
 生きること、生活のことで思い煩うわたしたち。その煩いを払いのけようと形あるものに身を預けます。しかしそれだけで十分とは言えないのです。イエスは、「神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。小さい群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる。」と教えました。

 最後に、鈴木正久牧師(日本キリスト教団牧師)は、祈りについて、こう述べています。「わたしたちは、仕事も生活も健康も順調に行っているときは、それを当たり前のこととして感謝もなく、無自覚に過ごしています。しかし、一転して・・予想外の出来事や災難が襲ってくると、突如、神を引っ張り出し、なぜ神はこのような苦しみをわたしに与えるのかと神を恨めしく思います。しかし、祈りはいつ、どんな時にも、神を信頼し、その導きに聞き従うことができるように教えられたのだと言えます。
 イエス・キリストはわたしたちが人間であることを最高度に自覚させられます。もし食べ物や飲み物を求めるだけなら獣と同じです。人間として、さらに神の子として生きるように造られたわたしたちは神の国と神の義をこそ求めるべきです。
 『主の祈り』は、何のためにあるのか・・それは『人間として求めるべきもの』、『人間の名に値するものとして生き』ることの基本である」と(「主よ、み国を」から)


 
2013/08/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「世界平和をもたらす神」(マラキ4:1-5)
ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18、ヨハネによる福音書15:9-12、2013・08・04、平和の主日(典礼色―赤―聖餐式)

ミカ書4:1-5
 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 もろもろの民は大河のようにそこに向かい
 多くの国々が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は多くの民の争いを裁き
 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。

 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
 いちじくの木の下に座り
 脅かすものは何もないと
 万軍の主の口が語られた。
 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
 我々は、とこしえに
 我らの神、主の御名によって歩む。



説教「世界平和をもたらす神」(ミカ書4:1-5)

今朝は、ミカ書4章の1節から、5節を、平和週日の御言葉として、御一緒に考えてみたいと思います。このミカ書の言葉は、イザヤ書の2章の1節から5節までにも、同じような御言葉が記されていますが、これは、バビロン捕囚期以後のある伝承を、イザヤも、ミカも受け継いで、それぞれに脚色したものだと、考えられます。
ミカ書では、3章まで、エルサレムの預言者たちや、指導者たちが、腐敗しているのを主なる神が裁く記事が記されています。それに対して、4章の1節から5節は、一転して、シオンの山、シオンの丘が、他のどの峰よりも、終わりの日に、高く上げられ、堅く立てられるというのであります。エルサレムの東にあるオリーブ山よりも低いシオンの山が、世界のどの山や山脈よりも、高く上げられる。そして、異邦人たち、国々の民が、シオンに、シオンの神の家、神殿に向かって、流れ来たるというのであります。
彼らは言います。さあ、行こう、ヤコブの神の家に向かって登り、そして、彼の道において、学ぼうというのであります。そして、旧約聖書でも、最も有名な、武装解除の高らかな宣言が、続くのであります。彼らは、国が、もはや、国に向かって、剣をあげず、彼らの剣どもを打ち直して、鋤の刃、あるいは、鍬とし、彼らの槍どもを打ち直して、刈り取り鎌にする。そして、彼らはもう、戦争することを学ばない。そして、彼らを脅かすものはなにもないと、言うのであります。そして、人は、その所有地の果樹の木の下に、ぶどうの木や、いちじくの木の下に満ち足りて、座すというのであります。自由に武装解除の中で、平和を満喫して、過ごすことができるというのであります。ミカ書3章までは、賄賂を取る祭司や預言者のような、エルサレムの腐敗した指導者たちのことが、裁きとして、記されているのでありますが、ここでは、終わりの日々に、世界の国々の民が、ヤコブの神に、道を教わろうと、シオンの山を目指して、大河のように、流れ来たるというのであります。
そして、それぞれの国民は、それぞれの神の名において歩むが、私たちは、私たちの神、主の名において永遠から永遠まで、歩むというのであります。それぞれの国民がその宗教によって歩むが、私たちは、万軍の主、全能の神の名において歩むと、記されているのであります。
この武装解除、世界平和、これは、実現不能な、理想でありましょうか。確かに国際連盟も、ヒトラーの台頭によって、平和が踏みにじられ、第二次世界大戦に突入し、日本も、太平洋戦争に入り、多くの犠牲者や悲惨な出来事が付随して起こったのでありました。
私は、戦後10年目の1955年生まれでありますので、直接、戦争を体験した者ではありません。昔は、よく、宇和島湾に浮かびます九島という島の祖母の家に夏休みなど遊びに行きまして、祖母や、母や、叔父などから、戦争体験の話を聞きました。空襲で、防空壕へと逃げ回った体験談などであります。
中でも、祖母や母が、痛手を被ったのは、母の兄の戦死でありました。今では悪名高い憲兵志願兵として、その叔父は、確か18歳で、シンガポールに船で向かっていたときに米軍の空襲に遭い、南シナ海でありましたか、東シナ海でありましたか、爆弾に当たって、若い命を、失ったのであります。
祖母は、数日間、布団から出ることができなかったそうです。母も、その兄を非常に慕って育っていましたので、その悲しみは、母にとっても、容易には消し難いものとなったようであります。そういう戦争にまつわる話も最近は、戦後68年たちまして、あまりなされなくなりました。しかし、今、日本の国は、平和憲法を変えようとする動きが、出てきています。確かに国際貢献とか、世界の紛争解決に、日本も関わらなければならない。世界の状況は、変化が激しく、日本も、世界の中で、それなりの対応をしなければならないことは、現実でありましょう。しかし、神のご意志は、世界平和であります。ちょうど、ベトナム戦争のとき、北ベトナムの民衆が、アメリカ軍の飛行機が墜落したのを、利用して、鍋等を作ったと言われていますように、神のご意志は、武装解除、世界平和であります。
私は、出た京都の大学の特色もあり、また、時代が一昔前で、今とは違っていたこともありましょうが、日本国憲法は、平和主義、基本的人権の尊重、個人の尊厳といった基本原則は、この憲法下、変えることはできないと、とことん、教えられた者であります。
本日のミカ書にもありましたように、全世界の民が、シオンの山を目指して、ヤコブの神の家に、巡礼しに来る、そして、宗教はそれぞれ違っても、万軍の神、全知全能のヤコブの神の希望と約束は、世界平和であることを、私たちは、本日、改めて、確認したいと思う者であります。日本の政治家たちのためにも、平和憲法を守れるように、祈りながら、本日、示されました主なる神の御言葉を、噛みしめて、これからの歩みを、教会として、共に求めてまいりましょう。ひと言、祈ります。
天の父なる神さま。
あなたは、この世界が、武装解除し、剣を鋤に引きのばし、槍を、刈り取り鎌に打ち直すことを、お望みです。そして、戦争が、人間と人間との間に沸き起こる憎しみや、争いから拡大して生まれるものであることを、よくご存じです。どうか、私たちが、家庭で、職場で、また、教会でも、愛と和解の精神で、赦し合い、尊敬し合いながら歩んでいくことができますように、助け、導いてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2013/08/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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